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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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22/2322

第22話「婚姻課、愛を証明せよ!」

◆朝・市役所 婚姻課


 朝の市役所は、だいたい同じ音で始まる。

 コピー機の唸り、受付印の乾いた叩き、廊下を滑る台車の車輪。そこへ最近は、靴音の代わりに爪が床を鳴らしたり、翼がすれ違いざまに風を置いていったりする。転移してから半年、ひまわり市役所の「いつも」は、増え続ける前提の上に立っていた。


 けれど、その日の婚姻課の空気だけは、いつもの慌ただしさと少し違った。

 行列の長さが違うのではない。並んでいる人たちの表情が、やけにまっすぐで、背筋が伸びていて、受付のカウンター越しに「お願いします」と言う声が、仕事の依頼じゃなく人生の宣言みたいに聞こえる。


「……今日、すごいですね」

 加奈が、整理券の束を抱えたまま小さく息を呑んだ。喫茶ひまわりの差し入れ袋も、今日は置き場に追いやられている。


 掲示板には、いつもより大きな文字の貼り紙が増えていた。


【ご案内】

・異界住民を含む手続きは、時間がかかる場合があります

・通訳が必要な方は、受付でお申し出ください

・証人欄は二名分あります(※種族不問)


 最後の「※種族不問」が、妙に心強く見える。


「昨日の夜に、問い合わせが一気に来たんです」

 窓口の職員・佐竹が、言い訳みたいに笑う。頬が少し赤い。忙しさじゃなく、緊張だろう。

「異界選挙が終わって、“この町なら通してくれるんじゃないか”って……そう思った人が多かったみたいで」


 勇輝はカウンターの端で、申請書の山を見つめた。婚姻届。市役所が扱い慣れた紙だ。紙は慣れているのに、紙の上に乗ってくる生活が、いままでよりずっと多彩になっている。


「通すか、止めるか、じゃないな」

 勇輝は、誰に言うでもなくつぶやく。

「どうやって通すかを考えないと、列がただの壁になる」


 その「列」の先頭に、ひときわ静かな熱を帯びた二人が立っていた。


 エルフの女性、リィナ。薄い緑の瞳が、まっすぐ勇輝を見ている。

 隣の青年、拓真。人間。手に持った封筒が、汗で少し柔らかくなっていた。


「……あの、すみません」

 拓真が口を開く前に、リィナが一歩、前へ出た。人差し指が紙を軽く押さえる。大切に扱う手つきだ。

「私たち、ここで暮らしてきました。仕事も、家も、友だちも。だから……正式に、夫婦になりたいんです」


「はい」

 拓真も頷く。言葉を探すというより、決めている顔だった。

「ひまわり市で出会って、一緒に働いて、困ったときに助けてもらって……今さら、役所に言うのも変なんですけど。書類が必要なら、書きます。必要な証明があるなら、集めます。だから、受け取ってほしいです」


 佐竹は、書類を一枚めくった。そこには赤いスタンプが押されている。


《保留》


 ためらいの印だ。拒否ではない。けれど、受けてもいない。


「……すみません」

 佐竹は慎重に言葉を選んだ。

「現行の手続きだと、相手方の戸籍……その、国の制度に紐づく記録が……」


 リィナの眉が、ほんのわずかに揺れた。怒りではなく、理解と寂しさが混じる揺れだ。

「戸籍……ありません。私の国では、家は森に登録されます。樹の年輪に、家族の名を刻む。けれどそれは、あなた方の紙にはならない」


 加奈が、横からそっと支えるように声を出す。

「今の制度だと存在しないって扱いになりやすいんです。でも……だからって、生活まで無かったことにはできない」


 勇輝は、椅子を引いた。立ち上がると、行列の視線が一瞬、集まる。怒りや期待や不安が混ざった目。市役所でいちばん怖いのは、怒号より、黙って見てくる目だ。


「存在しないなら、作る」

 勇輝は、言い切った。ただし声は強くしすぎない。強い言葉は、誤解も連れてくる。

「国の婚姻制度そのものを、ここだけで塗り替えるのは無理だ。けど、ひまわり市がこの二人を家族として扱うための仕組みは、作れる。作らないと、現場が毎日保留で押し潰れる」


 リィナが、息を吸った。拓真が、少しだけ肩の力を抜いた。

 加奈は、勇輝の横顔を見て、思わず苦笑する。幼馴染の、こういうところは昔から変わらない。


「じゃあ……今日から作るんですか?」

 美月が、いつの間にか背後にいた。広報の腕章と、撮影用の小型カメラ。目だけが真剣だ。

「その……私、撮っていいですか。今ここで起きてるのって、たぶんこの町の次のページなんで。勝手に拡散はしません。記録だけ」


「先に撮る前の約束を作れ」

 勇輝は、笑うほどの余裕はないけれど、少しだけ目尻を柔らかくした。

「本人の同意。顔出し。式の場所以外は撮らない。行列は映さない。そういうの、ちゃんと決めよう」


「はい! それ、広報の仕事です!」

 美月は即答し、もうメモを走らせている。頼もしさと、空回りの気配が同居しているのが、彼女らしい。


 勇輝はリィナと拓真に向き直った。

「今すぐ受理ってハンコは押せない。でも、今日のうちに市長室まで話を通して、制度の案を作って、議会に持っていく。急ぐ。その代わり、二人の意思を、ちゃんと確認できる形で残したい。いい?」


 リィナは、迷いなく頷いた。

「はい。私の意思は、私の言葉で証明します」

 拓真も頷く。

「僕も。必要なら、証人だって集めます」


 佐竹が、震える手を押さえながら、別紙を引っ張り出す。

「……仮受付票なら作れます。受付番号と、申請者の氏名、連絡先。あと、本人確認の方法を……」


「それで十分です」

 加奈が、少しだけ胸を張った。

「保留より、ずっと前に進める」


 カウンターの上に、仮受付票が置かれた。紙一枚。だけど、列の空気がほんの少し、呼吸を取り戻す。誰かが、後ろで小さく拍手をした。すぐに止む。役所で拍手は珍しい。だからこそ、忘れない音になる。


◆昼・市長室


 市長室には、昼の光が差し込んでいた。

 窓の外には、庁舎前の広場。そこを横切る異界住民と人間が、もう特別ではない速度で歩いている。市長・日向は、その景色を眺めてから、机の上の書類に視線を落とした。


「婚姻課が、今日は人生の相談所になってるって?」

 日向は冗談めかして言いながら、声の底は真剣だった。


「相談所の顔をした、制度の穴です」

 勇輝は、持ってきた仮受付票の控えを差し出す。

「エルフと人間。ほかにも、獣人と人間、魔族と人間、異界同士のカップルも来てます。現行の手続きだと、相手が存在しない扱いになる。本人たちが一番困るのはもちろんですけど、役所も毎日保留を増やすだけになります」


 市長の眉が、わずかに動く。

「存在しないって、便利な言葉よね。便利なぶん、痛い」


 加奈が資料を開いた。市民課と福祉課と税務課、それぞれから集めた論点が並んでいる。文字が多い。今日の加奈は、喫茶店の笑顔より、窓口の集中の顔だ。


「婚姻が通らないと、困るのは式の話だけじゃないんです。住民票の続柄、医療の家族同意、災害時の安否照会、住宅の入居要件、扶養の扱い……今のままだと、全部個別判断になります」


「個別判断は、現場の善意を食べる」

 勇輝が、静かに続けた。

「善意が尽きた日に、制度が崩れます」


 市長はペンを回しながら考えた。無言の時間が長い。だが、逃げている沈黙ではない。


「国の婚姻制度と同じものは作れない。そこは現実」

 日向は、前提を置くように言った。

「でも、ひまわり市としてこの二人は家族ですと証明する仕組みは作れる。名前は……そうね。異界婚姻って言うと刺激が強いし、誤解も招く。条例の名前は、もう少し行政らしく」


 美月が、控えめに手を上げる。

「すみません、市長。広報目線なんですけど、行政っぽすぎると伝わりにくいです。条例名は堅くてもいいとして、制度の呼び方は、短くて誤解のないやつが……」


「たとえば?」

 市長が促す。


「家族登録とか……共同生活登録だと恋愛以外も混ざりますよね。ええと……ひまわり市パートナー登録は、すでに別の自治体にもある言葉で、外向けに説明しやすいです。ただ、異界住民も含むなら、その点が新しい」


 勇輝は頷いた。

「制度の核は、本人の意思と、共同生活の実態の確認。それを市が登録として受け止める。登録証を出す。市のサービスで家族として扱う。国への提出書類としては参考資料にしかならなくても、ここでは効く」


 加奈が、具体案を読み上げる。

「登録の要件は、三つに絞ります。第一に、本人双方の自由意思。第二に、同一住所または継続的な共同生活の実態。第三に、互いの扶養・介助・生活の責任についての宣誓。証人は二名。種族は問わない。署名は筆記、または魔力印、または指紋・爪痕などで代替可能」


「爪痕で夫婦になるって、急に物語っぽいわね」

 市長が、少しだけ笑った。笑っていいところと、笑ってはいけないところの線を、市長は外さない。


「物語じゃなく、手続きです」

 勇輝はすぐに戻す。でも、声は柔らかい。

「爪痕は本人の意思表示の一つ。ペンを握れない種族がいる。そこを理由に排除したくない」


 市長は頷き、ペン先を紙に置いた。

「よし。条例案を作る。議会に出す。急ぐ。財政の相談もいるし、福祉・税・医療の連携も必要。だけど、今日、婚姻課に並んでる人たちは、待てと言われた回数が多すぎる顔をしてた」


 加奈が、小さく息を吐いた。救われた、というより、覚悟が決まった息だ。


「ただし、線引きは必要よ」

 市長が、続ける。目が鋭くなる。

「悪用もある。偽装の登録もある。だから、審査は疑うためじゃなく守るためにする。本人たちが困らないように、必要な確認だけを取る。婚姻課に、調査機関みたいな顔はさせない」


「その方針、助かります」

 勇輝が言うと、加奈も頷いた。

「窓口で愛を証明してくださいって言い方になると、壊れます。人の心は書類じゃないし、書類は心の代わりになれない」


 美月が、ふっと視線を落としてから、言った。

「でも、書類があると守れることがある。……今日の二人みたいに」


 市長は、机を軽く叩いた。

「じゃあ、作りましょう。ひまわり市が、家族を見なかったことにしないための紙を」


 勇輝は、心の中でやっと頷けた。紙の力を信じすぎない。でも、紙を否定もしない。行政は、その間で踏ん張る仕事だ。


◆午後・市議会 臨時委員会


 議会の廊下は、いつもより人が多かった。傍聴席には異界住民が並ぶ。選挙のときと似た景色だが、目の温度が違う。ここにいる人たちは町の未来より、隣にいる誰かの話を抱えている。


 臨時委員会。議題は、ひまわり市パートナー登録制度(仮称)と、それに伴う各課の取扱い。


 議員の一人が、資料をめくりながら言った。

「理屈は分かる。生活の実態も分かる。ただ、ここで登録を認めた場合、相続や国の税制まで飛び火するんじゃないか。市が勝手に婚姻を認めたと誤解される」


 勇輝は、即答しなかった。こういう質問は、急いで返すと相手が置いていかれる。だから一拍置いて、言葉を整える。


「誤解は起きます。起きる前提で、説明を作ります」

 勇輝は資料の一枚を掲げた。

「制度の名称は婚姻ではなく登録。国法上の婚姻の成立を宣言するものではない。ひまわり市の行政サービス上、家族として扱うための証明です。災害時の連絡、医療同意、住居、子育て支援、各種窓口の続柄表記。まずはこの町の中で困らないを守る」


 別の議員が、手を挙げる。

「子どもがいる場合は? あるいは、これから生まれる場合は?」


 加奈が立ち上がった。今日は補佐役ではなく、現場の声を持っている顔だ。

「子どもは、種族に関わらずこの町で育つ子どもです。学校、保健、福祉、全部が関わります。今の制度だと、親が家族として扱われないせいで、子どもへの支援も遅れます。そこを避けたい。登録があると、手続きが一つ減る。それだけで、子どもが置き去りになりにくい」


 傍聴席から、小さなざわめきが上がる。誰かが、胸元のペンダントを握りしめるのが見えた。願いの形が、静かに揺れる。


 議員が、さらに突っ込む。

「偽装登録の対策は? 住民票を移して補助だけ受けて、姿を消すとか」


「対策は入れます」

 勇輝は頷く。

「登録時の面談、共同生活の確認、必要に応じて福祉課や市民課の確認。ただし、疑いを前提にした運用にはしない。窓口が疲弊しますし、真っ当に暮らす人が傷つく。必要最低限の確認で、悪用だけを弾く。運用マニュアルを作ります。議会にも定期報告します」


 市長が、最後に言葉を置いた。

「異界選挙のときも言いました。私たちは、ここに住む人を住んでいると認める。それが行政の始まりです。家族も同じ。否定すれば、否定された人が困るだけじゃなく、町が歪みます。歪みは、いずれ崩れます」


 委員会の空気が、少しずつ固まっていく。反対の心配は、消えない。けれど、心配を理由に止まるより、心配を前提に作る方向へ、机が動き始める。


 採決。

 賛成多数。


 可決の瞬間、傍聴席のどこかで、こらえた息がほどける音がした。拍手は起きない。議会はそういう場所だ。でも、目の中の光が増えたのは、確かだった。


 美月は、議会の公式撮影ルールに従って、限られた範囲だけを静かに記録した。レンズ越しに見えるのは、勝利の派手さではなく、やっと通る道が一本増えた顔だ。


◆夕方・市役所 婚姻課


 戻ってきた婚姻課は、朝よりも落ち着いて見えた。落ち着いたのではなく、職員たちの手がやることを見つけたからだ。


 佐竹が、手渡された新しい様式を眺めて、思わず声を上げた。

「……ほんとに、今日中に出来ちゃったんですか」


 紙の上には、見慣れないタイトル。


【ひまわり市 パートナー登録申請書(異界住民を含む)】

【登録証交付申請書(同時申請可)】


 注意書きも、現場が困らないように詰め込まれている。


・氏名表記:共通語/日本語/魔文字いずれも可(併記推奨)

・生年月日:不詳の場合は推定年を記載(例:春頃/百年単位可)

・署名:筆記/魔力印/指紋/爪痕/触手印いずれも可

・証人:二名(登録者と利害関係がある場合は注記)


「触手印って……」

 佐竹が笑いそうになって、慌てて口を押さえる。笑ってはいけないのではない。笑ってしまうと、相手が不安になる。窓口の笑いは、いつも相手が笑えるかを先に考える。


 加奈が、カウンターの端に小さなセットを置いた。

 インクパッド、拭き取り布、薄い手袋、それと、小さな水鉢。スライムや水精系でも印が押せるように、乾燥させる魔導布まで添えてある。


「用意、早いね」

 勇輝が言うと、加奈は肩をすくめた。

「今日だけじゃないから。明日も来るし、来週も来る。だったら、今日から当たり前にしないと」


 リィナと拓真が、再びカウンターへ来た。二人の顔が、朝より少しだけ明るい。緊張は残っているが、下を向いていない。


「お待たせしました」

 佐竹が、丁寧に書類を差し出す。

「こちら、ひまわり市の登録制度です。国の婚姻とは別の扱いになります。でも、市の中では、家族として扱うための証明になります。よろしければ……お話ししながら一緒に確認していきます」


 拓真が、紙を受け取った。

「……ありがとうございます。これだけで、なんか……救われます」


 リィナは、タイトルを指でなぞってから、少しだけ笑った。

「登録という言葉、森の年輪に刻むのと似ていますね。残す。忘れない。そんな感じがする」


 記入は、思ったよりも時間がかかった。

 住所の書き方一つでも、異界側の地名表記が揺れる。共通語で書くか、魔文字で書くか、日本語の当て字にするか。加奈と美月が、横で案を出し合い、最終的に三つ並べることにした。未来の検索のためだ。


「ここ、続柄って欄がないんですね」

 拓真が言うと、佐竹が頷いた。

「続柄は、登録証の裏面に記載します。パートナーと登録同居人。必要に応じて配偶者相当の注記もできます。ただ、言葉の好みがあるので、どれがいいか選べるようにしました」


 リィナが、少し考えてから言う。

「私は……伴侶がいい。森の言葉だと、同じ道を歩く者、という意味がある」


「いいですね」

 加奈が柔らかく笑い、佐竹が丁寧に欄に書き込む。


 本人意思の確認の欄では、二人がそれぞれ短い宣誓文を書くことになっていた。


『互いを生活のパートナーとして尊重し、支え合い、必要なときは家族として責任を持つ』


 拓真は日本語で書き、リィナは魔文字で同じ内容を書いた。文字の形は違うのに、言葉の温度は同じだった。


「署名、どうしますか?」

 佐竹が尋ねると、リィナはペンを取った。指先が長い。慣れたようにさらさらと書く。魔文字の署名は、流れる湯気みたいに柔らかく、最後に小さな光が残った。


 拓真が続けて署名し、証人欄に目を落とす。


「証人、二人……」

 拓真が振り向くと、後ろの列にいた人間の女性が、そっと手を挙げた。温泉まつりのパンフレットを持っている。たぶん、仕事で知り合った人だ。

「私でよければ。二人、ずっと見てきたし。困ったときに助けられたこともある」


 もう一人は、異界住民だった。獣人の男性。作業服の胸元に、ひまわり市のボランティアセンターのワッペン。

「俺も証人になれるか? 選挙のとき、ここの職員に助けられた。今度は、俺が支える番だ」


 佐竹が確認する。

「ありがとうございます。証人の方も、本人確認をさせてください。身分証がない場合は、魔力印または登録番号、どちらでも……」


「登録番号ある」

 獣人が腕をまくって見せた。手首の内側に、小さな紋章。異界住民登録の印だ。


 手続きは、丁寧に、淡々と進む。淡々としているのに、窓口の空気がやけに温かい。書類の確認は、責めるためじゃなく守るためだと、みんなが分かっている。


 最後に、佐竹が深呼吸して、受付印を押した。


 ドン、と乾いた音。


「……受け付けました」

 佐竹が言った瞬間、拓真の肩がゆるむ。リィナの目が、ほんの少し潤む。


「登録証の交付は、今日の夕方までに準備します」

 加奈が続ける。

「写真付きにしますか? 顔出しが嫌なら、魔力印だけでも大丈夫。避難所での確認に使えるように、耐水加工にして……」


 美月が、横でそっと言う。

「写真は、本人が使いたいって思う範囲で。広報には使わない。今日のこれは、二人のものだから」


 リィナは小さく頷いた。

「ありがとう。……この町は、たまに急に優しいですね」

「急にじゃないよ」

 加奈が笑う。声は軽いのに、目は真剣だ。

「ずっと、そうでいたいから、手続きを作るんだよ」


◆夜・庁舎前広場


 夕方から夜にかけて、庁舎前の広場が静かに整えられていった。

 大げさな式場ではない。白い布を掛けた机と、花を少し。灯りは、魔力街灯のやわらかな光。誰かが持ってきた小さなリースが、風に揺れる。


 市長が「式」という言葉を使うか迷った末に、こう言った。


「登録証の交付式。……堅いけど、まずはこれでいい」


 堅い言葉の中に、ちゃんと祝福が入っている。


 広場には、婚姻課の列に並んでいた人たちも、少しだけ集まった。騒がない。勝手に盛り上げない。二人の場を守るように、距離を取って見守る。


 勇輝は司会役として、マイクを持った。けれど、長い挨拶はしない。こういう場で言葉を盛ると、肝心の人が置いていかれる。


「ひまわり市は今日、登録制度を始めました」

 勇輝は、ゆっくり言う。

「制度が始まった理由は簡単です。ここで暮らしている人が、困っていたから。困っている人がいるなら、役所は動く。それだけです」


 市長が、登録証を手に取った。カード型。耐水。裏面には、緊急連絡先と、医療同意の参照情報。災害の町だからこそ、紙の形を持ち運べる安心にした。


「リィナさん、拓真さん」

 市長は二人の名前を呼び、笑顔を向ける。政治の笑顔ではなく、町の代表の笑顔だ。

「ひまわり市として、二人をパートナーとして登録します。これは国の制度とは別です。だけど、少なくともこの町の中では、二人の暮らしが説明しなくても通るようにしたい。今日から、それが少しだけ楽になります」


 リィナが、カードを受け取った。拓真も受け取る。二人の手が、同時にカードの端を触れた。


「……紙って、軽いんですね」

 拓真が小さく言った。

「でも、軽いのに……重い。良い意味で」


 リィナが、カードを胸元に当てる。

「森の年輪は、私にとって時間の証でした。でも、このカードは、暮らしの証ですね。……ありがとう、ひまわり市」


 その言葉に、広場の空気がふっと温かくなった。拍手が起きる。今度は止まらない。派手じゃない拍手。ずっと続かない拍手。けれど、確かな拍手。


 美月は撮影の約束を守り、二人の手元だけを映した。カードの角が光を拾う。そこに映るのは、制度の勝利ではなく、暮らしの呼吸が戻る瞬間だ。


 獣人の子どもが、遠くから小さな声で言った。

「おめでとう」

 エルフの老人が、その子の頭を撫でる。

「おめでとう、という言葉は、どの世界でも温かいのう」


 市長が、控えめに言い添える。

「……あと、明日から窓口が混むと思うので、婚姻課のみなさん、交代で休んでください。倒れたら制度が泣く」


「制度が泣くって何ですか」

 勇輝がつっこんで、場が少し笑った。笑える余白があるのは、良い夜だ。


◆夜・庁舎屋上


 式が終わり、人が散って、屋上に風だけが残った。

 下の広場の灯りが、まだふわりと残っている。


 勇輝は手すりにもたれ、今日一日で増えた新様式の束を見つめていた。紙は増えた。仕事も増えた。だけど、今日は増え方が違う。


「……ねぇ、勇輝さん」

 加奈が隣に立つ。紙コップの温かいお茶を差し出してくれた。

「今日の制度、通ったのは嬉しい。でも……これ、ほんとに運用できるかな。窓口がまた混乱しないかな」


「混乱はする」

 勇輝は正直に言う。でも、そこで止めない。

「だから、混乱したときに戻れる手順を作る。Q&Aも、職員向けも市民向けも。異界語版も。証人欄で揉めたらどうする、住所表記が揺れたらどうする、登録を取り消したいときはどうする。そういうのを全部、明日から書き足していく」


 加奈は、少しだけ笑った。

「やっぱり、行政の人だね。気持ちより先に手順」


「気持ちは、本人たちが持ってる」

 勇輝は、空を見上げる。

「俺たちは、その気持ちが困らない形で続くように支える。邪魔しない。余計なことを言わない。必要なことだけをする。……それが、役所の優しさの出し方だと思う」


 美月が、屋上の扉から顔を出した。手にはタブレット。目の下にうっすらクマ。広報は、嬉しいと忙しいが一緒に来る。


「二人の許可、取れました。写真は手元だけで、記事にします。タイトル……ひまわり市、パートナー登録制度を開始にします。キャッチは控えめに。煽ると混むので」


「混むのを気にする広報って、珍しいな」

 勇輝が言うと、美月は即座に返す。

「混んだら、窓口が泣きますから。今日、市長が言ってたやつです」


 加奈が吹き出し、三人の間に小さな笑いが落ちた。笑いは、制度にとっての潤滑油だ。乾いた紙に、少しだけ湿り気を足す。


 遠くで、魔力街灯の光が瞬く。あの灯りの下で、また誰かが並ぶ。明日も並ぶ。明後日も並ぶ。だけど、今日からは保留の列じゃなく、通る手順の列になる。


 勇輝は、屋上の風を胸いっぱいに吸い込んだ。

「……よし。婚姻課、明日は説明できる窓口にしよう。説明ができれば、落ち着く。落ち着けば、祝える」


 加奈が頷く。

「祝えるって、大事だよね。生活は、祝われないと疲れる」


 美月が、屋上から街を撮りながら小さく言った。

「この町、今日だけは……愛を証明せよじゃなくて、暮らしを守れって感じがしました。私、その方が好きです」


「それでいい」

 勇輝は笑って、書類の束を抱え直した。

「証明は、本人たちがする。役所は、守る」


 夜風が吹き抜け、庁舎の上を静かに渡っていった。ひまわり市の明かりは、今日もいつも通りに揺れている。いつも通りの中に、少しだけ新しい当たり前が混ざっていく。

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