第24話「温泉郷の竜神騒動」
◆朝・新温泉街(異界共栄温泉郷/ヒマゆ)
朝の冷えた空気は、山の匂いが濃い。ひまわり市の背中に張り付く森が、転移後に少しだけ近くなったせいで、吐く息がいつもより白く見えた。
その白さに紛れるように、完成したばかりの新施設からも、うっすらと湯気が立ちのぼっている。
【異界共栄温泉郷(通称:ヒマゆ)】
観光課が“総力”と言ってよいほどの人手と稟議と根回しを積み上げてきた新温泉街だ。木造の大屋根はひまわり市らしい落ち着きがあり、そこに異界式の装飾が控えめに溶け込む。派手すぎない。けれど、見ているだけで「ここに来たら何かいいことがありそうだ」と思わせる、ちょうどよさがある。
暖簾の端には、異界の魔文字で小さく「湯に礼を」と書かれていて、これは市長の鶴の一声で追加されたと聞いた。
「……ここまで来たら、もう開業するしかないよね」
開業前日の“試験湯張り”を見守りながら、美月は端末を抱えたまま、半分本気で祈っていた。祈りながら、もう半分はカメラの角度を探しているあたりが、彼女らしい。
「美月、祈るのはいいけど、足元な。今の床、まだ完全に乾いてない」
勇輝が言うと、美月は慌てて一歩下がり、端末を胸に抱え直した。
「すみません主任。……でも、見てくださいよ。湯気の出方、もう“それっぽい”です。ここ、絶対人気出ますって」
「人気が出るのはいい。問題は、人気が出たあとに壊れないことと、勝手な持ち帰りが発生しないことと、湯の管理が回ることだ」
「主任、顔が経済部のままです」
加奈がパンフレットの束を抱え、苦笑いで差し入れた。紙の角がぴしっと揃っている。観光課が作ったものだが、加奈が一度目を通して直した跡が見える。言葉の角を落として、でも曖昧にしない。そういう作業は、いつも彼女が一番丁寧だった。
「観光課、今日は“はしゃいでいい日”だからさ。勇輝さん、せめて一回くらい『いいね』って言ってあげて」
「……いいね。ここまで来るの、ほんとに大変だっただろ」
勇輝が素直に言うと、加奈は少しだけ肩の力を抜いた。美月は「今の、録音しとけばよかった」と小声で言いかけて、加奈に視線で止められている。
そこへ、観光課長の仁科が走ってきた。走るたびに胸元の名札が踊っている。普段の庁内では、こういう走り方をした人から先に「危ないので歩いてください」と注意されるのだが、今日は誰も言わない。
「皆さん! いよいよ試験湯張りです! ボイラー最終確認、配管のチェック、源泉温度、成分、流量、全部オッケー! あとは湯が、湯が……ちゃんと“湯”として出てくれれば!」
「最後が一番大事なんですよね」
加奈が優しく返すと、仁科は「そう!」と大きく頷いた。
湯張り開始の合図が出される。
露天源泉の中央、湯だまりの底に設けられた取水口から、ゆっくりと温かい水が満ちていく……はずだった。
ボコボコ……ッ。
最初に聞こえた音は、小さな泡の弾ける音に似ていた。温泉では珍しくない。炭酸泉や硫黄泉ならなおさらだ。けれど、それが一つ二つではなく、湯面全体が「うねる」ように泡立ち始めた瞬間、誰もが立ち止まった。
「……え、ちょっと待って。これ、泡ってレベル?」
美月の声が消えかけた時だった。
ドンッ、と地面が鳴った。
続けて、湯面が盛り上がり、巨大な水柱が空へ突き上がる。
湯気が、壁みたいに立った。
「退避! 退避してください!」
現場監督が叫び、作業員たちが反射的に下がる。湯に触れたら火傷する、ではない。今の勢いは、湯そのものが“当たりに来ている”。
水柱の中心で、何かが光った。
黄金の鱗が太陽を弾き、湯煙の向こうに、威厳そのものみたいな輪郭が立ち上がっていく。
現れたのは……竜神。
湯の中から、首が。胴が。翼が。
巨大な影が一つの存在として形を整え、露天源泉に鎮座する。湯は彼の背に沿って流れ落ち、鱗の隙間をなぞって、また湯だまりへ戻っていく。
「この泉は、わが聖域である。誰が、勝手に掘り返した」
低く、しかし透き通った声が温泉街に響いた。声というより、空気に書き込まれる宣言のようで、聞いた瞬間に身体の奥が「はい」と答えそうになる。
鳥が一斉に飛び立つ。
木の葉が逆立つ。
人だけが、立ち尽くした。
「……広報的に、これ……どうする?」
美月が震える声で、勇輝にだけ聞こえるように言った。
「どうするって……まず、怪我人が出ないようにする」
勇輝は息を吸って、足を一歩前に出しかけた。だが、加奈が袖を掴む。
「勇輝さん、今、前に出ると“怒らせた人”になります。ここは、一回、引きましょう。まず会議です」
「……そうだな」
勇輝が頷いた、その瞬間。
竜神の視線が、こちらに向いた気がした。気がした、では済まない圧がある。見られたというより、存在を測られた。
「人の町の者よ。……湯を、乱すな」
それだけ言うと、竜神は湯の中へ沈むように身を伏せた。湯気が濃くなり、黄金の輪郭がぼやける。消えたわけではない。そこに“いる”まま、こちらの手を待っている。
仁科が顔色を失い、両手で頭を抱えた。
「開業式……明日なんです。明日なんですけど……」
勇輝は、湯気の向こうの露天源泉を見つめたまま、静かに言った。
「……明日を迎えるために、今から走ろう」
◆昼・市役所(緊急会議/観光課+異世界経済部+環境担当)
市役所の会議室には、いつも以上に紙が集まっていた。
温泉開発関係の資料だけで、机が一枚では足りない。工事の許認可、掘削の届出、環境影響のメモ、異界側との協定案、観光動線計画、消防の点検記録、そして「湯守りマニュアル(仮)」。
勇輝は資料の束の上に、現場で撮った写真を置いた。
湯煙の向こうで、黄金の鱗がのぞく。写真なのに、圧が残っている気がして、思わず視線を逸らしたくなる。
「……まさか源泉の真下に“竜神の棲み処”があるなんて、調査に出てない」
観光課長の仁科は、額の汗をハンカチで拭きながら、必死に落ち着こうとしていた。落ち着こうとしているのに、言葉が急ぐ。
「地質調査はしました! ボーリングもしました! 異常なしって……え、でも、竜神って、地質調査に引っかかるんですか!?」
「引っかからないと思う。たぶん、“異常”じゃない側にいる」
加奈が言うと、仁科は「そこが一番困る!」という顔をした。
市長がバインダーを開き、淡々と確認していく。こういう時、彼女の声が落ち着いているだけで、会議室の空気が少しだけ整う。
「現場は一時閉鎖。立入禁止の掲示は?」
「貼りました。異界語と日本語と、絵で。……でも絵が難しいです。竜神の絵、失礼になりそうで」
「失礼にならない絵は、失礼にならない気持ちで描くしかないね。美月、頼める?」
「……え、私ですか。絵、得意じゃないですけど……でも、写真はあります。シルエットなら」
美月がそう言って、端末を見せる。竜神の輪郭が、湯煙の向こうに滲む写真だ。仁科が「あ、それなら…」と小さく頷く。
勇輝は資料を一枚抜き、指でトントンと叩いた。
「問題を整理する。竜神が怒っている理由は、工事そのものの不敬もあるだろうけど、あいつ……いや、竜神様が言ってたのは“湯の質”だった」
「“湯の質”……?」
加奈が繰り返すと、勇輝は頷いた。
「現場で沈む前に『湯を乱すな』って言った。乱すって、湯量の話か、成分の話か、温度の話か。あるいは、利用者の振る舞い」
その瞬間、仁科がぽつりと呟いた。
「……うるさいタイプらしいんです。温泉マナーに」
「温泉マナー?」
加奈が思わず聞き返す。
市長が、資料の端に付箋で書かれたメモを読み上げた。
「“湯の礼節を欠く者に湯は応えない”。観光課のフィールドノートね。誰が書いたの?」
仁科が、そっと手を挙げた。
「……私です。すみません、半分伝聞で。異界の温泉守の方に聞きました」
「謝らなくていい。今、その情報が一番価値ある」
市長はそう言い切り、勇輝に目を向けた。
「交渉する。礼を尽くして、ルールを作って、管理する。いつもの、ひまわり市のやり方で」
勇輝は、少しだけ笑った。
「いつもの、が今回も通じるといいけどな」
「通じるようにするのが役所の仕事よ」
市長の言葉は強いが、きつくはない。背中を押す強さだ。加奈がそれを受け取って、資料に目を落とす。
「交渉に行くなら、準備が必要です。まず“何を約束できるか”。聖域って言われた以上、勝手に使い続けるのは無理。だから……“聖域協定”を結びましょう。温泉協定の、竜神版」
美月が顔を上げた。
「協定書、また勝手に光って書き上がるやつですか?」
「今回は、勝手に書かせない。こちらのルールを、こちらの言葉で用意して持っていく。相手の言葉も聞いて、すり合わせる」
勇輝が言うと、加奈は「うん」と頷いた。その頷きが、会議室の空気を一段静かにする。
「そしてもう一つ」勇輝は続けた。「明日、開業式を中止するかどうか。これは、決めないといけない」
仁科が喉を鳴らす。市長は即答しなかった。バインダーを閉じ、視線を上げる。
「中止は最終手段。延期も含めて、今日中に判断する。だけど……竜神が“預ける”と言ってくれるなら、開業はできる。そうなるように、今日、勝負しよう」
「……勝負って言い方、かっこいいです」
美月が小声で言うと、加奈が肘で軽く小突いた。
「美月、今は“かっこいい”じゃなくて“安全”ね」
「分かってます、分かってます。安全が一番、って書きます」
市長が立ち上がり、会議は動き出した。
交渉班、資料班、現場対応班、そして広報班。ひまわり市役所は、こういう時だけ妙に機械みたいに役割分担が早い。
勇輝は最後に、仁科へ言った。
「白装束、用意できる?」
「はい! 神様相手ですから!」
仁科の返事が早すぎて、加奈が吹き出しそうになった。
◆午後・竜神の泉(白装束と礼節の交渉)
現場に向かう車の中で、白装束の袋が揺れる。
白い布が、やけに“厳かな行事”の匂いを出している。
「ねえ、これ、本当に必要?」
美月が袋を指でつまみながら言うと、仁科が真剣に頷いた。
「必要です。こういうのは、気持ちの形です。形があると、こちらも背筋が伸びる」
「背筋は伸びるけど、私、絶対写真に残したくない……」
「残します。後で“竜神交渉班の覚悟”って」
「やめて!」
加奈が笑いながら、でも声は落とさずに言う。
「美月、広報はあとでね。今は、相手を怒らせないことに集中しよう」
白装束を着せられた三人……勇輝、加奈、美月は、湯気の濃い露天源泉へ近づいた。
足元の木道は新しい木の香りがする。そこに、湯の匂いが混じる。硫黄ではない。もっと柔らかい、土と水の匂いだ。
湯気の向こう、黄金の鱗が光った。
竜神オルディアは、湯だまりの中央に鎮座していた。目を閉じている。眠っているのではない。こちらが“礼”を整えるのを待っている。
勇輝は深く一礼した。深すぎたら湯に顔が近づきすぎるので、途中で加奈が袖を引く。勇輝は喉の奥で小さく咳払いして、姿勢を正す。
「ひまわり市・異界経済部の勇輝と申します。こちらは、関係担当の加奈。広報担当の美月です。……このたびは、聖域に不敬を働きました。まず、お詫びを」
湯気が揺れ、オルディアが片目を開けた。
「詫びは言葉で足りる。しかし、湯は言葉で癒えぬ。そなたら、湯を“使う”と言ったな。使うなら、守れ」
加奈が一歩前に出た。手に持ったファイルの角が、湯気で少し湿る。それでも彼女は、落ち着いた声で言った。
「守ります。だからこそ、伺いました。オルディア様が“守ってほしいこと”を、きちんと聞いて、私たちのルールとして町に落とし込みたいんです」
オルディアの尾が、湯の中でゆっくりと動いた。湯面が波を打ち、温泉街の空気が一瞬だけ張る。
「……よい。問うがよい。だが、先に答えよ。そなたらが今、満たした湯。あれは」
オルディアは、黄金の舌で湯をひとすくいし、口へ運ぶ。
そして、ひと舐めした。
「……ぬるい」
その一言で、場の緊張が別の方向にほどけた。驚きの方へ。
「ぬるい、ですか?」
勇輝が思わず聞き返すと、オルディアはわずかに目を細めた。
「温度だけの話ではない。湯は、温もりだけで湯にならぬ。湯は“息”だ。大地の息、人の息、祈りの息。それが合わさって湯となる。そなたらの湯は、息が足りぬ」
美月が思わず、端末の録音ボタンを押しそうになり、加奈に視線で止められる。今は記録より礼だ。
「息が足りない……」
加奈が繰り返し、勇輝は頭の中で“霊温”“神気”“感謝”といった単語を並べた。現場で分かったことは二つ。オルディアは単なる怒りではない。管理者として、湯の在り方を語っている。そして、この相手は……話せる。
「オルディア様。ひまわり市は、源泉を町の資源として使いたい。けれど、聖域であるなら、勝手にはできません。だから、協定を結ばせてください。湯の守り方、利用の仕方、礼節、禁止事項、全部」
勇輝がそう言うと、オルディアは鼻先で湯をかき混ぜた。湯気が、少しだけ金色に濃くなる。
「協定。……人の世は、紙で縛るのが得意だな」
「縛るためじゃないです。守るためです。守るために、皆に伝えるために」
加奈が柔らかく言った。その言い方が、オルディアの耳に届いたのか、竜神は目を閉じて、ゆっくり頷いた。
「ならば、試せ。そなたらの町の者が、湯に礼を尽くすかどうか。礼が湯に届けば、湯は応えよう」
「……町の者、ですか」
美月が小さく呟く。彼女は広報の人間だ。町の人が集まる場を作るのは、彼女の得意分野でもある。
「集めます。今夜。いや、今日のうちに」
勇輝が言い切ると、オルディアは低く喉を鳴らした。笑い声に似ているが、竜が笑うとそれは“地鳴り”に近い。
「よい。だが、忘れるな。礼節とは形式ではない。そなたらが白を纏ったのも、形の話ではない。心が伴うなら、形は力になる」
仁科が後ろで「聞きましたか、白装束!」と小声で勝ち誇りそうになり、加奈が振り向いて口元に指を当てた。
◆夕方・市役所(霊温と“湯の礼”の条例案)
市役所に戻ると、会議室はすでに“臨時の執務室”になっていた。
机には温泉成分表、温度ログ、流量データ。そこに、加奈が作った「竜神交渉メモ」が重ねられる。箇条書きの中に、「湯は息」「礼節」「祈りの息」「温度だけではない」と、丁寧に言葉が残っている。
「つまり、霊温ってやつだね」
市長が言うと、仁科が慌てて手を挙げた。
「霊温って、正式な単位なんですか!? 条例に書けます!?」
「単位にするんじゃない。概念として扱う。例えば……“湯の活性度”として、指標を作る」
勇輝が答え、ホワイトボードに線を引いた。
「科学の指標(温度・成分・流量)と、異界の指標(霊温・神気)を並べる。どっちも“湯の状態”を示す。なら、二つを合わせて管理するのが自然だ」
美月が端末にメモしながら、ちょっと顔を上げた。
「……それ、言い方次第で“科学と魔法の温泉管理”になりますね。観光的には強いです。でも、煽りたくない。ちゃんと、守ってる感じで出したい」
「守ってる感じ、じゃなくて、守るんだよ」
加奈が笑いながら、でも真面目に言う。
「今夜、町の人を集めて祈りを捧げる。祈りって言うと、宗教っぽいって不安に思う人もいるかもしれない。だから、言葉を選ぼう。“感謝の言葉を湯に届ける会”とか」
「……加奈、それだ。行事名、決まった」
市長がすぐにメモを取った。行事名が決まると、人は動ける。役所は特に。
勇輝は資料の一枚を引き寄せ、仁科に言った。
「観光課、今夜の会、現地の安全確保できる? 足元、滑る。熱い湯もある」
「できます! 導線ロープ、照明、滑り止めマット、警備員、全部手配します!」
「美月、広報は?」
「……拡散は、急がない。まず“参加のお願い”だけ。町内放送は今夜、必要最低限。SNSは、落ち着いた文面にします。『湯に感謝を届ける時間』って感じで」
加奈が頷く。
「うん、それなら、誰も置いていかない。信じてる人だけが来る空気にしないで、来た人が自然に『ありがとう』って言える場にしよう」
勇輝はペンを走らせた。
協定案の表紙にタイトルを書く。
《源泉聖域協定(案) 竜神オルディアとの湯守り条項》
条項の一つ目に、こう書いた。
【第一条】本泉は「共有の恵み」であり、利用者は湯に礼を尽くす。
役所の文章としては少し柔らかい。けれど、それが必要だと、全員が分かっていた。
◆夜・ヒマゆ(感謝の灯と“生きた湯”)
日が落ちると、山の冷気が戻ってきた。
その冷気の中に、蝋燭の灯が一つ、また一つと増えていく。電気の明かりもあるが、今夜は“灯す”こと自体が意味になる。美月が提案し、加奈が「安全管理を徹底するなら」と条件付きで承認し、仁科が嬉しそうに準備した。
集まったのは、観光課の職員だけではなかった。
近隣の旅館の女将さん、清掃班、地元の消防団、そして異界の住民たち。エルフの旅人が静かに列に混ざり、獣人の家族が子どもの手を引いてくる。スライムの親子が、ぷるぷると灯りの反射を揺らしていた。
勇輝はマイクを持つのをやめ、肉声で話した。こういう場で大声を出すと、場の温度が変わる。
「今日は、お願いがあります。難しいことじゃない。ここに来た人は、湯に向かって“ありがとう”って言ってほしい。……それだけです」
ざわめきが、少しだけ柔らかくなる。
「湯は、ただの資源じゃない。町を支えてきたものだし、疲れを流してきたものだし、誰かの背中を温めてきたものだ。異界の方も、人間も、同じように」
加奈が隣で頷き、そっと前へ出た。
彼女は両手を合わせ、湯気の向こうの源泉へ目を向ける。
「この湯に感謝を。今日も一日、歩けたことに感謝を。家に帰れることに感謝を。……そして、この町に来てくれた人たちに感謝を」
言葉が、湯気の中に溶ける。
それに続いて、誰かが小さく「ありがとう」と言った。次に、子どもが真似して言った。獣人の母親が、少し照れながら言った。エルフの老人が深く頭を下げて言った。スライムがぷるん、と身体を揺らして「ありがとぷる」と言った。
その瞬間だった。
湯面が、ふわりと光った。
湯の花が舞うように浮かび、湯気が淡く金色を帯びていく。まるで湯そのものが、灯りを受け取って笑っているみたいだった。
成分計の画面が一度ノイズを走らせ、次の瞬間、数値が安定する。温度計の針が、じわりと上がる。上がり方が“自然”だ。誰かがボイラーをいじったわけではない。
「……これが、霊温」
仁科が息を呑んで言った。加奈は「言い方が急に専門っぽい」と小声で返すが、目は湯から離せない。
湯気の奥で、黄金の鱗が動いた。
オルディアがゆっくりと姿を現す。今度は、水柱ではない。静かに、礼を返すように。
「……よい」
オルディアの声が、今夜は優しい。怒りの重さではなく、納得の重さだ。
「湯は応えた。そなたらの町は、湯に礼を尽くした。……湯が生きた」
湯面が“呼吸”するように揺れ、温泉街の空気がほんの少し甘くなった。美月は目を潤ませかけて、慌てて端末を胸に抱え直す。泣くならあとで。今は記録と安全だ。
勇輝は一歩前に出て、深く一礼した。今度は加奈も止めない。湯に顔が近づきすぎない角度で、きちんと。
「オルディア様。協定を結ばせてください。聖域を守りながら、町の人の湯として、育てていく」
オルディアは、少しだけ首を下げた。竜が首を下げると、それは“相手を認める”という意味になる。見上げる側の首が痛くなるほど、価値がある。
「よかろう。預ける。だが、礼節を忘れるな。湯を汚す者、湯を奪う者、湯を軽んじる者……その時は、湯は閉じる」
勇輝は頷き、加奈が続けて言った。
「閉じないように、ルールを作ります。掲示して、説明して、守れるようにします。……オルディア様にも、確認をお願いしたいです。内容、失礼がないか」
「読む」
短い返事だったが、それは十分な約束だった。
美月がそっと息を吸い、勇輝に囁く。
「……主任。これ、明日の開業式、いけます」
「いける。でも、無理はしない。式は縮小。安全確認を最優先。観光課、そこは譲らない」
「譲りません!」仁科が即答し、すぐに「譲れません!」と言い直した。譲らないと譲れないが混ざっている。
加奈が笑って、でも目は真剣のままだ。
「大丈夫。みんな、同じ方向を見てる。今日の湯が、そう言ってる」
◆翌日・開業式(竜神公認と、湯守りのはじまり)
朝。
ヒマゆの入口には、昨日の夜に作られた掲示が並んでいた。
【湯の礼節:入浴前にかけ湯/湯に感謝/持ち帰り禁止/湯の花の採取禁止】
【源泉は聖域です:立入禁止区域あり】
【困ったら職員へ:観光課・湯守り窓口】
日本語と異界語と、絵。
絵は美月が夜中まで粘って作り、最後に加奈が“優しい顔”に修正を入れた。怖くしない。怖くして守らせるのではなく、守りたくなる気持ちを作る。ひまわり市の広報は、そういう方向に少しずつ進んでいる。
テープカットは、短く。
市長の挨拶も、短く。
「この湯は、私たちの町の恵みであり、聖域でもあります。だから守りながら、みんなで楽しみましょう。……それが、ひまわり市のやり方です」
拍手の中、湯気がふわりと立ち上がり、空へ流れていく。
その湯気の向こうで、黄金の影が一度だけ舞った。オルディアが上空を旋回し、湯気を“祝福の形”に整える。派手な演出ではない。けれど、見た人の心に残る。竜神の祝福は、静かな重みがある。
人間の家族が湯に浸かり、エルフの旅人が肩まで沈む。スライムの親子が専用の浅湯でぷるぷると揺れ、獣人の青年が「尻尾の湯あたりが最高」と真顔で言い、周囲が笑った。
勇輝は、受付の端で様子を見ていた。
利用者が掲示を読んでいる。かけ湯をしている。誰も湯の花を瓶に詰めようとしていない。昨日の夜の“ありがとう”が、今日の行動に繋がっている。
「……やれたね」
加奈が隣で言う。
勇輝は、少しだけ肩の力を抜いた。
「やれた。……でも、ここからが管理だ。運用が始まった」
「うん。運用が始まったから、町になるんだよ」
美月が走ってきた。走ってきて、最後に歩く。危ないから。昨日の夜から、彼女はそれを覚えた。
「写真、撮っていいですか。二人が“現場を見守る背中”ってやつ」
「今それ撮るの、ちょっと恥ずかしい」
勇輝が言うと、美月は笑って、でも素直に引いた。
「じゃあ、湯気の方撮ります。……この湯気、昨日より優しいです。たぶん、町の空気が写ってる」
「詩的なこと言うね」
「湯に言われました」
美月が真顔で返すから、加奈が吹き出した。
◆夜・温泉街の屋上露天(小さな休息)
開業式が無事に終わり、来客の波が一段落した夜。
勇輝と加奈は、屋上の露天風呂に浸かっていた。ここは職員用ではない。協定の一環として“視察入浴”が認められた枠だ。名目は視察、実態は、ぎりぎり休息。
湯に肩まで沈むと、身体の芯がほどけていく。
昨日の緊張が、湯気と一緒に抜けていく。
「……やっと、息ができるね」
加奈の声は、湯に溶けるように柔らかかった。勇輝は頷き、湯面に手を沈める。温かいだけではない。どこか、優しい。
「この湯、昨日より“生きてる”感じがする。数字じゃなくて、感覚で分かるのが悔しい」
「悔しいって言うところが、勇輝さんらしい」
「いや、こういうの、説明が難しいだろ。議会に報告するとき、『湯が生きてました』って言えない」
「言い方を整えるのが、私たちの仕事だよ」
加奈は湯面を見つめたまま、続けた。
「“感謝が循環すると、資源は枯れにくくなる”。そう言えば、行政っぽい。……でも、本当は、もっと単純だよね。ありがとうって言ったら、相手も少し優しくなる。それが湯でも同じだった」
勇輝は、湯気の向こうの空を見上げた。
星がいくつか見える。転移後の空は、星の並びが違う。違うけれど、見上げたくなる気持ちは同じだ。
「……この町、いろんなものを制度にしてきた。投票も、婚姻も、医療も。で、今度は湯の礼節まで協定にする。普通の自治体だったら笑われるかもしれないな」
「笑われてもいいよ。笑われながらでも守りたいものがあるなら、前例を作る価値がある」
加奈の言葉は、強いのに刺さらない。優しい強さだ。
その時、湯気の向こう、遠い空を黄金の影がゆっくり横切った。オルディアだ。見回りをしているのか、ただ飛んでいるのか分からない。でも、町を見ているのは確かだ。
「……竜神って、結局、町の味方だったのかな」
勇輝が呟くと、加奈は少し考えてから言った。
「味方、っていうより……湯の味方。湯を守る人が、結果的に町の味方になるんだと思う。だから、私たちが湯を守れたら、竜神も町を守る。そういう関係」
「なるほど。じゃあ、次に揉めるのは、湯を守るルールを誰が破るか、だな」
「破らせないために、私たちがいる。……そして、たぶん美月が“破らない方がかっこいい”って空気を作る」
勇輝が笑うと、加奈も笑った。
「美月の力、侮れないよね」
「侮れない。……でも、今は少しだけ、湯に任せよう」
二人はしばらく黙って湯に浸かった。
湯気が頬を撫で、星の光が湯面で揺れる。遠くで温泉街の笑い声が小さく響き、まだ町が生きていることを知らせてくる。
そして勇輝は、心の中で小さく言った。
ありがとう、と。




