第30話「空飛ぶ役所、発進!」
――空は遠い。けれど、役所の仕事は遠くならない。
◆朝・ひまわり市庁舎
朝の庁舎は、だいたい音から始まる。
コピー機が起動する低い唸り、プリンターが試し刷りを吐き出す軽い震え、開庁を告げるシャッターの金属音。異界に転移してからも、役所という装置だけは、同じ手つきで「日常」を組み立て直してきた。
ひまわり市役所の廊下を歩きながら、勇輝は胸ポケットのペンを指で転がしていた。今日の予定は、午前に観光課との打ち合わせ、昼に税務からの問い合わせ対応、そのあとに「異界郵便局の再稼働」報告の回覧。いつも通り、少しだけ多い。
いつも通り、であるはずだった。
「……あれ?」
加奈が、窓辺で足を止めた。資料の束を抱えたまま、視線だけが上へ、上へ、と引っ張られていく。
勇輝もつられて窓に近づき、外を見た瞬間、呼吸が一拍だけ遅れた。
空が二重になっていた。
青空の上に、もう一枚、薄い膜みたいな空が揺れている。境目は曖昧で、ところどころ波紋のように歪み、陽の光が変な角度で反射している。雲はいつもの雲なのに、雲の影が二つある。影がずれるたびに、世界の足場がほんの少しだけ傾く。
「空……重なってますよね? 見間違いじゃないですよね?」
「見間違いなら、職場の窓が集団幻覚ってことになる。さすがにそれは……困るな」
勇輝が言いながらも、心の奥ではすでに警戒灯が点っていた。
異界の異常は、だいたい「綺麗」から始まる。綺麗で、珍しくて、見とれた次の瞬間に、生活が横から殴られる。
そして、生活は殴られた。
ゴン、と床の下から鈍い音がした。続けて、庁舎全体がじわりと揺れる。地震の揺れ方とは違う。横ではなく、上へ引っ張られるような、身体の芯がふわりと軽くなるような感覚。
机の上のクリップが、ちりちりと震えた。
壁の掲示板が、留め具ごと軋んだ。
「……え、今の、何」
加奈が口に出した瞬間、二度目の揺れが来た。今度ははっきりと、床が持ち上がる。自分の足が床についているのに、床が足を連れていく。
勇輝は反射で廊下の手すりを掴み、近くの職員に声を飛ばした。
「落ち着いて、通路の真ん中! 窓際に寄らない! エレベーター止めて!」
いつもの「災害訓練の言い回し」が、口から出た。訓練の言葉は、こういう時に人を守る。
庁舎の窓から見える広場が、ゆっくり下へ遠ざかっていく。
見慣れた自動販売機。植え込み。庁舎前の看板。全部が、縮んでいく。
庁舎が、浮いていた。
◆朝・庁舎一階ロビー
上へ引っ張られる揺れは、庁舎のあらゆる場所に「いつもと違う」を伝えた。
一階ロビーでは、開庁直後に来庁していた市民が、ぽかんと天井を見上げている。受付カウンターの上に置かれたパンフレットが、机ごと微かにずれて、係員が慌てて押さえた。
「え、役所って……浮くんですか?」
年配の男性が、冗談みたいに言った。
隣の獣人の女性は、尻尾の先だけが落ち着かずに揺れている。
「浮きます。いま浮いてます。ただ、落ち着いてください。窓口は続けます」
窓口課の職員が、できるだけ平らな声で答えた。声を平らにするのは、状況を平らにするための技術だ。
自動ドアの外では、人が集まり始めていた。空を見上げ、指をさし、スマホを構える。ひまわり市役所が空に浮いているという非日常は、ニュースより速く、口から口へ広がっていく。
警備員が、入口のマットに立っていた。
「現在、庁舎は安全確認のため入館を一時停止しています。地上の臨時窓口をご案内しますので、並ばず、押さず、まずは広場の外側へ――」
そう言いながら、彼は手元のマイクで庁内放送を入れた。
音が少し割れて、でも、はっきり届く。
『職員の皆さんへ。現在、庁舎は浮遊中です。慌てず、窓際から離れてください。エレベーターは停止。階段を使用。机上の重い物は固定。各課は指示があるまで持ち場で待機してください』
ロビーの掲示板には、すぐに手書きの紙が貼られた。
『ご用件の方へ:本日は市民ホールに臨時窓口を開設します(地図あり)』
地図は、加奈が走り書きしたものだった。曲がり角に小さなひまわりマークが描いてある。迷わせないための、彼女なりの優しさ。
その紙を見た市民が、ふっと息を吐いた。
「……やるんだね。空でも、役所」
その言葉が、職員の背中を少しだけ押した。
◆午前・庁舎内 緊急対策ミーティング
会議室は、いつもなら静かに資料が積まれている場所だ。今日は違う。机の上に置かれたのは、地図、建物図面、非常用無線端末、魔導通信結晶、それから――「落下した場合の想定被害図(暫定)」という嫌なタイトルの紙束。
総務、防災、情報政策、施設管理、広報。それに、なぜか観光課まで混ざっている。観光課長の仁科が、汗を拭きながら椅子に座るなり言った。
「すみません、すみません、すみません! 昨日の温泉地脈の調整、関係ありますか!?」
「今は、原因追及より優先順位。落ちないようにして、地上と連絡を取って、行政機能を止めない」
勇輝が落ち着いて言うと、机の端で美月が小さく頷いた。広報の顔が「うん、今それ」と言っている。良い。
防災課長の山根が、測定器を叩きながら眉をしかめる。
「高度計が揺れてる。魔力干渉で数字が安定しないが、上昇は続いてる。体感で……数百、いや千近いかもしれん」
「千って、メートルですよね?」
加奈が確かめるように聞くと、山根は短く頷いた。
「揺れの周期から見て、浮力源が何かの循環に乗ってる。止めないと、いずれ落ちる」
落ちる、という単語が空気を冷やす。けれど、勇輝はその冷えを「次の手順」に変える。
「まず、地上へ連絡。庁舎が浮遊中でも窓口機能は継続する。ただし、物理来庁は不可能。代替窓口を地上に設置する。市民ホール、もしくは公民館――」
「市民ホール、空いてます。今週はイベント入ってません」
加奈が即答した。こういう情報は、彼女の頭の中でいつも整理されている。
「よし。地上出張窓口を“臨時開設”。総務、回線を繋いで。情報政策、魔導通信と電算の二系統、両方確保」
「了解」
情報政策の職員がすぐに動き出す。端末の束を抱えて、隣室に走った。
◆正午・地上 市民ホール(臨時窓口)
地上の市民ホールは、朝のうちに“役所の代わり”になっていた。
入口には机が並び、壁には手書きの案内が貼られ、受付番号の札が光っている。普段なら庁舎のロビーで聞こえるはずの「次の方どうぞ」が、今日はここで繰り返される。
窓口課の職員が、魔導通信結晶の前で深呼吸をしてから声を出した。
「23番の方、どうぞ。……はい、こちら地上窓口です。空中庁舎側と繋がってますので、そのままお話しください」
結晶の向こう側には、雲の上の会議室が映っていた。机の上に書類が積まれ、背後に窓、窓の外は白い。背景が白すぎて、逆に現実味がない。
「ほんとに……役所、空にあるんだねぇ」
来庁したおばあさんが、呆れたように笑った。
「すみません、驚かせてしまって」
画面の向こうの職員が頭を下げると、おばあさんは首を振った。
「驚くよ。でも、こうして繋いでくれてるんだから文句ないよ。うちの孫の転出のやつ、今日中に必要でね」
「承知しました。ご本人確認だけさせてください。お名前と、生年月日――」
手続きは、いつもと同じ順番で進んだ。
違うのは、職員の背後に雲が流れていることだけだ。
市民ホールの一角では、観光課が「見上げた人向けの安全案内」を配っていた。
『写真撮影は危険区域外で/落下物の可能性があるため庁舎直下に近づかないでください/臨時窓口はこちら』
観光用のチラシみたいに整っていて、だからこそ不安を少しだけ薄めていた。
そこへ、地上の広場から拍手のような音がした。
窓越しに見ると、庁舎を見上げる人たちの中に、市長がいた。スーツの上着を脱ぎ、袖をまくり、拡声器を持っている。慌てるより先に現場へ立つタイプの人間だ。
『市民の皆さん。現在、市役所庁舎は魔力異常により浮遊しています。落ち着いてください。着陸に向け対応中です。行政サービスは市民ホールで継続します。必要な方は案内に従ってください』
言葉は短いが、逃げない。
市民のざわめきが少しだけ整った。
それでも、不安は残る。
小さな子どもが母親の服を引っ張りながら聞いた。
「ねえ、役所落ちてこない?」
「落ちないように、みんながんばってるよ」
母親がそう答えたとき、子どもが空に向かって手を振った。
誰に向けた手振りか、分からない。
でも、その仕草を見た職員が、思わず窓から手を振り返した。
市民ホールの裏では、総務課が“地上に残った仕事”を束ねていた。
郵便物の仕分け、押印が必要な書類の一時保管、緊急支払いの確認。
「印鑑、空にあるんですけど」
若い職員が困り顔で言うと、隣のベテランが肩を叩いた。
「印鑑だけが役所じゃない。押す順番と、記録が残ればいい。今は“代替”を作る」
その言葉通り、机の上には『臨時押印代替記録票』が置かれた。
地味な紙だ。
でも、地味な紙が、町をつなぐ。
美月が手を挙げた。小さく、でも逃げない仕草。
「発信、どうします? もう上空の庁舎、撮られてます。変に黙ると、不安が膨らみます」
「正直に、でも煽らない。『現在、庁舎は魔力異常により浮遊中。安全確保と着陸に向け対応中。行政サービスは地上の臨時窓口で継続』。この三つで行こう」
「了解。言葉、整えます。あと、写真……使います?」
「今は使わない。市民が見上げた空に、役所が浮いてる写真は、強すぎる。落ち着いた後に、必要な範囲で」
美月は一瞬だけ口元を引き結び、それから大きく頷いた。
彼女はバズを知っている。バズの強さが、時に人を疲れさせることも知っている。
施設管理の職員が、図面を指さした。
「浮力源が庁舎のどこかにあるなら、魔力循環系――地下の魔導炉か、屋上の制御塔か、その両方の共鳴です。現場を見られる人が必要です」
「……現場を見る人」
その言葉を拾ったのは、観光課長の仁科だった。顔色が悪いまま、扉の方を振り返る。
「……たぶん、います」
扉が、やけに元気よく開いた。
◆午前・庁舎屋上ハッチ前
煤と油の匂いが、先に入ってきた。
次に入ってきたのは、ずんぐりした背中と濃い髭、そして作業服。ドワーフ技師のドランが、肩に工具箱を担いでいる。顔の汗を拭いもせず、まず一言。
「いやぁ〜、聞こえとったぞ。庁舎が浮いとるんじゃろ? すまんのう、ワシの手が早かったわ」
「手が早いって言葉で済む現象じゃないですよ」
加奈が思わず言うと、ドランは悪びれず、でも目だけは真面目だった。
「おう、わかっとる。じゃから説明する。温泉の地脈を安定させるために、魔力脈の流れを整えたんじゃがのう、庁舎の魔導循環と“共鳴”してしもうた。流れが噛み合うと、浮力みたいに力が立ち上がるんじゃよ」
「共鳴で浮力、って……」
勇輝が言葉を探していると、ドランが続ける。いつもの勢いで、でも投げない。
「任せろ。ワシが面倒みる。今は暴れとるが、共鳴は整えれば落ち着く。落とさん。落とすわけにはいかんじゃろ、役所を」
最後の一言が、妙に効いた。
役所を落とさない。それは冗談みたいで、でもこの町の生活そのものだ。
「じゃあ、現場で確認しよう。屋上の制御塔と、地下の魔導炉。どっちが引っ張ってる?」
「両方じゃ。上は浮力の舵、下は燃料。片方だけ触ると、逆に荒れる」
「……了解。危ないけど、やるしかないな」
勇輝が頷き、加奈がすぐにメモを取る。美月は、カメラを抱えたまま一歩下がった。撮りたい気持ちがないわけじゃない。でも、今は「人の背中」を邪魔しない距離を選んでいる。
◆正午・上空 雲の縁
庁舎は、雲のすぐ上にいた。
窓から覗くと、雲海が足元を流れている。まるで白い海に、ひまわり市役所という四角い島が浮かんでいるみたいだった。
地上は、遠い。
遠いのに、地上の暮らしが見える。商店街の屋根の色、温泉街の湯けむりの筋、広場の人だかり。小さな点みたいな市民が、空を見上げている。
「……上から見ると、町ってこんな形なんだ」
加奈が小さく言うと、勇輝は息を吐いた。
「きれいだな。きれいだけど、観光資源にするには心臓に悪い」
その言い方に、加奈は笑いそうになって、笑わずに堪えた。笑っていい状況じゃない。でも、笑いそうになるくらい、現実が変だ。
庁舎内は、すでに即席の「空中運用」に切り替わっていた。
窓口課の職員が、魔導通信端末の前に並び、地上の臨時窓口と繋がった映像の向こうで「番号札」を呼んでいる。番号札は紙ではなく、光る札になった。
『23番の方、地上の市民ホール窓口へお進みください』
『23番の方、こちら空中庁舎側でも確認できます。お名前と生年月日を――』
妙に落ち着いた声が、雲の上に響く。
おかしさと、頼もしさが同時にある。
総務課は、落下時想定図を更新していた。「落ちたら終わる」という単純な結論を、具体的な手順に変える作業だ。非常階段の使用禁止、窓際の立ち入り制限、書庫の扉固定、重いキャビネットの転倒防止。地味だけど、地味が人を守る。
そこへ、ルナが飛び込んできた。動物保護課の犬耳職員。耳がぴんと立っているのは、緊張の証拠だ。
「主任、外、何か飛んでます! 近づいてきます!」
「鳥? それとも……」
「鳥じゃないです。船です。空飛ぶ船です!」
窓の外に、巨大な影が滑り込んできた。
翼のような帆、腹に走る魔導陣、船体に刻まれた紋章。天空商人ギルドの飛行船だった。堂々としている。つまり、こちらを「事故」とは見ていない。
無線結晶が、ひとつ低く鳴った。
『こちら天空ギルド。ひまわり市庁舎の空域進入を確認した。空域使用に関する手続きの相談を求める』
相談、という言葉が丁寧すぎて怖い。
会議室に戻ると、空気がまた一段張った。
山根が眉を寄せる。
「空に……税があるのか」
「あるんでしょうね。ここは異界ですし」
加奈が苦笑しながら言う。現実を受け止める速度だけは、転移後に鍛えられている。
勇輝は、深呼吸してから言った。
「交渉する。空からの請求は、地上の生活にも影響する。ここで揉めて、落ちる暇はない」
◆夕方・庁舎屋上 空中交渉席
屋上は、風が強かった。
ただの強風じゃない。雲の上を走る風は、肌に触れると冷たくて、耳元で音がする。言葉を運ぶ前に、息が奪われる感じがある。
そこに、飛行船から降り立った青年がいた。
翼を持つ天空族。肩から背にかけて広がる羽が、風を受けて揺れている。表情は穏やかだが、目は油断がない。交渉の目だ。
「天空ギルド代表、レヴィアン。貴市の庁舎が我々の流通航路上に浮遊している。安全上の確認と、空域使用の整理をしたい」
「ひまわり市・異世界経済部主任の勇輝です。こちらは総務補佐の加奈、広報の美月。まず、航路に支障を出したことは謝ります。意図して進入したわけではありません」
丁寧に言うと、相手も丁寧に返す。
「意図は承知した。だが、空は“道”だ。道に障害物が出れば、事故が起きる。事故は商人だけでなく、市民も巻き込む」
正論だ。
正論だからこそ、こちらの言い分も正論にしないといけない。
「同感です。ただ、現在こちらは着陸に向けた緊急対応中です。空域使用料の話は、正式な協議の場で。今は安全確保を優先し、航路の一部を迂回してもらう代わりに、こちらからも情報提供をします。浮遊の高度、風向、魔力干渉の範囲――」
勇輝が言いながら、加奈がすぐ横で補足の資料を差し出す。手書きの図。矢印。簡潔な数字。こういう時の加奈の資料は、説明より先に人を納得させる。
レヴィアンは紙に目を落とし、少しだけ目を細めた。
「……測れているのか」
「測れていないところは、測れていないと書いてあります。魔力干渉で計器が狂っている。だからこそ、現場の感覚と、複数の手段で照合している」
加奈が淡々と言うと、レヴィアンはふっと息を吐いた。
交渉相手が「ごまかさない」と分かると、話は進む。
「分かった。暫定協定として、貴市は航路情報を共有し、我々は着陸までの時間、空域使用料の徴収を保留する。ただし、落下の危険が高まった場合、我々は安全確保のため強制誘導を行う」
「誘導の方法は?」
勇輝がすぐに聞く。
「牽引ではない。空域の風を変える。航路の風を作るのは、我々の仕事だ」
「……風を変える、って、それ、町の天気も変わりません?」
美月が思わず口にした。広報の心配はいつだって生活側だ。
レヴィアンは、美月の問いに真面目に答える。
「変える。だから“最後の手段”だ。貴市が自力で着陸できるなら、それに越したことはない」
その会話の途中、庁舎の下部から、かすかな焦げ臭い匂いが上がってきた。
ドランが、眉を動かす。彼は匂いで現場を読む。
「……おう。魔導炉の出力が揺れとる。共鳴が、ほどけかけとるのう」
「ほどけるとどうなる」
「浮力が乱れる。乱れると、落ちる。落ちる前に、ぐらぐら揺らす。つまり、今がいちばん嫌なところじゃな」
嫌なところ、という言い方が、妙に現実的で怖かった。
◆夜・庁舎内 落下兆候
夕方から夜へ、空は一気に冷える。
窓ガラスの外側に、薄い霜みたいなものが浮かび、空の膜がさらに揺れて見えた。
庁舎内では、警報が鳴った。
音は電子音なのに、魔法陣の光が一緒に脈打ち、心臓の鼓動みたいに不規則に速くなる。
「浮力、低下! 高度が――」
山根の声が、途中で揺れに掻き消えた。
床が、今度は下へ引っ張られる。
足の裏が、重い。体が持っていかれる。重力が、仕事を始めた。
「落ち始めてる!」
誰かが叫んだ。
勇輝は、会議室の机を叩く代わりに、声のトーンを一段落として言った。
「全員、手順通り。窓際から離れて、重いものは固定。地上に連絡、状況共有。山根さん、避難指示の準備。美月、発信は“落下中”って言葉は使わない。『高度変動が発生、着陸作業に移行』で統一」
「了解!」
美月は即答し、走りながらスマホに文章を打ち込んだ。指が速い。速いのに、言葉は丁寧だ。
加奈が、非常回路の箱を抱えて戻ってきた。鍵付きの金属箱。開ける手が少し震えている。でも、目は迷っていない。
「非常回路、起動できます。……ただ、起動すると、庁舎内の一部の魔導設備が止まるみたいです」
「止める。止めないと、落ちる」
勇輝は即答した。止まるのは「設備」で、人が止まるわけじゃない。
照明がいくつか落ち、廊下が暗くなる。代わりに、床下の魔法陣が青白く光って、道を作った。暗いのに、不思議と怖さが少し減る。光が「手順」を示している。
屋上へ向かう階段に、ドランが先回りしていた。工具箱を開き、札束みたいに分厚い金属板を取り出している。
「おう、よし。今から“重力アンカー”を打つ。庁舎の魔力循環を地脈に繋ぎ直して、浮力の暴れを抑えるんじゃ。ワシの仕事じゃよ」
「それ、打ち損ねたら?」
加奈が思わず聞く。
ドランは、そこで一瞬だけ笑って、すぐに真面目な顔に戻った。
「打ち損ねん。もし危ない兆候が出たら、ワシが先に止める。爆発は……今日は、させん。安心せい」
言い切る声が、風より強かった。
◆夜・庁舎屋上 墜落阻止
屋上に出た瞬間、風が襟元を持っていった。
視界の端で、雲が流れる速度が速い。庁舎が沈むたびに、雲との距離が変わる。高度の数字じゃなく、肌で分かる変化だ。
制御塔のコアは、青白い光を吐きながら脈打っていた。機械の音じゃない。生き物の呼吸みたいな、嫌なリズム。あれが庁舎の浮力を支えて、そして今、支えを失いかけている。
勇輝は息を整え、手袋をはめた。
行政の現場に、手袋が似合う時はだいたい良くない。でも、手袋は役に立つ。
「加奈、非常回路、起動。順番は?」
「主回路を一度落として、補助回路で繋ぎ替えます。……落とす瞬間、庁舎が一回、沈むはずです」
「その沈みを、ドランさんが止める」
「おう。止める。止めて、繋ぎ直す」
ドランが短く言い、金属板をコアの周囲に並べ始めた。板には小さな刻印がある。鍛冶屋の符丁だ。見慣れないのに、頼れる。
美月は屋上への扉のところで、立ち止まっていた。スマホを構え、でも画面をこちらに向けない。録画はしている。けれど、配信はしない。彼女の中で「今は見せない」が選ばれているのが分かる。
「美月、危ないから中に」
「……はい。でも、あとでちゃんと説明するために、音だけは残します。映像は、必要になったら」
勇輝は頷いた。彼女の判断を止めない。止めるより、信じた方が早い。
加奈が、非常回路の札をコアの側面に貼り付けた。札は紙じゃない。薄い金属と魔石の複合。貼った瞬間、ふっと温度が変わる。空気が、少しだけ乾く。
「起動、行きます。……三、二、一」
コアの光が、一瞬だけ弱まった。
その瞬間、庁舎が沈んだ。
ぐん、と足元が下に引かれる。膝が勝手に折れそうになる。身体が自分の重さに負けそうになる。
加奈が歯を食いしばり、手すりを掴んだ。美月が思わず息を呑む音が聞こえた。
「よし来た、ここじゃ!」
ドランが叫び、ハンマーを振り下ろす。
金属板の中心を叩くと、鈍い音と一緒に光が走った。板が、地脈とコアを繋ぐ導線になる。共鳴が、バラバラなリズムから、一つの拍に集まっていく。
「共鳴、整える……いま、流れを一本にするぞ。慌てるでない、押さえるのはワシじゃ」
ドランの声は長く、風に切られそうなのに、妙に耳に残った。声そのものが錨みたいだった。
勇輝は、コアの下にある「行政用の封印箱」を開けた。普段は触らない。触るのは、本当に非常の時だけだ。箱の中には、赤い紐で綴じられた書類が一枚入っている。
『緊急運用票(庁舎設備)』
紙の端に、市の紋章と、魔法印鑑の枠。
これに印を押すと、庁舎の魔導循環が「緊急モード」に切り替わる。つまり、普段の便利を捨てて、命に寄せる。
「これ、押すと、どれくらい止まるんですか」
加奈が息を整えながら聞く。
「全部は分からない。でも止まって困るのは、あとで直せる。落ちて困るのは、直せない」
勇輝はそう言って、印鑑を取った。魔法印鑑は、押すときだけ少し重い。重いのは、責任の分だ、と誰かが言っていた気がする。
押す。
カン、と乾いた音がした。
印の朱が、魔法陣の光と混ざり、コアの脈打ちが一拍遅くなった。暴れていた光が、ゆっくりになっていく。呼吸が整うみたいに。
庁舎の沈みが、止まった。
◆夜・庁舎内 動くための確認
止まった、という感覚は、すぐには信じられない。
庁舎の中に戻ると、職員たちがそれぞれの机に手を置き、揺れが本当に収まったか確かめるみたいに指先で天板を押していた。誰かが笑うでもなく、泣くでもなく、ただ「確認」をする。役所の人間らしい静けさだった。
「落下警報、解除。高度は……緩やかに安定。降下に移行できます」
山根が測定器の表示を見て言う。
「地上窓口から連絡です。『いま、庁舎が落ち着いたみたい』って。市民の方、空を見て拍手してます」
通信担当がそう伝えると、会議室の空気が少しだけほどけた。
美月は、その拍手の話を聞いた瞬間、目を伏せた。
配信したい衝動はある。けれど、拍手は“市民のもの”だ。勝手に切り取って、勝手に消費させたくない。
「……第三報、出します。『安定化処理が完了、着陸準備へ』。市長のコメントも添えます」
勇輝は頷き、短いメモを書いた。
『本件は“事故”として処理する。ただし、対応は“業務継続”を前提とする。記録を残し、次に備える』
書きながら、ふと笑いそうになった。
役所が空に浮いたという前代未聞の事態を、結局「記録を残し、次に備える」で締めるあたり、自分たちは本当に役所の人間だ。
ドランが、会議室の隅で腕を組んでいた。
「おう。今のうちに言うとくがのう、共鳴を無理に切ると反動が出る。降りる時も“ゆっくり”じゃ。急ぐと、また暴れる」
「ゆっくり降りる。……それ、地上の人に伝えていいですか?」
加奈が聞くと、ドランは頷いた。
「伝えてええ。待ってもらうのも仕事じゃ。待てるように、説明するのが役所じゃろ」
その言葉に、勇輝は小さく息を吐いた。
説明する。待ってもらう。
それができれば、派手な奇跡がなくても町は守れる。
風の音が、急に大きく聞こえた。
怖さが消えたわけじゃない。でも、怖さが「次の手順」を邪魔しなくなった。
「……止まりました」
加奈が、信じられないものを見る目で言った。
ドランが大きく息を吐き、髭を撫でる。
「いやぁ〜、よしよし。落とさん言うたじゃろ。まだ終わりじゃないが、峠は越えたのう」
「峠……って、まだあるんですか」
美月が思わず聞くと、ドランは肩をすくめた。
「空に浮いとる時点で峠だらけじゃ。じゃが、峠は越えられる。役所は、越えるためにあるんじゃろ?」
最後の言葉が、妙に優しかった。
◆深夜・空中庁舎 着陸誘導
安定した浮力は、今度は「降りる」という仕事に変わる。
山根が地上の風向と、天空ギルドからの航路情報を突き合わせ、着陸の窓を探している。加奈は市民ホールの臨時窓口へ、着陸時刻の見込みと、地上職員の配置換えを伝える。美月は、落ち着いた言葉で二度目の発信を出した。
《現在、庁舎は高度変動に対応しつつ、着陸作業に移行しています。地上の臨時窓口は継続。危険が及ぶ範囲には近づかないでください》
文章の中に、余計な装飾はない。
でも、読む人が息をしやすい言葉になっている。美月の仕事は、派手じゃないところで効く。
屋上では、レヴィアンが翼を広げ、風の流れを読むように立っていた。
彼は約束通り、最後の手段は使わない。ただ、必要な時に動ける位置にいる。それが、商人の責任でもあるのだろう。
「風の層が下に厚い。無理に降りると、揺れる」
「じゃあ、揺れない時間帯まで待つ」
勇輝が言うと、レヴィアンは静かに頷いた。
「待つのもまた、判断だ。焦りは事故を呼ぶ」
その言葉に、勇輝は少しだけ笑った。
異界でも、事故の基本は同じらしい。
やがて、庁舎はゆっくりと降下を始めた。
雲が近づき、雲を抜けた瞬間、視界が一度白くなる。白の中に、町の灯りが滲む。
地上が、近い。
◆夜明け前・庁舎着陸
庁舎の影が、地面に戻ってきた。
広場の石畳が、窓の外で大きくなる。植え込みが、元のサイズで見える。自動販売機が、いつもの距離に戻る。生活が、腕を伸ばせるところに帰ってくる。
最後に、どすん、と音がした。
衝撃は思ったより小さい。ただ、全員の胸の奥が同時に緩む。息を吐く音が、庁舎のあちこちで重なる。
歓声は上がらなかった。
拍手もない。
役所の人間は、こういう時、まず確認に走る。
「負傷者、いませんか!」
「設備停止、確認します!」
「地上窓口、通常運用に切り替え!」
「広報、第三報出します!」
声が飛び交う。走る足音。紙の音。端末の音。
日常が、また音から戻ってくる。
◆着陸後・庁舎内 事後処理
着陸した瞬間に終わる仕事は、ほとんどない。
庁舎が地上に戻ったあと、職員たちは休むより先に点検へ散った。施設管理はひび割れを探し、総務は非常回路のログを回収し、防災は“今回の避難誘導で詰まった導線”を赤ペンで図面に書き込む。
勇輝の机には、すでに紙が積まれていた。
『浮遊事案 初動対応記録(速報)』
『天空ギルドとの暫定協定書(案)』
『地上臨時窓口 運用実績』
「……実績、って言葉、強いな」
美月が苦笑しながら言う。ほめているのか、呆れているのか、その両方だ。
「実績は残す。残せば、次が少し楽になる」
勇輝がそう返すと、加奈が資料を一枚差し出した。
「市長からです。『今日の件、議会にも説明する。勇輝さん、要点まとめて』って」
「要点……『庁舎が飛んだので、落とさず戻しました』で通りますかね」
「通らないです」
二人のやり取りに、少し遅れて笑いが漏れた。
笑える程度には、戻ってきたということだ。
ドランは廊下で、工具箱を抱えたまま振り返る。
「おう。ワシは温泉地脈と庁舎循環の“距離”を見直す。二度と共鳴させん。ちゃんと原因を書面に落とすから、後で取りに来い。逃げんぞ」
最後の一言が、やっぱり頼もしい。
◆朝・庁舎屋上
空は、もう一枚になっていた。
青が青に戻り、雲はいつもの雲に見える。さっきまでの異常が、嘘みたいに薄い。
屋上の手すりにもたれながら、加奈が小さく言った。
「上から見る町、きれいでしたね。……でも、怖かった」
「うん。きれいなものほど、生活から遠いときがある」
勇輝は、ゆっくり言葉を選んだ。
「町の強さって、派手な瞬間じゃなくて、戻ってこれることだと思う。今日みたいに」
「戻ってこれましたね」
加奈が笑った。涙ではない。笑いだ。そこが、彼女らしい。
少し離れたところで、美月がスマホを見下ろしていた。
トレンド欄に「#空飛ぶ役所」が上がっている。けれど、コメントには意外と怒りが少ない。代わりに「無事でよかった」「窓口続けたのすごい」「地上窓口、案内わかりやすかった」が並んでいる。
美月は、肩の力を抜いた。
そして、いつもの調子で、でも少しだけ優しく言った。
「……次にこれが起きたら、さすがにキャッチコピー考える余裕ないかもです」
「次は起きない方向で頼む」
勇輝が返すと、加奈が首をすくめる。
「“起きない”を条例にしたいです」
「条例にするなら、まず『庁舎は地上にあるもの』からだな」
三人の笑いが、風に混じる。
その笑いは、派手じゃないけれど、確かに生きている笑いだった。
雲の上に行っても、役所の仕事は終わらない。
終わらないからこそ、戻ってこれる。
ひまわり市は今日も、そうやって自分の形を守っていく。
空の冷たさも、雲の匂いも、今日の記録の中に残る。けれど記録は、怖さを増やすためじゃない。次に同じ空を見上げたとき、ちゃんと帰ってくるための地図になる。




