第36話「幻影列車と消えた温泉郷」
~“癒し”を求めて、異界の夜汽車が走る~
■朝・ひまわり温泉駅
まだ陽が昇りきらない、やわらかな朝の薄明り。
白い水蒸気が線路の上をゆっくり漂い、町の音は霧の奥に溶けていた。
静まり返った温泉駅のホームに、一両編成の列車がぽつりと停まっている。
車体には古めかしい金文字で、こう書かれていた。
「異界観光PRツアー号」
まるで、百年前の旅人がそのまま置いていったような列車だった。
勇輝はメガホンを握り、ゆっくり深呼吸した。
こんな朝は、胸の奥まで吸い込む空気までも違う気がする。
「……ではこれより、“異界観光PRツアー”の出発式を始めます」
静けさの中に、少しだけ緊張と期待が混ざる。
列車の先頭には、並んで立つ二つの影――
湯気のように丸いフォルムのまんまるんと、黒く長いマントを揺らすマオーン様。
加奈が司会として一歩進み出る。
「本日の目的地は――伝説の“幻影温泉郷”。
記録によれば百年前、霧とともに姿を消した温泉地です」
風がそよぎ、どこか遠くの音がかすかに響いた。
その瞬間、マオーン様の表情がわずかに揺らぐ。
「幻影温泉郷……我の世界では、“記憶を癒す場所”と語られておる。
幻影列車でのみ辿り着き、帰るときには――忘れる」
その声には、懐古の気配があった。
まんまるんは、小さなボードを掲げる。
『がんばる。ぬくもり、とどける。』
柔らかい湯気のような文字が揺れる。
そして汽笛が鳴り、
列車の車輪がゆっくりと動き出す。
――旅は、静かに始まった。
■午前・列車内
列車が霧の低い谷間を抜けるにつれ、景色は徐々に異界めいていく。
窓の外では、緑の草原が風に揺れ、浮遊島が静かに漂っていた。
車内の空気は落ち着いていて、どこか浮遊感がある。
揺れは少なく、座席に触れる指先まで柔らかく温かい。
「……まるで、本当に空の上を走ってるみたいだ」
加奈は頬に手を添え、小さく息をのむ。
「観光地としては申し分ないな」
そう言いながらも、勇輝の視線は遠い。
「ただし、“幻影温泉郷が本当に存在するなら、だが”」
マオーン様は窓を見つめたまま、静かに言葉を落とす。
「存在はする。
だが、ここは“記憶を拒む温泉”。
辿り着いても、帰る頃には多くを忘れるだろう」
勇輝は目を伏せる。
何か大切なものが、知らぬ間に霧へ吸われていく――そんな予兆のようだった。
■昼・食堂車
食堂車にはゆるやかな香りが漂っていた。
まんまるん監修の「温泉まんバーガー」が温かい湯気を立てている。
異界まんじゅうと肉まんが重なり、その上に魔界スパイスの肉が挟まっている。
奇妙だが、どこか心をくすぐる香りだ。
観光客の笑い声が少しだけ混じる中、
マオーン様は静かにバーガーを味わっていた。
「……貴様の温かさ」
ゆっくりとまんまるんのほうを見る。
「まるで、かつての我が故郷に灯っていた“光”を思い出す」
まんまるんはすぐにボードを掲げる。
『マオーン様、ちょっとさみしい?』
マオーン様は長い黒髪を揺らし、柔らかく微笑んだ。
「いや……懐かしくなっただけだ」
その声は、どこまでも穏やかだった。
■午後・異界の霧の中
列車が霧の帯に近づくにつれ、空は白く染まり、音が消えた。
世界そのものが、息を潜めているような静寂に包まれる。
やがて、運転士の声が震える。
「おかしい……方位計が回り続ける!
霧が……霧が“深すぎる”!」
勇輝は立ち上がり、窓を押さえる。
「この霧……普通じゃない。法則が崩れてる……まさか――」
マオーン様の瞳が深紅に輝く。
「幻影結界だ!
全員、身を低くせよ!
列車が“幻界”へ潜る!」
白い霧が列車を包み込み、
世界の輪郭がひとつ、またひとつ溶けていく。
そして――
光が静かに弾けた。
■夕方・幻影温泉郷
霧が晴れると、そこに広がっていたのは、
時間という概念を忘れさせるほどの静謐な温泉郷だった。
夜明け前のような薄い青の空。
無数の星が湯気のように漂い、淡い光を地面に落としている。
宿の灯りは、どこか懐かしい。
人影はなく、しかし“誰かの記憶の気配だけ”がそこに残っているように感じられた。
加奈は息を失いかける。
「……こんな場所、本当に存在したんですね」
「幻想じゃない。
だが現実でもない」
勇輝の声が少し震えていた。
マオーン様が静かに告げる。
「ここは“記憶を癒す湯”。
傷ついた魂が一夜を過ごせば、歩き出す力を取り戻す。
だが同時に――“忘れる”。
痛みも、名も、時に想いさえも」
まんまるんが湯けむりの奥を見つめる姿は、
なぜかどこか切なく見えた。
■夜・温泉宿
湯船の縁に腰を下ろし、勇輝と加奈は静かな湯気に身をゆだねた。
温泉はとろりとした金色に輝き、
その表面は星明りを写し返すように揺らめいている。
「……もし、ここに留まってしまったら」
加奈は小さく囁いた。
「帰れなくなっても、後悔しない気がします」
勇輝は湯に指を浸し、その揺らぎを見る。
「俺も……そう思ってしまった。でも――
まだ“町を温めたい”んだ。
ひまわり市の笑顔を、忘れたくない」
まんまるんが湯にぷかりと浮かび、
ボードをそっと掲げる。
『みんなで、かえろ。ひまわりのまちへ。』
その瞬間、背後から歩み寄る気配がした。
「――ならば、我が手を貸そう」
マオーン様が湯に手を翳す。
温泉の表面が、ゆっくりと金色に染まった。
「これは“記憶を繋ぐ魔湯”。
帰っても忘れぬよう、お前たちの想いを刻む」
湯気がそっと、夜空へ流れた。
星のように散りながら。
■夜明け・帰還
列車は再び霧の中を走り、朝焼けのひまわり温泉駅へ帰ってきた。
乗客たちはまだ少し夢の中にいるような表情だった。
けれど、その目にはふっとした温かさが残っている。
加奈が目をこすりながら言う。
「……あれ、夢だったのかな」
勇輝は駅の天井を見上げる。
「夢でも……いい。
あの温かさは、確かにまだ残ってる」
まんまるんの背中の模様が、ふわりと光った。
その光が湯気のように空気へ溶けていく。
■ラストシーン
マオーン様はひとりホームで空を見上げていた。
霧のない青空に、微かな残光が揺れている。
「幻影温泉郷よ……また誰かを癒してやってくれ」
その声はどこか遠い郷愁を含んでいて、
まるで自身がその温泉郷から来た旅人であるかのようだった。
まんまるんが近づき、ボードを掲げる。
『マオーン様も、またいっしょにいこうね!』
「……ああ。
次は、仕事抜きでな」
汽笛が鳴り、朝日が線路を照らす。
列車の影がゆっくりと揺れ、旅の幕が静かに閉じた。
『異界に浮かぶ町、ひまわり市』
第36話「幻影列車と消えた温泉郷」END
次回予告(第37話)
「異界経済サミット開催!」
ついに魔界・天界・地上・妖精界……
あらゆる界の代表がひまわり市に集結。
会議の裏で“温泉外交”が火花を散らし、
町の未来を決める史上最大の交渉戦が幕を開ける――!




