第42話「苦情センター爆発! ドラゴンのいびきは騒音か」
◆夜・喫茶ひまわり(閉店後の静けさは、時々いちばん先に裏切られる)
夜というのは、本来、町にとって休息の時間だ。昼のあいだ表へ出ていた音が一つずつ引っ込み、看板の灯りも、通りを流れる人の気配も、少しずつ丸くなっていく。ひまわり市だって転移する前はそうだったし、異界へ来てからも、その感覚そのものが消えたわけではない。ただ、異界へ来てからの夜は、人間が勝手に信じていた“静かな時間”という前提を、ときどきあっさり踏み外してくる。
その晩の裏切りは、耳より先に床へ来た。
閉店後の喫茶ひまわりでは、加奈が最後のカップを拭き終え、勇輝がカウンターの端で明日の配布資料に目を通していた。客は帰り、入口の札は裏返され、窓の外の温泉通りにも、昼間ほどのにぎわいはもうない。こういう時間帯の店には、コーヒーの残り香と木のカウンターの乾いた匂いが静かに沈んでいて、それだけで一日の終わりに少し肩を下ろせる。
その静けさの底を、どこからか鈍い波が押した。
カタ、とスプーンがソーサーの縁を打つ。吊り下げていた小さな照明飾りが、ごくわずかに揺れた。地震なら地震で、もう少し全体がふっと緩むような揺れ方をする。今のは、地面の下からではなく、もっと近いところから、一定の間隔で押されている感じだった。
「今の、工事じゃないよね」
加奈が布巾を持ったまま手を止める。返事をする前に、もう一度それは来た。今度ははっきり分かる。低い。重い。けれど、ただ大きいだけではなく、呼吸みたいに周期がある。
「ゴォォォォ……」
空気が震えた。店のガラス戸の端が細かく鳴る。
勇輝は資料から目を上げ、数秒、音の間隔を数えた。嫌な予感の輪郭が、頭の中で一気に固まる。
「地震じゃないな。一定すぎるし、止まり方が人工的でもない」
「人工的じゃないのに安心できないの、最悪なんだけど」
加奈が窓際へ寄り、カーテンの隙間から外をのぞいた。そこで一度、息を止める。
「……いた方だね」
「いた方って言い方で済むならまだ助かる。何がいる」
「大きい方。しかも、起きてない」
勇輝も立ち上がって窓へ向かった。温泉通りを挟んだ向こう側、観光案内所の前の広場に、街灯の光を厚く切る影が横たわっている。背中へ折りたたまれた翼。石畳へ伏せた頭。胸の上下に合わせて、鼻先のあたりから低音が漏れ、そのたびに広場の縁からこちらへ細かい振動が伝わってきていた。
「……ドラゴンか」
「うん。寝てる。すごく気持ちよさそうに」
その感想自体は間違っていないのに、聞いた側の気持ちはひどく複雑になる。巨大な異界客が町の真ん中で熟睡し、そのいびきで夜の住宅地が揺れている。原因だけ言えば妙に単純だが、対処はまったく単純ではない。
店の電話が鳴った。間を置かず、勇輝のスマホも振動し、加奈の端末にも通知が走る。
「……来たね」
加奈が言い、勇輝は受話器を取る。
「はい、喫茶ひまわりです。あ、違います、今は勇輝です。どうしました」
『どうしましたじゃないですよ。揺れてるんです。寝室の窓が鳴ってるし、孫が起きたし、これ災害なら災害って言ってくれないと困るんですけど』
町内会長の声だった。怒鳴りつける寸前というより、眠りを邪魔された人特有の、余裕だけがきれいに削れた声である。
「原因は把握しました。ええ、その……ドラゴンです」
『ドラゴンならドラゴンで、寝ていい場所と悪い場所があるでしょう! なんで観光案内所の前で寝てるんですか!』
「それは今から確認します。市役所へ向かいますので、少し待ってください。まずは窓を閉めて、外には出ないでください。近くで見に行くのが一番危ないです」
『分かりましたよ、でも早くしてくださいよ。こっちは明日も仕事なんですから』
それはもっともだった。受話器を置く前に、また別の着信が入る。温泉旅館の女将、次いで子どものいる家庭、さらに宿泊客から案内所経由の問い合わせ。今夜の苦情は一件ずつ来る感じではない。窓口へ一気に押し寄せる夜だ。
「市役所行く」
勇輝が短く言うと、加奈はもうエプロンの紐を外していた。
「うん。私も行く。店の前みたいな場所で起きてることだし、住民側に立って話せる人がいた方が早い」
「助かる。たぶん今夜は、『何課ですか』って言ってる間に件数が増える」
「生活環境でしょ、って言いたいけど、それだけでもないんだよね。観光案内所の前で、観光タグのついたドラゴンが寝てるんだもん」
「そこなんだよな……」
役所案件にありがちな面倒さは、問題が一つの課へきれいに収まらないところにある。安全、生活環境、観光、広報、夜間窓口。しかも、相手はドラゴンだ。法律の条文へそのまま入ってくれる相手ではない。
二人は店を閉めきり、夜気の中へ飛び出した。外に出ると、低い寝息は建物越しでも輪郭を失わない。むしろ通り全体が、その重低音の中へ薄く浸っているようだった。
◆夜間対応窓口前(役所は閉庁していても、案件の方は閉まってくれない)
市役所の正面玄関には、夜にしては不自然なくらい明かりがついていた。日中の庁舎が持つ均一な明るさではなく、必要な場所だけを無理に起こしたような応急の光である。眠りかけた建物を、電話の音で急に立たせた気配があった。
玄関前には、美月が立っている。ジャージの上にカーディガンを羽織り、髪はざっくり束ねただけ。片手にスマホ、片手にタブレットといういかにも呼び出された職員の姿なのに、声だけは寝起きとは思えないほど前へ出ていた。
「主任、来ましたね。苦情、今ので三十一件です。最初は『地震ですか』『避難した方がいいですか』だったんですけど、原因が分かってからは『眠れない』『窓が鳴る』『旅館の客が不安がってる』に寄ってます。あと、動画が回ってます」
「寝てたのに、よくそこまで整理したな」
「寝てましたよ。でも市民が眠れてない時に私だけ平和なの、あとで心がちょっと負けるので」
「その倫理感はありがたいけど、倒れない範囲にしてくれ」
美月はタブレット画面を差し出した。SNSには、観光案内所前で丸くなって寝るドラゴンの映像がいくつも上がっている。角度によってはかわいく見えるのがまた厄介で、コメント欄は生活被害と面白がりがきれいに混ざっていた。
「『ドラゴンいびき配信してほしい』『家が揺れてるのにかわいいで済ませるな』『温泉街でこれは怖い』『市役所、今こそ動け』あたりが多いです。旅館の予約サイト側まで流れる前に、公式の言葉を出した方がいいと思います」
加奈が横からのぞき込み、眉をひそめる。
「泊まり客が怖がるの、きついね。住民はまだ町の事情が分かるけど、外から来た人は『なんか知らない巨大生物が寝て町が揺れてる』って情報しかないもん」
「そうなんです。だから『面白い現象です』みたいに取られると困る。現場は全然そんな温度じゃないので」
そのとき、庁舎の奥から足音が近づいてきた。市長だ。コートの前を留め、片手にはなぜかメガホン、もう片手には手帳。夜中に似合わないほど目が覚めているのは、困りごとが起きた時にだけ妙に血色が良くなるタイプの行政人間だからだろう。
「状況は把握した。さて、主任。整理しよう。ドラゴンのいびきは騒音か。生活妨害か。観光客対応の失敗か」
いきなり核心から来る。しかも、どれも少しずつ当たっているからやっかいだった。
「全部が少しずつです。ただ、現場対応として最初に立てるなら『夜間の不適切な滞在による住環境への支障』です。騒音だけで処理すると、相手が生き物であることと、安全対応が抜けます」
「いい。では、先に誰を起こす」
「ドラゴンじゃなくて同行者です。団体客なら案内係がいるはずですし、起こし方を知らないまま本体へ刺激を入れるのが一番危ない」
市長は一度だけうなずいた。後ろの夜間窓口では、職員が受話器を押さえながら「はい、市が対応中です」「外へ見に行かず屋内でお待ちください」と繰り返している。電話の向こうにいる人たちの苛立ちや不安まで見えるわけではないのに、その声色だけで庁舎の空気がせわしなくなる。
「騒音計は」
「生活環境課から回してもらってます。ただ、デシベルだけではたぶん足りません。低音と振動が苦情の中心なので、窓や床の共振も拾わないと説明が薄いです」
「法の文言にきれいに入らない案件ほど、現場の説明力が必要になるな」
「まさに今、その説明力が試されてます」
美月が即答した。眠いはずなのに、こういう時だけ言葉が妙に冴える。
勇輝は頭の中で優先順位を並べる。安全確保。同行者確認。起床方法の検討。移動先の確保。住民と宿泊客への説明。ここまでが今夜だ。明日の朝には、その夜をどう言葉にして残すかが続く。
「現場へ行きます。窓口は返答を統一してください。『市が対応中』『近づかない』『窓を閉めて屋内で待機』『大きな刺激を入れないのは安全確保のため』、この四つです」
「分かりました。発信文、私が切ります」
美月が指を動かしながら応じる。加奈もすぐに続いた。
「私は住民側に入る。怒ってる人に『今なにしてるか』が伝わる人、絶対いるから」
「頼む。眠れない夜の苦情って、理屈より先に気持ちが来るから」
四人は温泉通りへ向かった。歩くあいだも低い寝息は切れない。夜の町が、一頭の熟睡に押し広げられているようだった。
◆温泉通り・観光案内所前(眠れない人が集まると、現場はそれだけで熱を持つ)
広場へ近づくほど、ざわめきの質が変わっていった。笑い話としての賑わいではなく、眠れない人が同じ場所に集まった時の、少し乾いた熱である。パジャマの上にコートだけ羽織った住民、旅館の浴衣姿の客、泣きかけの子を抱えた保護者、スマホを握った若い観光客。誰もが大声ではないのに、ひとりひとりの不機嫌が薄く重なって、広場全体に焦りの膜が張っていた。
その中心で、ドラゴンはまったく気にした様子もなく寝ている。街灯を鈍く返す藍色の鱗、体へぴったり畳まれた翼、前脚の上へ預けた頭。胸が上下するたび、鼻先から深い呼気が漏れる。
「ゴォォォォ……」
音量だけなら祭りの楽器の方が大きい時もある。だが、これは祭りの音ではない。耳で聞くというより、建物や床を介して体の内側へ入ってくる。窓のサッシが鳴る、小皿が振れる、寝具の中で胸だけが細かく揺れる。そういう種類の不快さは、夜ほど人の神経にささる。
町内会長が勇輝を見つけて歩み寄ってきた。
「主任、頼みますよ。本当に。子どもが起きた家もあるし、旅館も困ってる。ドラゴンなら仕方ないって話にはしないでくれ」
「しません。今夜中に場所を移します。ただ、急に大きな音で起こすのは危ないので、順番にやります」
「順番はいい。でも、ちゃんと終わるんだろうね」
「終わらせるために来ています」
そこで言い切ると、会長はそれ以上責める言葉を飲み込んだ。住民は、現場で曖昧な言葉を聞かされるのがいちばん不安になる。断言には責任が伴うが、今夜はそれを避けて通れない。
加奈はすぐに住民側へ入り、子ども連れや宿泊客へ穏やかに声をかけていく。
「ここから先は見なくて大丈夫です。尻尾が動くと危ないから、角を曲がったところまで下がりましょう。何かあったら、私たちが声をかけます」
それだけで、人の流れが少しずつ外側へ移る。命令口調ではないのに動いてもらえるのは、加奈の声が日常の安心に近い場所から出ているからだろう。美月は固定文を公開し、旅館組合や商店街にも同じ文面を流していた。
勇輝はドラゴンの首元に掛けられたタグへ目を留めた。竜族観光組合の紋章、団体識別番号、そして案内係の連絡標。個人の自由飛来ではない。正式な受け入れ客だ。そのわりに、なぜ観光案内所の前で眠っているのか。
「あれ見て」
加奈が小さく顎をしゃくった先に、ドラゴンの鼻先から少し外れた場所へ、小さなテントが張られていた。丈夫そうな布製で、いかにも旅用だ。問題は、そのテント自体がドラゴンの寝息に合わせて小刻みに揺れていることで、さらに中から人型の、しかもかなり無防備ないびきが聞こえてくることだった。
「案内係も寝てる」
「きれいに最悪だな……」
美月が言い、市長はメガホンを持ち上げかけて止めた。
「まずはテントだ。起こし方が分からないまま本体へ刺激を入れるのはやめる」
「はい。そこだけは本当にやめたいです」
勇輝はドラゴンの頭部から十分距離をとりつつ、テントの前へ回った。石畳の継ぎ目が、寝息に合わせてほんのわずかに震える。これを寝室の床越しに受けている人たちがいるのだと思うと、苦情が多いのも当然だった。
「すみません。ひまわり市役所です。案内係の方、起きられますか」
返事はない。代わりに、ドラゴンの喉が一度だけ深く鳴った。勇輝はテントを軽く叩いた。中で布の擦れる音がし、しばらくしてから寝ぼけた声が漏れる。
「……まだ夜明け前……あと少し……」
「夜明け前だから起きてください。団体客のドラゴンが広場の真ん中で熟睡していて、町が揺れてます」
その説明で、ようやくテントの中が本気で動いた。布を押し上げて出てきたのは、若い竜族の案内係だった。細身で、小さめの角を持ち、通訳章が肩口で半分ねじれている。寝起きの顔のまま広場の中央を見て、数秒だけ絶望の色を浮かべた。
「……ああ。やってしまいましたか」
諦めが早い。つまり、前例がある言い方だった。
「やってしまいました、で済む規模じゃないです。住民の苦情が来ていますし、旅館の客も不安がっています」
「申し訳ありません。空路が遅れ、予定していた滞在地へ入れず、一時的に休ませるつもりだったのですが……この個体、冷えた夜気の中だと眠りが深くなりやすくて。見張るつもりが、わたしも少しだけ目を閉じてしまい、その……」
「少しだけ、にしてはしっかり寝てましたね」
加奈がやわらかく言うと、案内係は本当に申し訳なさそうに肩をすくめた。
事情は分かった。だが、分かったところで広場の振動が止まるわけではない。
「起こし方を教えてください」
勇輝が本題へ戻すと、案内係はすぐに首を振った。
「大きな音は避けてください。熟睡中の大型竜は、驚くと反射的に翼を広げたり、立ち上がる前に尾を振ることがあります。ここでそれをやられると危険です」
勇輝は背後の市長を見た。メガホンを持ったままの市長は、咳払いだけして視線を逸らした。
「では、何なら安全ですか。声かけか、匂いか、温度か」
「順番があります。まず体を朝に近づけること。冷えた深睡からゆっくり浮かせて、それから案内役の合図を入れる。理想は温かな蒸気です」
その答えに、勇輝と加奈はほぼ同時に目を上げた。温泉通りで蒸気なら、探すまでもない。むしろ、この町の夜にいちばん自然に用意できるものだ。
◆夜間苦情本部(法と生活のあいだにある案件ほど、現場は説明の順番を間違えられない)
広場の端へ戻ると、夜間窓口担当から追加連絡が入っていた。苦情は四十件を超え、旅館からの問い合わせも増えている。生活環境課から騒音計と簡易振動計が届き、数値取りが始まっていた。
美月が画面を見せる。
「数値、面白くない方向で出てます。デシベルだけなら条例の機械騒音みたいに一発で線引きできる感じじゃないんですけど、低周波の方が明確に高い。あと、窓ガラスの共振が起きてるので、体感被害の説明には十分です」
「つまり、『基準値に入ってるから大丈夫です』みたいな逃げ方はできないってことか」
「できません。というか、やったら住民感情が余計にこじれます」
その通りだった。騒音の相談というのは、数値で片づくように見えて、実際は生活感覚の方がずっと強い。まして相手がドラゴンで、しかも観光客となれば、単純に『違反です』『違反ではありません』の二択で終えられる話ではない。
市長がメモを見ながら言う。
「今夜の位置づけはこうだ。まずは緊急の生活環境対応。次に、夜間の滞在場所の不備に対する観光受け入れの見直し。法的な騒音認定は、明日以降の整理に回す。今ここで条文の言い争いを始めると、住民の睡眠がさらに飛ぶ」
「賛成です。今夜必要なのは理屈の勝敗じゃなくて、静かになる順番なので」
加奈も腕を組んだまま頷いた。
「怒ってる人に『法的には』って言い始めると、たいてい余計に眠れなくなるからね」
その表現に、夜間窓口の職員が思わず笑いかけてすぐ真顔へ戻った。笑っている場合ではないが、言葉としては本当にそのとおりだった。
勇輝は夜間対応の簡易ホワイトボードへ、やることを書き出した。
一、住民と宿泊客を広場から下げる
二、温泉蒸気の確保
三、案内係による安全起床
四、移動先の確保
五、移動完了までの情報発信
六、翌朝の説明文準備
箇条書きにすると冷たいが、現場は冷静でなければ回らない。特に六番目を今のうちから入れておくのが大事だった。夜の対応は、朝にどう説明できるかまで含めて評価される。終わらせ方が乱暴だと、その乱暴さが朝まで残る。
そこへ、温泉組合の若い担当者が駆けつけてきた。寝巻の上へ作業着だけ羽織ったような格好なのに、顔つきはもう仕事の人間だ。
「蒸気、引けます。源泉管理棟から仮ホースを伸ばせば、広場まで届きます。ただ、そのままだと熱いので、先で布に散らします。ぬるくやわらかい霧にすれば、鼻先へ流しても危なくないはずです」
「お願いします。温度管理はこちらの指示に従ってください。火傷は絶対避けたい」
案内係も自分の荷物から細い銀色の笛を取り出した。
「起床笛です。本来は朝の熱風とセットで使います。蒸気で眠りを浅くしてから、これを一度だけ入れます。そのあと、人の言葉でもいいので、移動の意図を静かに伝えてください。『危ないから起きろ』より、『寝場所を移す』の方が通ります」
「人間も一緒だな」
加奈がぽつりと言うと、案内係は緊張した顔のまま小さく笑った。
「大型竜ほど、寝起きに説教されるのを嫌います」
「そこまで一緒なのか……」
市長はメガホンを仕舞った。完全に諦めたわけではないだろうが、今夜の正解が別の場所にあることはもう理解しているらしい。
◆起床作戦(驚かせずに起こすために、町の側がやり方を変える)
準備が進むあいだにも、広場の外では不安と見物がせめぎあっていた。旅館の窓辺へ出てこようとする客を女将が止め、住民は「どうなってるの」と聞きながらも足だけは半歩ずつ引いていく。加奈はそこへ入り込み、今なにをしているかを短い言葉で伝えて歩いた。
「今、大きな音を出さないで起こす準備をしてます。急に驚かせると危ないからです。ここで待たなくても、終わったらちゃんと知らせます」
言葉の選び方がよかった。『危ないから下がって』だけだと、人は何が危ないのかを見たくなる。けれど『安全に終わらせるために今は待たない方がいい』と説明されると、少し納得して引ける。
温泉蒸気の仮ホースが敷かれ、先端に布筒が取りつけられた。担当者が何度も温度を確かめる。熱い蒸気ではなく、朝靄みたいなやわらかい温気へ変えるのが今回の要だ。案内係は笛を握り、呼吸を整えている。
勇輝は広場の端から住民を見回した。怒っている人もいる。眠そうな顔をした子どももいる。旅館の客は半信半疑のままこちらを見ている。ここで失敗すれば、今夜の疲れはそのまま町への不信へ変わる。
「始めます」
小さな合図で、蒸気が流れた。
布筒の先から、白い霧がふわりと夜気へ溶け出す。熱湯の鋭さではない。冬の朝、湯気の立つ川辺に頬を寄せた時みたいな、少し湿ったあたたかさだ。それがゆっくり、ドラゴンの鼻先へ届く。
「ゴォォォォ……」
いびきはすぐには止まらない。だが、一つ前の呼気と次の呼気のあいだが、わずかに変わった。深く沈んでいた眠りが、ほんの少しだけ浅くなる。案内係が笛へ口を当てる。鳴った音は高くなかった。細く低く、夜明け前の谷へ最初に入る風みたいな一筋の響きだった。
ドラゴンの喉が一度だけ鳴る。前脚の先が少し動く。翼の付け根の筋肉が、寝返りの手前みたいに震えた。沿道の空気が一斉に固まりかけるが、加奈の「大丈夫、まだ前には来ないで」がその硬さを少しだけほどく。
もう一度、蒸気。もう一度、笛。
ドラゴンの瞼がゆっくりと持ち上がった。街灯を映した瞳は金に近い琥珀色で、寝起き特有の鈍い光を宿している。大きい。大きいが、怒りではなく、まず困惑が先に立っている顔だった。
頭が少し上がる。地面がどん、と一度だけ揺れる。広場の外で誰かが息を呑む音がした。
案内係が竜語でゆっくり話しかける。叱責ではない、なだらかな呼びかけだ。ドラゴンは周囲を見回し、観光案内所の灯り、集まった人影、夜の町の石畳を順番に見て、ようやく自分が寝てはいけない場所で熟睡していたことを理解したらしかった。
「クゥゥ……」
低い、小さな声だった。言葉が分からなくても、気まずいときの音だと伝わる種類の鳴き方である。
案内係が目で合図する。今なら通じる、という意味だ。
勇輝は一歩だけ前へ出た。近づきすぎず、逃げ道を塞がない距離で、行政人間として、しかし文書よりは少し人間寄りの言葉を選ぶ。
「ひまわり市へ来てくれていること自体は歓迎しています。ただ、ここは夜に休む場所としては合っていません。周りに住んでいる人や泊まっている人がいて、窓や床が揺れて困っています。今から、もっと広くて人家の少ない場所へ案内します。移動に協力してもらえますか」
ドラゴンはじっと勇輝を見た。人間語をどこまで理解しているかは分からない。だが、案内係が横から短く竜語を添えると、巨大な首がゆっくり上下した。うなずいたと受け取ってよさそうな動きだった。
その瞬間、沿道の張りつめた空気がほんの少しやわらいだ。怒りが消えたわけではない。けれど『通じる相手らしい』と分かっただけで、人は少しだけ理性へ戻れる。
◆移動誘導(問題が静かになるまでが、今夜の仕事)
起こすだけでは終わらない。どこへ動かすかを決めるまで、苦情は止まらないし、夜も戻ってこない。
候補へ上がったのは河川敷、公園、学校の校庭、工業団地裏の広場。河川敷は夜露で地面が緩く、公園は遊具と街路樹が近すぎる。学校は論外だった。結局、いちばん条件がよかったのは工業団地裏の広場だった。夜間は人の出入りが少なく、地面も締まっていて、人家からも離れている。普段は大型資材の仮置き場だが、今夜に限っては理想に近い。
「そこまで歩かせます。飛行はなし」
案内係が断言した。
「寝起きに飛ばせると、風圧だけで看板と暖簾が危険です。歩行なら時間はかかりますが、制御できます」
「住民の動線を切ります。見物を増やさない方が先です」
勇輝が言うと、美月はすぐに情報を切り替えた。
「『現在、安全誘導中です。沿道での立ち止まりや撮影のための接近は控えてください』で流します。禁止より、協力依頼の方が今は通るはずです」
「旅館にも同じで。窓際に客を集めないようお願いしてください」
「もう送ってます」
準備が整うと、案内係が先頭に立ち、蒸気ホースを持った温泉組合の担当者が前方へやわらかい湯気を流しながら歩き始めた。ドラゴンは鼻先でそれを追うように、頭を少し低くしてついてくる。足が石畳へ降りるたびに重い響きはあるが、いびきのような終わりのない圧ではない。進んでいる音は、人をいくらか安心させる。
通りの端では、旅館の浴衣姿の客が拍手しかけて、女将にすぐ袖を引かれていた。祝う空気が混ざると見物が増える。いま必要なのは静かに終わることだけだ。
加奈が横で小さく息を吐く。
「起きてくれてよかった」
「本当にな。驚いて翼でも広げられてたら、今ごろ別の意味で町が起きてた」
「眠ってる相手に、こっちの焦りをそのままぶつけなくてよかったってことだね」
「そうだな。寝起きに怒鳴って解決する相手なんて、たぶん人間でも少ない」
工業団地裏の広場へ着くころには、夜の冷え込みがさらに深くなっていた。ドラゴンは案内係の指示で中央まで進み、ゆっくりと体を丸める。今度は下が土で、周囲も開けている。多少いびきが出たところで、人の眠りを直接揺らす場所ではない。
案内係はようやく本気で安堵した顔を見せた。
「ここなら大丈夫です。今夜はわたしが起きています」
「起きていてください。できれば座らず、立って」
勇輝が言うと、案内係は心底反省した顔でうなずいた。
「おっしゃるとおりです。観光案内所前の石畳、昼間に日差しを溜めて温かかったので、落ち着ける場所だと勘違いさせてしまったのかもしれません。しかも温泉の匂いが近い。大型竜にとっては、休みたくなる条件が揃いすぎていました」
その指摘に、勇輝は少し驚いた。たしかに、観光案内所前の広場は夜になっても石の保温が残り、近くの湯けむりも流れてくる。人間にとってはただの通りでも、ドラゴンにとっては『眠りやすい地形』だったのかもしれない。
「つまり、ドラゴンだけの問題じゃなくて、町の側がそういう場所を無意識に用意してたってことか」
市長が静かに言う。責任を片方へ押しつけない言い方だった。
「今後の受け入れルール、見直しましょう。夜間待機場所を先に指定して、街中で休ませない形へ」
案内係は深く頭を下げた。
「お願いします。こちらの案内体制も改めます」
ようやく、夜の中心だった問題が、朝へ向かってほどけ始めた気がした。
◆翌朝・生活環境課(苦情の件数だけでは、夜の評価は決まらない)
翌朝の市役所には、眠りそこねた町のだるさが薄く漂っていた。生活環境課の机には夜間窓口のメモが積まれ、旅館組合からの問い合わせ記録、住民からの通話要約、現場測定の数値が並んでいる。美月は朝一番のコーヒーを両手で持ちながら、それでも端末のスクロールだけは止めていなかった。
「昨夜の苦情、最終で六十三件です。内訳は睡眠妨害、窓の振動、不安感、旅館での対応相談。途中から『今どうなってるか』が増えて、移動開始後は『見に行っていいか』も増えました」
「最後の項目がいちばん現代的で困るな……」
「でも、今朝は感謝も来てます。旅館から『説明が早くて助かった』、住民から『大声で起こさなかったのがよかった』、あと子どものいる家から『怖がらせずに済んだ』って」
手のひら返し、と言うほど簡単ではない。眠れなかった事実は残るし、腹が立った人も当然いる。けれど、終わらせ方が乱暴でなかったことに対する安堵は、確かに別の形で返ってきていた。
加奈も顔を出し、窓際で笑う。
「旅館の人たち、朝の説明がしやすかったって。『夜中に大声で追い払った』じゃなくて、『安全に起こして移動させた』って言えるだけで、客の受け取り方が全然違うみたい」
「夜の対応って、朝にどう説明できるかまで含めて評価されるんだよな」
「うん。眠れなかったことは変わらないけど、乱暴だったかどうかは、朝になってから効いてくる」
そこへ市長がやってきた。机へ置いたメモの量が多い。もう次の整理へ頭が進んでいる顔である。
「さて、昨夜で終わりにはできない。大型飛翔客の夜間滞在指針を作ろう。観光受け入れ、住環境配慮、安全管理、緊急連絡先の四本柱だ」
「増えますね、またガイドラインが」
「増える。だが、今回は増やすだけの理由がある」
市長はそこで、冗談ではなく真面目な口調を続けた。
「昨夜の件は、ドラゴンが悪い、住民が神経質、案内係が失敗した、そのどれか一つへ押し込むと必ず歪む。大型の異界客を受け入れる町として、眠る場所と、眠らせない場所と、深夜の案内方法が曖昧だった。その曖昧さが観光案内所前に全部乗った」
その整理はまっすぐで、勇輝もすぐ頷いた。
「はい。あと、夜間窓口の返答も整えます。昨夜みたいに災害と生活苦情のあいだへ落ちる案件は、最初の返し方が重要です。『ドラゴンです』だけだと、事実としては正しくても安心にはならない」
「だから順番だね。原因、危険の有無、市の対応、住民へお願いしたい行動。この四つで返す」
美月がすぐにメモを切る。仕事が早い。
加奈も口を挟んだ。
「あと、『誰かが悪いから起きた』って空気にしない方がいいよ。今回のは普通に泊まり客を受け入れた結果として起きたことでしょ。誰か一人の分別が悪かった、みたいな話じゃない」
その一言で、勇輝は前夜の違和感が少し整理された。そうだ。住民トラブルの多くは、原因そのものより、責任の押しつけ先を探し始めた時にこじれる。今回も、ドラゴン個体への感情だけで処理したら、同じことが別の形で繰り返される。
「じゃあ指針の軸は、『大型飛翔客の夜間休止場所は事前指定』『案内係の夜間見守り必須』『街中での自発休止を見つけた場合は驚かせず、市へ連絡』ですね」
「それで行こう。あと、観光案内所前の石畳も見直す。夜間の保温が強くて、湯けむりが流れるなら、竜族にとって休みたくなる条件が揃ってる。案内所の前が寝床候補に見える設計はまずい」
「まさか石畳の余熱まで観光行政に入ってくるとは思いませんでしたよ」
勇輝がそう言うと、市長は少しだけ笑った。
「異界の町は、風景がそのまま運用条件になるからな」
その言い方に、課内の空気が少しだけ和らいだ。昨夜の疲れは残っている。けれど、ただ振り回された夜として終わるのではなく、町の側が『何を見落としていたか』まで言葉にできた時点で、案件はようやく次へ進める。
◆昼前・喫茶ひまわり(眠れなかった夜は、町のやり方を一つ増やして終わる)
昼前、勇輝は喫茶ひまわりへ戻った。温泉通りは、昨夜の低音が嘘みたいにいつもの昼へ戻りつつある。湯けむりが流れ、土産物屋の前には控えめな呼び込みの声があり、旅館から出てきた宿泊客が「あれ、本当にドラゴンだったんですね」と半分笑い話にしながら写真を見せ合っている。町は昨夜を忘れたわけではない。けれど、ちゃんと昼の流れの中へ置き直し始めていた。
カウンターへ腰を下ろすと、加奈が湯気の立つカップを差し出してくる。
「おつかれさま。今日はちゃんと飲む用のコーヒー」
「助かる。夜に眠れないと、朝の一杯のありがたみが変わるな」
「昨日は蒸気で起こしたから、喫茶の豆は出番なかったけどね」
「そこ、ちゃんと区別するんだな」
「大事だよ。うちの名誉に関わる」
加奈は笑い、勇輝もようやく肩の奥の緊張が抜けていくのを感じた。
「でも、よかった。怒鳴って終わる夜じゃなくて」
「うん。眠れなかった人には申し訳なかったけど、それでも最後まで乱暴じゃなかったのは大きいと思う。『町が動いた』って感じてもらえる終わり方だった」
「町が動いた、か」
その言い方はしっくりきた。昨夜は誰か一人のひらめきで終わったのではない。夜間窓口、現場の誘導、温泉組合、旅館、案内係、広報。皆がそれぞれの位置で少しずつ噛み合って、ようやく一頭の熟睡を町の外れへ移せたのだ。
「異界に来てから、こういうの増えたよね」
加奈がカウンターを拭きながら言う。
「増えた。でも、増えたぶんだけ返し方も増えてる気がする。困りごとそのものは選べないけど、返し方は積み上がるだろ。昨日の夜も、最初は『どうしようもない』に見えたのに、最後は『次はこうしよう』に変わった」
「それができるなら、まだ大丈夫だね。この町」
外では、昼の観光客が観光案内所の前を普通に通り過ぎていく。昨夜ドラゴンが伏せていた石畳の上には、もう人の足音しかない。窓を鳴らした低音の名残はどこにも見えないのに、その場所だけは少しだけ、夜の出来事を覚えている顔をしているようだった。
勇輝はカップを持ち上げ、一口飲む。熱い。苦い。ちゃんと目が覚める味だ。
ドラゴンのいびきは、昨夜たしかに騒音だった。けれど同時に、それをどう扱うかで、この町が異界の客とどう暮らしていくのかも試されていたのだと思う。怒鳴って追い払うのか、怖がって放置するのか、事情を知ってやり方を整えるのか。その違いは、たぶん次の夜にそのまま返ってくる。
ひまわり市の夜は、これからも時々、こちらの想定を平気で追い越してくるのだろう。虫の声と遠い車の音だけで終わるとは限らないし、眠りたい人の枕元へ、異界の事情が勝手に入り込んでくることだってある。それでも、そのたびに町の側が少しずつ手順を増やし、言葉を整え、相手の性質まで含めて受け止め方を覚えていけるなら、騒ぎはただの消耗だけでは終わらない。
そうしてひまわり市は、眠れなかった夜のぶんだけ少しだけ賢くなった日常を抱えながら、今日もまた何ごともなかったような顔で昼の通りを回していくのだった。




