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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第26話「異界動物保護課、暴走!」

◆朝・ひまわり市庁舎


 開庁前の庁舎は、ふだんは紙の匂いがする。コピー機の立ち上がる音、廊下に漂う消毒の匂い、警備員の足音。役所の朝の合図は、だいたい静かなものだ。

 ところが今日は、その静けさが、最初の一声で粉々になった。


「ガオォォォォ……!」


 窓ガラスが震えた気がして、勇輝は思わず立ち止まった。悲鳴、机を引く音、なにか柔らかいものが廊下を駆け抜ける気配。次いで、別方向から高い鳴き声が重なる。


「もふぅぅぅ!」

「ぴぎゃっ、ぴぎゃーっ!」


 そして極めつけに、息を切らした職員の叫び。


「スライム、あっち! いや、そっちは総務課の印鑑棚!」


 加奈が鞄を抱えたまま固まっている。目が合った瞬間、彼女は「え、いま聞こえましたよね?」とでも言いたげに口を開けた。勇輝も頷くしかない。


「聞こえた。しかも種類が多い」


 言っているそばから、廊下の角を曲がってきたのは、犬耳を揺らした職員だった。動物保護課のルナ。制服の上からでも分かるほど全力疾走で、顔色は真っ白、目尻が潤んでいるのに、耳だけは状況の音を拾ってぴくぴく動いている。


「ちょっと! 手が空いてる人、ほんと助けてっ! あの子たち、今日はやたら元気で、鍵も札も意味がなくなっててっ!」


「ルナさん、落ち着いて。何が出たの」


 加奈が呼吸の隙間に言葉を差し込む。ルナは答えようとして、背後を見て声をひっくり返した。


「今、角ウサギが会計課に入った! あ、炎スライムも! それから翼のある猫、照明にぶら下がってます、お願い、見上げないで、落ちるから!」


 美月が、なぜかカメラを抱えて同じ方向から走ってきた。肩で息をしているのに、レンズキャップだけは外れている。


「おはようございます! いや、おはようどころじゃないです! あの、すごい、すごい映像が……!」


「美月、まず安全。撮るのは落ち着いてから」


「分かってます、分かってますけど、身体が勝手に……!」


 美月が悔しそうにカメラを胸に抱え直す。その様子に、ルナが半泣きのまま頭を下げた。


「ごめんなさい、ほんとごめんなさい。昨日の保護が、ちょっと、いや、かなり、想定外で……」


 勇輝は廊下の先から聞こえる更なる騒ぎを聞き取りながら、短く指示を出した。


「加奈、館内放送。『動物逸走』でいい、庁舎内の移動は職員も来庁者も一時停止。美月は広報、現場の映像は今は封印、代わりに注意喚起の文面を作って。ルナさん、出た子の種類と危険度、ざっくりでいい、今すぐ」


「はいっ!」


 ルナは涙を拭く暇もなく頷き、指を折り始める。


「角ウサギは、基本は臆病で噛まないです。机の下に潜ると落ち着きます。翼猫は好奇心で飛びます、落下だけ注意。炎スライムは……熱いです。熱いけど悪気はなくて、たぶん寒がりで温まりたいだけで……」


「熱いのは十分危険だよ。寒がりは後で毛布で対応しよう」


 勇輝は口調を硬くしないようにしながら、でも優先順位だけは揺らさずに言った。


「総務課の備品庫、捕獲ネットとロープ、あと消火器。お願い、今日ばかりは『備品の申請書』より速さを優先してくれ」


 廊下の向こうから「はいっ!」と返事が飛ぶ。役所の職員が一斉に走る音が響き、いつもの堅い空気が、別の意味でひとつにまとまり始めた。


◆午前・庁舎ロビー


 ロビーはすでに、庁舎というより、異界の小さな動物園だった。受付カウンターの前を、角ウサギが机の脚に沿ってぴょこぴょこ移動し、消火設備の前では炎スライムがぷるぷる震えて、見た目だけはゼリーのようなのに近づくと熱気で頬が乾く。

 頭上では翼猫が、警備灯にしがみついて尻尾を揺らし、下を覗いて「にゃ」と鳴いた。鳴き声が可愛すぎて、見上げたくなる。見上げた瞬間に落ちそうで、誰も見上げられない。


「ロープ、来ました! 登山用しかないです!」


 総務課の若手が息を切らしながら抱えてきたロープは、なぜか新品で、タグが付いている。


「どうして登山用が庁舎にあるの」


 加奈が呆れたように聞くと、若手が真面目な顔で答えた。


「異界移住者向けの『山道研修』で、備品として一括購入しました。未使用のまま、たまたま……」


「たまたまが、こういう日に役立つんだな」


 勇輝は感心半分、現実半分で言い、ロビーの中央に簡易の指揮所を作った。机をひとつ寄せて、紙とペンと、貸出用の無線機。そこに貼り出されるのは、いつもの「問い合わせメモ」ではなく、「捕獲状況一覧」だ。


 美月は、カメラを胸に抱えたまま、スマホで文章を打っている。顔は真剣で、指だけがいつもの速度だ。


「『庁舎内で保護動物が一時的に移動しています。安全確保のため、職員の誘導に従ってください。動物への追跡・接触は控えてください』……これでいきます。異界語も併記しますね。『追いかけない』のニュアンス、難しいですけど」


「よし。『追いかけない』は優しく言ってくれ。怒ってるみたいに見えると、混乱が増える」


「はい、語尾を柔らかくします。『どうか、そっとしてあげてください』で」


 加奈は捕獲ネットを受け取り、ロビーの端で翼猫を見上げたまま、声の高さを調整した。


「落ち着いてね。取らないよ。飛ぶのも分かるけど、そこ、ちょっと危ないからさ。いったん降りて、お水飲もう?」


 猫は「にゃ」と鳴いて、警備灯から片手を離しそうになり、慌ててまた掴み直す。職員たちが一斉に息を止めた。


「ほら、言ったそばから」


 勇輝が苦笑すると、ルナが小さく首を振った。


「翼猫は、基本は賢いんです。たぶん、今は……誰かの『もっと自由に飛びたい』って気持ちに引っ張られてる」


「気持ちに引っ張られる?」


 その言葉の端を、勇輝は拾った。異界の生き物は、魔力に反応するだけじゃない。人の感情にも反応する。ここ半年で、何度も見てきた現象だ。


 炎スライムのほうでは、清掃担当の職員が頑張っていた。モップを持つ手が震えながらも、スライムの周りに濡れタオルを置き、熱を落ち着かせる。


「君、寒いの? なら、こっちの毛布、熱に強い繊維だから大丈夫だよ。いや、僕が近づくと熱いから、ほら、これを押して、そこで」


 炎スライムは「ぷす」と音を立て、少しだけ丸く縮んだ。危険は危険だが、悪意の暴走ではない。だからこそ、対処の仕方も変わる。


 角ウサギの捕獲は意外と早かった。会計課の机の下に潜ったところを、加奈が低い姿勢で近づき、静かにネットを被せた。


「大丈夫、大丈夫。捕まえるというより、守るだけだからね。びっくりしたよね」


 ネットの中で角ウサギが震える。加奈は呼吸を合わせるように声を落とし、指先で耳の付け根を撫でた。ウサギの震えが少しだけ弱まった。


 その光景を、ルナが見て泣きそうな笑顔になった。


「……加奈さん、ありがとうございます。そう、そういう触り方です。怖がらせないで、こっちも慌てないで、落ち着かせる」


「うち、窓口で泣いてる人の対応、毎日やってるから」


 加奈の冗談は軽いのに、変に作っていない。現場が少しだけ、息を取り戻した。


 ところがその瞬間、ロビー奥の階段から、どさどさという足音が来た。足音というより、ふわふわしたものが雪崩れてくる音だ。


「……うそ」


 美月が、声だけで状況を察する。ルナが青ざめた。


「来た……夢の子たちが、また増えてる!」


 階段を降りてきたのは、見たこともないもふもふの幻獣たちだった。小さな子犬ほどのサイズのものから、人の腰ほどのふくらみを持つものまで。毛並みは白や灰、淡い金。目は眠そうで、どれも甘い匂いがする。夢の中の枕みたいな匂いだ。


 勇輝は一瞬、危機感より先に「これは庁舎に置いていいやつじゃない」と思った。なぜなら、職員の目が、ほんの少しだけとろけている。


「……かわいい」


 誰かが、言った。

 言ったのは、美月だった。自分で言って、自分で口を押さえている。


「言っちゃだめ、今それ言っちゃだめ。可愛いのは分かるけど、まず運用上、だめ!」


 加奈が必死に理性を引き戻すように言う。勇輝は頷きながら、指揮所の紙に大きく書いた。


【臨時分類:夢由来幻獣(増殖)】

【対応:発生源の鎮静が最優先】


「ルナさん。発生源、どこ」


 ルナは唇を噛み、視線を上へ向けた。


「屋上です。夢獣ベリオが、そこにいます。昨日保護して、隔離室に入れたはずだったんですけど……今朝、鍵が、すり抜けられて」


「すり抜ける、って、鍵の概念が通じないやつだな」


 勇輝は頬を掻き、指揮所を畳むように言った。


「よし。ロビーの子たちの安全を確保しつつ、屋上班を作る。夢獣が原因なら、そこを落ち着かせれば増殖も止まるはずだ。加奈、屋上に行ける? 無理はしないで」


「行きます。窓口より怖くない、とは言いませんけど……今は一緒に動いたほうが、怖さが分散します」


 美月が、カメラをそっとロッカーにしまいながら言った。


「私も行きます。撮影はしないです。代わりに、誰がどこにいるか、連絡を回します。こういう時、情報があるだけで人は落ち着くから」


 勇輝はその言葉に、ちゃんと「ありがとう」と言った。普段なら照れくさくて言い逃しそうな言葉を、今日は逃さない。


◆昼・動物保護課 事務室


 屋上へ向かう前に、最低限の情報を揃える必要があった。動物保護課の事務室は、すでに小さな災害現場みたいになっている。書類は床に散り、机の角には噛まれた跡、棚の端には焦げ跡。紙が焦げた匂いと、毛の匂いと、消毒の匂いが混ざって、鼻の奥が忙しい。


 ルナは椅子に座ることもできず、机に両手をついて頭を下げた。犬耳がしゅんと垂れ、尻尾も見えないところで丸まっているのが想像できる。


「ほんとに、ごめんなさい。昨日、新しく保護した夢獣ベリオの魔力が、夜の間に……市民の『こうだったらいいな』に共鳴して。ほら、異界に来てから、皆さん疲れてるじゃないですか。だから、夢が、ちょっと強くなって」


「夢が強いのは悪くないよ。悪くないけど、庁舎で現実化すると、いろいろ困る」


 勇輝の言葉は、責めるというより、状況を整理するためのものだった。加奈も頷き、手帳を開いて聞き取る。


「ベリオの特徴。危険性、鎮静方法、触れていい範囲。あと、今後の再発防止のために必要だから、できるだけ具体的に」


 ルナは鼻をすすりながら、早口にならないよう言葉を選んだ。


「ベリオは、白虎に近い体格です。でも性格は大人しい。人の夢を見て、その願いを『形』にする。強い願いほど現実化しやすい。危険なのは、願いが増殖を呼ぶことです。『もふもふに囲まれたい』って思う人が増えると、その分、周囲に幻獣が増える」


「今の庁舎、もふもふ増殖の好条件すぎる」


 美月が真顔で言い、すぐ自分の真顔に驚いたように口を押さえる。


「いや、真顔になるところじゃない、でも、そうなんです。だって、全員疲れてるし、癒し欲が……」


 加奈が苦笑して、書類の端にメモした。


【庁舎内の癒し欲、増殖要因】


「鎮静方法は?」と勇輝が聞くと、ルナは引き出しから札の束を出した。和紙のように見えるが、端に微細な魔文字が走っている。


「夢印札です。寝ている個体に貼ると、魔力の流れが落ち着きます。ただし、起こすと逆に『もっと夢を見たい』って反発してしまう。だから、静かに、短時間で、複数人で。ひとりで近づくと、吸い込まれます」


「吸い込まれる?」


「もふもふに」


 ルナの真面目な説明に、加奈が笑いそうになって堪えた。勇輝は一度だけ目を閉じた。今日の庁舎に必要なのは、笑いと、気を抜かないことの両方だ。


「分かった。屋上班、夢印札を持つ。念のため、結界札も。あと、落下防止のロープ。総務課の登山用、出番だ」


 美月が無線に向かって、落ち着いた声で指示を飛ばす。


「ロビー班、炎スライムは濡れタオルと耐熱毛布で鎮静優先。翼猫は安全マットを下に敷いて、誘導。角ウサギは暗所で落ち着かせて、保護課へ搬送。屋上班が動くまで、来庁者の動線は受付側で止めてください」


 いつもの明るい声とは違うのに、きつくない。不思議と聞きやすい声だ。勇輝は胸の奥で、広報という仕事の重さを改めて感じた。


◆午後・庁舎屋上


 屋上に出た瞬間、風の匂いが変わった。いつものコンクリの乾いた匂いじゃなく、柔らかい甘い匂いが混ざっている。夢の匂い。そんな言い方をしてしまうのが、この町の怖さであり、面白さでもある。


 屋上の中央に、ベリオはいた。

 白虎のような巨体。毛並みは雪のように白く、ところどころに淡い金の模様が浮かんでいる。寝息は深く、胸がゆっくり上下するたびに、周囲の空気がふわりと揺れる。その揺れに合わせて、小さな幻獣たちがころん、と寝返りを打つ。まるで巨大な布団の上で、みんなが昼寝しているみたいだった。


「……でかい」


 勇輝が小声で言った。声が硬くなるのを自分で抑えたのか、語尾が丸い。


「可愛い、けど、でかいです」


 加奈も同じ温度で返す。二人の後ろで、ルナが深呼吸して、犬耳を立て直した。


「大丈夫。ベリオは、怒ってない。今はただ、夢を見てるだけ。だから、私たちも『早く終わらせたい』って焦らない。焦りは夢に流れ込みます」


「焦りが燃料になるのは、なかなか厄介だな」


 勇輝は苦笑した。笑いながらも、手は札をしっかり握っている。


 作戦は単純だ。静かに近づき、夢印札をベリオに貼る。周囲の幻獣にも貼る。魔力の流れが落ち着いたら、増殖は止まる。止まったら、ロビーの子たちは徐々に消えるか、もしくは保護課で管理できる。

 ただし、単純な作戦ほど、現場では難しい。


 勇輝が一歩踏み出した瞬間、ふわり、と足首に柔らかい毛が絡んだ。毛が絡んだというより、優しく抱きしめられた。足元の感覚が消え、膝が笑う。


「……危ない」


 危ないのは転倒ではない。気持ちよすぎて、立っている理由を忘れそうになるほうだ。


「勇輝さん、目が遠い!」


 加奈が慌てて腕を掴んだ。引っ張られるのに、勇輝の身体は抵抗しない。抵抗する理由が、毛の中に埋もれていく。


「いや、抵抗は、してる……してるつもりなんだけど、これ、幸福感が……」


「幸福感は後で! 後で温泉でいくらでも!」


「温泉と同列に置くな、でも分かる」


 加奈が真顔で言うから、余計に笑いそうになった。ルナが低い声で号令をかける。いつもの柔らかい雰囲気の彼女が、現場の責任者の顔になる瞬間だ。


「屋上班、静音接近。札は一枚ずつじゃなく、合図で一斉に貼る。もふもふに負けないで。負けると寝ます」


「寝るのは困るな」


 勇輝が息を整えた時、美月の無線が小さく鳴った。ロビー班からだ。


「屋上、こちらロビー。幻獣、さらに増えました。職員が『かわいい』って言いかけてます。止めてますけど、気持ちが漏れます」


「分かった。屋上で落ち着かせる。あと、『かわいい』は悪い言葉じゃないから、止めるなら『かわいいけど今は我慢』で。責めないで」


 勇輝はそう返し、目の前のベリオを見上げた。眠っている顔は、あまりに穏やかで、これが騒動の中心だとは思えない。だからこそ、こちらが乱暴になれば壊れる。壊したくない。役所が守るのは、人だけじゃない。今はそれがはっきり分かる。


 ルナが手のひらを上げた。


「合図、いきます。三、二、一」


 屋上班が一斉に動いた。勇輝はベリオの肩のあたりに札を貼り、加奈は首筋の毛の流れに沿って札を押さえる。ルナは胸元へ、慎重に、でも迷いなく。


 札が触れた瞬間、薄い光が走った。派手な光ではない。夜の街灯のように、安心を足す光だ。ベリオの寝息が一度、深くなり、周囲の幻獣たちが「ふぁ」とでも言いたげに小さく伸びをした。


「……効いてる」


 加奈が囁く。声が震えているのは怖さじゃない。うまくいった手応えのほうだ。


 追加で、小さな幻獣にも札を貼っていく。手際は良いのに、急いでいる感じがしない。みんな、可愛いものを相手にすると自然と動きが丁寧になる。皮肉ではなく、救いだ。


 最後の一枚を勇輝が押さえた瞬間、ベリオが大きくあくびをした。牙が見える。大きい。怖いはずなのに、あくびの間抜けさで、怖さが半分になる。


「起きる!?」


 誰かが言いかけたが、ルナが首を横に振った。


「大丈夫。起きない。起きる前に、夢がほどける」


 言葉どおりだった。

 ベリオの身体から、細かな光の粉がふわりと舞った。雪みたいに見えて、触れたら消える。粉が風に運ばれるにつれ、周囲の幻獣たちが少しずつ透明になり、最後は笑うみたいに消えていく。


 屋上に残ったのは、寝ているベリオと、札の光だけだった。


 美月が、胸の奥から息を吐いた。


「……よかった。これ、撮ってないのに、ちゃんと覚えてる。あとで文章にします。『屋上で、夢が静かにほどけた』って」


「いいね。そういう言葉、災害対応の記録にも使える。現場の空気が伝わる」


 勇輝が言うと、美月は目を丸くした。


「え、行政文書に『ほどけた』って入れていいんですか?」


「入れていいかは検討する。でも、現場はそうだった。事実として、ちゃんと残したい」


 加奈が笑った。


「主任、今日はやけに詩人ですね。もふもふのせいですか」


「もふもふのせいにするのは便利すぎるから、半分は俺の責任にしとく」


 ルナが、ようやく涙を拭いた。犬耳が少し持ち上がり、声も柔らかく戻る。


「ありがとうございます。みんなが手伝ってくれたから、ベリオも怖がらなかった。保護って、ほんとはこうやって、町全体でやるものなんだ」


 その言葉に、勇輝は頷いた。頷きながら、頭の中で次の仕事を組み立てている自分に気づく。役所の人間は、安心した瞬間に「次の手続き」を考え始める。悪い癖でもあり、守り方でもある。


◆夕方・庁舎ロビー


 屋上で鎮静が進んだ頃、ロビーの空気も変わり始めていた。幻獣たちは増えるのをやめ、代わりに少しずつ薄くなっていく。翼猫は安全マットの上にふわりと降り、角ウサギは保護課のケージで落ち着き、炎スライムは耐熱毛布の上で丸くなった。


「熱は落ち着きました。たぶん、安心してます」


 清掃担当の職員が言うと、加奈が「ありがとう」と深く頭を下げた。短いけど、礼はちゃんと重い。


 来庁者の誘導も再開された。窓口はまだ混乱しているが、パニックではない。美月の注意喚起が効いているのだろう。『追いかけないでください』が、『そっとしてあげてください』に変わるだけで、人の動きは変わる。


 勇輝は指揮所の紙を回収し、最後にロビーの中央で一度だけ深呼吸した。今日は、机に向かって書類を積む日じゃなかった。走って、声を出して、誰かを落ち着かせて、そして動物も落ち着かせた。行政の現場には、こういう日がある。だからこそ、準備がいる。


 ルナが、炎スライムのケージを撫でながら言った。


「この子、名前をつけていいですか。名前があると、落ち着くんです。人も、動物も」


「いいよ。ただ、名前をつけたら責任も増える。そこだけ忘れないで」


 勇輝の言葉はきつくない。ただ、支えるために釘を一本だけ打つ。


「分かってます。責任、持ちます。だから、今日の件も、ちゃんと報告書に書きます。叱られるのは、怖いけど」


「叱る目的じゃない。次に守るための材料にする。怖がらせる言い方はしない。そういう報告書にしよう」


 加奈が横で頷く。


「ルナさんの説明は、現場の人に伝わる言葉だった。『寒がりだから温まりたい』って、すごく大事。危険の前に、理由を見る。役所の現場にも、必要な視点です」


 ルナの耳が、少しだけ嬉しそうに立った。


「……加奈さん、そういう褒め方、ずるいです。泣く」


「泣くのは今日くらいにして。明日からは、手順書作りで泣くかもしれないから」


「うわ、現実!」


 美月が笑い、すぐ真面目な顔に戻った。


「でも、私、広報としてやることがある。『動物保護課が暴走した』って言い方は、面白いけど、人が怖がる。だから、『保護動物が一時的に庁舎内を移動した』って書く。で、最後に『今後の安全対策を強化します』。これなら、安心が残る」


「それでいい。面白さは、記事じゃなくて、記録の中に残せばいい。必要な人だけが見ればいい」


 勇輝が言うと、美月は「了解です」と頷いた。笑いと責任の境界線を、ちゃんと踏み外さない。彼女もまた、この町の一員だ。


◆夜・庁舎前


 日が落ちると、庁舎はようやく、いつもの役所の顔に戻っていった。窓に灯る蛍光灯の色は、朝と同じなのに、今日は少し温かく見える。たぶん、みんなが一日でいくつも助け合ったからだ。


 庁舎前のベンチで、勇輝と加奈、美月、ルナが並んで座った。缶のお茶を開ける音が、やけに静かに響く。遠くの街灯の下で、ベリオの毛が一本だけ、風に舞っていた。落ちる前に消えて、まるで光の糸みたいだった。


「……ベリオ、悪気はなかったんですよね」


 加奈がぽつりと言う。声は疲れているのに、角がない。


「うん。夢が溢れただけだ。溢れた夢が、たまたま庁舎に向いただけ」


「夢が庁舎に向くの、うちの町らしすぎる」


 美月が苦笑して、でもその苦笑は嫌なものじゃない。


「市役所って、願いが集まる場所だから。書類も、相談も、ため息も、期待も。だから夢獣にとっては、すごく居心地が良かったのかも」


 勇輝はその言葉に、少しだけ驚いた。美月の視点は、広報の言葉だけじゃない。町の空気を掬う視点でもある。


 ルナが、缶を両手で包みながら言った。


「じゃあ、私たちの仕事は……夢が溢れても、誰も困らない形に整えること、ですね。夢を消すんじゃなくて、ちゃんとしまう場所を作る」


「それ、いいな。『夢の管理』って、堅い言葉だけど、悪くない」


 加奈が笑う。


「管理職の仕事が、まさか夢の管理になるなんて。今朝は思ってませんでした」


「思ってなくていい。思わない日でも、やる日が来る。だから、次は手順書だ」


 勇輝が言うと、三人が同時に「現実だ」と顔を見合わせた。笑いが小さく漏れて、夜風に溶ける。


 勇輝は最後に、庁舎の明かりを見上げた。あの中で、今日も誰かが仕事をしている。紙を整える人もいる。動物を落ち着かせる人もいる。言葉で人を支える人もいる。全部がひまわり市の行政だ。


「今日の件、明日には『いつもの話』になって、また次の案件が来る。でも、今日助かったことは、ちゃんと残る。残るように、残す」


 加奈が小さく頷いた。


「はい。残しましょう。『動物にやさしい行政』って、キャッチコピーにするかどうかは、明日の会議で揉めそうですけど」


 美月が手を挙げる。


「揉める前提で案を作っておきます。『ふれあい庁舎』は封印で。代わりに『動物保護と安全運用の両立』にします。文字数、固くなるけど」


「固くなったら、私が柔らかくします」


 加奈が言い、ルナが笑った。犬耳が、夜風に揺れた。


 ひまわり市は、今日も夢を抱えて動いている。

 その夢を、誰かが守り方に変える。役所という場所は、たぶんそういうところだ。

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