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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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1230/1964

第1230話「黄色紐の先は“税”ではなく“契約”だった」

◆王都財務局・追加許可カウンター


 黄色い紐は、思ったより重かった。


 もちろん、紐そのものは軽い。指でつまめば頼りないくらいだ。それでも首にかけた瞬間、背筋の奥に小さな錘が落ちたみたいに、気分が一段“内側”へ寄っていく。自分の立ち位置が、見学者から“覗きにいく人”へ変わってしまう感じがする。


 勇輝は、札を胸元で整えながら、なるべく平静に言葉を探した。


「……首から下げるだけで、仕事の温度が変わるな。町でいうと、会計監査の日の札みたいな気分になる」


 横で、美月が青い顔のまま小さく頷く。昨日までの緑紐のときとは、目の焦点が違う。軽口を叩こうとして、叩ききれずに途中で止まる、そんな顔だ。


「わかる。なんか、うっかり言葉を間違えたら、その場で色が変わりそう。しかも色が変わったら、戻すのに何枚も申請しそう」


「それはありそうだな……いや、今のは想像しないでおこう。想像すると、余計に手が硬くなる」


「主任、そういうところがリアルで、逆に落ち着くときもあるんだけどね」


 加奈が、笑いを含ませて言った。緊張をほどくための笑いだ。けれど、笑って終わらせない。彼女の視線は、カウンターの上に揃えられた書類の束へ、きちんと戻っている。


 黄色紐の追加許可を取るまでが、すでに研修そのものだった。


 申請書は三枚。理由は二種類。責任者署名は二箇所。滞在中の連絡先と、見学範囲の指定、さらに「情報の取り扱いに関する誓約」の追記。途中で一度でも言葉が揺れると、書類の束が平気で一枚増える。


 そして何より、財務局らしい一言があった。


「許可は出します。ただし閲覧は契約です」


 ベンディス局次官補が、昨日と同じ温度の声でそう言い切った瞬間、勇輝の胸の奥がきゅっと引き締まった。歓迎の条のときと違う。歓迎は儀礼の線引きだったけれど、契約は責任の線引きだ。線の太さが違う。


 いま、その契約の入口に立っている。


 追加許可カウンターの奥では、書記官が淡々と申請内容を読み上げていた。読み上げというより、誤差がないか確認するための“照合”だ。声の抑揚は少ないのに、文字が一つずつ壁に刻まれるように耳へ残る。


「見学対象。内部帳簿室。閲覧範囲。通行契約、市場利用契約、灯火維持契約。持ち出し不可。写し取り不可。発信不可。責任者。勇輝、ならびに外務省連絡官レフィア・ルーミエル」


 レフィアが、きれいな角度で頷く。


「はい。責任は明確にいたします。必要があれば、訪問者の説明責任も引き受けます」


 その言葉の硬さが、逆に頼もしかった。レフィアは“丁寧に硬い”ができる。ひまわり市の空気を壊さずに、王都の空気へ合わせることができる。


 書記官は、黄色い紐を一つ取り出し、机の上に置いた。軽いはずの紐が、机に触れた瞬間、妙に重々しく見える。


「追加許可を発行します。紐の色は閲覧範囲の証明であり、同時に閲覧契約の識別です。紐を付けた瞬間から、あなた方は契約者です」


 美月が、反射で小さく息を飲む。加奈は、緊張を隠すように自分のメモ帳を抱き直した。勇輝は、目線を落として、言葉を整える。


「契約者になったからには、こちらのやり方に従います。範囲を越えないこと、扱いを誤らないこと、その二点は守ります」


 言い切ると、書記官は淡々と頷いた。


「よろしい。では、内部帳簿室の前で契約書の最終確認を受けてください。こちらでは、契約は入口で成立します」


 入口で成立する。国境もそうだった。王都は“門”で世界を区切る。その門を通るには、言葉と印がいる。


 勇輝は黄色紐を受け取り、首にかけた。胸元で札が揺れて、揺れがすぐ止まる。その止まり方が、やけにきっちりしていた。


「……よし。行こう。ここからは、見学じゃなくて、ちゃんと学びにいく」


 加奈が頷き、美月が深呼吸してから、少しだけ冗談を混ぜた。


「うん。学びにいく。学びにいくんだけど、私の中の何かが『ここから先は静かに』って看板を持ってる」


「その感覚は正しい。静かに、でも怯えすぎずにいこう」


 レフィアが先導する。歩き方が変わる。足音が小さくなる。廊下の空気が、また一段冷たくなる。


◆内部帳簿室前


 内部帳簿室の扉は、派手ではない。けれど、近づくほどに“拒む力”だけが濃くなる。


 扉の中央に短い文言が刻まれている。


『閲覧契約に同意なき者、入室不可』


 その下に、さらに小さな札がぶら下がっていた。


『財務規程第八条・補足:同意は署名と印で示す』


 加奈が、声を落として言う。


「“同意”って言葉が、扉に書いてあるだけで、こんなに圧が出るんだね。ひまわり市の庁舎じゃ、せいぜい『関係者以外立入禁止』なのに」


 レフィアが淡々と頷いた。


「ここでは禁止よりも、証明の方が重要です。誰が、どこまで、何に同意したか。そこが残らないと、運用が成立しません」


 勇輝は、その言い換えに苦笑した。


「禁止じゃなくて証明、か。言葉としてはきれいなのに、やっぱり背筋が伸びるな」


 扉の横に小さな窓があり、そこが静かに開いた。中から、細い目をした書記官が顔を出す。顔というより、確認のための“視線”だけが出てきたように見える。


「研修者、黄色紐。契約書を」


 勇輝は、用意していた契約書を差し出した。書記官は紙を受け取り、じっと見る。視線が紙面を滑り、最後に署名欄へ止まる。次いで、紙の角を指で軽くなぞった。


 その瞬間、インクがほんの少しだけ光った。


 美月が、声を出さないまま口を動かして「光った」と言った。勇輝も見た。確かに、わずかに光った。


 レフィアが小さく答える。声は、必要最低限の説明だけを載せている。


「嘘や改ざんを弾く記録インクです。署名が本人のものでない場合、滲み方が変わります。ここは、滲みませんでした」


 美月は、目を丸くしたまま、ようやく小さく頷いた。


「紙が……紙の方が、先に見抜くんだ」


 書記官は無表情のまま、契約書を一枚めくり、印の部分を確認した。印といっても、ひまわり市の朱肉の印鑑とは違う。簡易封印印だ。押すというより“置く”に近い。置いた瞬間、紙面に微細な紋が浮かび上がって定着する。


「契約成立。入室を許可する」


 扉が重い音を立てて開いた。きしむ音はしない。必要なだけの動きで、必要なだけ開く。効率が怖い。


◆内部帳簿室


 中は、静かだった。


 公開帳簿室の“海”が波だとしたら、ここは深海だ。音が吸い込まれていく。呼吸が少し大きいだけで、部屋の中に余計なものを落としてしまいそうな気がする。


 棚に並ぶのは、帳簿ではない。束ねられた契約書だ。背表紙には分類が書かれている。どれも、ひまわり市なら「税」や「協力金」でひとまとめにしてしまいがちな内容が、きっちり分けられて、きっちり名前を持っている。


 通行契約

 市場利用契約

 井戸・水利契約

 城壁保全契約

 治安協力契約

 灯火維持契約


 勇輝は、棚の前で立ち止まり、思わず呟いた。


「……税が、見当たらないな」


 返事は、部屋の奥から来た。


「ここでは税という言葉は、あまり使いません」


 ベンディス局次官補が、奥の机から立ち上がる。笑顔はない。けれど今日は、昨日よりも少しだけ“説明する気”がある顔をしていた。こちらを追い詰めるためではなく、こちらに理解させるための顔。財務が“わかる人”を増やそうとするときの顔、という感じがする。


 勇輝は言葉を選びながら、率直に聞いた。


「払うことが実質的に必須なら、税と呼んでもよさそうです。ここまで契約に寄せる理由は、どこにあるんですか」


 ベンディスは、即答しない。言葉を雑に投げない人だ。少しだけ間を置いて、淡々と述べた。


「強制ではありません。選択です。通るか、通らないか。使うか、使わないか。利用するなら、条件に同意して契約を結ぶ」


 加奈が目を丸くした。


「通らない、って……選べるんですか。本当に?」


「遠回りは可能です。市場を使わずに物を売ることも可能です。井戸を掘る者もいます。現実的かどうかは別ですが、選択肢としては残します」


 美月が、小さく口の端を引いた。


「現実的じゃないけど、一応、選べるって形は残すんだ……」


 ベンディスは、薄く頷いた。


「現実は選択肢を狭めます。だからこそ、契約を明文化します。選択肢が狭いときほど、理由と範囲を残す必要があります」


 レフィアが、静かに言葉を重ねた。


「払わされている、ではなく、選んだと理解できる。納得の形を作る、ということですね」


 ベンディスが初めて、レフィアを正面から見た。視線の強さが変わる。評価は、声に出さなくても分かる。


「理解が早い。外務は時々、財務よりも現実を見ますね」


 美月が、声を出さないように気をつけながら、肩をすくめた。


「褒められてるんだよね? たぶん……」


 勇輝は小さく頷き、目線で「たぶん」と返した。ここで喜びすぎるのは危険だ。言葉の余計な膨らみは、次の質問を呼ぶ。


 ベンディスは棚から一冊の綴りを引き抜き、机に置いた。どん、と静かな音が落ちる。題名が直球すぎて、逆に清々しい。


 王都第二門 通行契約(短期)


「これが、貴市が昨日通過した門の契約です」


 加奈が、思わず声を上げそうになって、慌てて押し殺した。


「門って、契約なんだ……」


 ベンディスは淡々と続ける。


「通行は王都の維持に負担を与えます。警備、道路、照明。よって通行者は短期の通行契約を結ぶ。契約者には、通行の権利と、一定の安全保障を提供します」


 勇輝は、眉をひそめた。


「……昨日、契約を結んだ意識がないんですが」


 言いながら、国境でのやり取りを思い出す。封蝋、携行証明書、儀礼監察局。確かに、提示した。確認もされた。だが、契約という言葉は出ていなかった。


 レフィアが、すっと目を伏せた。


「国境で提示した携行証明書に、通行契約条項が含まれていました」


「含まれてた? どこに?」


「封蝋の裏面です」


 美月が目を見開いた。叫びそうになって、すんでのところで口を押さえる。その反応が、余計に可笑しくて、加奈が目だけで笑った。


「裏面って……見えないところじゃないですか」


「はい。だからこそ、封蝋の確認が重要になります。封蝋は、表だけではなく裏も含めて“同意”の証拠です」


 ベンディスは、淡々とページをめくった。


「条項に同意した以上、通行料は発生します。ただし観光税のように曖昧な名目ではない。何に使うかを、ここに書く」


 ページの中身は、驚くほど具体的だった。文字が細かいのに、読める。読めてしまうから、逃げられない。


 ・門番の交代手当

 ・石畳の補修費

 ・夜間照明の蝋代

 ・緊急時の鐘楼維持費

 ・迷子・負傷者の一時保護費(短期)


 加奈が、素直に頷いた。


「これは、納得しやすいかも。『どこに消えた?』って言われにくい」


 勇輝も頷きかけて、そこで止まった。納得しやすい、は良い。だが、これを積み重ねたらどうなる。項目が増え続ける。管理が増え続ける。説明の負担が増え続ける。


「でも、これだと項目が増えすぎませんか。維持の理由が増えるほど、書くことも増える」


 ベンディスは、当然のように言った。


「増えます。だから、本になります」


 美月が、肩を落とした。


「やっぱりそこに戻るんだ……概要が本になる理由、全部ここに入ってたんだ……」


 ベンディスは、淡々と補足する。


「本になるのは、脅しではありません。誤解を減らすためです。誤解は争いを生みます。争いは運用を止めます。止まると、維持ができません」


 勇輝は、深く頷いた。誤解が争いを生む、という言葉は、ひまわり市でも同じだ。違うのは、ここでは争いを“条文”ではなく“契約”で抑えること。抑え方の道具が違う。


◆市場利用契約


 次に机に置かれたのは、さらに恐ろしい一冊だった。恐ろしい、というより、ひまわり市にも直撃する。


 市場利用契約(露店・短期)


「ひまわり市にも市場はありますね」


 ベンディスの問いに、加奈が頷いた。


「朝市っぽいのがあります。温泉街と商店街が一緒になってて、日によって出店も変わる」


「では質問です。市場の秩序は何で守られていますか」


 勇輝が答える。


「条例と、管理組合のルールです。場所代、清掃、衛生、消防。あと、苦情が出たときの窓口の手順。現場は、だいたいそこに集約します」


 ベンディスは頷いた。


「こちらでは、それを契約にまとめます。市場を使う者は署名し、違反したら罰金ではなく契約解除。出店停止です」


 美月が、ぽつりと言う。声が小さいのに、言葉が鋭い。


「罰金じゃないんだ……」


 勇輝は、ゆっくりと頷く。


「出店停止は……効く。罰金より、次がなくなるのは重い」


 ベンディスの目がほんの少しだけ動いた。肯定の動きだ。


「ええ。財務は、現実の痛みを理解しています。罰金は払って終わりにできる。しかし解除は、信用の線を切ります。線が切れた者は、しばらく戻れない」


 レフィアが、静かに続けた。


「ひまわり市の観光施策にも応用できますね。協力金を“契約型”にする。見返りと義務を明文化する。参加の線を、言葉として残す」


 勇輝は、苦い顔になりかけて、すぐ整えた。


「うちは今、勢いで回してる部分がある。勢いが悪いわけじゃないけど、言葉が追いついてないところがあるんだよな」


 加奈が、すぐに現場変換する。彼女の強さは、難しい言葉を、町の風景に落とすところだ。


「例えば、温泉街の“協力金”を『清掃・治安・案内表示を整える契約』にして、参加店にはPRの優先枠とか、イベント参加の先行案内とか、ちゃんと“返ってくるもの”を明文化する。すると、払う側も『何に使われるか』が見えるし、払わない側も『参加してない』って自分で理解できる」


「そうだな。参加してない店を責めるより、参加してる店が得をする形にした方が、町の空気も荒れにくい」


 勇輝がペンを走らせる。研修の成果が、紙の上でひまわり市の形になりはじめる。これは気持ちが少し軽くなる瞬間だ。学びが、ただの恐さで終わらない。


 そのとき、美月が小さく手を挙げた。いつもの勢いではない。ちゃんと聞きたい、という挙げ方だ。


「質問。契約って、みんなちゃんと読むの? あの量だよ? 本になるんだよ?」


 ベンディスは、少しだけ間を置いて答えた。


「読みません」


 美月が目を見開いた。即答すぎて、逆に笑いそうになるのを堪える。


「え、そこは即答なんだ」


「読みません。だから、要点を読み上げる係がいます。契約の要点は、必ず口に出して確認します」


 棚の影から、よちよちと何かが出てきた。小型ゴーレムだ。本を抱えて歩いている。胸に札が付いている。


 要点朗読係(第3型)


 ゴーレムは机の前に立ち、抱えていた本を丁寧に台に置く。ページを開く動作が、妙に慎重で、妙に礼儀正しい。まるで“本を傷つけないこと”が業務の第一だと言わんばかりだ。


 そして、控えめな声で読み上げを始めた。


「市場利用契約、要点。一、火の扱い。二、通路の確保。三、廃棄物の分別。四、騒音の時間帯。五、表示の義務。六、違反時の是正期限。七、再違反時の解除」


 声は機械的なのに、不思議と聞き取りやすい。言葉の区切りが正確で、要点が抜けない。


 美月が、目を輝かせかけて、でもすぐに真面目な顔に戻った。


「読んでくれるの、助かる……。助かるけど、これ、逃げ道がないやつだ」


 ベンディスが冷静に言う。


「読むのはゴーレム。責任は署名者。よって、より厳格です。要点は聞いたことになる。聞いた以上、知らなかったとは言えない」


 勇輝は、思わず笑いそうになって、喉の奥で止めた。


「……厳格だな。やさしさの形が、だいぶ違う」


 レフィアが小さく、ほんの少しだけ口元を緩める。笑いそうになって、咳払いで戻す。


「業務としては、合理的です」


「合理的の言葉は、ここで言うと余計に重く感じるな」


 加奈が、メモに“要点朗読係:聞いたことになる=説明責任を回避できない”と書き足した。


◆灯火維持契約


 内部帳簿室の奥から出てきた最後の一冊は、ひまわり市の生活に直結するテーマだった。


 灯火維持契約(地区共同)


 背表紙の文字が、やけに身近に見える。夜道の明かり。子どもの帰り道。防犯灯。停電の対応。ひまわり市役所でも、何度も議題に上がったことがある。


 ベンディスが言う。


「夜の灯りは、誰が守るべきか」


 勇輝は即答したが、即答のままだと雑になると分かっているので、言葉を足した。


「基本は行政です。公共の安全に関わる。維持は市が責任を持つ。ただ、地区ごとの事情で、町内会や商店会が協力してくれる場面もあります」


 ベンディスは首を横に振った。否定というより、視点の追加だ。


「行政だけではない。住民が使う以上、住民も契約者です。維持費の一部を負担し、その代わり管理の発言権を持つ。発言権があるから、納得が生まれる」


 加奈が、静かに呟いた。


「発言権……。ひまわり市でも、似た構造はあるよね。防犯灯の場所とか、雪の季節の照明の点灯時間とか、町内会の意見が強いところ」


「ある。……でも、契約という言葉で整理してない。だから、意見の出し方が曖昧になるときがある」


 勇輝が言うと、レフィアが頷いた。


「言葉が変わると、納得の形が変わります。誰が、何に対して、どこまで責任を持つか。そこが明確になる」


 ベンディスは淡々と釘を刺す。


「ただし。契約型にするなら、守らせる仕組みが必要です。守られない契約は、税より憎まれます。線を引いたのに守られないと、人は線そのものを嫌うようになる」


 勇輝は、その言葉を噛み締めた。ひまわり市にも刺さる。ルールは作れる。でも、守られる形に落とし込むのが難しい。守られないルールは、ただの紙になる。紙になると、次から誰も信じなくなる。


 美月が、正直に言った。声は小さい。けれど、逃げずに言葉にしたこと自体が、研修の成果だ。


「……ここ、ちゃんと学べてる気がする。怖いだけじゃなくて、帰ってからやることが見える」


 ベンディスは、初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑顔というほどではない。ただ、温度が一段上がった。


「それなら十分です。学びは、現場で使われて初めて成立します」


 勇輝は、深く頷いた。


「持ち帰ります。うちの町の言葉に直して、うちの町の人が納得できる形に整える。そこまでやって、ようやく研修だと思ってます」


 ベンディスは、淡々と頷いた。


「よろしい。では、契約者としての閲覧はここまで。出口でも確認があります。最後まで、証拠を残してください」


◆内部帳簿室・退出と返却


 部屋を出ると、深海の圧が少し薄れた。廊下の空気が急に軽い。軽いというより、“息が普通に吸える”感じがする。さっきまで、無意識に呼吸を浅くしていたのだと気づく。


 出口の小窓で、書記官が契約書の控えを一枚返してきた。返却の動作まで丁寧で、書類の角が揃っている。揃っているだけで、世界が整うのが怖い。


「閲覧終了。契約は一時停止。再入室には再確認が必要です」


 勇輝は頷き、控えを受け取った。


「了解です。次に入るときは、また入口から手順を踏みます」


 書記官は小さく頷き、そして別の箱を差し出した。封印箱だ。美月の端末が入っている。


「保管物を返却します。封印の開封記録はこちらで残します。立会いを」


 美月が、嬉しさで一歩前に出かけて、寸前で止まった。周囲を見て、深呼吸して、平常心を作る。


「……今、抱きしめたら、余計な誤解が生まれそうだから、ちゃんと受け取る。ちゃんと受け取って、ちゃんと大事にする」


「その言い方なら大丈夫だ。いつもより丁寧だし、ちゃんと落ち着いてる」


 勇輝が言うと、美月は目だけで笑った。


 書記官が封蝋を外し、記録札に小さな印を付ける。手順が速いのに雑さがない。封印が外された瞬間、美月は端末を受け取った。抱きしめない。両手で受けて、胸の前でそっと固定する。


「……戻った。戻ったけど、ここで起動したら、また何か増えそうだから、起動はしない。心の中でだけ『おかえり』って言う」


 加奈が笑って頷いた。


「それが一番安全だと思う。今の美月、ちゃんと“研修者”だよ」


「研修者って、褒め言葉として使えるんだ……」


 勇輝もつられて笑った。笑いが出るだけで、頭の緊張がほどける。


 レフィアは手帳に何かを書き足している。付箋が一枚増えた。増えるのは手続きだけじゃない。学びも増える。


 勇輝が横目で見ると、付箋にはこう書かれていた。


 “税→契約:説明しやすい/守らせる仕組み必須/入口で成立”


 勇輝は頷いた。


 ひまわり市は勢いがある。その勢いを、町の言葉として整える。契約型にするなら、勢いを閉じ込めるのではなく、勢いが暴走しないように“線”を引く。その線が、住民にとっても納得の線になるように。


 レフィアが、小さく言った。


「ひまわり市は、動く力があります。契約型にするなら、その動く力を言葉で支える必要がある。言葉が支えないと、力は疲れてしまいます」


 勇輝は、静かに頷く。


「支える、って言い方なら、しっくり来る。閉じ込めるより、支える方が、うちの町らしい」


 美月が、端末を胸の前で大事そうに抱えながら言った。


「ねえ主任。契約って、怖いだけのものじゃなかったね。むしろ、怖いのは曖昧なまま動くことで、契約はその曖昧を減らす道具なんだって、今ちょっと分かった」


 加奈が、柔らかく頷いた。


「うん。曖昧を減らすって、誰かを縛るためじゃなくて、誰かを守るためにもなる。ひまわり市でも、そうやって整えられたらいいね」


 勇輝は、黄色紐を軽く指で押さえた。重さは変わらない。でも、その重さの意味は少し変わった気がした。責任の重さであり、同時に、持ち帰れる技術の重さでもある。


「よし。次は現場だ。契約の文言が、実際にどう動いてるか。市場と通行料、運用の現場を見ないと、持ち帰る形が作れない」


 ベンディスなら、きっとこう言うだろう。“許可を取れ”。

 ミレーヌなら、きっとこう言うだろう。“条文に従え”。


 でも、もう分かっている。怖がるだけでは進まない。手順を踏めば、扉は開く。言葉を整えれば、道は作れる。


 ひまわり市は、整えるために来たのだ。


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