第45話「住民票の住所欄が『雲の上三丁目』」
◆朝・ひまわり市役所 住民課(生活の根っこを支える窓口ほど、紙一枚の重みが大きい)
住民課の朝は、派手さとはいちばん縁が遠いところから始まる。
開庁前のカウンターには、昨日のうちに揃えられた申請書の束が置かれ、住民票の写し、印鑑登録証明、戸籍の附票、転入届、転出届、世帯変更届といった、生活そのものを薄い紙へ翻訳した書類が順番に積み上がっている。どれも紙として見れば似たような厚みなのに、一枚ごとの重さはまるで違う。証明書が一枚出ないだけで仕事に間に合わなくなる人がいて、住所が一文字ずれるだけで郵便が届かなくなる家がある。目立たない仕事ほど、暮らしの骨に近い。
だからこそ、朝の住民課には、張りつめた静けさがある。急いでいるようには見えないのに、誰も手を抜いていない。窓口番号の札を整える人がいて、発券機の紙を補充する人がいて、異動届の記入例を昨日の相談内容に合わせて少しだけ並べ替える人がいる。誰かが一度でも「この書き方でいいだろう」と雑に流した瞬間、その雑さは住民の生活へ直結する。そういう部署の空気だった。
その朝、美月はいつもより少しだけ静かに住民課の入口へ立っていた。
腕につけた「応援」の腕章は、文字だけ見れば元気だが、本人はその派手さに反して珍しく周囲へ合わせて声量を抑えている。異世界経済部の仕事は現場対応の勢いが要ることも多いが、住民課へ入った途端にその勢いだけでは済まされないことくらい、美月にも分かっていた。
「ここ、朝から空気が違いますね」
小声でそう言うと、隣で書類ケースを抱えた勇輝が頷く。
「違う。異世界経済部が“起きた問題をどう片づけるか”で走る場所なら、住民課は“生活が止まらないように何を外さず回すか”で立ってる部署だからな。目立つトラブルがなくても、気を抜くと足元が抜ける」
「それ、朝一番に聞くと背筋伸びますね。今日は私、通知より空気を読む方を頑張ります」
「通知も読むなとは言わないけど、声は半分落とせ」
「はい」
美月が素直に返事をしたところへ、住民課の職員が苦笑しながら歩いてきた。窓口担当の藤崎で、書類を扱う指がきれいに速い人だ。
「助かります。本当に。昨日のドラゴン騒動で、夜のうちに転入や居所相談の問い合わせが増えまして。『あの町は夜でも対応してくれるらしい』って評判が立ったみたいなんです」
「評判が立つのはありがたいですけど、立ち方に毎回ひと癖ありますね」
勇輝がそう言うと、藤崎も否定しなかった。
「ええ。でも、来る人に罪はありませんから。今日は窓口を少し厚くして、記入補助を増やしてます。異界の方だと、住所の書き方だけでも文化差がありますし」
その言葉を聞いた時点で、勇輝は今日の面倒の輪郭を半分くらい察していた。異界から来る人の困りごとは、大きな事件でなくても手続きの様式へ触れた瞬間に複雑になる。住民票は、その最たるものだ。誰がどこで暮らしているかを行政が把握し、それによって学校、税、保険、郵便、災害時の安否確認、選挙区、地域支援のすべてが少しずつ繋がっている。つまり、住所欄は見た目以上に生活の根に近い。
開庁のチャイムが鳴り、待合の空気がゆっくり動き始めた。
列には人間だけではなく、耳の長いエルフ、背の低いドワーフ、丸いガラス容器へ入って移動してきた小型スライム、そして外套の肩から羽根の先だけが覗いている来庁者もいる。ひまわり市へ来てから、住民課の朝は少しずつ世界の幅を広げてきた。その広がり自体は悪いことではない。むしろ町が暮らしを受け入れている証拠だ。問題は、制度の方がその速さへ追いつくとは限らないことだった。
最初の何件かは平穏だった。
印鑑登録の再発行、転居届の記載修正、世帯主変更の確認。いつもの忙しさの中にある、いつもの種類の緊張で済んでいる。住民課の朝はこうであってほしいと誰もが思う滑り出しだった。
その流れが少しだけ変わったのは、発券番号を呼ばれた青年がカウンターの前へ出た時だった。
◆午前・住民課窓口(真面目な人ほど、異界の常識をそのまま正確に書いてしまう)
青年は、薄い雲を思わせる白銀の髪を肩口でまとめ、背中には小さくたたんだ翼を持っていた。天空国アルセリアの来訪者だと一目で分かるが、服装は地上向けにきちんと整っていて、足元も役所の床で滑らないよう配慮された柔らかい革靴だ。礼儀も身のこなしも端正で、書類を抱える手元だけが妙に落ち着いている。見た瞬間に、普段から申請や届け出へ慣れている人だと分かる種類の来庁者だった。
「おはようございます。転入のご相談でよろしいですか」
藤崎が笑顔で声をかけると、青年は深く一礼した。
「はい。天空国アルセリアより参りました。名はセレス。地上での継続就労にあたり、転入手続きをお願いしたく参上しました」
敬語がきれいすぎて、一周回って住民課の方が少し緊張する。加奈がもしここにいたら、たぶん「真面目な人だね」で済ませただろうが、役所では真面目な人ほど書類を制度の限界まで正確に書いてくるので油断ならない。
藤崎は落ち着いて説明を続けた。
「承知しました。転入届ですね。現在、ひまわり市内で継続してお住まいになる予定の場所がおありでしたら、こちらの住所欄へご記入ください。ご不明点があれば、書きながら確認しましょう」
「ありがとうございます。では記入します」
セレスは差し出された用紙を受け取り、迷いなくペンを走らせた。筆跡は流れるように美しい。丁寧な人だと分かるし、住所欄で筆が止まらないあたり、自分の住所をきちんと持っている人の書き方でもある。
だからこそ、藤崎が用紙を受け取ってから、ほんの二秒だけ表情を止めたのが分かった。
美月が横から首を伸ばす。
「どうしました……って、ああ」
勇輝も一歩寄って、記入欄を見た。
住所欄には、まったくためらいのない字でこう書かれていた。
雲の上三丁目 天空橋を右折 七番浮島 風見塔の裏
字面だけ見れば、目印も番地もある。むしろ妙に生活感がある。雲の上三丁目に暮らす人にとっては、それがたぶん本当に住所なのだろう。問題は、ひまわり市住民課の端末が、その住所を現実のものとして受け止める設計になっていないことだった。
「……雲の上三丁目、ですか」
勇輝が声を整えて言うと、セレスは真剣に頷いた。
「はい。正式な区画名です。天空橋から見て三番目の雲帯に接続する浮島群で、地上からの出入口は風見塔の裏手が最も安定しています」
「説明はすごくしっかりしてるんですけど、住民票の住所欄としては前例がなさすぎる」
美月が思わずこぼし、藤崎が慌てて咳払いをする。窓口はまだ真面目な場だ。心の声を漏らすには少し早い。
「ええと、セレスさん。住民票へ登録する住所はですね、地上の住居表示や地番のように、郵便や連絡、行政上の区域が確認できる形で記録する必要がありまして」
「承知しています。ですので、区画、目印、浮島番号まで正確に記しました」
「その誠実さは大変ありがたいんですが、端末の方が……」
藤崎が言いかけて入力を始める。姓、名、生年月日、国籍等の欄は通る。問題は住所だ。最初の「雲」を入れた時点で、画面の端へ小さな警告が出た。
ピコン。
使用できない文字が含まれています。
続いて「三丁目」を漢数字で書こうとすると別の警告が出る。郵便番号欄は空欄のまま赤く点滅し、町域コードは候補なしのまま沈黙している。端末の反応が、制度の限界をいちいち正直に示してきて腹立たしい。
「雲、入力できないんだ……」
美月が呟くと、勇輝はすぐ返した。
「感想を先に言うな。分かってる。分かってるけど、今は先に解決策だ」
セレスは困った顔をするより先に、説明しようとする顔になった。
「地上の文字体系に“雲”がないわけではないと思っていたのですが、住所用語としては不適切ということでしょうか」
「文字はあります。ただ、住所として運用される前提がなかったんです」
勇輝はそう答えながら、自分で言っていて少しおかしくなりそうになった。文字はあるのに、住所としてはない。いかにも役所らしい限界の出方だった。
その時、背後から穏やかな声が割って入る。
「雲って、寒くない?」
加奈だった。喫茶ひまわりの紙袋を抱えたまま、状況を一瞬で察したらしい。窓口へ近づく顔に好奇心はあるが、面白がりより先に相手を人として見ている表情だった。
「はい。寒いです。ですので、温泉街へ降りる頻度を増やしたいのですが、地上の仕事では住民票が必要だと聞きました」
「うわ、完全に『手続きに手続きが要る』形だ」
加奈のその言い方が、窓口の空気を少しだけやわらかくした。セレスも、自分だけが制度に引っかかっているわけではないと分かるだけで少し肩の力を抜いたようだった。
勇輝は深く息を吸い、話を整理することにした。
◆窓口脇・一次整理(住民票を作るために必要なのは、住所の詩情ではなく生活の導線だ)
窓口の流れを止めすぎないよう、セレスには一旦記入席の奥へ移ってもらい、勇輝たちは住民課の補助机へ場所をずらした。住民票の手続きは、一人に時間をかけすぎると後ろの列も詰まる。だが、目の前の一人を雑に流せば、その雑さが別の生活の詰まりになる。住民課が難しいのはいつもそこだった。
勇輝はメモ用紙を引き寄せる。
「整理します。必要なのは四つです。第一に、ひまわり市内で継続して生活している実態があること。第二に、行政システムへ入る形の住所表記があること。第三に、郵便や緊急連絡が届く導線があること。第四に、特例が増えすぎて窓口全体が混乱しないこと」
「最後がいちばん大事そうですね」
加奈が言う。
「大事だ。今日セレスさんにだけ都合のいい穴を開けると、明日から別の異界住民がみんなその穴へ入りたがる。開けるなら、使える形で開けないといけない」
藤崎も慎重に頷く。
「はい。住民票って、住所が一行あれば終わりではなくて、その先で住民票の写しを出したり、国保や税の情報へ連動したり、学区照会や災害時の避難名簿にも繋がったりしますから。備考欄に詩みたいな住所を書いて済ませると、後ろの仕組みが全部困ります」
「詩みたいな住所って言い方、ちょっと好きですけど、困るのも分かります」
美月が言いながら、端末へ既存の異界住民対応メモを呼び出した。これまでにも、森の端、鉱坑下、川霧沿いなど、通常の住居表示と少しずれる相談はあった。ただし雲の上は初めてだ。
勇輝はセレスへ向き直った。
「改めて確認します。地上で、日常的に出入りする基準点はありますか。毎回そこを経由して降りる場所、荷物を受け取る場所、誰かと待ち合わせる場所。そういう、地上側の拠点です」
セレスは少し考え、それから答えた。
「天空橋の南端です。温泉街へ降りる際も、配達の受け渡しも、だいたいそこを使います。上空に留まった状態では、地上の方に声が届きにくいので」
「じゃあ、地上側に固定点はあるんだ」
「あります。ただ、そこは“家”ではありません。あくまで出入口です」
「それで十分かもしれません」
勇輝は紙へ「天空橋南端」と書いた。住民票へ必要なのは、必ずしも家屋であることだけではない。問題は、行政が把握し、本人も継続して使い、連絡の起点になる場所かどうかだ。
加奈がそこで口を挟む。
「天空橋の南端って、公園の向こうの広場に近いよね。あそこなら、緊急連絡用の投函箱も置けるし、荷物の受け渡しにも使いやすい。地上の人にも『そこ』って分かりやすい」
「ポストか……」
勇輝はその案に一気に現実味を感じた。住所は紙の上だけで完結しない。郵便、告知、呼び出し、災害時の確認、全部がそこへ寄ってくる。地上に一つ、誰もが分かる基準点があれば、それだけで制度と生活の距離がかなり縮まる。
市長がいつの間にか背後に来ていて、紙をのぞき込んだ。
「いい。では二段構えだな。住民票の表記上は、ひまわり市内の地上基準点を住所として扱い、異界での実生活住所は別欄で紐づける。役所の都合だけで雲を消す必要はないが、システムの都合だけで雲を前面に出しても回らん」
「いつの間に来たんですか」
「今だ。大事そうだったからな」
勇輝は途中の言い直しを聞かなかったことにした。市長の発想が役に立つときは、変に棘を立てても仕方ない。
「住民票の正式住所を『ひまわり市天空橋南端』みたいな基準点扱いにするのは、現行の住居表示としては無理があります」
藤崎が慎重に言う。
「ただ、関連施設住所に紐づく補助登録なら可能かもしれません。たとえば天空橋公園前の管理番号を使って、そこを異界居住者用の地上連絡地点として設定する形なら、コードは通せます」
「それだ」
勇輝はすぐに反応した。
「地上コードは既存施設へ紐づける。本人の実生活住所は、別管理の異界居住欄で保持する。住民票の写しにどこまで出すかは、発行用途で調整する」
美月が目を丸くする。
「ちょっと待ってください。それって、住民票に地上住所と異界住所の二階建てを作るってことですよね」
「そう。今日一人のために作るんじゃなくて、今後も使える形で」
「言い方を変えると、ひまわり市が“住所の次元別管理”に踏み込む日ですね」
「派手に言うな。根本は入力欄が足りないだけだ」
加奈が小さく笑った。
「でも、その足りない入力欄のせいで働けない人が出るなら、広げるしかないんだよね」
その一言で、勇輝の中の優先順位がはっきりした。制度の綺麗さより、先に生活を通す。もちろん雑にはしない。だが、前例がないから止める、で終わらせたくはなかった。
◆システム調整と略記の地獄(備考欄は便利だが、便利すぎると何でも押し込みたくなる)
問題は、異界住所欄を今すぐシステム改修で作れるわけではないことだった。役所の基幹システムは、思いついたその日に項目を生やせるほど軽くない。つまり今日は、現行運用の中で最大限まともな受け止め方を考えるしかない。
藤崎は端末を操作しながら言う。
「現時点で使えるのは、住民基本情報の補足欄、備考欄、連絡メモ欄の三つです。ただ、全部に長文は入れられません。備考欄は発行時に出る可能性がありますし、連絡メモは庁内共有専用。補足欄は文字数が少ないです」
美月がすぐ反応する。
「雲の上三丁目 天空橋右折 七番浮島 風見塔の裏、これ全部は入らないですね。どこ削ります?」
セレスがやや真顔になる。
「風見塔の裏は重要です。風が変わるため、正面側からは着地が危険です」
「重要な情報がちゃんと重要なの、余計に困るな……」
勇輝は紙へ短縮案を書き始めた。
雲上三丁目/浮島7/風見塔裏
天空橋南端経由
高度可変
書いてみると、住民票の備考に入れるにはまだ強い。だが、生活実態を削りすぎると意味がなくなる。
市長が口を開く。
「異界住所フォーマットを仮決めしよう。まず区画名。次に島や枝などの単位番号。最後に、地上側の基準点。目印は最終手段として縮約する。『風見塔裏』をそのまま残すか、『風塔裏』へ略すかは、本人の納得次第だ」
「略し方が雑に見えて、けっこう本気ですね」
加奈が感心したように言う。
「本気だ。役所は、長すぎる暮らしを短い欄へ入れる仕事でもある」
「今日の市長、言うことだけは妙にうまいですね」
「だけは、を付けるな」
勇輝はセレスへ確認した。
「本人の認識として、絶対に落とせないのは何ですか。雲の上三丁目、浮島七、風見塔の裏。この中で、順位をつけるなら」
セレスは少し考えたあと、迷いなく答えた。
「雲の上三丁目が最上位です。そこが区域名です。次に浮島七。最後に風見塔の裏ですが、これは配送や訪問時には重要です。ただ、住民票の備考へ完全に入らないなら、連絡用補足でもかまいません」
「助かります。そこまで優先順位があるなら、組めます」
藤崎が端末へ入力案を作る。
住所コード:ひまわり市天空橋公園前連絡地点
補足:異界居住区画 雲上3丁目 浮島7
連絡メモ:風見塔裏着地帯使用
画面は通る。今度は赤いエラーが出ない。そこに少しだけ安堵が広がった瞬間、美月が現実的な問題を指摘した。
「郵便番号、どうします? 天空橋公園前の番号だと、公園宛てに手紙が行きますよね」
「そこは連絡用ポストの設置とセットですね」
加奈がすぐに言う。
「仮でもいいから、天空橋の南端に異界居住者用の連絡箱を置く。郵便物はそこへ一時預かり、本人が定時に回収する形なら、地上住所としても機能する」
「定時回収できるか?」
勇輝が聞くと、セレスは頷いた。
「はい。配達前後に必ず通ります。むしろ、地上の書類を受け取れる場所があると助かります」
「決まりだな」
市長が満足げに言う。
「住民票の住所は、本人が暮らしをつなぐためのものだ。地面へ釘を打つためだけの文字ではない」
その言い方は少し大きいが、方向は間違っていなかった。
◆地上基準点の確認(紙の上だけで決めると、あとで生活が詰まる)
話はまとまりかけていたが、勇輝は一度そこで止めた。机の上で決めるだけでは危ないと分かっていたからだ。天空橋公園前を基準点にするにしても、本当に使えるのか、連絡箱を置く余地があるのか、地上の人と空から来る人の動線がぶつからないのか、その確認なしで制度だけ走らせると後から必ず詰まる。
「現地見ます。セレスさん、実際に地上へ降りるルートを確認させてください。住民課、窓口は藤崎さんに任せます。美月は同行。加奈、市民目線で見てほしい。市長も来ますよね」
「当然だ」
「聞くまでもなかったな……」
こうして、住民票の住所を決めるための現地確認という、あまり聞いたことのない外回りが始まった。
◆午前・天空橋南端(住所は紙に書くだけでは足りず、実際にたどり着けなければ意味がない)
天空橋は、ひまわり市と空側の往来が増えてから整備された通路の一つで、地上側から見れば緩やかに空へせり上がる石橋のように見える。もっとも、最後の区間は肉眼だと霧に溶けるように消えていて、人間の感覚にはやや馴染みにくい。橋の南端には小さな広場があり、温泉街への下り道、公園脇の遊歩道、配送用の荷置き台が集まっていた。朝は人の往来が少ないが、昼を過ぎれば観光客も配送業者も混じる場所だ。
セレスはそこへ立つと、ようやく少し表情をほぐした。地上の窓口では終始きちんとしていたが、この場所は本人にとっては「自分の入口」に近いのだろう。
「私は普段、あのあたりから降ります」
そう言って指した先は、たしかに橋の欄干脇、少し風を受け流しやすい広さのある箇所だった。そこから数歩で広場へ入り、荷置き台へ寄って、それから温泉街か役所へ向かう。動線として無理がない。
加奈が周囲を見回す。
「ここなら、連絡箱を置く位置も作れそう。通行の邪魔にならない壁際に寄せれば、誰かが座り込む場所にもならないし、風で飛びにくい」
「鍵付きで、投函だけじゃなく市役所側の回収もできる形がいいですね」
美月がすぐメモを取る。
「名前はどうします? 『異界居住者連絡ポスト』だと硬いし、『天空ポスト』だと軽い」
「名前はあとだ。先に機能を決める」
勇輝は荷置き台の位置を確かめた。ここを地上基準点にするなら、公園前の既存コードより、むしろ橋南端広場の管理番号を新たに割り当てた方がいいかもしれない。公園を経由点にしてしまうと、遊具点検や催事のたびに住所の印象がぶれる。住所は、できるだけ平時に強い場所へ置くべきだ。
市長も同じことを考えたらしい。
「公園前はやめよう。公園は目的地になるが、住所の基準点には賑やかすぎる。橋南端広場の方が、中立で、連絡と受け渡しに向いている」
「同意です。管理番号、新設できますか」
「できるようにする。今日の案件は、それを先送りすると意味がない」
セレスが少し遠慮がちに言う。
「地上の方へ負担をかけすぎていないでしょうか」
加奈が首を横に振る。
「負担はある。でも、住所がなくて働けない方がもっと困る。あと、ちゃんと基準点を決めれば、地上の人も空の人も迷わなくて済むから、長い目で見たら楽になるよ」
その言い方がやさしくてよかった。セレスのように真面目な人は、自分の相談が制度へ穴を開けること自体に気を遣いすぎる。けれど、制度は使われて困るなら、その困り方ごと見直すしかない。
勇輝は広場の端から空を見上げた。橋の上方には薄い雲が流れ、その向こうに小さな浮島の影が見える。目を凝らせば、風見塔らしき細い塔もたしかにあった。笑ってしまうくらいちゃんと生活がある。地上の住所欄へ入りきらないだけで、暮らしそのものは曖昧ではない。
「よし。地上基準点はここ。橋南端広場連絡地点。異界住所は本人の実生活として別記録。住民票の表記は現行システム上の住所と、必要に応じて備考で補足。郵便と連絡はこの基準点へ流す」
「ようやく住所の形になってきましたね」
美月が言うと、勇輝は苦笑した。
「形にはなった。あとは、この形が明日から別の人にも使えるかだな」
◆住民課へ戻る午後(ひとつ前例が通ると、次の相談はその日のうちにやって来る)
庁舎へ戻るころには、昼の窓口が少し落ち着き始めていた。だが、「落ち着いた」は住民課では油断の合図にもなる。案の定、戻った勇輝たちを待っていたのは、早くも二件目の相談だった。
受付前で困った顔をしていたのは、樹上生活をしているらしいエルフの女性で、現住所欄へ「大樹東面 二番枝 樹洞前」と書いている。さらに待合には、影の民だという青年が「日当たりの少ない側 二筋目」と書いた用紙を持って座っていた。
「増えるの早すぎません?」
美月が声をひそめると、藤崎が本当に疲れた顔で答えた。
「たぶん、セレスさんが受付で『雲でも相談できる』と話したんです」
「善意の口コミが最速で制度を追い詰めるやつだな……」
勇輝はため息を飲み込み、逆に腹を括った。こうなるなら、今日中に仮運用を宣言した方がいい。雲だけ通して枝は駄目、では窓口がもたないし、本人にも説明しづらい。
「異界住所の相談は、一律で事前聞き取り票を作ります。地上基準点、実生活住所、緊急時に降りる場所、郵便受取方法、本人が優先する目印。この五つを最初に出してもらう」
藤崎が即座に反応する。
「それなら窓口ごとの差も減らせます。まず聞く順番が決まれば、担当ごとに言い方がぶれにくい」
「大事なのは、特殊扱いじゃなくて、異界居住者向けの一般運用として整えることだ」
市長もそこで言葉を足した。
「雲も枝も影も、本人にとっては『普通に帰る場所』なんだろう。その普通を最初から否定すると、窓口はずっと喧嘩になる。まず実生活を認め、そのうえで行政用の基準点を結ぶ。順番を間違えるな」
珍しく、住民課の職員たちがそろって深く頷いた。今日のような日は、正しさだけでは窓口が立たない。相手の生活実感を一度受け取り、それを制度へ翻訳し直す手順がいる。
セレスの住民票発行処理も、最終段階へ入った。地上基準点は「ひまわり市天空橋南端広場連絡地点」、異界住所は補足記録へ、備考欄には簡易表記として「異界居住区画:雲上3丁目・浮島7」を入れる。完全な理想形ではない。だが、今日時点で生活を止めず、後の改修にも繋げられる運用としては上出来だった。
プリンターががしゃんと音を立てる。住民票が出てくる瞬間は、いつも少し緊張する。紙一枚だが、その紙の後ろには本人の生活がつながっているからだ。
出てきた住民票を、藤崎が慎重に確認する。氏名、転入日、住所、備考。誤字はない。コードも通っている。雲は正式住所欄にはいないが、備考と補足にきちんと残っている。
「……出ました」
住民課の空気が、そこでようやく一つ息を吐いた。
◆住民票発行(入力欄が足りなくても、暮らしまで足りなくしてはいけない)
セレスは住民票を受け取ると、数秒だけ紙を見つめた。派手に喜ぶ人ではないらしい。ただ、目元の緊張がほどけていくのが分かる。
「ありがとうございます。これで正式に地上の手続きを進められます。配送契約も、湯治用の長期滞在も、保険の相談も、ようやく窓口で止まらずに済みます」
その一言で、勇輝は今日ここまで積み上げてきた面倒が無駄ではなかったと分かった。住民票は、紙を一枚出したこと自体より、その先の手続きを止めないことに意味がある。
加奈がやわらかく笑う。
「よかった。住める場所があるのに、紙に書けないから住んでないことになるの、変だもんね」
「はい。天空国では、雲帯の区画と風向表示で十分でしたので、地上の制度へどう合わせるか悩んでいました」
「逆に、こっちも雲の上をどう書けばいいか悩んでましたよ」
美月がそう言いながら住民票をのぞき込み、思わず目を細める。
「備考欄、強いですね。普通の住民票なのに、突然“雲上3丁目・浮島7”が入ると、一気に世界が広がる」
「広げ方を間違えるな。今日は記念品を作ったんじゃない」
「分かってます。でも、たぶんこの紙、セレスさんにはすごく大事ですよ」
その言葉へ、セレスは静かに頷いた。
「大事です。地上で名乗れる住所ができるのは、想像以上に安心します。雲の上の暮らしは変わりませんが、地上の窓口で『どこに住んでいますか』と聞かれた時に、黙らずに済みますから」
住民課の藤崎が、その言葉に少しだけ目を伏せた。たぶん、住民票の重さを毎日見ている人だからこそ、その実感が分かるのだろう。
市長は腕を組み、満足そうに言った。
「よし。今日でひまわり市は、次元をまたぐ住民登録の初手を打ったわけだ」
「言い方が大きいですけど、やってることは入力欄の工夫ですからね?」
勇輝が釘を刺すと、市長は笑った。
「入力欄の工夫で生活が回るなら、それは十分に大きい」
それもまた否定しにくかった。
◆午後・仮運用の決定(前例が一件通った時こそ、個別対応で終わらせない)
その後、住民課では急きょ短い打ち合わせが開かれた。内容は一つ。今日のセレス対応を、その場限りの偶然で終わらせないことだった。
勇輝は白紙へ見出しを書いた。
異界居住者の住所登録に関する当面の窓口運用。
そこから先は、朝からの会話と現地確認を少しずつ整理していく作業だった。
一、実生活住所は本人の申告を尊重する。否定から入らない。
二、行政上の住所は、地上の基準点を必ず設定する。
三、基準点は本人が継続利用し、郵便・連絡・緊急時対応に使える場所とする。
四、異界住所は補足記録へ残し、必要に応じて備考へ簡易表記する。
五、窓口では事前聞き取り票を用いて、本人の生活導線を把握する。
六、今後のシステム改修候補として「異界居住区画欄」を情報政策課へ上げる。
「大事なの、五番ですね」
加奈が言う。
「暮らし方を聞かないで住所だけ聞くと、また詰まる。雲の上って書かれて困るのは、たぶん住所そのものより、そのあと何も質問が続かないことなんだと思う」
「ほんとにそうだな……」
勇輝は頷く。
「生活導線さえ分かれば、住所欄の工夫はできる。逆に、生活が見えないまま文字だけ直そうとすると、どこかで無理が出る」
美月は、仮運用の説明文を窓口向けに整えながら口を開いた。
「住民向けにまで大きく広報する必要はないですよね。まだ仮運用だし。でも、窓口で『異界住所の相談もできます』くらいの案内はあった方がいいかも」
「そうだな。『雲も可』みたいな言い方はするなよ」
「しません。さすがに」
藤崎は腕を組みながら、少しほっとした顔になっていた。
「今日みたいな相談って、前例がないから怖いんです。でも、一件通ると、次からは『どこを聞けばいいか』が見える。住民課って、そういう積み重ねで少しずつ強くなる部署でもあるんですよね」
「分かる。しかも、強くなったことを派手に言わないまま窓口が静かに回るのが一番いい」
勇輝のその言葉に、住民課の何人かが小さく笑った。派手な成果ではない。けれど、生活の窓口はたいてい、静かに回っている時がいちばん価値がある。
◆夕方・住民課の片隅(空の上まで届く住所欄は、たぶんこうやって少しずつ広がっていく)
窓口の列がようやく薄くなったころ、加奈が持ってきた紙袋の中身が開かれた。焼き菓子と、小さめの甘いパン。住民課の職員たちは、やっと一息つけた顔でそれを受け取っている。糖分が必要だと口に出すのもためらわれない疲れ方だった。
「……いります……」
藤崎が正直に言うと、加奈が笑った。
「でしょ。今日のは頭が疲れるやつだったもん。書けるかどうかより、どう通すかをずっと考える日って、甘いの要る」
美月は焼き菓子を頬張りながら、まだ端末へ何かを書いている。
「情報政策課への改修要望、今のうちに形だけ作っておきます。異界居住区画、地上基準点、郵便受取方法、緊急時降下地点。この四つが別項目になれば、だいぶ強い」
「勢いで全部通ると思うなよ」
「通らなくても、今日の紙を添付したら無視しにくいですよ。『雲が入力できなくて窓口が止まりました』って、かなり分かりやすいので」
勇輝は思わず笑いそうになり、それを少しだけ許した。たしかに分かりやすい。分かりやすすぎて、役所の改修理由としてはやや情けないが、実際に止まった以上は立派な理由だ。
市長は窓口の奥から住民課全体を見渡していた。朝と同じ場所なのに、空気はもうかなり違う。最初は「雲」が入力できずに止まっていた窓口が、今は枝の住所、影の住所、浮島の番号まで、とりあえず聞き取る準備を始めている。
「今日の件、悪くなかったな」
ぽつりとそう言うので、勇輝はすぐ返した。
「住民票の住所欄に雲を入れようとしてエラーを食らった日を『悪くなかった』で片づけるの、だいぶ図太いですよ」
「図太くもなる。町が広がる時は、だいたい最初に窓口が困るんだ。その困り方を、逃げずに運用へ変えられたなら、上出来だろう」
それはたしかにそうだった。異界へ来てから、道路も、水も、観光も、配送も、いろんなことが「今まで通りでは足りない」にぶつかってきた。そのたびに現場が少しずつ継ぎ足し、仮に決め、あとから整えてきた。住民票の住所欄だって、きっとその延長なのだろう。
セレスが最後にもう一度、住民課へ頭を下げて帰っていく。その背中を見送りながら、勇輝は住民票の控えに目を落とした。
ひまわり市天空橋南端広場連絡地点。
異界居住区画 雲上3丁目 浮島7。
笑ってしまうような文字列なのに、その一行が一人の生活をちゃんと地上へ繋ぐ。そう思うと、妙にきれいに見えた。
「次、絶対来ますよね」
美月が言う。
「湖の底とか、木の上とか、影の中とか。たぶん今日で『相談していいんだ』って分かった人、もう何人かいます」
「来るだろうな」
「どうします?」
勇輝は少しだけ遠い目になってから、すぐ現実へ戻った。
「帰らない。対応だ。住所欄が足りないなら、まず生活を聞く。そこからだ」
加奈が笑いながら紙袋をたたむ。
「うん。その順番なら、たぶん大丈夫。町って、最初から全部ぴったり入る箱があるわけじゃないし、入らない人が来た時にどう広げるかで、住みやすさが決まるんだと思う」
住民課の職員たちが、その言葉に静かに頷いた。派手ではない。けれど、今日一日の仕事をいちばん上手く言い表している気がした。
ひまわり市役所。
今日も通常運転と言い切るには、住所欄が少しだけ空の方へ広がりすぎた一日だった。
それでも役所が動けば、生活は止まらない。雲の上に住んでいても、風見塔の裏へ帰っていく人でも、地上で働き、温泉へ降り、郵便を受け取り、必要な時に自分の住所を名乗れるようになる。
そうしてひまわり市は、また一つ、暮らしの入口を増やしていくのだった。




