第18話「異界交通とバス運転手たち」
◆朝・ひまわり市バスターミナル
始発前のターミナルは、いつものざわめきより静かだった。静かなのに、空気だけが張っている。点検灯の白い光がホームの縁をなぞり、遠くでエンジンの暖機運転の低い音が鳴るたびに、職員の肩がわずかに揺れる。
転移してから、ひまわり市の道路は「道」であることをやめかけている。地面が持ち上がって空へ伸び、別の区間は淡い魔力の霧に飲まれて、目印の標識が昨日と同じ場所に立っていない。地図は役に立つ。けれど、地図だけでは足りない。今日の試験運行が“交通”の顔をしているのは、運転手たちと行政の意地が、ぎりぎりで形を保っているからだった。
運輸課長の南條が、点呼表を片手に前へ出る。声は大きいが荒くはない。ここに集まった運転手たちの耳に、確実に届く音量を選んでいる。
「本日より、新ルートの試験運行を開始します。いつも以上に、確認を増やします。焦らず、慣れず、手順を信じてください。市民の足を止めないために、まず私たちが転ばない」
運転手たちが短く返事をする。「はい」「了解」「お願いします」。その返事の並びに、現場の呼吸がある。
勇輝はターミナルの屋根越しに空を見上げた。浮遊島から伸びる白い道が、風に揺れている。遠目には橋のようで、近くで見ると階段にも見える。空のどこかと地上のどこかが、途中から無理やり縫い合わされたような線だ。
「……あれを走るバス、落ちたらどうなるんだろうな」
独り言に聞こえたのか、隣で書類ケースを抱えた加奈が小さく首を振った。
「落ちないようにするための書類が、今日この箱の中に詰まってます。落ちる前提で考え始めたら、たぶん眠れなくなりますよ」
「そういう言い方、加奈はほんとに人を落ち着かせるよな」
「落ち着かせないと、窓口が回らないので」
その会話の横を、ベテラン運転手の吉永が通り過ぎた。肩にタオルをかけ、手袋をはめ直しながら、勇輝へ軽く目を向ける。
「主任さん。道が浮いてようが、霧で見えようが、結局やることは同じですよ。止まる、曲がる、譲る。乗せて、降ろす。急がない」
「……急がない、か。今日いちばん大事な言葉かもしれない」
少し離れたところで、美月がスマホを縦に構え、ターミナルの様子を撮っていた。まだ配信はしていないらしく、画面を見ては眉を寄せ、また撮り直している。
「美月、まだ上げないのか?」
「上げたいんですけど、まず“安全にやってます感”を作らないと、コメント欄が怖いことになります。『危ないのに走らせるな』って言われたら、それ正論なので……」
「正論が怖いって、広報の宿命だな」
「主任、そこで慰めようとしてる顔してますけど、慰めになってませんからね。はい、笑ってる場合じゃない、撮り直しです」
美月は言いつつも、どこか楽しそうだった。怖いと楽しいが同居する日、それがひまわり市の日常になりつつある。
南條が最後に、点検の手順を読み上げる。
「車体、床、足回り、魔導補助、燃料、制動、車内固定、案内表示、緊急時の降車手順。確認者は二名。署名は必ず二つ。誰か一人の“たぶん大丈夫”を、全員の大丈夫にしない」
勇輝はその言葉を聞きながら、内心で頷いた。前例がないなら、前例の代わりに手順を増やす。人が増えないなら、確認を増やす。行政の現場は、いつもそうやって穴を埋める。
◆午前・試験運行ルート「浮遊環状線」出発準備
ホームへ、改造された市バスがゆっくり入ってきた。車体の側面には淡く光る魔法陣が刻まれ、バンパーの下には補助ノズルが追加されている。見た目はバスなのに、どこか船に似ていた。地面を走るための車輪があり、空に引っかかるための“爪”のような補助具がある。
加奈は反射的に、手元の書類を確かめた。
「……これ、本当に認可取れてますか。いえ、取れてるのは知ってるんですけど、取れてる理由が怖いんです」
「怖い理由、当てていいか?」
「当てないでください」
勇輝は咳払いをして、なるべく真面目な顔で言った。
「分類がないから作った。総務課が“空中輸送特例”って項目を新設して、道路運送法の枠からはみ出る部分を、条例の附則でひとまとめにした。国に出す前に、市として最低限の安全基準を置くための暫定だ」
「暫定が好きな町ですね……」
「好きで暫定してるわけじゃない。暫定でも置かないと、何も守れない」
そこへマルコが、誇らしげというより楽しげに手を挙げた。
「名称は重要ですぞ。名付ければ、説明が始まります。『空中輸送特例一号』、覚えやすい」
「覚えやすいけど、会計書類に書くと長いんですよ」
「略称はどうします?」
「略称を作る前に、まず運行計画を固めましょう」
やり取りの向こうで、市長が現れた。バインダーを抱え、スーツの襟を整えながら、ホームの様子を見て目を輝かせる。
「いいねえ。いかにも“ひまわり市”って感じがする。市民の足が、空まで広がるって、夢がある」
「市長、夢はいいんですが、夢の下に書類が何層も敷かれてます」
「それも夢の一部だよ。夢は、手続きで支えると長持ちする」
市長はさらりと言う。勇輝はそれがこの町の強さだと思った。勢いだけで突っ走らない。勢いを、あとから制度で追いかけてくる。
美月がバスの側面の光る紋様を撮り、ふっと息を吐く。
「かっこいい……。でもこれ、画だけ先に出すと誤解されるやつだ。『空飛ぶバス!』って拡散された後に『実証実験です』『安全確認中です』って言っても、追いつかない……」
「だから、先に“安全確認中”の絵を作る。美月、頼む」
「はい。珍しく主任が広報に丸投げしないで一緒に考えてる。これは記念日です」
加奈が手元の書類を広げ、乗車するテスト乗客の一覧を確認する。
「今日のテスト乗客、種族代表の方々、全員揃ってます。人間、エルフ、獣人、スライム。それと、竜族は……今回は見送りですね」
「うん。車体の強度試験が追いついてない。乗せたい気持ちはあるけど、今日は無理をしない」
「“無理をしない”が今日の合言葉、徹底しましょう」
南條が運転手の吉永へ、最終確認の紙を渡す。
「吉永さん、今日は乗客を乗せた瞬間から“現場責任者”です。異変を感じたら止めてください。止めたことを責める人間は、この場にいません」
「ありがたいですね。止める勇気が要る日ほど、その言葉が助かる」
吉永は紙を胸ポケットに入れ、運転席へ向かった。背中が大きい。背中が大きい人ほど、慎重だということを、勇輝はこの町で何度も見てきた。
◆車内・試験走行開始
車内は、いつもの市バスより少し広く見えた。実際は座席の配置を変え、通路を太く取っている。天井の一部は高くなり、手すりは高さが調整できる可動式。座席には、吸着シートが貼られている箇所がある。スライム客が滑って転ばないように、という配慮だ。
乗客は、どこか緊張しながらも楽しそうだった。人間の高齢者が「空、見えるのね」と窓側に座り、エルフの青年が「この窓枠、木材の香りがする」と触れ、獣人の男性がしっぽの置き場を探して身をよじる。スライムの小さな客は、座席にぴたりと張り付くようにして落ち着き、ぷるんと満足げに揺れた。
「吸着シート、ありがたいぷる。転んだら形が崩れるぷるから」
美月がメモを取りながら、口の端を上げる。
「“形が崩れる”って言い回し、かわいいのに切実だな……。記事にするなら、本人の言葉をそのまま載せたい」
加奈は、獣人の客の様子を見て、すぐに声をかけた。
「しっぽ、座席の端に当たってませんか? クッション、追加できます。今日のために予備を用意してるので」
「助かる。正直、しっぽが当たると落ち着かないんだ。人間にとっての“肘掛けがない”みたいなもんでさ」
「例えが上手ですね。じゃあ、ここに置きます」
勇輝は走行データ端末を見つめながら、車内の会話が自然に起きていることに安堵した。多様な種族が同じ空間にいると、まず摩擦が起きると思われがちだ。けれど摩擦が起きる前に、困りごとが共有され、対処が生まれる。行政がすべきことは、その対処を“毎回の善意”に任せず、仕組みにしていくことだ。
車内アナウンスが鳴った。音声は日本語、続いて共通語、最後に簡易なスライム語の振動サイン。南條が「そこまでやるのか」と驚いた顔をしたが、美月が「そこまでやらないと炎上します」と真顔で押し切った結果だ。
『次は、浮遊環状線、第一ポイント。右手に見える白い道は、浮遊道路です。座っている方は、そのまま座ってください。立っている方は、手すりを持ってください』
吉永の声ではない。録音された案内だ。けれど、録音の声も落ち着いていて、どこか吉永に似ている。たぶん、吉永本人が読み上げたのだろう。現場の声は、現場の人が作ったほうが、誰の耳にも優しい。
バスがゆっくりと進み、車体がふわりと軽くなる。魔導補助が作動し、タイヤが浮遊道路の縁に沿うように吸い付いていく。浮いているのに、浮いている感じが少ない。怖いのは“浮くこと”ではなく、“浮くことが急に起きること”なのだと、勇輝は改めて思う。ゆっくりなら、人は慣れる。
「……意外と、怖くないな」
誰かが呟くと、周りが小さく頷いた。
だが、町はいつだって、油断の隙間に何かを差し込んでくる。
バスが第二ポイントへ差しかかった瞬間、車体が大きく揺れた。揺れ方が、段差の揺れではない。風だ。風が、車体の横腹を押した。
フロントガラスの向こうで、紫色の渦が巻き上がる。霧が線を描き、空気がねじれる。魔力竜巻。文字にすると派手だが、目の前のそれは派手さよりも、ただ不気味だった。音が遅れてやってくる。風の唸りが、耳の奥に居座るように響く。
「……来たか」
吉永が低く言った。叫ばない。叫ぶと、車内が先に崩れる。吉永はハンドルを握り、速度を落とし、車体の姿勢を保つ。
「皆さん、座ったままで。深呼吸してください。揺れますが、転がしません」
その言葉が、車内の空気を支えた。
加奈は即座に、緊急時の手順書を開く。紙の端が震えたが、声は震えないように整えた。
「緊急時対応、第三段階。魔導補助を強めるときは、バリア展開の前に“出力上限確認”。マルコさん、補助魔力、入れられますか?」
「できます。しかし、入れ方が大事ですぞ。強く入れると、車体が逆に持っていかれる」
マルコが杖を構える。杖先が淡く光り、車体側面の魔法陣と共鳴する。
南條が運転席の後ろから、短く指示を出した。
「吉永さん、右へ寄せる。渦の中心は左だ。中心に近づくほど、持ってかれる」
「わかってる。……主任さん、あのボタン、準備しといてくれ」
勇輝は頷き、車内側の操作盤へ手を伸ばす。そこには“魔力バリア展開”のスイッチがあった。押せば助かるかもしれない。押せば、別の問題が生まれるかもしれない。けれど、今この瞬間に必要なのは、後日の言い訳ではない。
「命を守る。今日は、それが一番先だ」
勇輝は押した。
車体の周囲に薄い膜のような光が走る。透明に近いのに、確かに空気の流れが変わった。竜巻の風が膜に触れ、わずかに逸れる。完全には防げない。でも、押し返されない程度に、流れが弱まる。
その間に、マルコが補助魔力を“少しずつ”流し込む。急に注ぐのではなく、車体の呼吸に合わせる。魔法陣が淡く脈打ち、バスが風の間を縫うように進んだ。
美月は座席にしがみつきながら、心の中で叫んだ。映像は撮らない。撮りたい。でも今撮ったら、手が滑る。手が滑ったら、事故になる。広報は、まず自分が安全でいることが仕事だ。
「……これ、ニュースになるやつだ。でも、ニュースにしたい形じゃない」
小さく呟くと、隣のスライム客がぷるんと震えた。
「だいじょうぶぷる? ぼく、こわいぷる。でも、運転のおじさん、声がやさしいぷる」
「うん、大丈夫。声がやさしい人は、たぶん手もやさしい。だから信じよう」
加奈がその会話を聞いて、ほんの一瞬だけ笑った。笑ったあとで、すぐに真面目な顔に戻る。笑いは油断じゃない。緊張の中で、呼吸をつなぐためのものだ。
竜巻を抜けたのは、数分後だった。
数分なのに、体感はもっと長い。風が途切れ、車体が安定し、乗客たちの肩が一斉に落ちた。
「……よし。中央駅の空き地へ行く。いったん降ろす。続行は、そこで判断する」
吉永が言った。
誰も反対しない。続けるために、止まる。今日の合言葉が、ここで効いた。
◆昼・ひまわり中央駅(緊急着陸と臨時説明)
バスは中央駅の裏手、臨時の着陸スペースにゆっくりと降りた。着陸と言っても、車輪が地面を踏みしめるだけだ。けれど、さっきまで浮いていたものが地面に戻ると、足元の安心が一気に増える。
ドアが開くと同時に、乗客から拍手が起きた。大きな拍手ではない。自分の胸を落ち着かせるための、短い拍手だ。それでも、その音は確かに温かい。
「運転、すごかったよ」
「怖かったけど、ちゃんと説明してくれたから大丈夫だった」
「また乗りたい……って言ったら、怒られるかな」
吉永は汗を拭きながら、笑った。
「怒られないですよ。乗りたいって言われるために走ってるんで。……ただ、次はもっと安心して乗れるように、今日のことを全部、直します」
南條が乗客の前に立ち、頭を下げた。
「本日は試験運行にご協力いただき、ありがとうございます。先ほどの魔力竜巻は想定していましたが、実際に遭遇したことで、対策の精度を上げられます。皆さんの体験談も、制度に反映します。帰りは通常ルートで、安全にお送りいたします」
加奈がすぐに補足する。
「ここでの待機中、体調が悪い方はいませんか。怖かった方、落ち着く場所を用意しています。人間用、獣人用、スライム用で温度帯も変えてあります。遠慮しないでください」
その“温度帯も変えてある”に、獣人の客が感心したように頷いた。
「こういうところ、行政ってすごいな。細かいのに、ちゃんと人に向いてる」
「細かいのは、失敗しないためです。人に向けないと、ただの細かさになります」
勇輝は膝の上の書類を見つめ、深く頷いた。書類には、今日の試験運行の目的が書かれている。目的は“空を走ること”ではない。“安全に人を運ぶこと”だ。空であろうが地上であろうが、目的は同じ。
「安全基準。異界対応免許。魔導補助の取り扱い規程。魔力燃料の補助金。……全部、行政で整える。整えないと、次に来る竜巻が、もっと厄介な顔をして現れる」
市長が、少し離れたところでその言葉を聞き、頷いた。
「前例がないなら、前例を作る。その前例が誰かを縛るんじゃなくて、守る方向へいくようにね」
加奈が勇輝へ視線を寄せる。
「……新しい部署、必要ですか? 運輸課だけじゃ抱えきれない気がします」
「たぶん必要になる。いや、もう必要だ。道路、空、魔導路、全部が絡んでる。窓口が分かれてると、現場が迷子になる」
美月がメモを取りながら、ふと顔を上げた。
「キャッチコピー、考えていいですか」
「今?」
「今です。いまの熱を逃すと、言葉が薄くなるので」
美月は少しだけ照れたように、でも真剣に言った。
「“誰でも、どこへでも”。ひまわり市のバスって、それが似合うと思うんです。空に行くからじゃなくて、種族が違っても同じ便に乗れるから」
勇輝はしばらく黙り、頷いた。
「……いいな。それ、制度の目標にもなる。誰でも、どこへでも。だからこそ、手順が必要になる」
◆午後・中央駅の会議室(臨時ふり返り)
乗客を通常ルートへ案内したあと、関係者だけが駅の小さな会議室に集まった。窓の外では、ホームに出入りする人の流れが続いている。日常は止まらない。その日常の横で、今日の“非日常”を日常へ寄せていく作業が始まる。
南條がホワイトボードに丸を三つ書いた。
「まず、良かった点。次に、危なかった点。最後に、すぐ直せる点。順番を間違えると、話が感情に引っ張られる。だから手順でいきます」
吉永が頷き、少し苦笑した。
「課長、現場の人間に“手順で”って言うと、みんな安心しますよ。反省会が怖くなくなる」
加奈がメモを取りながら、乗客の聞き取り票を机に並べる。人間用の紙、獣人用の大きめの紙、スライム用の防水シート。種類が違うだけで、書いてあることは同じだ。怖かった瞬間、安心した瞬間、改善してほしいこと。
「怖かったのは竜巻そのものより、最初の揺れで『何が起きたかわからない』時間だった、という意見が多いです。逆に安心したのは、吉永さんのアナウンスと、止まる判断が早かったこと。あと、スライムの方は“座席がずれなかった”が一番多いです」
美月が顔を上げる。
「なるほど。広報で出すなら、派手な映像じゃなくて『こういう安全対策を積み重ねています』をちゃんと見せる。今日の竜巻は、映像にすると強すぎます。見た人が“面白がるか、怖がるか”で割れるので」
「割れたら、町が割れる。だから先に説明を置く」
勇輝が言うと、市長が小さく頷いた。
「説明って、“言い訳”じゃないからね。安心のための材料だよ」
南條が二つ目の丸、危なかった点の欄に短く書く。
「揺れの初動で、車内の荷物固定が甘い席があった。とくに尻尾のある人の荷物は、位置が変わる。座席の形を変えるだけじゃ足りない。固定の場所を増やす」
加奈がすぐ補足した。
「荷物ネットの位置を、尻尾の動線から外します。あと、アナウンスの“いま何が起きたか”の文言、初動から入れたいです。『魔力竜巻を確認、速度を落としています』みたいに」
「それ、録音文を改訂しよう。言葉を早めに置くと、人は勝手な想像をしなくなる」
吉永が言い、勇輝はうなずいた。
最後の丸、すぐ直せる点には、美月がペンを取って書いた。
「“試験運行中”の表示を、車体だけじゃなく停留所にも。見た目で伝わると、問い合わせが減る。問い合わせが減ると、窓口の余裕が増える。余裕が増えると、事故が減る。たぶんそういう連鎖です」
「それ、行政の魔法みたいに言わないで」
加奈が笑うと、美月も笑って肩をすくめた。
「魔法じゃなくて、連鎖の話です。広報は連鎖を作る仕事なので」
勇輝はボードを見つめ、ゆっくり口を開いた。
「今日の結論は、飛べたことじゃない。止まれたことだ。止まって、降ろして、説明して、ふり返れた。だから次がある。次は、今日の“止まれた理由”を制度に落とす」
南條が頷く。
「交通は、勇気だけじゃ回らない。手順と、言葉と、予算だ。よし、次回までに“異界交通連絡会議”を正式化する。部署新設はその次だ。いきなり看板を増やすより、まず連絡を一本にする」
市長が笑って言った。
「いいね。看板を増やすより、迷わない道を増やそう」
会議室の空気が、少しだけ軽くなった。外のホームには、いつもの列車が入ってくる。普段の音が、今日の話を現実へ引き戻してくれる。その音を聞きながら、勇輝は次の書類に手を伸ばした。今度は、空を走るためじゃない。明日も、人が行きたいところへ行けるために。
◆夕方・車庫前(現場の後片付け)
試験運行の車両が車庫へ戻るころ、夕焼けが屋根を赤く染めていた。車庫の前にはホースが伸び、吉永が車体を丁寧に磨いている。泥や埃だけでなく、魔力竜巻のときに付着した微細な紫の粉のようなものも落とさなければならない。粉が残ると、次の運行で魔導補助が誤作動する可能性があると、整備班が言っていた。
その隣で、小さなスライムの少年が、ぷるぷると形を変えながら手伝っていた。スポンジを持つというより、スポンジに自分がなっている。
「おじちゃん、ここ、ぴかぴかにするぷる。きれいだと、バス、よろこぶぷる?」
「よろこぶよ。バスはな、機械だけど、手をかけると答えてくれる。……それに、きれいだと乗る人が安心するだろ」
「安心、たいせつぷる。ぼく、きょう、こわかったぷる。でも、帰れたぷる」
「帰れるってのが、いちばんだ。帰れない乗り物は、乗り物じゃない」
吉永はそう言って、少年の頭、というか上部を、そっと撫でた。スライムはぷるんと嬉しそうに揺れる。
少し離れたところで、その光景を見ていた勇輝は、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。今日、空を走ったのはバスだ。けれど、空を走らせたのは、人の手だ。運転手の手。整備の手。窓口の手。怖がりながらも乗った乗客の手。
「……市民の足って言葉、今日ほど実感したことないかもしれないな」
隣で美月が撮影していた。今度は無理にドラマチックに撮らない。静かな手元、濡れた車体、夕焼けの反射、少年のぷるぷる。全部が“町の普通”として並んでいる。
「これ、広報動画のラストにしたい。派手な空中走行じゃなくて、降りたあとにちゃんと磨いてるところ。『安全はここから』って言える」
「それ、いい。派手なところだけ見せると、町が軽く見える。支えてるところも見せたほうが、ひまわり市らしい」
◆夜・市役所屋上(方針案と星空)
夜の風が、ひんやりと頬を撫でた。市役所屋上は、相変わらず少しだけ高い場所の匂いがする。金属の手すり、コンクリートの冷たさ、遠くの温泉街から流れてくる湯の香り。それらが混ざって、ひまわり市の夜になる。
勇輝は報告書の束をめくっていた。表紙には、今日の試験運行の結果と、次の方針案が並んでいる。
「多種族共生型交通政策:空・陸・魔導路の統合」
「緊急時対応マニュアル改訂案(魔力竜巻遭遇時)」
「異界対応運転者講習(仮)」
「魔導補助装置の点検周期と補助金スキーム案」
加奈が紙コップのお茶を差し出す。温かい。手が落ち着く温度だ。
「これ、国交省に出すんですか」
「出す。たぶん、すぐ通るとは思ってない。そもそも“分類がない”って言われる。でも、分類がないなら、分類を提案するところから始めるしかない」
「前例がない、って言葉に慣れてきましたね」
「慣れたくはないけど、慣れないと毎日が止まるからな」
市長が屋上へ上がってきた。書類を抱えたまま、手すりの向こうの空を見上げる。今日の試験を終えた市営バスが、遠くでゆっくり旋回し、浮遊道路の縁をたどるように光の軌跡を描いている。バスの側面の魔法陣が点滅し、夜の空に小さな目印を残す。
「……きれいだね。バスが“町の線”を引いてるみたい」
「線を引くだけなら簡単です。でも、その線の上を誰かが安心して歩けるようにするのが、難しい」
「難しいから、やりがいがある」
美月がフェンス越しにその光景を撮りながら、ぽつりと言った。
「これ、“ひまわり市の夜明け”ってタイトルで出したいです。夜なのに夜明けって矛盾してますけど、矛盾してるのが、今のひまわり市なので」
「矛盾してるのに、毎日回ってる。回ってるなら、たぶん大丈夫だ」
勇輝は言ってから、少しだけ笑った。大丈夫は、願いだけではない。手順と、確認と、帰れること。その積み重ねだ。
風が吹き抜け、三人は同じ空を見上げた。
浮遊道路の白い線、その先にある暗い森、遠くの異界の灯り。全部が混ざって、一枚の夜になる。




