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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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1228/1974

第1228話「規則第七十二条、歓迎します」

◆王都・行政庁舎 受付ホール


 入口の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。


 石造りの壁はひんやりしているのに、窓から落ちる光はやけに柔らかい。天井は高く、梁の影が長く伸び、足音が妙に整った響き方をする。ひまわり市の庁舎にも「静けさ」はあるけれど、ここは静けさそのものが“仕組み”みたいに配置されていた。騒がせないために静か、というより、静かであることが手続きの一部になっている。


 そして、その静けさを支える主役が、堂々と見えてしまう。


 受付カウンターの向こう側。壁一面が書庫だった。棚という棚に、革表紙の本が隙間なく並び、背表紙の金文字が、光を受けてささやかにきらめいている。紙束ではなく“冊”で積まれている時点で、もう文化が違う。


 勇輝は、喉の奥が乾くのを自覚した。水を飲むほどではない。でも、言葉を選ぶ前に一度うるおわせたくなる乾きだ。


「……市役所みたいな場所、って聞いてたんですけど」


 美月が、息を潜めたまま囁いた。声量は抑えているのに、驚きだけは隠れない。


「似てるのは、やってることの目的だ。手段が違う」


 勇輝が返すと、隣のレフィアが小さく頷いた。視線はすでにカウンターの正面、書記官の位置に固定されている。さっき国境で見た“立ち方”に近い。身体の角度が、場に合わせて調整されている。


 カウンターの向こうで、一人の女性書記官が手を止め、三人を迎えた。笑顔が美しい。作り物っぽいというより、形が崩れない。崩れない笑顔は、温度が読めなくて逆に手強い。


 胸章に刻まれた名は、ミレーヌ・アヴェル。


「ひまわり市のみなさま。ようこそ王都行政庁舎へ。まずは規則第七十二条に基づき、訪問者登録をお願いいたします」


 言い方に余計な飾りがない。歓迎の言葉ですら、どこか条文の続きみたいに聞こえる。


 美月が、つい反射で小声を漏らした。


「規則第七十二条って……なんで番号がいきなり強いの……」


 勇輝は横目で止めたつもりだったが、声に出して制止するより早く、ミレーヌが微笑んだまま視線を上げた。聞こえている。聞こえているのに、咎める気配がない。そこがまた怖い。


「ご安心ください。規則第七十二条は“歓迎”の条です。訪問者を、訪問者として正式に迎えるための規定がまとめられております」


 加奈が思わず、半分笑いそうな顔で息を吸った。勇輝は咳払いのふりで、軽く腕で合図する。今はツッコミに勢いを乗せる場じゃない。乗せた瞬間に、その勢いがどこへ届くか分からない。


 代わりにレフィアが、ひとつ前に出た。言葉の選び方が、きれいに整う。


「ミレーヌ書記官。研修視察の訪問者登録、承知しました。必要事項をご提示ください」


「はい。こちらです」


 ミレーヌは、カウンター脇の台に置かれた“紙”を、こちらへ滑らせるように差し出した。


 ドン、と鈍い音がして、台の上に落ちる。


 落ちたものは、紙というより本だった。革表紙。背に金の文字。厚みは拳二つ分、いや、それ以上に見える。ページの縁が、きっちり揃いすぎて、紙の束というより製本物の武器に近い迫力がある。


 勇輝は反射で、少しだけ身を引いた。声も、つい出る。


「……いや、これ、紙じゃないですよね」


「こちらでは“申請書類”は一冊に綴じられます。抜けや改変を防ぐためです。頁ごとに管理しても、最後は冊に戻す文化が根付いておりますので」


 淡々と説明されるほど、こちらの常識が勝手に置いていかれる。勇輝は、台の上の“歓迎の本”を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。驚きはしても、驚き方を間違えない。今はそれだけで仕事になる。


「記入項目は、署名、所属、滞在先、責任者、目的、そして携行物の申告です。規則第七十二条、第二項に定められております」


「携行物……って、普通に荷物のことですか?」


 勇輝が訊ねると、ミレーヌは首を横に振った。否定がゆっくりで、丁寧だ。


「特に“写し取り”が可能なものです。記録手段、複製手段。筆記具は含みませんが、遠方へ情報を運び得る道具は対象になります」


 その言葉に、美月が端末を抱え直した。抱え直し方が、さっきより慎重になる。自分の胸の前に置いているのに、置き場所を失ったみたいな表情だ。


 ミレーヌの視線が、端末へまっすぐ落ちる。


「はい。そちらです」


 勇輝は胸の奥がすうっと沈むのを感じた。沈むのに、落ち着こうとする理屈も同時に働く。規則。手続き。歓迎の条。つまりこれは、嫌がらせではない。そう分かっていても、理屈と感覚は別に動く。


 レフィアが間を切った。声色は変えず、でも空気の縫い目を整える。


「承知しました。保管手続きでしょうか」


「はい。別室へご案内します」


 歓迎の条は、入口で終わらないらしい。


◆別室・訪問者登録室


 通された部屋は、受付よりさらに“儀礼”が濃かった。


 机は磨かれて光っている。壁には細い紋章の飾りが等間隔で並び、床の絨毯は足音を吸い込む。空気が静かすぎて、自分の呼吸の速度が目立つ気がする。


 部屋の中央に、小さな木箱がひとつ置かれていた。木目が細かく、角が丸く整えられている。乱暴に扱うことを前提にしていない道具だと、見ただけで分かる。


 ミレーヌは箱の隣に立ち、手順を淡々と告げた。


「こちらに“写し取り可能な道具”をお預けください。封蝋で封印し、開封記録を残します。返却は研修者証の提示と引き換えです。規則第七十二条、第三項に基づきます」


 美月が、ぎゅっと端末を抱きしめた。声は抑えているのに、必死さが滲む。


「えっと……預けるってことは、しばらく触れないってことですよね。これ、連絡も地図もメモも入ってて……私にとっては、ほぼ生活なんですけど」


 勇輝は、言い方を柔らかくして止めた。


「生活の中心なのは分かる。でも、ここは“研修先の庁舎”だ。相手のルールが優先になる」


「わかる、わかるけど……こわい。箱に入れたら、箱の中で勝手に投稿しそう」


「しない」


「でも、私の端末、たまに勝手に通知増えるじゃん」


「それは端末じゃなくて、お前の交友関係が元気なだけだ」


 加奈が小さく笑い、すぐに口元を押さえる。笑うのは悪くない。悪くないけど、ここでは笑いの形まで気をつけたくなる。


 ミレーヌは、こちらのやりとりを咎めない。咎めないまま、正しく返す。


「ご不安は理解します。しかし、写し取りが可能な道具は、庁舎内の規律に影響します。訪問者であっても、規律の外には出られません」


 言葉が容赦ないのに、人格が容赦ないわけじゃない。そこがまた厄介だ。筋が通っていると、反発の逃げ道が塞がる。


 レフィアが、美月の横に立った。声はいつも通り落ち着いているが、言葉の選び方が少しだけ“寄り添う側”に寄った。


「美月さん。これは“没収”ではありません。“保管”です。あなたの道具を危険視しているのではなく、庁舎の規律を守るための手続きです」


 言い換え。


 没収、と言われると、奪われる。

 保管、と言われると、預ける。


 美月の肩が少しだけ落ちた。納得というより、受け入れ方を見つけた動きだ。


「……保管。うん。保管なら、戻ってくる前提だもんね」


「そうです。戻ります。開けた形跡があれば、こちらにも分かる仕組みで」


 勇輝は、内心でレフィアに拍手したくなった。もちろん実際にはしない。ここで手を叩いたら、どこかの項が増えそうな気がする。増える気がする、という想像がもう、ここの空気に馴染み始めているのが悔しい。


 美月は名残惜しそうに端末を見て、それから箱へそっと入れた。まるで寝かしつけるみたいな手つきで。


 ミレーヌが小さな皿に蝋を溶かし、細い道具で垂らす。香りがふわりと立つ。国境の封蝋とは少し匂いが違う。さっき“匂いが情報”と言われたばかりだから、なおさら気になる。


 彼女は印を押した。ぱちん、と小さな音がして封印が固まる。


「封印完了。規則第七十二条、第三項」


「……第三項までで、もう十分じゃないですかね」


 勇輝が思わず零すと、ミレーヌは微笑んだ。笑顔の形は崩れないのに、そこにわずかな温度が混ざる。


「歓迎は丁寧に。歓迎の範囲を誤ると、誤解が起こりやすくなりますので」


 怖い、と思うのに、同時に“なるほど”とも思ってしまう。

 丁寧さは、相手を大事にするためでもあり、境界を壊さないためでもある。


 次は“本”への記入だった。


 勇輝は渡された羽根ペンを、慎重に受け取った。羽根ペンというだけで、こちらの手が勝手にぎこちなくなる。書き慣れない道具は、それだけで失敗の可能性を増やす。


 ページをめくると、欄が信じられないほど細かい。


 氏名(本名/通称/呼称)

 所属(組織名/役割/責任範囲)

 滞在先(宿名/部屋番号/守護印の有無)

 目的(研修/視察/交流/その他)

 携行物(申告済/未申告)

 誓約(規則第七十二条に同意する)


「守護印って、宿の鍵みたいなものですか?」


 加奈が控えめに聞くと、レフィアがすぐに答えた。


「宿に付く簡易結界の印です。盗難防止の証明にもなりますし、外部者の出入り記録にもなる。こちらの“安心”の形ですね」


「結界が標準装備……って思うとすごいけど、鍵が標準装備って考えたら、確かに当たり前かも」


 加奈の“現場変換”が、こういうときに効く。難しい文化も、生活の言葉に落とし直せる。勇輝は小さく頷きながら、記入を始めた。


 所属欄で手が止まる。


(異世界経済部、は刺激が強い。ここでは統一して“都市運営担当”。役割を前に出す)


 勇輝がそう書くと、ミレーヌがページを覗き込み、目を細めた。


「“都市運営担当”。よろしい表現です。過度な誇張がなく、責任範囲が読み取りやすい」


 褒め言葉としては穏やかなはずなのに、評価の仕方が査読みたいで落ち着かない。喜び方を間違えると、軽く見える。軽く見えると、誤解が生まれる。そういう連鎖を、今は体が理解している。


 加奈の番になり、ペン先が宙で止まった。


「私の役割……えっと……“喫茶店の看板娘”って書いていいのかな。自分の仕事なんだけど、ここに書くと急にふざけたみたいになる」


 勇輝は即答しかけて、言葉を選び直した。


「“看板娘”って言葉自体は悪くないけど、ここは説明が要るかもな。単語だけで誤解される」


 レフィアがさらっと助け舟を出す。


「“地域協力事業者(飲食)”で良いでしょう。研修における住民連携の観点が説明できます。実務の担い手としての立場も示せます」


「え、急にかっこよくなった……」


「行政の言葉です。中身は同じでも、伝わり方が違います」


 加奈は頷き、丁寧に書いた。勇輝は内心で思う。やっぱりレフィアは案内役として強い。強いのは、声の大きさじゃない。場の規則に合わせて言葉を整える力だ。


 美月の番になると、彼女は箱の方を一度見た。端末が封蝋で封印されている。見ているだけで落ち着かないのに、ここで手が震えたらそれも目立つ。美月は深呼吸をして、羽根ペンを握った。


「通称……って、SNSの名前とか書くんですか?」


 声が小さい。冗談にしきれない聞き方だ。


 ミレーヌが即座に、淡々と答えた。


「この庁舎内で呼ばれうる名です。外部で用いられる名は、必要があれば別欄へ。ここでは、呼称が混乱しないことが最優先です」


 美月は頷き、ゆっくり書き込む。

 書いている姿が真面目で、勇輝は少しだけ安心した。美月は勢いが先に出る人だけど、勢いを止める努力もできる。できるからこそ、燃えやすい場所での経験がちゃんと糧になる。


 記入が終盤に差しかかった頃、ミレーヌが“紙”の束を差し出した。紙束といっても、やはり厚みがある。


「次に、誓約です。研修中に得た情報の取り扱いについて。同意を」


 勇輝はざっと目を通し、眉をひそめた。条文の文章は整っている。整っているのに、含む範囲が広い。


「……『行政運用に関する内部文書の写し取り禁止』『職員の顔を無断で記録しない』は分かる。守秘と安全の話だ。でも『誤解を招く表現で外部へ発信しない』は、だいぶ広いですね」


 ミレーヌは頷いた。


「はい。広いです。だからこそ、責任者を定めます。誤解が生じた場合、誰が説明し、誰が是正に当たるのか。そこが曖昧だと、訪問者も受け入れ側も守れません」


 美月が、封印箱を見ながら小声で言った。


「私、もう発信する道具ないのに……」


 勇輝は“正しさ”だけで返さないように気をつけながら、でも要点は落とさずに言う。


「道具がなくても、言葉は出る。口も、紙も、人づての話も発信になる。ここは“道具だけ”の話じゃないんだと思う」


 美月はうなずき、静かに口を閉じた。すぐ受け止めるのがえらい。えらいからこそ、無理をしていないかが心配にもなる。


 レフィアが誓約書の一節を指で押さえた。


「この条項は、発信を禁止するためというより、“誤解の是正責任”の所在を明確にするためです。勇輝主任と私が、説明の窓口になります」


 ミレーヌが頷いた。


「はい。責任者が明確な訪問は、こちらとしても歓迎しやすいのです。歓迎の条が“手続き”なのは、安心の形でもあります」


 歓迎の形が、安心。

 言葉の順番が逆に見えて、でもここでは筋が通る。


 勇輝は署名した。

 加奈も署名した。

 美月はペンを握りながら一瞬だけ固まったが、次の瞬間、ゆっくりと名前を書いた。


「……署名って、怖いね。炎上より怖いかもしれない」


 美月がぽつりと言うと、加奈が小さく頷いた。


「残るから、かな。消えないって思うと、背筋が伸びる」


 勇輝は、二人の言葉を受け止めるように、静かに言った。


「残るからこそ守る、って考え方もある。ここは、その考え方が強いんだろうな」


 ミレーヌが微笑む。


「誠実な方々ですね。誠実さは、誤解を減らします」


 褒められているのに、やっぱり気が抜けない。褒め言葉が軽率と取られうる、というさっきの話が頭に残っているせいだ。勇輝は“ありがとうございます”の温度まで計算しそうになる自分を、軽く内側で止めた。


 誓約が終わると、ミレーヌはようやく歓迎の温度をほんの少し上げた。


「登録完了です。こちらが研修者証。庁舎内の見学範囲は、紐の色で示されます」


 渡された札は、木札に薄い金属板を貼ったものだった。手触りがやけに良い。首から下げる紐は淡い緑。緑色が、ここでは“安全に歩いてよい範囲”を示す。


「緑は一般見学区域。黄色は追加許可区域。赤は監査区域です」


「赤は、近づいたらダメなやつですね」


 勇輝が言うと、ミレーヌは否定せず肯定した。


「はい。歓迎の範囲外です」


 歓迎の範囲外、という表現が妙に刺さる。追い返すわけではないのに、線は線として引く。境界の文化が、庁舎の中にも続いている。


 加奈が、勇気を出したように聞いた。


「あの……産品サンプルは、いつ提示すれば……」


 ミレーヌは一拍置いて答えた。


「本日は提示しないでください。規則第七十二条、第五項です。提示の許可は、研修行程の中で必要に応じて出ます」


 美月が思わず目を見開き、声が出そうになったのを、肩で止めた。止められたのが偉い。偉いけれど、顔に“第五項まであるのか”が書いてある。


 レフィアが、静かに頭を下げた。


「承知しました。提示すべき場面が来たら、改めて許可をいただきます」


「はい。許可は、歓迎です」


 ミレーヌは最後まで微笑んだまま、扉を開けて見送った。形式が終わったから笑顔が崩れる、ということがない。最初から最後まで、同じ形で迎える。迎える、という行為が職務として定着しているのが分かる。


◆庁舎内廊下・次の部署へ


 廊下に出た瞬間、空気が少しだけ“生活側”に寄った気がした。人が行き交う。書類の匂いが濃くなる。遠くで誰かがページをめくる音がする。音があるだけで、心の緊張が少しほどける。


 美月が、封印箱を抱えたままぽつりと言った。


「……私の端末、今、箱の中で静かにしてるかな。たぶん、泣いてないよね」


「泣いてるのはお前の方だろ」


 勇輝が言うと、美月は小さく笑った。笑ったあとで、すぐ真顔になる。


「でもさ。ここ、ちゃんと“仕組み”で守ってるんだね。発信も、情報も、誰が責任を持つかも。怖いけど、筋が通ってる」


 加奈が頷いた。


「ひまわり市も、似てるとこあるよね。紙とか手続きとか、面倒に見えるけど、守るためにあるっていう」


「似てる。……ただ、こっちは冊の厚みが違う」


 勇輝が緑の紐の札を指で軽く弾くと、木札が小さく鳴った。音が落ち着いている。落ち着いているのに、責任を首から下げている感じがする。


 そのとき、廊下の奥から“本の束”が歩いてきた。


 いや、本の束が歩いているように見えた。近づいて分かる。束の下に、小さな足がある。石畳をこつこつと叩き、一定の速度でこちらへ向かってくる。背丈は膝くらい。布で覆われた胴体の上に、革表紙の本が二冊、きちんと揃えて載せられている。


 美月が、思わず声を抑えきれなかった。


「……なにあれ」


 レフィアが淡々と言う。


「書類運搬用の小型ゴーレムです。人の手が足りない場所ほど、運搬の仕組みが発達します」


「役所、ゴーレム使うんだ……」


「雇う、というより運用です。運用が制度に組み込まれています」


 美月が目を丸くする。


「運用って言い方、便利すぎない? なんでも運用って言えば“仕事”になる」


「“仕事”にするための言葉でもあります」


 レフィアの返しがあまりに真っ直ぐで、加奈が小さく笑った。勇輝もつられて口元が緩む。ここまで来ると、笑いが息継ぎになる。息継ぎがないと、ずっと息を止めたままになってしまう。


 ゴーレムは三人の横を通り過ぎるとき、ほんの少しだけ頭を下げるような動きをした。たぶん、プログラムされた回避動作だ。でも、そういう小さな仕草があるだけで、庁舎の中の“人ならざる働き手”が生活に馴染んでいるのが見えてしまう。


 勇輝は歩きながら、レフィアの横顔を盗み見た。さっき受付では一切ぶれなかったのに、今はほんの少しだけ表情が柔らかい。記録の文化を、彼女は嫌っていない。むしろ、明確な線引きがある方が落ち着くのだろう。


「レフィア、こういう庁舎の雰囲気……嫌いじゃないのか」


 勇輝が小声で言うと、レフィアは少しだけ首を傾けた。言うか迷うような間があって、それから淡々と答える。


「記録が文化として根付いている場所は、嫌いではありません。言葉と行動が残り、残ったものに沿って説明ができます。説明ができれば、誤解を減らせる。誤解が減れば、怖さも減る」


 最後の“怖さ”が、彼女の本音だった。

 怖いから整える。整えることで怖さを管理する。

 その筋が、彼女の中では一本に繋がっている。


 美月が、封印箱を抱え直して言った。


「私も、整えるって大事だって分かった。分かったけど……箱の中が気になる。返ってくるまで、私、落ち着かないかも」


「落ち着かないのは普通だ。落ち着かないまま、落ち着いて見せるのが訓練だと思う」


 勇輝がそう言うと、美月は一度真顔になって、それから小さく頷いた。


「……うん。今日の私、見た目は落ち着いてる担当でいく」


「担当、って言い方に寄せてくるな」


「寄せたくなるんだよ。ここ、そういう場所だもん」


 加奈が、勇輝の袖を軽く引いた。


「主任。次の部署、王都財務局だよね。条文より数字が来そう」


「数字の方が、条文より優しいときもある。逆もある」


 言いながら、勇輝は行程表を確認した。紙の端に、レフィアの字で注記がある。


 次:王都財務局(予算運用の研修)

 ※担当:条文好き(注意)


「……条文好き、注意って書いてある」


 美月が覗き込んで、顔色を変えた。


「条文好きが二人目ってことは、王都、条文人口が多いの?」


「人口って言うな。増殖みたいに聞こえる」


 加奈が笑いを堪えながら言う。


「でも、好きな人がいるってことは、条文にも“推し”があるのかも」


「条文の推しはやめとけ。推し方を間違えると、また別の条が生まれる」


 勇輝が言うと、レフィアが小さく頷いた。


「はい。推すなら、規則に沿って」


「そこまで言うと、もう冗談が冗談じゃない」


 笑いが落ちて、でもすぐに真面目に戻る。切り替えが自然になっているのが、自分でも分かる。王都の空気は、人の呼吸まで整えてしまう。


 廊下の先、金色の紋章が掲げられた扉が見えた。財務局。入り口だけで、背筋が少し伸びる。守るのが情報か、守るのが金か。守る対象が変われば、規則の尖り方も変わる。


 勇輝は、緑の紐を指で一度だけ直した。

 ここから先は、歓迎の条の外側。

 歓迎されたからといって、楽になるわけじゃない。歓迎されたからこそ、期待に沿って動く必要がある。


「……よし。行くぞ。質問は、向こうの一言目を聞いてから」


 美月が深呼吸して言った。


「了解。私、今日は“黙って学ぶ担当”。箱も、抱えて学ぶ担当」


 加奈が頷く。


「私も、変換担当。難しい言い方を生活の言葉に直して、ちゃんと理解する」


 レフィアが、静かに言葉を添えた。


「私は、皆さんが説明できる形に整える担当です。怖さは消えませんが、順序を踏めば進めます」


 順序を踏む。

 それが、この王都の門をくぐった者に求められる礼儀なのだろう。


 ひまわり市一行は、緑の紐の札を揺らしながら、財務局の扉へ向かった。


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