第19話「異界医療と保険証の壁!」
◆朝・ひまわり市立病院
転移してからというもの、ひまわり市立病院の外来フロアは、毎朝が「初めての来客」で始まるようになった。白い床に反射する蛍光灯の光は、以前と変わらないはずなのに、待合の椅子に座る人影が変わるだけで空気の密度が変わる。
制服姿の高校生が数学のノートを膝に広げ、その隣でエルフの女性が薬草の束を抱えて順番を待っている。少し離れた壁際ではリザードマンが喉の奥から、ほんの小さな炎をぽっと漏らし、慌てて口元を押さえた。床の端にはスライムが一体、番号札の代わりみたいにぷるぷると震えながら、受付番号の表示板を見上げている。
「番号札は……あっ、いえ、札が無理なら、ええと……お名前を伺ってもいいですか?」
受付窓口の職員が、慎重な笑顔で問いかける。
いつもの慣れた調子に戻そうとしているのが分かる。慣れた調子は、来院する側にも安心を渡してくれるからだ。
スライムが、ぷるんと形を変えた。しょんぼりを全身で表現している。
「なまえ、あるぷる。『ぷるん』って呼ばれてるぷる。でも、保険証って……液体でも持てるぷる?」
職員が「液体でも」という言葉を聞き取り、困ったように端末の画面と紙の問診票を交互に見る。
保険証の欄に丸を付けるべきか、空欄にすべきか。空欄にした瞬間、受付の手続きは次のページへ進めなくなる。病院の端末は、制度の上に乗っている。制度の外側にいる人を、そっと落としてしまうことがある。
少し後ろで状況を見ていた勇輝は、声を荒げずに近づいた。見学というより視察。今日の目的は、机の上で考えた図が現場でどう折れるか確かめることだった。
「すみません。いまは仮の扱いでいいです。受付番号を発行して、後で市役所側で整理します。治療を後回しにするのだけは、やめましょう」
職員の表情が、ほんの少しだけ緩む。
勇輝の言葉は、現場の人間にとっては「そのまま進んでいい」という許可でもある。
「ありがとうございます。では……ぷるんさん、こちらにお名前を書いていただいて……あ、液体だとペンは難しいですね。口頭で確認しますね」
「だいじょうぶぷる。ぼく、字、にじませるの得意ぷる」
スライムが、受付台の上にちょこんと伸びて、ボールペンを包むように持った。ペン先がぷるぷる揺れて、文字が少し丸くなる。それでも、ちゃんと読める字で「ぷるん」と書かれた。
周囲の人が、思わず小さく息を吐く。空気が少し和らいだ。
その横で、美月が病院の掲示物を撮影していた。撮ると言っても、やたらに近づかない。患者の顔や個人情報は映らない角度を選び、病院の許可が取れた範囲だけを切り取っている。彼女の指先は忙しいのに、動きが丁寧だ。
「広報にできる絵が……ないわけじゃない。でも、“制度がまだ整ってない”って事実が一番大きく見えちゃうと、安心じゃなくて不安を広げる。難しいな、これ」
小声の独り言に、加奈が頷いた。彼女は教育や福祉の案件も抱えつつ、今日は医療の制度整理の窓口役として動いている。資料の端に、メモがびっしり増えていく。
「だからこそ、現場の安心を先に作らないと。制度は後からでも間に合うけど、今日の診察は今日しかないです」
勇輝は、受付の端末に表示される「未加入」の赤い文字を見て、息を整えた。赤い文字は責めているわけじゃない。赤くしないと、現場が気づけないから赤い。それでも、赤が増えすぎると、現場は動けなくなる。
「……保険証の壁って言い方、うまいな。壁があるなら、扉を作るしかない」
市立病院の廊下の奥から、車椅子の音と、誰かの安堵した笑い声が聞こえた。
今日もここで、誰かの命が日常に戻ろうとしている。その日常を支えるのが、制度だ。
◆午前・市役所 医療政策会議室
市役所の会議室は、もはや会議室というより作戦室だった。壁一面に貼られた紙が、地図のように重なっている。中央には「医療制度マッピング図」。左に日本の保険制度、右に異界側の治癒体系、下にひまわり市の現状。線が引かれ、矢印が伸び、付箋が増殖している。
加奈が資料を配りながら、落ち着いた声で現状を読み上げた。
「異界から来た住民の多くは戸籍がありません。住民票も、現在は“暫定番号”の運用です。国民健康保険への加入は、制度上できない。けれど救急搬送は、毎日来ています。外来も増えています。支払いの窓口で止めると、医療そのものが遅れます」
医師の結城が、机の端を指で軽く叩いた。白衣の袖をまくっていて、現場から直行したのが分かる。疲れているのに、目がまっすぐだ。
「現場は、もう止められないです。救急車が来たら診る。診ないという選択肢はない。けれど、診続けるだけでは続かない。物資も人も、気持ちだけでは回りません」
勇輝は、資料の束をめくりながら、言葉を慎重に選んだ。強い言い切りは簡単だ。でも、強い言い切りで人を動かすより、迷いをほどいて動ける状態にするほうが、町は長く保つ。
「保険証の前に、そもそも“住民として扱う範囲”が定まってない。診療の対象は人間だけなのか、異種族も含むのか、含むならどこまでを“住民”と呼ぶのか。定義が曖昧だと、現場判断が続く。現場判断が続くと、疲弊する」
市長がバインダーを閉じ、静かに頷いた。
「うちの町の方針は、最初から決まってると思う。ここにいる人は、みんな“生活してる”。生活してるなら、守る対象だよね。種族で分けて安心を分けるのは、ひまわり市らしくない」
マルコが椅子に深く腰を下ろし、少し考えてから口を開く。いつもの軽快さは抑えめで、今日は商人というより代表者の顔だ。
「我らにも治癒の術はあります。ただ、対価は貨幣だけではない。感謝、奉仕、祈り。そういう形で回ってきた。病を治すことを“取引”に乗せる発想が、そもそも薄い国もある」
「その文化の話、ありがたいです」
加奈が即答した。「ありがたい」と言いながら、甘えない目をしている。
「でも、ひまわり市立病院の医療は、現実に機器と薬が必要です。薬は勝手に増えない。人も勝手に増えない。だから、文化を尊重しながら、こちらの仕組みにも支えを作らないといけない」
結城が頷いた。
「文化は大事です。でも、救急外来で“感謝を支払いにできますか”とは言えない。そこを行政が引き受けてくれるなら、現場は救われます」
美月は議事録係として、ノートに大きく書いた。
“命の平等”。
同時に、括弧付きで小さく書く。
“言葉が強すぎると反発も生む。どう見せるか”。
勇輝は、ホワイトボードの中央に新しい枠を描いた。
「暫定でもいい。まず“受療資格”の枠を作る。保険証の代わりに、ひまわり市が発行する仮のカード。加入と同じではないけど、受ける権利の証明になる。費用の請求先が、患者本人ではなく市になる仕組みを作る」
市長が即座に反応した。
「市が肩代わりする、ってこと?」
「最初の段階はそうなる。全部を永遠に市が持つわけじゃない。異界側と協定して、負担の形を一緒に作る。国にも働きかける。けれど、今この週の救急を待ってから制度を作るわけにはいかない」
加奈が資料から一枚を引き抜いた。
「現状、救急搬送のうち三割が異種族です。外来はもっと増えています。財源は、ここがポイントになります。第13話で導入した魔導為替レートの換算と、観光税の一部転用、それと寄付の整理で、暫定の基金を作れます」
美月が顔を上げる。
「寄付、ですか?」
「はい。異界からの“感謝の支払い”を、そのまま病院の窓口に流すと混乱します。だから行政が受け取って、透明に管理する。名前を付けるなら“共生医療基金”」
結城が少しだけ表情を緩めた。
「透明に、は本当に助かる。現場は疑われたくない。疑われると、守れる命も守れなくなる」
勇輝は頷き、次の紙へペンを走らせる。
「もうひとつ。治癒魔法と医療の併用ルール。今日の救急で必ず必要になる。結城先生、現場の手順を一緒に作ってください。マルコ、魔法側の禁忌や制約を教えてほしい。加奈、法令と条例の落とし込み。美月、言葉の設計。市長、政治側の根回しをお願いします」
市長が笑って頷く。
「根回し、任せて。うちの議会は“住民の顔”を見せれば動くよ。見せるための資料、きっちり作ろう」
会議室の空気が、決まった。
決まると、動ける。
その瞬間に、救急外来からの内線が鳴った。
◆午前・市立病院 会計窓口
会議室を出た勇輝たちは、その足で市立病院へ戻った。制度を紙の上で描けても、現場の動線が詰まっていたら意味がない。
会計窓口の前には、診察を終えた人たちが並んでいた。番号表示板が点滅し、レジの引き出しが開く音が、一定のリズムで続く。いつもなら安心の音なのに、今日はそのリズムが少しだけ乱れている。
「お支払いは……現金か、カードで……ええと、魔石貨も……」
職員が丁寧に言い直す。魔石貨は、異界側で一般的な小さな通貨だ。キラキラしていて見た目はきれいなのに、会計の端末には受け皿がない。
目の前のリザードマンが、革袋から小粒の魔石を取り出した。袋の口を開けただけで、ひんやりした気配が窓口に流れ、職員が反射的に姿勢を正す。
「これで足りるか?」
「……ええと、申し訳ありません。こちらでは換算表がまだ整っていなくて。市役所の窓口で一度、換金の手続きを……」
リザードマンが困ったように尾を揺らす。怒ってはいない。ただ、病院の受付と市役所の受付を二回通るのは、誰だってしんどい。
そこへ、診察券の束を握った年配の女性が、小さく声を上げた。
「うちの孫の分も一緒に払えるの? 今日、学校で熱が出た子がいてね。相手がエルフのお子さんだったみたいで……家族の連絡先が“森の奥”って書いてあって、電話番号がないのよ」
加奈が、すぐにメモを取った。連絡先の問題は、医療に直結する。救急外来ではとくに。
「“森の奥”は住所としては成立してます。でも、緊急連絡の導線がない。翻訳も必要ですし、連絡手段の確保も要りますね」
美月が職員の端末画面を横目で見て、ふっと眉を上げる。画面には同じ警告が並んでいた。「未加入」「本人確認未完了」「支払方法未登録」。
警告が増えすぎると、人の手が止まる。人の手が止まると、窓口は詰まる。詰まると、いちばん困るのは患者だ。
勇輝は、会計窓口の列を見渡しながら、職員へ声をかけた。
「いま、いちばん困ってるのはどこですか。言いづらいことでもいいので、教えてください」
「……正直に言うと、“誰に請求していいか分からない”のが怖いです」
職員は一度だけ言葉を詰まらせて、続けた。
「治療を断りたくない。でも、請求が宙に浮くと、病院の運営に響きます。運営が揺らぐと、結局は診られる人数が減ってしまう」
結城が、少しだけ視線を落とした。現場の言葉は、いつも正確で、重い。
「だからこそ、窓口が迷わない仕組みを作る。請求先を“患者本人”から一旦外して、市が受け止める。受け止めた上で、どう分担するかを後から組み直す。順番を変えるんです」
加奈が頷いた。
「順番を変えると、現場は救われます。受けるべき医療が、先に受けられるから」
会計窓口のガラス越しに、小さなスライムがぷるぷる震えているのが見えた。紙の領収書を受け取れなくて、職員が封筒に入れて渡している。
小さな工夫が、今日を回している。
その工夫を、明日も続けられるようにするのが、行政の役目だと勇輝は思った。
◆昼・市立病院 救急外来
警告音が、廊下の奥から響いてきた。救急のドアが開き、担架が押し込まれる。担架の上に横たわっているのは、小さなドラゴンの子どもだった。翼が、うまく畳めていない。羽根が乱れ、息が浅い。鱗の色が、いつもよりくすんでいる。
「浮遊道路付近で落下。翼を痛めて、呼吸が不安定です!」
救急隊員の声が、切れていない。訓練された声だ。訓練された声は、場を落ち着かせる。
結城がすぐにモニターを当てる。ところが画面にはノイズが走り、心拍も酸素も、安定した数字にならない。
「……反応が取れない。生体構造が違いすぎる。位置が合わないのか、それとも魔力が干渉してるのか」
結城の眉間が少し寄る。焦りではない。判断の速度を上げるための集中だ。
マルコが、担架の脇に立った。手をかざすが、勝手に治すような動きではない。結城の目を見る。結城が頷く。
「魔法の介入、お願いします。ただし、こちらの処置を邪魔しない形で。呼吸を整えるのを優先します」
勇輝が、加奈へ視線を送った。
「魔力計、安定域に。バリア装置も準備」
「はい。数値、固定します。呼吸器のノイズ、これで減るかも」
加奈が端末を操作し、魔力計の針を落ち着かせる。
医療機器の周囲に薄い結界が張られ、ノイズが少しだけ弱まった。完全には消えない。でも、数字が拾える。
結城が呼吸器を調整し、スタッフへ指示を飛ばす。声が鋭くならない。必要な言葉だけが、必要な順番で出てくる。
「酸素、上げる。体温保温。翼は固定、骨格が違うから圧迫しすぎるな。麻酔は慎重に。反応が読めない」
マルコが、ゆっくり呪文を唱え始めた。派手な光は出ない。手のひらの上に小さな温かさが生まれ、それが子ドラゴンの胸へ流れ込む。呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。
「……今、痛みを薄めています。翼の損傷は、急に戻すと逆に裂ける。だからまず、身体が“怖くない”と思う状態へ」
その言葉が、結城にとっても助けになったようだった。
「痛みが落ち着くなら、呼吸が整う。よし、こちらも固定を進める」
勇輝は、現場の動きが“共通の目的”で揃っていくのを見ていた。科学と魔法が並ぶとき、対立は起こりやすい。でも今日は、対立する暇がない。目の前の小さな命が、答えを要求している。
数分後。
子ドラゴンの胸が大きく上下し、翼の震えが落ち着いた。鱗の色も少し戻る。結城がゆっくりと息を吐いた。
「……いける。今なら、搬送できる。画像検査は難しいが、触診と魔力反応で判断しよう」
子ドラゴンの瞳が、ぱちりと開いた。焦点が合うまで少し時間がかかったが、次第に結城とマルコの顔を追う。
「……ここ、どこ……?」
声は小さい。けれど、言葉として出た。
加奈の肩から、力が抜ける。
「よかった……。怖かったね。ここは、ひまわり市の病院だよ。あなたを助ける場所」
子ドラゴンは、ゆっくりと瞬きをして、微かに頷いた。
結城が、勇輝のほうへ目を向ける。
それは“ありがとう”ではなく、“これを続けるには仕組みが必要だ”という視線だった。
「主任。いまの連携は、偶然じゃない。手順にすれば再現できる。でも、再現するには、現場が迷わない制度が要る」
勇輝は頷いた。
「分かってる。今日、ここで起きたことを“特例”で終わらせない。終わらせたら、次の子が同じ壁にぶつかる」
少し離れたところで、美月がスマホを構えていた。撮っているのは顔ではない。結城の手元、マルコの手元、魔力計の安定した数字、救急外来の掲示。
あとで使うためではなく、あとで“正しく伝える”ための素材だ。
彼女は心の中で繰り返す。見せたいのは奇跡じゃない。積み重ねだ、と。
◆午後・市役所 財務課・臨時打合せ
救急外来の騒ぎが落ち着いたころ、市役所の財務課に緊急の打合せが入った。
医療の話は理想だけでは進まない。数字が必要だ。数字は冷たいが、冷たいからこそ公平にもなれる。
財務課の佐伯課長が、電卓と表計算の画面を行ったり来たりしながら、苦笑混じりに言った。
「共生医療基金ね。名前は温かいけど、口座は現実だよ。で、まず初年度の見込みはどれくらい?」
「救急搬送と外来の増加分を仮置きして、最低限を積む」
勇輝が答えると、佐伯課長は即座に別のシートを開いた。
「温泉まつりの増収、グルメフェスの出店料、異界観光税の試算。こっちを少し動かせば、暫定の原資は作れる。ただし、目的外使用だと突っ込まれる。だから“条例の枠”が要る」
市長が頷き、机を指で軽く叩く。
「枠、作ろう。急いで作ろう。急いでも雑にはしない。議会に出す資料は、誰が見ても納得できるように」
「納得って、つまり“この町に住む人の顔”が見える資料ですね」
加奈が言うと、佐伯課長も頷いた。
「顔が見えると、数字も意味を持つ。逆に顔が見えないと、数字はただの怖い塊になる」
美月が、資料のタイトル案をメモする。
“共生医療基金 設置理由と運用の見える化”。
言葉は長いけれど、現場の人が安心できる長さだ。
「寄付の整理も、ここで決めたいです」
美月が続ける。
「異界側の“感謝”が直接病院へ行くと、病院が困ります。だから市が受ける。受けたら、入った額と使った額を、月ごとに公開する。寄付した側も、使い道が見えたほうが安心するはずです」
マルコが、静かに頷いた。
「我らの国でも、祈りの捧げ物は“どう使われたか”が語られる。見えないと疑念が生まれる。見えるなら、協力しやすい」
財務課の机の上に、数字と文化が並ぶ。
それは衝突ではなく、接続のための並びだった。
市長が最後に一言、短くまとめた。
「よし。決めた。今日の会見では“暫定”と“段階”をしっかり言おう。見通しを出して、無理な期待を生まない。その上で、救急の扉だけは閉めない」
勇輝は、その言葉を胸の内で反復した。扉を閉めない。
そのために、数字を整える。言葉を整える。手順を整える。
ひまわり市らしいやり方だ。
◆夕方・市役所 臨時記者会見
会見場は、短時間で設営されたとは思えないほど整っていた。美月が広報室を総動員して、撮影位置、照明、同時通訳の席、そして“個人情報が出ない導線”まで作っている。
集まった記者は、地元紙、テレビ局、異界新聞、さらに魔王領の報道関係者まで。彼らが一斉にペンを構える光景は、市役所の会議よりずっと緊張感がある。
勇輝がマイクの前に立つ。背後には市長、結城、そして異界側代表としてマルコが並んだ。
加奈は横の机で資料を整理し、いつ質問が飛んできても答えられるように構えている。
勇輝は、息を一度だけ整えた。
「本日、ひまわり市立病院で、異種族の救急患者に対し、医療と治癒魔法を併用した処置を行いました。結果として、命は安定しました。現場の努力だけで済ませるのではなく、この連携を制度として支えるために、ひまわり市は本日付で“異界共生医療協定”の暫定運用を開始します」
会場がざわつく。
暫定運用。そう言った瞬間、記者の目が少し変わる。制度の匂いがするからだ。
市長が続ける。声は明るいが、軽くはない。明るいのは、人を落ち着かせるための技術でもある。
「協定の内容は、種族を問わず、ひまわり市で生活する人が必要な医療を受けられること。救急に限らず、外来も含みます。ただし、すべてを一気に変えるのは難しい。だから段階を踏みます。まずは緊急性の高い医療から。次に慢性疾患、そして予防へ」
魔王領の記者が手を挙げる。
「費用負担はどうする。人間の保険制度に入れない者を、誰が支える?」
加奈が一瞬、身を乗り出しかけたが、勇輝が先に答えた。強く言い切るのではなく、数字と段取りで安心させる口調だ。
「初期の費用は、市が臨時に設ける“共生医療基金”で支えます。基金の財源は、観光関連収入の一部、寄付の透明化、そして異界側との協力による負担の分担です。寄付は、病院の窓口では受け取りません。行政が受け取り、用途を公開します。医療は疑われると成り立たないからです」
別の記者が畳みかける。
「市が肩代わりするって、議会は納得するんですか。反対は出ない?」
市長が、ここで口を開いた。
「出るかもしれない。でも、議会は“反対のための場”じゃない。判断のための場だよ。判断の材料を揃えるのが私たちの仕事。救急外来の現状、患者数、費用見込み、そして協力の枠組み。全部、見せる。見せた上で、町として決める」
地元テレビの記者が、最後に聞いた。
「保険証がない人は、どうやって受け付けるんですか。現場は混乱しますよね」
加奈が用意していた資料を一枚、前に出した。見せる角度まで計算済みだ。カメラが拾いやすい。
「保険証の代わりに、ひまわり市が“受療資格カード”を発行します。仮の番号と、緊急連絡先、そして最低限の情報だけ。これがあることで、受付は止まりません。個人情報の扱いは病院の規定に合わせます。種族ごとの注意点は、別紙のガイドにします」
勇輝が頷き、少しだけ言葉を添えた。
「カードは“特別扱いの印”ではありません。誰でも、必要なら受け取れる。受け取ることで、医療に辿り着ける。そういう扉です」
会場の空気が、少し落ち着いた。
質問はまだ続く。だが、最初のざわめきが「不安」から「検討」へ変わったのが分かる。検討なら、対話ができる。
美月は、会見の最中にメモを走らせながら、同時に“映るべきもの”を選んでいた。映るべきものは、勇輝の顔ではない。市長の決意だけでもない。結城の疲れた目でもない。
受付が止まらないこと。救急が迷わないこと。現場が守られること。
それが伝われば、次に来る患者の不安が一つ減る。
◆夜・市立病院 屋上
病院の屋上は、思ったより風が強かった。昼間の救急外来の熱が嘘みたいに、空気が澄んでいる。街の灯りが遠くで瞬き、温泉街のほうは湯けむりに溶けた光がぼんやり浮かんでいる。
結城が缶コーヒーを開け、勇輝にも一本渡した。甘い香りが、夜の冷たさを少しだけ和らげる。
「行政って、救急車より遅いって言われるでしょう。今日も、本当はギリギリだ。現場が先に走って、あとから制度が追いかける」
「うん。でも、追いかけるのが仕事だと思ってる。遅れても、間に合わせる。間に合わなかった分は、次で減らす」
結城は短く笑った。笑いというより、息を抜く音だ。
「今日の子ドラゴン、助かった。助かったけど、あの子の親が来たとき、最初に聞くのは“いくらかかりますか”だと思う。医療の言葉より先に、生活の言葉が来る。そこを支えるのが制度なんだなって、改めて思った」
勇輝は頷く。生活の言葉。
医療の現場は命を扱う。でも命は、生活の中で続いていく。
少し遅れて、加奈が屋上へ上がってきた。書類の束を抱えている。風で紙がめくれないように、クリップで留めてある。足取りは急ぎたいのに、急ぎすぎないように整えた歩き方だ。
「二人とも、ここにいました。会見の後、病院側の事務と話してきました。カードの仕様、早めに決められます。名称案も、いくつか出ました」
「名称、か。大事だな」
結城が頷く。
「名前があると、現場が言いやすい。言いやすいと、説明が短くなる。短い説明で安心できるなら、それが一番いい」
加奈が一枚、紙を差し出した。上に書かれているのは、少し柔らかい言葉だった。
「“命の共有証明書”。どうでしょう。保険証という言葉だと、制度の外側にいる人が身構えます。でも“共有”なら、こちらが守る姿勢が伝わるかもしれない」
「……いいね」
勇輝はその紙を見つめ、言葉を噛みしめる。
「共有って、責任も共有するってことだ。軽い言葉じゃない。だからこそ、使うなら覚悟が要る」
美月が、フェンスの影から顔を出した。いつからいたのか分からない。けれど、彼女の存在は不自然じゃない。仕事の匂いがするからだ。
手にはカメラではなく、スマホ。画面には、屋上の灯りと街の灯りが映っている。
「今の言葉、動画にしてもいいですか」
「どこまで?」
「顔は映さないです。声と、病院の灯りだけ。“命の共有証明書”って言葉が、誰かの不安を減らせるなら、使いたい」
結城が頷いた。
「不安が減るなら、診療が楽になる。診療が楽になれば、救える命が増える。広報って、意外と医療の一部だな」
美月が少しだけ照れたように笑い、すぐに真面目な顔に戻る。
「ただ、気をつけたいこともあります。『誰でも治療できます』って言い方は、希望にもなるけど、過剰な期待にもなります。できること、できないこと、段階。そこをちゃんと伝えたい。言葉で救って、言葉で裏切らないように」
加奈が頷いた。
「制度も同じです。紙を配るだけで救えるわけじゃない。配った紙の先に、診察の手順と支払いの道筋が繋がってないと、紙はただの紙になります」
勇輝は三人の会話を聞きながら、夜風を吸い込んだ。冷たい。でも、頭が冴える冷たさだ。
「よし。明日、朝一で“命の共有証明書”の案を正式に起案する。名称は仮でもいい。中身の手順を同時に作る。カードの発行基準、受付手順、救急の優先、基金の透明化、異界側の協力の形。全部、紙にして、現場へ渡す」
結城が缶コーヒーを軽く掲げた。
「紙を現場へ。いいな。医療も、結局は記録が命を守る。記録があると、次が迷わない」
市立病院の窓が、いくつも光っていた。夜勤の看護師が歩く影が見える。救急の灯りが消えないのは、町が眠っても命が眠らないからだ。
美月が、屋上から見えるその灯りを写真に収める。
光は派手じゃない。じんわりと、ずっと続く。
それがこの町の宣言のように見えた。誰も置き去りにしない、という言葉を、言葉だけで終わらせないための。




