第43話「落とし物係が死ぬ日:拾得物が魔剣と王冠」
◆朝・ひまわり市役所 総務課遺失物保管棚前(忘れられた日常の棚に、日常ではないものが混ざる朝)
市役所の朝は、静かな顔をして始まることが多い。廊下にはまだ人の波が育ちきっておらず、コピー機の起動音と、窓を開ける金具の小さな鳴り方だけが、庁舎の一日を少しずつ目覚めさせていく。誰かが当番の花へ水をやり、誰かが昨日の回覧物を揃え、誰かが夜のあいだに届いた封書を仕分ける。そういう細かな手つきの積み重ねの上で、役所の平日というものは案外おだやかに立ち上がる。
もっとも、そのおだやかさはしばしば、何かがおかしい日の前口上でもある。
総務課の片隅に置かれた遺失物保管棚は、本来ならそれほど視線を集める場所ではない。透明ケースに仕切られた小さな区画へ、ビニール傘、手袋、財布、鍵束、子どもの帽子、名札、たまに買い物袋ごと忘れられた野菜まで、生活の端でうっかり手を離れたものが静かに並ぶ。そこには、持ち主の困り顔が目に浮かぶような品が多い。忘れられた物というより、いっときだけ町へ預けられた日常である。
なのに、その朝の棚は、明らかに棚の方が困っている顔をしていた。
「……勇輝主任。すみません。急がせてしまって」
総務課の若手職員、柏木は、呼びに行ったときよりもさらに弱った顔で立っていた。普段から派手な職員ではないが、今日は声まで紙みたいに薄い。庁舎の照明がまだ完全には白くなりきらない時間だというのに、その顔だけが妙に夜勤明けの人のようだった。
「どうした。朝一番で総務課から呼ばれると、だいたい楽しい話じゃないのは分かってるけど、顔色がもう少し段階を踏んで悪くなってほしい」
勇輝がそう言いながら棚の方へ目を向けたところで、言葉が途中で止まった。
棚の最上段に、場違いな段ボール箱が二つ置かれている。ひとつはふたが閉まりきらず、その隙間から黒い刃が斜めに覗いていた。刀身そのものが光っているわけではないのに、周囲の空気だけが妙に冷えて見える。もうひとつの箱は、ふたの合わせ目から金色の光を漏らしていて、紙箱の質素さと中身の過剰さがまるで釣り合っていない。
「……いや、無理だろ」
思わず口に出た感想は、柏木が先に飲み込んだものとほとんど同じだったらしい。彼は小さくうなずいた。
「そうなんです。僕も最初に見たとき、箱の置き場所が違うのかと思ったんです。でも、夜間受付の記録を見たら、確かに『遺失物として預かり』になっていて……」
「誰が持ち込んだ」
「名乗りませんでした。受付に箱を置いて、『拾いました。朝、総務へ』とだけ言って、そのまま帰ったそうです。夜間担当が追いかけようとした時には、もう裏口の方へ回って見えなくなっていたって」
「市役所に武器と王冠を置いて帰るな……」
勇輝は箱から半歩ぶん距離を取りつつ、もう少しよく見た。黒い刃の方は、鍔に見慣れない紋章が刻まれ、柄には赤黒い革が巻かれている。装飾は派手すぎないのに、全体の輪郭だけがいやに攻撃的で、持ち主を選ぶ道具の顔をしていた。隣の王冠はさらに分かりやすい。金色の地金に深い青と赤の宝石が埋め込まれ、頂点のひとつひとつが役所の蛍光灯の下でも妙に堂々としている。遺失物棚へ置かれるものの顔ではないし、市役所の書類と並ぶ品でもない。
「箱、開けたのか」
「確認のために少しだけ……でも、刃の方を見た瞬間、空気が急に冷たくなった気がして、それ以上は開けてません。王冠の方は、ふたを持ち上げる前に何となくやめました」
「それは正解だ。たぶん今日は、その『何となくやめた』の勘が一番まともに働いてる」
そこへ、廊下を早足で近づいてくる靴音が混じった。来るだろうと思った人物が、案の定、スマホを握ったまま現れる。
「主任、聞きました。総務課にとんでもない遺失物が来たって。まだ写真は出てませんよね。出てないなら今のうちに状況整理を——」
美月は棚を見上げて、目を見開いたあと、一拍遅れて頬の筋肉だけを危うく上げかけた。面白がってはいけない場面だと分かっている時の、ぎりぎりで踏みとどまる顔である。
「……すごいですね。すごいって言い方で合ってるか分からないですけど、これは朝から町内会チャットに流れたら終わるやつです」
「終わらせるな。終わる前に止める」
「分かってます。だから来たんです。でも、もう総務課の誰かが『やばいの来た』って別課に漏らした気配はあります」
柏木が申し訳なさそうに肩を縮める。
「すみません……課内で小さく言ったつもりだったんですけど、遺失物棚の前って意外と音が抜けるんです」
「役所の壁って、秘密が漏れる時だけ薄くなるよな……」
勇輝が額へ手を当てたところへ、さらに別の足音が重なった。加奈だ。紙袋を提げ、いつものように喫茶ひまわりからの差し入れを持ってきたらしい。朝の庁舎で見ると、その生活感のある姿がむしろ安心材料になるはずなのに、今日はその安心も棚の上で止まる。
「おはよう。今日も慌ただしそうだねって言いに来たけど、ちょっと待って。何あれ」
紙袋を抱えたまま、加奈の視線が箱の上で固まる。
「市役所の遺失物棚に、王家の内輪揉めみたいなものが置いてあるんだけど」
「感想としてはかなり近い。まだ内輪揉めかどうかまでは分からないけど」
「分からないのに近いってことは、相当やばいね」
加奈の生活者としての勘は、こういうとき妙に信頼できる。日常へ無理やり混ぜたらいけないものを嗅ぎ分ける感覚があるのだろう。
最後に現れたのは市長だった。今日は珍しく早く、上着の袖を少しだけまくっている。棚を見た瞬間に表情を引き締めたので、少なくとも面白がるだけで済ませるつもりではないらしい。
「なるほど。今日の遺失物は、拾得物台帳の書き方からして悩ましいな」
「そこから入るんですか」
「入る。行政は、持ち込まれた瞬間に名前を考えなければならないからだ。『黒い剣のようなもの』と書くのか、『刀剣類』と書くのか、『呪物の疑いあり』まで入れるのかで、保管責任も連絡系統も変わる」
それはその通りで、だから勇輝は反論できなかった。笑いごとに聞こえかねないが、役所は物事に名前を与えるところから責任が始まる。傘と書くのか、杖と書くのか、装身具と書くのか、王冠と書くのか。その違いで、後の扱いがまるで違ってしまう。
「会議室を使います。総務課、夜間受付記録と防犯映像の確認。美月、発信は止める。加奈は……」
「現場枠で残る。どうせ今ここで、『普通の人ならどう怖がるか』を言う役いるでしょ」
「助かる」
箱から視線を外さないまま、勇輝は深く息を吸った。遺失物係が今日いちばん気の毒なのは間違いないが、市役所全体も今日ばかりは他人事で済まない。拾った人が困った時に持ってくる場所である以上、預かった瞬間から、この厄介さも市の仕事になってしまうのだった。
◆午前・第一会議室(遺失物法の文面は、王冠と魔剣を想定していない)
第一会議室の長机の中央に、段ボール箱が二つ並べられた。総務課が急いで運んできた耐火マットの上で、箱はやたら静かにしている。その静かさ自体が不気味で、誰もすすんで近寄ろうとはしなかった。
勇輝は会議卓の片側に台帳を広げ、行政口調へ意識を切り替えた。
「整理します。まず前提として、市役所に持ち込まれた以上、現時点では拾得物として扱うしかありません。拾得者が名乗っていないのは問題ですが、夜間受付が預かった記録がある以上、受理そのものを無かったことにはできない。つまり、保管責任が発生しています」
総務課長が苦い顔で腕を組む。
「傘一本でも責任は責任だが、今日のこれは責任の単価が高すぎるな」
「高すぎますね。ただ、だからといって『怖いので受けません』はできない」
美月が端末を打ちながら口を挟む。
「普通の遺失物なら、拾得者の権利と持ち主の返還請求の話になりますよね。じゃあ、これも一定期間後に拾得者のものになるんですか」
「そういう未来を雑に想像するな。怖いだろ」
「でも、制度としては考えますよね」
言われてみればその通りだった。拾得物として受理する以上、法や規程の上では、所有者不明期間、公告、返還、拾得者の権利といった筋道が出てくる。そこへ王冠と魔剣が乗ると、急に字面だけが物騒になる。
加奈が真顔で言う。
「ねえ、それってつまり、何も出てこなかったら『市役所が王冠の持ち主候補を抱えてる状態』になるってことだよね」
「言い方を変えても事実は変わらないな……」
市長が椅子へ浅く腰掛けたまま、箱を見ていた。
「問題はそこだ。もし単なる装飾品や舞台用小道具なら、価値評価の問題で済む。だが、王冠が本当に王冠として機能する品なら、所有権だけでなく、象徴性と外交上の意味が乗る。魔剣も同じだ。単なる刀剣ではなく、契約や継承に関わる品なら、市が軽々しく『落とし物』の棚に置いてよいものではない」
「総務課の棚が、今ごろ泣いてますよ」
柏木がうっすら青い顔でつぶやく。冗談にしては切実すぎて、誰も笑えなかった。
防犯映像を確認していた職員が、資料を持って入ってくる。夜間受付のカメラ映像だ。勇輝たちは画面をのぞき込んだ。深夜、フード付きの外套を着た人物が二つの箱を抱え、無人に近い受付へ現れる。顔は影でほとんど見えない。体格も性別も判別しにくい。ただ、箱を置く手つきだけは妙に慣れていて、重い荷物を運ぶ人間の慎重さより、「ここへ置けば仕事は終わる」と決めている人間の迷いのなさがあった。
「迷子の品を届ける人の置き方じゃないな」
勇輝が言うと、市長も同じ画面を見たまま答える。
「そうだな。届けたというより、託した置き方だ。市役所を保管庫に使った」
「それ、余計に面倒です」
「余計に面倒だ。だが、あり得る。中立で、夜でも開いていて、誰かが必ず記録を残す場所だからな。意図的に預ける先としては、確かに都合がよい」
加奈が腕を組んだ。
「つまり、拾ったから持ってきたんじゃなくて、『ここなら勝手に処分しない』って見込んで置いていったってことか」
「可能性は高い」
美月が首を傾げる。
「でも、じゃあなんで名乗らないんでしょう。自分のものじゃなくても、『どこで拾った』くらいは言えますよね」
その問いはもっともだった。黙って行く理由は、ろくなものではない。拾得場所を言えない事情があるのか、追跡されたくないのか、あるいは持ち主と名乗る誰かより先に市へ預ける必要があったのか。
箱の前に置かれた沈黙は、単なる物の静けさではなくなっていた。
「とにかく、開封は段階を踏みます」
勇輝は言った。
「魔剣の方は危険物として扱い、王冠の方は高価品かつ象徴物として扱う。写真の外部共有は禁止。台帳も閲覧制限をかける。今の時点で『王冠』という語を全庁に流す必要はありません」
「広報も伏せます」
美月が珍しく素直に頷く。
「『特定の高価遺失物について確認中』くらいで止めます。変に隠して逆に噂を膨らませないように、言うべきことだけ言います」
「頼む。今日はその加減が一番難しい」
会議室の空気が少しだけ整いかけた、その時だった。
段ボールの中から、乾いた音がした。
カタ、と小さく。けれど、部屋じゅうの視線をまとめて奪うには十分な音だった。
◆会議室・異変発生(遺失物台帳には「勝手に動く可能性」を書く欄がない)
最初に気づいたのは加奈だった。肩を小さく引き、箱を見たまま声をひそめる。
「……今、刃の方、動いたよね」
誰もすぐには返事をしなかった。認めた瞬間に面倒が現実の方へ踏み出してくる気がして、全員が数秒だけ躊躇したのだと思う。
だが、次の瞬間にはためらう余地がなくなった。
黒い刃が、箱の隙間からすっと持ち上がる。誰かが触れたわけではない。段ボールのふたを押し上げるように、内部から細い冷気が這い出してきて、会議室の空調とは無関係の温度低下が手元へ触れた。書類の端がわずかにそり、柏木が椅子ごと半歩ぶん後ろへずれる。
「……やっぱり、そっちから先に来るのか」
勇輝が低く言うと、美月は怖がっているくせに目だけは離せなかった。
「主任、あの、こういう時って『落ち着いてください』が正解ですか。それとも『誰か詳しい人を呼んでください』の方が正解ですか」
「両方だ。まずこっちが落ち着く。そのうえで詳しい人を呼ぶ」
「詳しい人って誰ですか!」
「今から考える!」
市長は箱から視線を外さずに言った。
「不用意に刺激するな。自発移動する呪具かもしれん」
「『かもしれん』で済ませる範囲を超えてます」
そのとき、もう一つの箱、王冠の方から淡い金の光が漏れた。派手ではない。むしろ、こちらの神経だけを撫でるみたいに静かな明るさで、会議室の壁紙にうっすらと反射する。魔剣の冷たさとは質が違う。危険というより、『無視するな』という圧がある。
「そっちはそっちで何なんだよ……」
勇輝が額を押さえる。武器は危険だが、危険の種類が分かりやすい。刃物なら刃物として、まず距離を取ればいい。だが王冠は、誰のものか次第で意味が変わりすぎる。しかも、光り方が妙に理性的で腹立たしい。
総務課長が慎重に問う。
「外部の専門家、呼びますか」
「呼びます。異界由来の安全管理に詳しい人間を最優先で。前に竜族観光組合と連携したとき、呪具や飛翔具の安全点検を兼任している担当がいたはずです」
加奈がすぐに思い出す。
「いた。ヘルメットかぶってて、工具いっぱい持ってる人。『何でもまず固定』って言うタイプ」
「その人なら信用できそうだな」
「信用できるっていうか、少なくとも『珍しいから触ろう』より先に『危ないから距離』って言う人だった」
「じゃあ、その人です」
美月はもう連絡先一覧を開いていた。
「竜族観光組合の安全管理担当、たしか……グルムさん。つながるはずです。朝早いけど、こういう人は朝から起きてるか、そもそも寝てても起こされ慣れてる」
「雑な信頼の置き方だな……でも、今はそれでいい。最短で呼んでくれ」
電話をかけるあいだにも、魔剣は箱の中でじり、と位置を変えている。今すぐ飛び出す勢いではないが、『ここに入れられているのが不満』という態度だけははっきりしていた。遺失物が態度を持つな、と言いたいところだが、言って聞く相手ならそもそも困っていない。
さらに困ることに、王冠の箱の上へ置かれたボールペンが、誰も触れていないのにころりと転がった。まるで、持ち主を示す指し棒のように。
会議室の空気が一段深く沈む。
「……これ、落とし物じゃなくて、届け物なんじゃないか」
市長がぽつりと言った。
「わざわざ市役所へ置いた上で、名乗らない。しかも、触れ方を試すみたいに反応がある。誰かが、ここでどう扱うかを見ている可能性はある」
「試すなと言いたいですけど、異界の人って時々そういう遠回しな確認しますよね」
加奈がそう言うと、誰も否定できなかった。
美月が電話を耳へ当てたままこちらへ身を乗り出す。
「つながりました。来るそうです。ただ、向こうの第一声が『王冠を絶対開けるな』でした。あと、魔剣の方は箱ごと動かすなとも」
「分かった。誰も触るな」
勇輝はそう言いながら、自分でも一歩下がった。役所の会議室が、急に危険物保管所と外交窓口と試験会場を兼ね始めている。通常業務の顔で座っている場合ではないのに、机の上にはまだ今日決裁すべき書類が積まれていた。日常は止まってくれないくせに、異常だけがきっちり割り込んでくる。
◆来訪・安全管理担当グルム(異界の専門家は、まず珍しがる前に危険の順番を決める)
グルムが会議室へ入ってきたのは、それから二十分もしないうちだった。背の低いドワーフで、頭には擦り傷だらけのヘルメット、胸には「安全第一」と刻まれた金属札、腰には工具袋が幾つも下がっている。急いで駆けつけたらしく息は少し上がっていたが、目だけはすでに仕事の距離に入っていた。
「朝から大物だな。どっちが先に騒ぎ始めた」
「魔剣の方です」
勇輝が答えると、グルムは箱へ近づきかけて、そこで足を止めた。
「近づき方から決める。誰が触った」
「総務課で箱を少し開けた職員がいます。直接は触ってません」
「血は落ちたか」
「落ちてません」
「ならまだ助かる」
そのやり取りに、柏木の顔色がさらに薄くなる。だが今は慰めるより情報優先だ。
グルムは工具袋から薄い金属板を取り出し、箱の周囲へ四枚置いた。見た目はただの札だが、床へ触れた瞬間に淡い青が一度だけ走る。
「感応板だ。動きたがる呪具は、自分の向きが定まると床を探り始める。この反応で歩くか跳ぶかが分かる」
「歩く可能性があるんですか」
美月が半分泣きそうな声で聞くと、グルムは平然と頷いた。
「ある。呪い剣にもいろいろあるが、これはたぶん『持ち主の気配を追う』型だ。持ち主が遠い、もしくは不明扱いになると落ち着きがなくなる。落とし物台帳の意味は分からなくても、『捨てられた』と誤認すると機嫌が悪くなる」
「機嫌の問題なんですね……」
加奈が遠い目をした。勇輝も同じ気持ちだった。行政実務の中へ、機嫌という概念を混ぜたくない。
グルムは感応板の光を見て、短く言った。
「歩くな。滑る。箱から出たがるが、真正面へは来ない。たぶん持ち主探しと防衛が半々だ。封印より先に契約の匂いを薄める」
「契約解除、ですか」
「完全な解除は持ち主か鍛えた者の仕事だ。今やるのは『市役所を持ち主候補から外す』ための応急処置だな。役所が所有者に見なされると、ますます面倒になる」
それはものすごく大事な話だった。遺失物として預かっただけなのに、変に反応したせいで『今はここが主人』と認識されたら、保管責任どころの騒ぎではない。
「どうすれば外せますか」
「記録と意思表示だ。異界の呪具は、意外と手続きに弱い。『預かるだけで、所有しない』という宣言を、物理的な境界と一緒に置く。紙の台帳も効くぞ」
会議室にいた全員が、一瞬だけ黙った。役所の台帳が呪具へ効く。いかにもこの町らしい理屈だが、笑っている場合ではない。
グルムは次に王冠の箱へ視線を移した。そちらへ向ける顔は、魔剣を見るときより慎重だった。
「こっちは絶対に勝手に開けるな。王冠というのは、金属細工ではなく立場の凝縮だ。正統な持ち主にとっては象徴だが、それ以外の者には『ほしい』を増幅する。だから光る。だから呼ぶ」
「呼ぶ、って」
美月が喉を鳴らす。
「持ち主だけじゃない。盗みたい者、名乗りたい者、似合うと思いたい者も呼ぶ。だから公開するとろくなことにならん。今朝の段階で噂が広がってるなら、今日のうちに『心当たり』を持つ人間が何人も現れるぞ」
「……それは、かなりあり得ますね」
勇輝はため息をついた。遺失物窓口は本来、『落とした』『拾った』『返したい』の三つくらいで回る。そこへ『王になりたい』が混ざるのは業務外もいいところだった。
グルムは魔剣の方へ戻り、革手袋をはめる。
「いいか。俺が今からやるのは、剣に『ここは仮置きである』と理解させる応急処置だ。そのために、そこの台帳を一ページ使う。記録係、いるか」
「はい」
柏木が反射で返事をして、すぐに自分が記録係へ任命されたことを理解した顔になる。
「品名はまだ曖昧でいい。だが、『本市は所有意思を持たず、返還までの安全保管を行う』と明記しろ。日付、時間、保管責任者、立会人も書く。異界の契約物は、曖昧な預かり方を嫌う」
「役所向きですね、それ……」
「向いてるとも。お前ら、そういうのは得意だろ」
得意であることが急に別の文脈で役立ってしまうのが、この町の厄介さだった。
◆契約の匂いを薄める作業(役所の手続きが、まさか魔剣の機嫌取りに使われる日)
柏木が震える手で台帳を書き、美月が時刻を読み上げ、総務課長が立会人欄へ署名する。そこまで整うと、グルムは箱へ向けて低く言葉を落とした。異界語なのか、鍛冶職の符丁なのかは分からない。ただ、響き自体は叱るというより、よその家へ勝手に入るなと諭す職人の声に近かった。
魔剣の刃先が、箱の隙間でわずかに揺れる。
「よし、そのまま聞け。ここは持ち主でも敵でもない。棚でもない。返すための途中だ」
変な光景だった。会議室の中央で、ドワーフの安全管理担当が段ボール箱へ説教し、その横で総務課職員が台帳を押さえている。だが、その奇妙さを笑う空気はなかった。剣が本当に止まるかどうかを、皆が固唾をのんで見ている。
グルムが工具袋から細い鎖を取り出し、箱の周囲へ四角く置いた。鎖といっても拘束具というより、境界線だ。最後に台帳の写しを折って箱の上へそっと置くと、冷えた空気がほんのわずかにゆるんだ。
刃の震えが止まる。
「……止まった」
柏木がほとんど息で言う。
「完全には止まってない。だが、『今すぐ出る』気は引いた。これで保管庫へ移せる。ただし普通の棚は駄目だ。暗くて静かで、鍵があり、出入り記録が残る場所。あと、扉の向こうに誰かの武勇伝がない場所」
「武勇伝の有無まで条件なんですか」
「ある。壁に勲章や賞状が飾ってあると、剣が勘違いする」
「市役所、変なところで向いてないな……」
勇輝は頭の中で庁舎の部屋を思い浮かべた。危険物保管庫、文書倉庫、旧会議資料室。どこも一長一短だが、今の条件なら文書保存庫横の閲覧制限室が一番近い。地味で、静かで、扉に入退室記録がついている。役所の中でいちばん栄光の気配が薄い場所でもある。
「剣はそっちへ。王冠は別室です。絶対に同じ場所へ置かない」
グルムがすぐに言う。
「互いに格を測り始める」
「物同士で?」
「物同士でだ。象徴物ってのは、放っておくと席次を作る」
その説明も、もはや受け入れるしかない。異界の品が異界の論理で面倒なのは今に始まったことではない。
問題は王冠だった。こちらはまだ箱も開けていないのに、存在感だけで会議室の温度を変えている。グルムは真正面に立たず、少し斜めから確認するようにして口を開いた。
「箱を開けるのは、本当の意味で持ち主確認が必要になった時だけだ。今は光を弱める。欲しいやつを寄せないためにな」
「どうやってですか」
「『誰でも手にできる場ではない』と分からせる。これもまた、境界だ。役所ならできるだろ。閲覧制限、立会人、開封許可、持出禁止。要は手続きで囲う」
加奈が思わず笑いそうになって、それを飲み込んだ。
「なんか、王冠の方が窓口対応に弱そうな言い方だね」
「実際、権威の品は手続きへ弱い。正式な場を好むからな。逆に言えば、雑に扱うと『雑に扱っていいものだ』と周りに思わせてしまう」
勇輝はそこで腑に落ちた。王冠に必要なのは、触らないことだけではない。触るためのハードルを正しく高く見せることだ。市役所が中立の場所であるなら、だからこそ中立らしい面倒さで守らなければいけない。
「公開はしない。告知も曖昧に留める。開封は関係者立会い時のみ。保管場所は秘匿。鍵は総務と異世界経済部の二重管理」
「それで行ける」
グルムが短く言う。専門家に即答されると、それだけで現場の骨が少し締まる。
だが、事態は『守る方針が決まった』だけでは終わらなかった。噂というものは、守る準備が整うころにはもう次の段階へ進んでいる。
◆午後前・窓口混乱(王冠は持ち主だけでなく、心当たりの数まで増やす)
最初の来訪者は、昼前に現れた。
受付へやって来たのは、紫の上着を着た中年男で、自分の胸へ片手を当てながら妙に堂々としている。夜間に届いた「高価遺失物があるらしい」という噂を聞き、心当たりがあって来たと言う。何の心当たりかを問うと、彼は間を置かずこう答えた。
「王冠です」
受付担当が固まったという連絡が、すぐに勇輝のところへ上がってきた。
「本人確認を。どこの王冠ですか」
勇輝が出向いて尋ねると、男は少し胸を張り直した。
「それは、私の内的資質に関わるため、一概には言えません」
「帰ってください」
総務課長が珍しく即答した。だが、それで終わらないのが今日だった。
次に来たのは劇団関係者で、「舞台小道具の王冠を紛失した」と言う。細かな装飾の説明をさせると、会議室の箱の中身とは明らかに違う安価な真鍮製のものだったので、これは普通に別件として処理できた。けれど、そのやりとりの最中に、今度は魔界出身の商人が現れ、「黒い剣のようなものを見なかったか」と聞いてくる。
「どんな剣ですか」
勇輝が問うと、商人は指で大きさを示した。
「人を選ぶ顔をした剣だ。近くにいると、勝手に昔の決闘を思い出したくなる」
「ものすごく説明が感覚的ですね」
「呪具はそういうものだろう」
たしかに間違ってはいない。しかし、間違っていないから困る。彼が持ち主かどうかを判定するには情報が足りないし、足りないからといって見せるわけにもいかない。
その後も、「王冠をなくしたかもしれない王子の随員を知っている」「黒剣を探している傭兵を昨夜見た」「王冠ではなく儀礼帽ではないか」など、窓口には『心当たりの周辺』だけがどんどん積み上がっていった。王冠そのものを見ていないのに、語れる人が多すぎる。噂の形だけで人を動かしている証拠だった。
「主任、これ、情報を絞ったつもりでも外へ漏れる形で増えてます」
美月が疲れた顔で言う。
「『高価な遺失物』ってだけで、皆それぞれ自分の高価な想像を持ち込んでくる。しかも異界の人たち、王冠と儀礼具と継承具の区別が文化圏ごとに違うので、会話だけで整理がつかないです」
「そうだろうな……。落とし物窓口が、急に身分照合の前室みたいになってる」
加奈は差し入れの紙コップを配りながら、小さく息をついた。
「でも、今のうちに名乗り出る人をきちんと振り分けないと、あとで『自分は最初に来た』って揉めるよ。こういうの、順番も大事になる」
その言葉に、勇輝はすぐ総務課へ向き直った。
「聞き取り票を作ります。名乗りの内容、品の特徴、失くした時期、拾得場所への心当たり、同行者の有無、証明できるもの。見せない代わりに、先に答えてもらう」
「遺失物照会票の拡張版ですね」
柏木が反応する。さすがに半日で少し顔色が戻ってきたが、目の下には疲れが滲んでいた。
「そうです。こっちが持ってる情報を出す前に、相手の情報を出してもらう。王冠を見せたら、欲しい人まで正解へ寄ってくる」
「持ち主を探す作業なのに、答え合わせをさせないわけですね」
「そういうことだ」
グルムも腕を組んだ。
「よし。まともだ。王冠が持ち主を呼ぶにしても、呼ばれた側が本物かどうかは手続きで濾せる。欲しいだけのやつは、細部でボロが出る」
その言い方に、美月が少しだけ笑う。
「役所の得意分野ですね。ぼんやりした正義感より、細部の整合性で落とすやつ」
「正義感も大事だけどな。今日は整合性の方が先だ」
会議室の隣では、王冠の箱が静かに光を弱めていた。完全に沈黙したわけではないが、二重の保管手続きへ入れたことで、さっきまでの『誰かを呼ぶ』圧は少し退いているように見える。物が手続きへ従っているのか、それともこちらがそう解釈したいだけなのかは分からない。だが、少なくとも町の側は、その面倒さを面倒のまま受け止める形を作り始めていた。
◆調査進行・持ち主候補(名乗ることと証明することのあいだに、行政の仕事がある)
午後に入ると、ようやく一人、ただの噂では済まなさそうな来訪者が現れた。
薄い青の外套を着た女性で、同行者は二名。ひとりは護衛らしい長身の男、もうひとりは書類箱を抱えた秘書役のような若者だ。受付での名乗りは簡潔だった。
「アスレリア王国、第三使節団の連絡補佐です。こちらに、儀礼用の冠礼具が預けられている可能性があると聞きました。正式確認を願います」
これまでの『心当たり』とは、空気の密度が違った。勇輝が会議室へ通すと、女性は深々と頭を下げたものの、目線だけは箱の所在を探さなかった。欲しさより先に手順を守ろうとしている。その点だけでも、他の候補者たちとはまるで違う。
「証明できるものはありますか」
勇輝が尋ねると、女性は迷いなく封書を差し出した。王国使節団の公印、紋章登録番号、冠礼具の管理台帳の写し、輸送時の付属品一覧。その中に、『青金の儀礼冠一基』『夜半の移動中、所在不明となる恐れあり』という一文がある。さらに、装飾細部の記述は、開封前の箱越しでも見えている宝石配置とかなり一致していた。
「昨夜、宿舎移動の途中で隊列が乱れまして、保安上の理由から一部を別搬送にしたのです。その際、護送役が何者かの気配を感じ、追跡を避けるために一時退避したまま、回収線が切れました」
「つまり、誰かが奪おうとしていた可能性がある」
「はい。ですから本来は王都級の保管庫へ戻したかったのですが、この町の市役所へ届いているなら、それはそれで理にかなっています。人目があり、記録が残り、勝手に売り払われることがない」
それは、朝に市長が言っていた『託した置き方』の裏づけになった。
だが、勇輝は王冠の箱を指さすことなく、さらに問う。
「特徴をもう少し。こちらはまだ現物を開封していません。ですから、こちらから情報は出せません」
女性は即座に答えた。頂点の数、青石の配置、内側の刻印位置、重さの偏り、左後方の一箇所だけ細工が新しいこと。記録と一致する。ほぼ間違いない。
それでも、勇輝はすぐ『お返しします』とは言わなかった。王冠が本物であるほど、返す相手の確認は慎重でなければならないからだ。
「追加で確認します。冠礼具と一緒に運ばれていた品は?」
女性は一瞬だけ間を置き、それから答えた。
「黒剣。名は出しませんが、王家儀礼の護持品です。片方だけが外に出ることは本来ありません」
そこで、会議室の空気がもう一段だけ重くなった。王冠と魔剣は、やはり別々の偶然ではなかったのだ。
「つまり、この二つは一組ですか」
「厳密には役割が違います。ただ、同時に失われるのは最悪です」
グルムが低く唸る。
「だろうな。王冠が立場を示し、剣がそれを護るなら、どっちも『持ち主の周辺』を探して騒ぐ」
加奈が小さく息を吐いた。
「じゃあ、あの人たちが一緒に行方不明になってたら、町の中に『ほしい』と『戻りたい』が両方漏れてたってことか」
「たぶんそうだ」
勇輝はようやく全体像の輪郭をつかみ始めた。夜間に箱を置いた人物は、おそらく奪われるくらいなら中立の場所へ託すと判断したのだろう。だとすれば、今からやるべきことは、持ち主へ返すことだけではない。誰が託したのか、その人物が無事かどうかも確認しなければならない。
「夜間映像の体格、使節団の関係者と一致する人はいますか」
女性は書類箱の若者へ視線を送る。若者はすぐに名簿をめくった。
「輸送補佐役の一名と近いです。ただ、昨夜の時点で連絡が取れず、別班が捜索に出ています」
「なら、その人が市役所へ運んだ可能性が高い」
市長が静かに言う。
「件名は『落とし物』だが、実態は『保護預かり』に近いな。市としては、返還の前に預託経緯も記録しておく必要がある」
「同意です。あと、返還手続きは通常の遺失物引渡書式では足りません。儀礼物品の受領確認と、損傷なしの立会記録も必要です」
美月が半ば呆れて笑う。
「落とし物係の書式、今日だけで進化しすぎじゃないですか」
「進化というより、生き延びるための増築だな」
勇輝はそう答えながら、会議室の端に積まれた普通の遺失物台帳を見た。朝に傘や手袋を並べていた棚の仕事と、今ここで王国使節団相手に確認を取っている仕事は、本来なら同じ分類へ入らない。それでも、困ったものを持ち込まれた時に『まず預かる』という一点で、役所の仕事は地続きなのだと思う。
◆返還前の壁(本物らしい相手が現れてからの方が、むしろ慎重さが要る)
持ち主候補が本物らしいからといって、すぐ箱を開けて返すわけにはいかなかった。そこから先は、むしろ慎重さが要る。
第一に、王冠を開けた瞬間に、立場の正当性まで市が認めたように受け取られる可能性がある。第二に、魔剣の応急処置を解除しないまま組み合わせると、こちらを新しい陣営と誤認したまま反応するかもしれない。第三に、名乗り出た使節団が本物であっても、その内部で返還先の順位が決まっているとは限らない。
「つまり、返すにも手順がいるんですね」
加奈が言うと、勇輝は頷いた。
「いる。しかも今日は、返したあと『どう返したか』まで記録が必要になる。後から『市役所が勝手に特定の派閥へ渡した』と言われたら困るから」
使節団の女性も、それには異論を示さなかった。
「当然です。こちらも、あなた方に軽率な判断を求めるつもりはありません。むしろ、正式な記録のある返還の方が助かります」
話の通じる相手で本当によかった。異界とのやりとりでは、その一点だけで疲労の量が違う。
グルムは魔剣の箱を前に膝をつき、工具の先で箱の縁を静かになぞった。
「剣の方は、持ち主確認の声を聞かせてから開ける。でないと『誰でもいいから主を寄越せ』って暴れやすい。儀礼冠と一緒に失せたなら、相当気が立ってるはずだ」
そこで使節団の護衛が初めて口を開いた。寡黙そうな男で、ここまで必要最低限しか喋らなかったが、その一言は低くて真っ直ぐだった。
「声なら私が入れます。あれは本来、王家近衛の継承音へ反応します」
「ならお願いします。ただし、箱は開けるまでこちらの管理下です。合図はグルムさんの指示に従ってください」
勇輝がそう言うと、護衛は不快そうな顔一つせず頷いた。こういう場面で、相手が『王家の品だからこちらの言う通りに』と出てこないだけで、ずいぶん救われる。
返還室として使うことになったのは、庁舎奥の閲覧制限室だった。普段は公文書の一部閲覧や個人情報含む資料の確認に使われる部屋で、窓が小さく、入室記録も残る。今日ばかりはその地味さがありがたい。机の上へ白布を敷き、立会人名簿、受領記録、外観確認欄、損傷の有無、封印解除の時刻まで書き込む欄を追加した特別書式が並ぶ。
「役所の部屋って、今日みたいな日に急に強いですね」
美月が小声で言う。
「華やかさはないけど、『ここで決めたことはちゃんと残ります』って空気があるからかな」
加奈のその言い方に、勇輝は少しだけ頷いた。異界の品が求める『正式』と、役所の『記録が残る正式』は、案外相性が悪くないのかもしれない。
まず、魔剣の確認から始まった。護衛が継承音を短く発すると、箱の中の冷気が一度だけ強くなり、それからすっと引いた。グルムが合図してふたを少し持ち上げる。黒い刀身が姿を見せる。禍々しいというより、長く役目を帯びてきた道具の顔だった。怒っているようでもあり、やっと話が通じる相手に会えたようでもある。
護衛がもう一度、今度は低く名を告げた。剣は動かなかった。むしろ、刃先の震えが完全に止まる。
「よし。これで『ここは主じゃない』と分かった。次に冠だ」
王冠の箱を開ける時は、部屋全体が一段深く静まった。ふたが持ち上がると、金色の地金と青石が柔らかい光を返す。威圧というほどではないが、誰もが少しだけ姿勢を正したくなるような、妙な力があった。持ち主の女性はそれを見ても駆け寄らず、一歩だけ頭を下げる。その所作だけで、彼女が本当に『扱い方を知っている側』なのだと伝わる。
「外観一致、刻印位置一致、付属封環の痕跡一致」
柏木が記録を読み上げる。朝には青ざめていた若手職員が、今はしっかり声を出しているのが少し嬉しかった。人はたいてい、やるべき手順が見えた瞬間に少しだけ強くなる。
返還は、使節団の女性単独ではなく、護衛と書記を含む三名連署で受ける形へ整理された。これなら、誰か一人へ渡したことで後から揉める余地が減る。王国側も納得し、市の側も責任の置き方がはっきりする。
最後に、勇輝は返還書へこう一文を入れた。
『本件は市役所夜間受付への匿名預託を経た保護預かりであり、本市は当該物品について所有意思を有さず、確認後に原権利者側へ返還した』
長い。長いが、この一文があるだけで、朝から続いた面倒の半分は将来の誤解から守られる気がした。
◆夕方・遺失物保管棚前(豪華すぎる一日は終わっても、棚の役目は変わらない)
返還手続きが終わるころには、外の空気がもう少しだけ夕方に寄っていた。王冠も魔剣も、厳重な運搬箱へ収め直され、使節団と護衛、そしてグルムの立会いのもとで庁舎を出ていく。その後ろ姿を見送っていると、朝から会議室や保管室で膨らみ続けていた圧が、ようやく廊下の端から抜けていくのが分かった。
総務課の柏木は、遺失物保管棚の前に戻ってきて、しばらく何も言わなかった。最上段から異界王家の気配が消え、代わりにいつもの忘れ物たちが戻ってきている。片方だけの手袋、小銭入れ、児童館の名札、駅前で拾われたらしい折りたたみ傘。見慣れたものばかりなのに、朝より少しだけ頼もしく見えるのは、たぶん今日いちばん異様な物を預かって、それでも棚の仕事が壊れなかったからだ。
「……主任」
「ん?」
「今日のことで、遺失物の仕事を軽いとは二度と言わないでほしいです」
「最初から言ってないだろ。でも、今日は本当に思ったよ。落とし物って、持ち主の困りごとを預かる入口なんだなって。傘も王冠も、困ってる側から見たら『なくしたらまずい』で同じなんだろうし」
柏木は少しだけ笑い、すぐに真面目な顔へ戻った。
「ただ、できれば次からは王冠の方じゃない同じでお願いしたいです」
「それは全員そう思ってる」
そこへ加奈が紙袋の残りを持ってやってくる。朝より表情は柔らかい。
「総務課のみなさん、おつかれさま。甘いの追加で置いてくね。今日の分は普通の落とし物じゃないけど、普通の仕事の延長で乗り切った感じがするから、そこはちょっとすごかった」
「褒めてもらうと、今さら急に実感が来ますね……」
柏木が力なく笑う。美月も隣で伸びをした。
「広報的には、静かに済んだのがいちばんでした。『王冠が来た』で騒がせる方が簡単だったけど、今日は騒がせない方が町のためだった」
「珍しく、ほんとに珍しく、最初から最後までその判断がぶれなかったな」
勇輝が言うと、美月はわざと頬を膨らませた。
「私だっていつも町のために動いてますよ。ただ、町のためと人の見たいものが一致してるときは、ちょっと速いだけです」
「今日は一致させない方がいい日だった」
「はい。そういう日もあるって勉強しました」
その会話を聞きながら、市長が廊下の端から歩いてくる。朝の緊張はもう薄れていたが、目の奥ではまだ何かを考えている顔だ。
「総務課。今日の件を受けて、遺失物規程の追補を作ろう」
「やっぱり増えるんですね」
勇輝が半ば諦めて言うと、市長はさらりと頷く。
「増える。異界由来高危険・高象徴物の仮保管手順、匿名預託時の記録、開封制限、二重保管、外部専門家連携、返還時の立会条件。今日やったことを、次回はもう少し早くできるようにしておく」
「次回がある前提なんですか」
「ある前提で備えるのが行政だろう」
それは正しいし、だから困る。だが正しさの困り具合には、もう慣れるしかない。
市長は遺失物棚を見上げた。
「落とし物の棚というのは、町の信頼の縮図だな。小さな忘れ物にも大きな忘れ物にも、『預かる』で向き合えるかどうかが、意外と効いてくる」
「今日はだいぶ大きすぎましたけどね」
「大きすぎた。だが、壊れなかった」
短い言葉だったが、その評価はまっすぐだった。朝からずっと引きつっていた総務課の空気が、そこでようやく少しだけほぐれる。
勇輝は棚の前に立ち、上段の空いた場所を見た。朝にはそこへ王冠と魔剣が載っていた。今はただの空間だ。何も置かれていないのに、一日分の密度だけがまだ残っている気がする。
遺失物係が死ぬ日、というのは大げさでも何でもなかったのかもしれない。少なくとも今日の午前中、柏木の魂はだいぶ危うかった。けれど、誰かが困って持ち込んだものを、とにかく一度受け止めるという役目が、市役所の一番地味な棚にも確かに宿っていたことは、妙にはっきり分かった。
王冠も魔剣も、最終的には持ち主の側へ帰っていった。だから解決したと言えばその通りだ。けれど、今日の本当の収穫は、返したことそのものより、返すまでのあいだに町の側がどう壊れずに持ちこたえるかを一つ覚えたことだったのだろう。
明日また、この棚へ置かれるのは傘かもしれないし、手袋かもしれない。できればそうであってほしい。そうであってほしいが、異界に浮かぶ町の役所である以上、ときどき棚の都合を超えたものが乗ってくるのだろうとも思う。
それでもひまわり市役所は、忘れ物の大小を選べない場所として、今日もまた記録用紙と保管札を整えながら、少しだけ賢くなった遺失物棚の前で次の朝を待つのだった。




