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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第36話「幻影列車と消えた温泉郷」

~“癒し”を求めて、異界の夜汽車が走る~


◆朝・ひまわり温泉駅


 夜明けは、いきなり明るくならない。空の端がほんの少しほどけて、薄い青が滲んで、最後に朝日が「もう起きていいよ」と背中を押す。ひまわり温泉駅の朝は、そんな順番で始まる――はずだった。

 今日は、順番が一つ増えている。湯けむりだ。温泉街から流れてくる白い水蒸気が線路の上をゆっくり漂い、ホームの足元をやわらかく隠していく。人の声も、車の音も、霧の奥に一度置いてくるみたいに薄くなる。


 静まり返ったホームの端に、一両編成の列車がぽつりと停まっていた。

 車体の色は、現代の電車のつややかさではない。古い木箱を磨き続けたような落ち着いた艶で、窓枠の金具は小さく傷を抱えている。そのくせ、汚れてはいない。誰かが長い時間をかけて大事にしてきた、と言いたくなる手入れが入っている。

 側面の金文字が、湯けむり越しに少し揺れて見えた。


『異界観光PRツアー号』


 勇輝はメガホンを手に持ったまま、しばらくその文字を見ていた。役所の仕事で「旅立ちの朝」を演出する機会はそう多くない。演出なんて言うと照れるけど、出発式の空気は、参加者の不安と期待の割合を決める。だから、声の出し方を一度整えてから、ゆっくり深呼吸した。


「……おはようございます。寒い中、お集まりいただきありがとうございます。これより、異界観光PRツアーの出発式を始めます。今日の目的地は“幻影温泉郷”。行程は日帰りで、帰着後は駅前で簡単な報告の場を設けます。安全のため、途中、霧の帯を通過する可能性がありますので、車内放送とスタッフの指示に従ってください」


 メガホン越しの声は、思ったより落ち着いて響いた。集まった人々は、地上の観光客だけじゃない。異界側の来賓も混ざっている。エルフの旅商が紙の地図を広げ、獣人の親子が手袋の上から手を繋ぎ、スライムがぷるんと身体を震わせながら帽子を被っている。見慣れた風景になりかけて、まだ慣れきらない――その「間」が、ひまわり市の今だ。


 列車の先頭に、二つの影が並んで立っている。

 湯けむりみたいに丸いフォルムの『まんまるん』は、朝の光を受けて、いつもより少しだけふわっと見える。胸の「湯」の字が堂々としているのは相変わらずだ。

 隣には、黒いマントを風もないのに揺らしている『マオーン様』。闇の存在感は消えないが、ここ数日で「怖い」だけじゃない空気を出すようになった。駅で子どもに手を振る練習をしていたのを、美月がこっそり見てしまったらしい。本人に言うと、たぶん照れて黙る。


 加奈が司会として一歩前に出る。紙の台本を握りしめる手はきちんと落ち着いている。けれど声の端には、ほんの少しだけ胸の高鳴りが混じっていた。旅に行くから、じゃない。行政が主催する「旅」に、ちゃんと意味を持たせたいからだ。


「本日の目的地は――記録に残る“幻影温泉郷”です。百年前、霧とともに姿を消した温泉地。今も、一定の条件が揃った時だけ、幻影列車がそこへ辿り着くとされています。今回はPRツアーとして、実際に行けた場合は、現地の景観や入浴環境を確認し、今後の交流や観光ルートの可能性を検討します。写真撮影については、現地の様子と、同行者の許可を優先でお願いします」


 加奈の説明は丁寧だった。観光向けの言葉と、役所向けの言葉の間をきちんと歩いている。勇輝は内心で頷く。こういう説明ができる人がいるから、町は回る。


 その時、ホームの上を冷たい風が撫でた。霧が少しだけ動き、どこか遠くの音がかすかに響いた。汽笛のようでもあり、呼び声のようでもある。聞き取れないのに、背筋だけが先に反応する。

 マオーン様の瞳が、ほんのわずかに細くなった。


「……幻影温泉郷。我の世界では、“記憶を休める場所”と語られておる。列車でのみ辿り着き、帰るときには――持ち帰れるものが限られる」


 低い声だが、威圧ではない。懐かしさが混じっている。加奈が少しだけ目を丸くし、勇輝は横から補足を入れた。


「今日は“持ち帰れない”ことが起きても、慌てないでください。忘れ物が出たら困るので、出発前に全員、名札と連絡札を配ります。これは役所の癖じゃなくて、事故防止です。あと、車内で気分が悪くなったらすぐ言ってください。遠慮は要りません」


 美月が後ろで頷き、スタッフの腕章を見せる。彼女は広報担当だけど、今日は広報より先に「同行者」だ。撮るより守る。撮るのは、その次。


 まんまるんが、小さなボードを掲げた。


『がんばる。ぬくもり、とどける。きょうは、いっしょに。』


 文字の端が、湯けむりみたいにふわっと揺れて見える。誰かが「かわいい」と小声で漏らし、周囲が笑う。その笑いが、緊張を少しだけ溶かした。


 出発の合図として、汽笛が鳴った。

 古い音なのに、嫌な響きがない。懐かしさに似た音が胸の奥を軽く叩く。車輪がきしむ音、連結部が小さく鳴る音、そして列車が動き出す「始まりの音」が重なった。


 旅は、静かに、でも確かに始まった。


◆午前・列車内


 一両しかない列車なのに、車内は狭く感じなかった。天井が少し高い。窓が大きい。座席の布は古いのにやわらかく、触れると手のひらの体温をすっと受け止める。木材の匂いも、洗剤の匂いも、どちらも強すぎない。誰かが「落ち着く」と言いそうな空気だった。

 そして、揺れが少ない。走っているのに、床が船みたいに静かだ。


 加奈は窓際の席で、外を見ていた。霧の谷間を抜けるにつれ、景色がゆっくり異界めいていく。緑の草原が風に揺れ、遠くに浮遊島が静かに漂う。空の色が、地上より少し薄い。薄いのに、澄んでいる。


「……ほんとに、空の上を走ってるみたいです。線路が見えないのに、ちゃんと進んでる」


 声が小さくなったのは、驚きというより、邪魔したくない気持ちのせいだった。勇輝は隣の席で、乗客名簿をもう一度確認している。仕事の癖が抜けないが、今日はそれでいい。


「観光としては強い。景色も、車内も、移動そのものが体験になってる。問題は……目的地が“あるかどうか”だな。たどり着けなかった場合の説明も用意してるけど、説明って、いくら用意しても現場で足りなくなる」


 現実的な声だ。加奈は笑いそうになり、でも笑い切らずに頷いた。


「たどり着けたら、嬉しい。たどり着けなくても、ちゃんと帰ってきたいです。……その前提が、今日はいちばん大事な気がします」


 向かいの席では、美月がスマホを構えたり、引っ込めたりしていた。撮りたい。けれど撮り方を選びたい。広報としては当然の迷いだ。


「主任、撮っていいですか。窓の外、あまりに綺麗で、公式に残したいんですけど……『幻影温泉郷』って名前が付くと、映像が一人歩きすると怖いです」


「撮っていい。ただし、今の段階では“車窓の景色”として。場所を特定できる情報は出さない。あと、乗客の顔は写さない。写るなら、本人に確認」


「了解。じゃあ、手元と窓だけで。……こういう配慮、普通の旅行じゃ考えないですよね」


「普通の旅行じゃないからな」


 言いながら、勇輝は自分の言い方が少し堅いと気づき、続けて柔らかくした。


「でも、だから面白いとも言える。異界の人にも、地上の人にも、同じように安心してもらうって、簡単じゃないけど、やりがいはある」


 その会話を、マオーン様が窓の外を見つめたまま聞いていた。視線は遠い。けれど耳はこちらに向いている。


「安心、か……。幻影温泉郷は、安心の代わりに“忘却”を渡すと言われる。痛みを手放すために、いくつかの名前も、道も、置いていく」


 加奈が思わず聞き返す。


「名前も、ですか」


「名は、重い。重いものは、湯にほどける。ほどけると軽くなる。軽くなれば歩ける。……ただし、戻っても、その軽さの理由を説明できない者もいる」


 言葉は静かだが、重さがある。勇輝は名簿の紙をそっと撫で、反射的に確認したくなった。自分の名前。加奈の名前。美月の名前。まんまるんとマオーン様の名前。

 紙に印字された文字は、まだここにある。けれど「まだ」と思った瞬間に、胸の奥が少し冷える。


「だから、今日の名札は大事だな」


 勇輝が言うと、加奈が頷いた。


「名札だけじゃなくて……帰ってきたときに『思い出すきっかけ』が欲しいです。写真とか、匂いとか、味とか。忘れる前提なら、忘れた後に拾えるものを残したい」


 それは、観光の言葉でもあり、行政の言葉でもある。勇輝は少し笑って、頷いた。


「いいな。じゃあ、帰ったら“拾える”形にしよう。報告書の書き方も、工夫する。文字だけだと薄れるなら、図や、手触りの情報を入れる」


 美月がすかさず乗る。


「匂いなら、温泉まんじゅうの包み紙、持って帰ります? あれ、湯気の香りを吸うんですよ。……あ、でも、匂いの記録って、書類にどう落とすんだ」


「落とさなくていい。役所の書類に全部入れようとすると、肝心のものが薄くなる。個人の記録は、個人のまま持って帰れ」


 勇輝の言い方は、珍しく少しだけ優しかった。


 その時、列車の床が、ほんの少しだけ「ふわり」と浮いた気がした。

 気のせいかと思う程度。でも、隣の席の獣人の子が、尻尾をぴくりと動かしている。感覚が鋭い者は、先に気づく。


 車内放送が、柔らかい音で流れた。


『まもなく、霧の帯に近づきます。お手元の名札と連絡札をご確認ください。席を立つ必要がある方は、今のうちにお済ませください』


 放送が丁寧すぎて、逆に不安になる。役所の防災放送と同じ匂いがする。あれは「慌てないために丁寧」だ。そして丁寧な時ほど、備えが要る。


◆昼・食堂車(臨時サービスカウンター)


 一両編成なのに食堂車? と思うかもしれないが、今日の列車には「食堂車風」の小さなカウンターが用意されていた。座席の一角を仕切り、簡易テーブルを置き、温かいものを配る場所。長距離じゃなくても、温かい食べ物は人の気持ちを落ち着かせる。

 まんまるん監修――という名の、まんまるんが描いたラフ画を元に地元の店が作った――「温泉まんバーガー」が、紙包みの中で湯気を立てている。


 肉まんの皮のようなふかふかに、異界まんじゅうの甘い香りがほんの少し混ざり、そこへ魔界スパイスの肉が挟まっている。奇妙なのに、嫌じゃない。むしろ「やってみたかった」を形にした味がする。


 加奈が包みを開くと、湯気が指先に触れて、自然と頬が緩んだ。


「……これ、食べたら『帰る』って気持ちが強くなりそうです。温かいって、そういう力がある」


「腹が満ちると、人は冷静になる。冷静になると、変な判断をしなくなる。だから役所は、災害時に温かい飲み物を配るんだ」


「主任、そういう言い方すると急に現実が来ます」


「現実が来ないと、帰れないだろ」


 二人が笑い合う隣で、マオーン様が静かにバーガーを持ち上げ、ひと口かじった。闇の存在が、紙包みを持つと少しだけおかしい。似合わないのに、似合っている。妙な矛盾だ。


 マオーン様はゆっくり噛み、味を確かめてから、まんまるんの方を見た。


「……貴様の温かさは、甘いだけではない。腹を満たすことは、心を落ち着かせる。かつて我が故郷にも、こういう温かさが灯っていた。夜の火のように、じわりと」


 まんまるんは、すぐにボードを掲げた。


『マオーン様、さみしい? いま、ここ、あったかい?』


 マオーン様は、ほんの少しだけ目尻を緩めた。


「懐かしいだけだ。……寂しさは、今はまだ名前を持たぬ。だが、この湯気の匂いは、名前を思い出させる」


 勇輝は、その言い回しに引っかかった。寂しさに名前がない。つまり、過去に置いてきた何かがある。でも追及するのは今日じゃない。今日の目的は、全員が帰ることだ。思い出を掘るのは、帰ってからでも遅くない。


 美月がカウンターの端で、紙包みを写真に撮っていた。顔は写さない。湯気と紙の質感だけ。記録として、ちょうどいい。


「これ、公式に出すなら『温泉まんバーガー』って名前は使いません。絶対炎上する。『まんじゅうと肉まんの合作』にします」


「それでいい。名前は、分かる人が勝手に付ける」


 そんな会話の間にも、列車は霧へ近づいている。窓の外の色が、少しずつ白に飲まれていく。音が遠くなる。車輪の音だけが残って、世界が薄くなる。


 運転席側から、制服姿の車掌が歩いてきた。顔が少し硬い。


「皆さま、念のためお知らせします。方位計が安定しません。霧の帯が想定より厚いようです。ですが、引き返すためにも霧を抜ける必要があります。恐れ入りますが、今から十五分ほど、座席でお過ごしください」


 勇輝は頷き、座席へ戻るよう促した。言葉は短くても、動きは丁寧に。ここで慌てると、霧はそれを嗅ぎつける。そういう異界の厄介さを、ひまわり市は何度も見てきた。


◆午後・霧の帯 列車が“薄くなる”時間


 列車が霧の中へ入った瞬間、世界の音が一段落ちた。

 完全に無音になるわけじゃない。だが、音の輪郭が削られる。誰かの咳が、遠いところで鳴ったみたいに聞こえる。話し声は、口元の動きに対して少し遅れて届く。車内の時計の秒針が、なぜか二回ずつ鳴るように感じる。


 加奈は名札に指を触れた。布の感触が、現実を手繰る糸みたいだ。

 名札には「加奈」と書いてある。読める。読めるのに、脳の奥が「それ、本当に?」と小さく問いかけてくる。問いかけが、霧みたいに増える。


「……主任、なんか……言葉が、頭の中で滑ります。言おうとしてるのに、言葉の手前で、霧が挟まる感じ」


「俺も似た感覚がある。だから、今は無理に喋らない方がいい。喋るなら短い言葉で。確認は、名札と連絡札。あと、隣の人の目を見る。目は、まだ残る」


 勇輝の声は落ち着いている。けれど、額には薄く汗が浮かんでいた。彼もまた、霧に飲まれかけている。


 美月が、スマホを胸に抱えるように持った。撮らない。今は撮るべきじゃない。撮った映像が残ることで、後で誰かが傷つく可能性がある。広報としての本能が、指を止めていた。


 その時、マオーン様がゆっくり立ち上がった。マントが揺れる。闇の気配が濃くなるのに、不思議と怖さはない。むしろ、霧に対して輪郭を付けるみたいに、存在感が役に立っている。


「幻影結界だ。霧は“記憶の端”から削る。強く抵抗すると、削られる部分が増える。ゆえに、掴むべきは“今、ここにいる理由”だけだ。理由を短く持て」


 勇輝が頷き、口に出した。


「理由は、全員で帰るため。目的地に着いたら確認して、帰って報告する。……これだけ」


 加奈も続ける。声は小さいが、揺れないように丁寧に。


「私は、司会と、同行者。迷った人がいたら手を引く。……それだけ」


 美月も、ほんの少しだけ笑って言った。


「私は、広報。撮るより先に、安心を優先する。……それだけ」


 まんまるんが、ボードを掲げる。いつもより文字が太い。


『みんなで、いっしょ。かえる。』


 短い。単純。だから強い。


 霧の中で、列車がさらに“薄く”なった。窓の外が白一色になり、車内の灯りがぼんやり滲む。座席の色が一瞬だけ変わった気がして、加奈は目を閉じた。閉じた方が、輪郭が保てる。


 運転席側から、かすれた声が聞こえた。


「おかしい……駅名が……表示板が……」


 車掌の声だ。勇輝は立ち上がりかけたが、マオーン様が静かに手で制した。


「近づくな。霧は“確認したい衝動”を餌にする。今は、座れ。聞こえる言葉だけ拾え」


 勇輝は歯を噛み、座り直した。行政の人間は、確認したくなる。確認しないと不安になる。でも、霧はそこを突いてくる。


 やがて、霧の白がほんの少し薄まり、窓の外に淡い青が滲んだ。誰かが息を吸う音が、ちゃんと近くで聞こえた。車輪の音が戻る。世界の輪郭が、ゆっくり戻ってくる。


 車内放送が流れた。今度は、どこか遠い声じゃなく、現実のスピーカーの声だ。


『まもなく、目的地に到着します。……到着します』


 同じ言葉を二回繰り返したのは、放送の癖か、それとも霧の名残か。どちらでもいい。大事なのは、到着するということだ。


◆夕方・幻影温泉郷 到着


 列車が止まった。

 停車の衝撃はほとんどなく、ただ、床が静かになったことで「動いていた」を思い出す。ドアが開く音がして、外の空気が流れ込む。


 霧は晴れていた。けれど、晴れた先が「普通の夕方」じゃない。

 空は夜明け前みたいに薄い青で、星が湯けむりのように漂っている。星が「点」ではなく「粒」になって、ゆっくり動いている。地面に落ちた光が、水面みたいに揺れる。時間の概念が、ここだけ違う。


 駅舎は小さい。木造で、屋根に湯気が溜まっている。看板があるはずの場所が、妙に白い。

 加奈は一歩、足を踏み出して、息を止めた。


「……ここ……駅名が、ない」


 確かに、駅名板が白い。板はある。文字だけがない。削り取られたというより、最初から書かれていなかったみたいに、滑らかに白い。


 勇輝が近づき、指でなぞろうとしたところで、マオーン様が小さく首を振った。


「触れるな。名は、ここでは軽い。軽いものほど、ふっと消える。だから、あえて書かないのだろう」


「……じゃあ、温泉郷の看板も?」


 美月が小さく言う。加奈が視線を上げる。駅前から続く道の先に、温泉街らしい提灯や木柵が見える。けれど、どの看板も、どこか空白が多い。店の名前の部分だけ、白く抜けている。地図の案内板も、道の線はあるのに、地名がない。


 まんまるんが、少しだけ小さく見えた。いつもは堂々と前に出るのに、今日は一歩引いている。まんまるん自身も「町の顔」だ。名前が消える場所は、彼の存在の根っこを揺らす。


 勇輝は、メガホンの代わりに、いつもの現場声で言った。


「全員、バラけない。三人一組で動く。観光客の方は、スタッフの腕章がある人の近くに。写真は今は控える。……ここは、記録より安全が先」


 加奈が頷き、同行者に声をかける。


「名札を、時々触ってください。触ると落ち着きます。もし『自分の名前が言いづらい』って感じたら、無理に言わなくて大丈夫です。名札を見せてください。私が確認します」


 その言い方は、優しいのに実務的だった。言葉を軽くしない。けれど、押しつけない。加奈のこういうところが、町の安心になる。


 温泉郷へ続く道を歩くと、足元の石畳がしっとりしている。湯気が地面から湧いているわけじゃないのに、空気が温かい。皮膚の表面がほっとする。寒さがほどける。それが、妙に危ない。気持ちよさは、人を立ち止まらせる。


 温泉街の入口に着いた。

 そこにあるはずの、歓迎の門。木のアーチ。提灯。……そして「ようこそ」の文字。

 門はあった。提灯もある。けれど文字がない。空白だ。誰かが丁寧に作った余白だけが残っている。


 美月が息を吐く。


「これ、ほんとに“消えた温泉郷”ですね。建物も、湯気も、道もあるのに、名前だけが……」


「名前は、場所を固定する。固定が強いと、ここは癒せない。だから、ほどく。ほどくから、優しい。……優しいが、危うい」


 マオーン様の言葉に、勇輝は目を細めた。危ういが優しい。ひまわり市の悩みも、たぶんそこだ。


◆夕方・幻影温泉郷 街並み調査


 最初に向かったのは、広場だった。温泉街なら、必ず人が集まる場所がある。湯上がりの椅子が並び、足湯があり、掲示板があり、案内所がある。

 ここにも、全部あった。足湯は湯気を上げている。椅子も並んでいる。掲示板の枠もある。案内所の窓口もある。……ただし、掲示板の紙は白い。案内所のパンフレットも、表紙が白い。


 加奈が一枚のパンフレットを持ち上げる。紙は柔らかい。インクの匂いがしない。新品なのに、誰も作っていないみたいだ。


「印刷の気配がありません……。これは、紙だけが“ある”状態?」


 勇輝が周囲を見回し、ふと気づく。掲示板の端に、手書きのような線が一本だけ残っている。線は、文字の途中みたいに見える。けれど読めない。読めないのに「誰かが書きかけた」と分かる。


「……ここ、完全に無じゃない。書こうとした跡がある。つまり、書ける可能性がある」


 美月が、思わずスマホを取り出しかけて止めた。


「撮って残していいですか」


「今は撮らない。代わりに、写し取る。紙と鉛筆は?」


 加奈がすぐに鞄から出した。役所の鞄には、だいたい入っている。こういう時だけ、職員の用意の良さが頼もしい。


 勇輝は鉛筆で線をなぞる。線は、紙の上で少しだけ浮くように見えた。なぞった瞬間、うっすらと別の線が現れる。文字になりかけて、霧みたいに薄い。


「出る……けど、すぐ消える」


 加奈が息を吸う。


「触っている間だけ、現れる。つまり、“今ここにいる誰か”が支えている間だけ、形になる」


「支える、か。じゃあ、支え方を増やす。複数人でなぞる」


 勇輝が言うと、加奈と美月が鉛筆の端に指を添えた。三人の指が触れた瞬間、文字の輪郭が少しだけ濃くなった。読めるほどではないが、「言葉になろうとしている」気配が増えた。


 マオーン様が、少し離れたところでその様子を見ていた。

 やがて、ゆっくり歩み寄り、マントの端を持ち上げて、影を鉛筆の先に落とした。


 すると、不思議なことが起きた。

 影の中で、文字の輪郭が落ち着いた。霧みたいに逃げていた線が、一瞬だけ留まった。


「闇は、形を保つ。光は、広げる。……ここでは、両方が要る」


 マオーン様が言う。勇輝は、なるほどと頷く。


「じゃあ、まんまるんも頼む」


 まんまるんが近づき、ボードを置いて、両手で紙の端を押さえた。温かい手のひらが紙を落ち着かせる。すると、文字がさらに少し濃くなった。


 加奈が、目を凝らして呟く。


「……『ゆ』……? 『ゆ』って見えます。あと……『さ』?」


「湯、か。温泉郷の門に、湯の字。……ある意味、まんまるんの字だな」


 勇輝が言いながら、胸の「湯」を見た。まんまるんの存在が、この場所の文字を引っ張っているのかもしれない。なら、まんまるんはただの着ぐるみじゃない。町の「記号」そのものだ。


 ただ、その時、遠くで鈴の音がした。

 風鈴のような軽い音。なのに、胸に引っかかる。湯気の向こうで、誰かが歩いたような気配もある。


 美月が小声になる。


「今、誰かいました?」


 返事はない。

 けれど、広場の足湯の縁に、濡れた足跡が一つだけ残っていた。新しい。今ついたみたいに、湿っている。足跡は、途中で消えている。霧に吸われたみたいに。


 加奈が、思わず自分の名札を握った。


「……ここ、誰もいないわけじゃない。『いないふり』が上手い」


「いないふり、じゃなくて……“見えないまま癒されてる誰か”がいるのかもしれない」


 勇輝はそう言って、自分の声が少し優しくなったことに気づいた。ここは、誰かの逃げ場所だ。逃げ場所に、土足で入るのは乱暴だ。だから、調査は調査でも、踏み方を選ぶ必要がある。


◆夕方・幻影温泉郷 宿を探す


 温泉街の奥には、宿が並んでいた。木の看板が下がり、暖簾が揺れ、玄関灯が灯っている。けれど、看板の文字がない。暖簾の模様も、意味の部分だけが薄い。見た瞬間に「宿だ」と分かるのに、名前は分からない。


 勇輝は、宿の一つの前で足を止めた。玄関の段差が低い。手すりがある。扉の取っ手が握りやすい。……誰かが来る前提で作られている。無人の建物じゃない。


 加奈が玄関に向かって、声をかけた。


「失礼します。ひまわり市役所の……えっと、異界観光PRツアーで来ました。中に、どなたかいらっしゃいますか」


 言い終わった瞬間、加奈が少し眉を寄せた。自分の言葉の中に「ひまわり市役所」の響きがちゃんと残ったか、不安になったのだろう。勇輝は横からそっと補足する。


「名札、見て。加奈。ちゃんといる。俺もいる」


「……はい。ありがとうございます」


 扉の奥で、かすかな足音がした。

 引き戸が少しだけ開き、湯気が一筋、外に逃げる。そこに立っていたのは――人ではなかった。


 いや、人の形ではある。けれど、輪郭が薄い。顔がはっきりしない。着物の柄だけが、妙に鮮やかだ。


「……お客様、ですね」


 声は、耳に優しい。

 でも、その声を聞いた瞬間、加奈の頭の中で「名前」が一つ滑った気がした。言いたいのに出てこない。喉の奥で、霧が絡む。


 勇輝が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。


「ご迷惑にならない範囲で、この温泉郷の現状を確認したく、訪れました。私たちは今日中に帰ります。宿泊の形ではなく、短時間の見学と入浴環境の確認だけお願いできれば」


 行政らしい言い方だ。でも、相手を傷つけないように、最初から「帰る」と言う。ここに居座らない。奪わない。その姿勢を示す。


 輪郭の薄い宿の人は、少しだけ首を傾げた。


「帰る……。そうですか。帰る方は……良いですね」


 その言葉の中に、羨ましさが混じった。

 加奈は胸がきゅっとなった。羨ましい、という感情は、そこに「帰れない誰か」がいる証拠だから。


 宿の人は、引き戸を開けて、道を示すように手を伸ばす。


「どうぞ。湯は、あなた方を拒みません。……ただ、名を落とさぬように。名は、湯に溶けますから」


 勇輝は頷き、加奈と美月に目配せをした。

 美月はスマホを鞄にしまう。撮らない。ここは撮る場所じゃない。記録より、敬意が先だ。


◆夜・温泉宿 湯の間


 宿の中は、静かだった。畳の匂いがする。木の廊下がきしむ。灯りは暖色で、どこか懐かしい。懐かしいのに、思い出の中に入っていくみたいで、心が軽くなる。軽くなるのが、怖い。


 脱衣所の籠には、タオルがきれいに畳まれていた。けれどタオルの端の刺繍――本来なら宿の名が入るところが――白いままだった。空白が、丁寧すぎる。


 湯船は、とろりとした金色に光っていた。表面が星明かりを写し、ゆらゆら揺れる。湯気が肌に触れると、力が抜ける。抜けすぎて、座り込んでしまいそうだ。


 加奈は湯船の縁に腰を下ろし、足先だけ湯に浸した。すぐに、温かさが膝の上まで登ってくる。身体の芯がほどける。息が自然に長くなる。


「……あの。ここ、すごく……落ち着きます。落ち着きすぎて、怖いくらい」


 勇輝も同じように足を入れ、湯の揺れを見つめた。


「落ち着く場所は、人を止める。止まること自体は悪じゃないけど……俺たちは戻る側だ。戻る理由を、今もう一度言っておこう」


「戻る理由……」


 加奈は名札に触れ、口に出す。


「私は、ひまわり市の人たちに、安心してもらいたい。異界の人にも、地上の人にも。ここで得た温かさを、持って帰って、町の中に小さく広げたい」


 勇輝は頷く。


「俺は、役所の人間としてというより、町の一人として、あの町の『いつもの顔』を守りたい。今日みたいな不思議な日があっても、翌朝にはまた窓口が開いて、書類が回って、誰かが笑える。……それを続けたい」


 湯の中で言う言葉としては、真面目すぎるかもしれない。けれど、この場所は真面目な言葉をほどく場所だからこそ、ほどける前に置いておく必要がある。


 その時、湯船の端から、ぽこん、と小さな音がした。

 まんまるんが、湯にぷかりと浮かんでいた。着ぐるみのはずなのに、浮いているのが自然すぎて笑えない。湯気に溶けて、湯の一部みたいになっている。


 まんまるんは、ボードをそっと掲げる。湯で濡れない材質らしい。よく考えてある。


『みんなで、かえろ。ひまわりのまちへ。わすれても、また、みつけられるように。』


 その文に、加奈の目が少し潤んだ。

 忘れても、また見つけられる。そう言ってもらえるだけで、人は帰れる。


 背後から、足音がした。

 マオーン様が、湯の間に入ってくる。湯気の中で黒いマントは場違いだが、本人は少しも気にしていない。むしろ、湯気の白と闇の黒が並ぶと、輪郭が落ち着く。


「――ならば、我も手を貸そう」


 マオーン様は湯に手を翳した。湯の表面が、ほんの少しだけ色を変える。金色の中に、赤い光が細く走る。怖さはない。火の線香花火みたいな、短い光だ。


「これは“記憶を繋ぐ湯”。癒しが、ただ消えるだけでは意味がない。癒した者が、歩き出す先を忘れぬよう、きっかけを残す」


 勇輝は眉を寄せた。


「きっかけ……って、具体的に何を残す」


「言葉だ。短い言葉。匂いだ。温度だ。手の感触だ。……そして、誰かが誰かを呼ぶ声」


 加奈が小さく息を吸う。


「呼ぶ声……」


 マオーン様は、湯気の向こうで、まんまるんを見た。

 そして、不器用に、でも確かに言った。


「まんまるん。……お前の名は、ここでは溶けやすい。だが、お前の“湯”は溶けぬ。胸の字を、忘れるな」


 まんまるんが、胸の「湯」を両手で押さえ、深く頷く。

 ボードが出る。


『マオーン様も、なまえ、わすれないで。』


 マオーン様が、ほんの少しだけ黙った。

 そして、低い声で、短く答えた。


「……ああ。忘れぬように、誰かが呼べばよい」


 その言葉は、少しだけ寂しい。だからこそ、今ここで、呼ぶ必要がある。


 加奈は湯の中で手を伸ばし、勇輝の袖を軽く掴んだ。掴むというより、触れている。触れているだけで、現実に戻れる。


「勇輝さん。……帰ったら、ちゃんと報告書、書きましょう。写真がなくても、言葉で。今日の湯の温度を、今日の空の色を。『名前のない看板』も。忘れそうだからこそ、書く」


「ああ。書こう。書いて、町に渡そう。俺たちだけのものにしない」


 その会話の途中で、湯の表面に小さな波紋が広がった。

 波紋は、湯船の縁を越え、空気の中へ広がっていくように見えた。湯気が星屑みたいに散り、天井の梁に触れて、ふっと消える。消えるのに、残る。矛盾が、この場所の優しさだ。


◆夜・幻影温泉郷 消えかける看板


 湯から上がると、身体が軽い。軽いのに、足はちゃんと地面に着いている。危うい軽さじゃなく、歩ける軽さ。さっきまでの不安が少し薄れている。

 宿の外に出ると、温泉街の灯りが、夕方より少しだけ増えていた。灯りが増えたというより、こちらの目が灯りを拾えるようになったのかもしれない。


 勇輝は、広場の掲示板の前に戻った。

 昼間、線が残っていた場所だ。今、そこに――薄い文字が浮かんでいる。


 完全な文字じゃない。けれど、「湯」の字が読める。さらにその隣に、「さ」。そのまた隣に、かすれた「と」。


「……『湯さと』?」


 加奈が呟くと、美月が首を傾げる。


「『湯里』かな。温泉郷の名前って、だいたいそういう感じですけど……でも、ここ、固有名詞が溶けるなら、一般名詞みたいな言葉が残りやすいのかも」


 勇輝は頷いた。


「固有名詞じゃなく、概念として残る。だから、俺たちがやるべきは……固有名詞を無理に固定することじゃない。『ここにこういう場所がある』という輪郭を、町に持ち帰ること」


 加奈が静かに言う。


「名前を奪わない。だけど、存在を無かったことにもしない。……難しいですね」


「難しい。でも、難しいことをやるのが行政だ」


 勇輝が言い切った瞬間、掲示板の文字がふっと薄れた。

 消える。消えるのに、慌てない。今日はもう学んでいる。ここは、消える場所だ。だから、消える前に「触れる」だけでいい。


 まんまるんが、掲示板の前に立ち、胸の「湯」に手を当てた。

 マオーン様が、その影を文字の上に落とした。


 すると、文字が一瞬だけ濃くなった。

 読めるほどではないが、「ここに湯がある」という主張が強くなる。


 美月が、初めてスマホを取り出した。

 撮る。けれど、撮り方を選ぶ。看板全体じゃなく、手が触れている部分と、文字の輪郭だけ。場所が特定できない角度。人の顔は写さない。


「これ、公式には出しません。でも、内部の記録として残します。『存在を消さないため』の記録。……いつか、必要になる気がする」


「必要になってから探すと遅い。残しておけ」


 勇輝は頷いた。広報が「撮らない」を選ぶ日があるように、「撮る」を選ぶ日もある。線引きができるから、怖くない。


 遠くで、また鈴の音がした。

 今度は、少し近い。湯気の向こうで、誰かが笑ったようにも聞こえた。声は顔を伴わない。それでも、ここに誰かがいる。


 加奈が小さく頭を下げる。


「……お邪魔しました。私たちは帰ります。ここが、これからも誰かの休み場所でありますように」


 その言葉は、祈りに近い。でも、祈りを言葉にすることは、時々、行政の仕事より役に立つ。


◆夜明け前・帰還の汽笛


 列車に戻る時間になった。

 宿の人は、扉の前で静かに見送ってくれた。顔はやっぱりはっきりしない。けれど、声ははっきりしている。


「帰る方々。湯が、あなた方の道を温めますように」


 勇輝は深く頭を下げた。


「ありがとうございました。あなたの温泉郷を、無かったことにはしません。名前は持ち帰れなくても、温かさは持ち帰ります」


 返事の代わりに、湯気がふわりと揺れた。

 それが、肯定なのか、ただの風なのか、判断はできない。判断できないことを、無理に判断しない。それも、今日の学びだ。


 列車のドアが閉まる。

 汽笛が鳴る。今度の汽笛は、出発より少しだけ高く聞こえた。帰る音だ。


 列車が動き出すと、窓の外の温泉郷がゆっくり遠ざかる。灯りが小さくなる。湯気が薄くなる。看板の空白が増える。最後に、門の輪郭まで薄くなり、霧の中へ溶けた。


 加奈は窓際で、名札を握りながら呟いた。


「……いま、もう、場所の名前が分からないです。さっきまで分かりかけてたのに」


 勇輝は、すぐに答えなかった。

 分からないなら分からないでいい。でも、不安のままにしない。


「分からなくていい。俺たちが持ち帰るのは、『名前』じゃなくて『帰れる温かさ』だ。……それと、忘れそうなら、さっきの言葉をもう一度言おう。短いのを」


 まんまるんがボードを掲げる。帰りの文字は、さらに短い。


『かえる。いっしょ。』


 マオーン様が、静かに続けた。


「帰る。……そして、呼ぶ。名が溶けても、呼ぶ声が残れば、道は繋がる」


 美月が、タブレットを膝の上で開いた。

 いつものように文章を打つのではない。今日のためのメモだ。短い言葉と、手触りの情報を箇条書きにする。風の冷たさ。湯の温度。看板の白。鈴の音。足跡。宿の人の声。


「これ、報告書の下書きじゃないです。『思い出すための鍵』です。帰ったら清書する」


「いいな。清書は後でいい。今は鍵を残せ」


 列車が再び霧に入る時、今度は怖さが少し減っていた。

 霧は同じように音を薄くし、言葉を滑らせる。けれど、彼らは短い理由を持っている。名札に触れ、隣の目を見る。呼ぶ声を残す。


 霧の中で、加奈が小さく言った。


「勇輝さん」


「ん」


「……ちゃんと、いますよね」


 勇輝は名札を見せ、笑った。


「いる。俺もいる。加奈もいる。美月もいる。まんまるんも、マオーン様もいる。今日は、それだけで十分だ」


 霧が、少しだけ薄くなった気がした。


◆朝・ひまわり温泉駅 帰着


 朝焼けの色が、窓の外に戻ってきた。

 霧が消える。音が戻る。車輪の音が、現実の線路に乗った音に変わる。ホームが見える。駅舎が見える。見慣れた掲示板が見える。文字がちゃんと読める。ありがたいことが、いちいちありがたい。


 列車が止まり、ドアが開く。

 冷たい朝の空気が流れ込み、身体がきゅっと引き締まる。引き締まることで、現実に戻る。


 乗客たちは、まだ少し夢の中にいるような顔をしていた。けれど目の奥に、ふっと温かいものが残っている。あれは、湯の温かさかもしれないし、誰かと一緒に帰れた安心かもしれない。


 加奈がホームに降りて、空を見上げた。霧のない青空が広がっている。普通の空だ。普通なのに、今日の普通は特別だ。


「……あれ、夢だったのかな、って思いそうになります。でも、手のひらがまだ温かい」


 勇輝は駅の天井を見上げ、ゆっくり息を吐いた。


「夢でもいい。現実でもいい。あの温かさが、町の中で誰かを少しだけ楽にするなら、それで十分だ」


 まんまるんの背中の模様が、ふわりと光った。胸の「湯」も、朝日を受けて少しだけ強く見える。その光が湯気みたいに空気へ溶けていく。溶けるのに、残る。今日の旅の答えみたいだった。


 美月が、駅前の掲示板を見て呟く。


「……主任。駅名板、ちゃんと読めます。嬉しい。読めるだけで嬉しいって、変ですけど」


「変じゃない。失うかもしれないと思った瞬間、当たり前が宝物になる。今日はそういう日だ」


 加奈が頷き、名札を外して胸に抱えた。


「帰ったら、報告書、書きましょう。写真が少なくても、言葉で。あと……温泉まんバーガーの包み紙、ちゃんと残しておきます。匂い、残ってます」


「それは個人の宝物だな。役所のファイルに挟むなよ」


「挟みません。……たぶん」


 少し笑いが起きた。

 その笑いが、駅前の空気を温めた。


◆ラスト・ホームの端


 人が散っていく中で、マオーン様だけがホームの端に立っていた。

 霧のない青空を見上げ、微かな残光を探すような目をしている。残光は、もうない。ないのに、目は探してしまう。


「幻影温泉郷よ……また誰かを休ませてやってくれ」


 その声には、遠い郷愁が含まれていた。まるで自分も、いつかそこで休んだ旅人であるかのように。


 まんまるんが近づき、ボードを掲げる。文字は、今日いちばんはっきりしていた。


『マオーン様も、またいっしょにいこうね。こんどは、ゆっくり。』


 マオーン様は、少しだけ黙った。

 そして、短く頷き、低い声で答えた。


「……ああ。次は、仕事抜きでな。……その時は、名を落とさぬよう、我も呼ばれる側になろう」


 汽笛が鳴った。

 それは列車のものじゃない。駅の朝を告げる、普通の列車の汽笛だ。普通の音が、今日はやけに優しい。


 朝日が線路を照らし、影がゆっくり伸びる。

 旅の幕は、静かに閉じた。けれど、温かさは、ちゃんと残っている。


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