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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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1193/1948

第1193話「異界バス、乗り入れ申請:車両じゃなく“生き物”扱いで書類が終わる」

〜車検より先に“餌”の欄が必要でした〜


◆午前・ひまわり市役所 総合窓口(封筒が、提出前から妙に礼儀正しい)


 朝の総合窓口というのは、だいたい声より先に手が動く場所だ。番号札を整え、記入台のペンを立て、昨日の閉庁後に寄せた案内板をもう一度まっすぐに戻し、誰が最初に来ても困らないように紙の向きを揃える。そういう細かな動きが重なって、ようやく「今日も役所が開く」という空気になる。


 だから、窓口カウンターの端に置かれた分厚い封筒が、置かれているだけなのにそこだけ別の呼吸を持っていると気づいた瞬間、受付担当の職員は手を止めた。


 封筒は、藁色の丈夫な紙でできていた。角はきっちり揃い、封蝋代わりなのか緑色の樹液みたいなもので封がされている。見た目だけなら、どこかの異界役所から来た厳めしい公文書だと思える。問題は、その封筒がときどき、ほんのわずかに膨らんだり縮んだりしていることだった。


 ふぅ。

 ふぅ。


 呼吸、と言うには控えめだ。だが、紙の表面が確かに息を含むように動く。しかも、変に不気味一辺倒ではなく、提出される書類としては妙に行儀がいい。机の上で暴れたりはしない。ただ、そこに居て、静かに「私は今ここにおります」と主張している。


「……美月さん、これ」


 受付担当が、そっと異世界経済部の方を呼ぶ。


「言いにくいんですけど、封筒が生きてる気がします」


 美月は端末を抱えたまま近づき、封筒の前で腰をかがめた。目線を合わせる必要がある相手かどうかは分からないのに、こういう時、人は妙に丁寧な姿勢になる。


「生きてる封筒は、私もまだ実務で見たことないですね」


 そう言いながら、彼女は人差し指で端をつついてみた。すると封筒はびくっと跳ねるでもなく、気まずそうに少しだけ膨らみ、それから落ち着いた。怒ってはいないらしい。むしろ、「急に触るのは少し困りますが、提出物としての節度は守ります」という態度に近い。


「反応が礼儀正しいのが逆に嫌だな」


 美月は小声で言ってから、受付担当へ向き直った。


「誰が持ってきたんですか」


「異界側の交通ギルドの方です。封筒ごと正式な申請だとおっしゃって、これを置いたあと、『提出の意思はありますので、必要な時に開きます』って……。言い残して帰られました」


「必要な時に開く、か」


 通りがかった勇輝が、その言葉の途中から状況を察して足を止めた。


「朝いちばんで嫌な情報量だな。しかも、提出作法だけは妙に完璧そうなのがもっと嫌だ」


 加奈はその日、喫茶ひまわりから差し入れのコーヒーを持ってきたついでに窓口へ寄っていた。紙袋を胸の前で抱えながら、封筒を少し遠巻きに眺めている。


「嫌っていうか、落ち着かないね。怖いというより、こっちがどう接したら失礼じゃないのか分からない感じ。生きてるなら丁寧にしなきゃだし、書類なら中身を確認しなきゃだし」


「両方必要そうだな」


 勇輝はそう言って、窓口に置かれた番号札の横を少し片づけた。


「じゃあ、正式に受領の体裁を取る。机の中央へ移して、提出者欄と件名を確認して、それから開封。開いたあとに何か出てきても、これは提出物だと先にこっちが決めておかないと、たぶん場が流される」


「主任、その言い方だと中から何か出てくる前提ですね」


「封筒が呼吸してる時点で、紙だけの話だと思う方が危ないだろ」


 そうやって席を整えたところで、封筒はまるで待っていたみたいに、ぱかりと口を開いた。


 中から書類束がするりと滑り出る。誰かが中に指を入れて押し出したのではない。封筒自身が「提出の順番はこちらです」とでも言うように、表紙、添付書類、図面、補足資料の順で綺麗に並べていく。最後に、小さな葉っぱ形のスタンプがふわりと落ち、表紙の右下で止まった。押印済み、のつもりらしい。


「提出の作法が完璧すぎるんだよな……」


 勇輝は書類を拾い上げ、表紙を見て眉を寄せた。


『ひまわり市 道路等 乗入れ申請書(交通ギルド提出)』


 そこまではいい。問題は、その下の対象欄だった。


『対象:公共輸送生体(通称:異界バス) 一体』


「……一体?」


 美月が固まる。


「車じゃなくて、生体数えるやつの単位で出してきてるんですけど」


「モンスター枠はないぞ」


 勇輝は淡々とページをめくる。


 見慣れた車両関係の欄は、一通り存在していた。だが、そのすべてが手書きで丁寧に訂正されている。


車台番号 → 個体識別(心臓石)

排気量  → 呼吸葉枚数

燃料   → マナ草(一日三束)

最大積載量→ 背甲安定荷重

点検整備責任者 → 健康管理者兼馴致担当


「呼吸葉枚数って、何の検査ですか」


 美月が口を押さえたまま笑いをこらえる。


「これ、車検というより飼育台帳の匂いがするんですけど」


「飼育台帳もまた別の部署なんだよな。そこが一番困る」


 勇輝がそう言いかけたところで、庁舎の外から重い音が響いた。


 どぉん。

 どぉん。

 どぉん。


 地面の下から揺れるみたいな足音だった。窓口の人間が一斉に顔を上げる。加奈がコーヒーの紙袋を少し抱え直し、美月が端末を胸の前へ持ち上げた。


「来ましたね」


「うん。書類だけ先に来るタイプじゃなくて、本体も礼儀正しく待ってたタイプだ」


 勇輝は申請書を持ったまま、玄関へ向かった。


◆庁舎前(“バス”が来た。でかい。しかも、見た目の説得力が予想外の方向へ強い)


 庁舎前の広場へ出た瞬間、そこにいた職員たちは言葉を失った。


 巨大な甲虫に似た生き物が、石畳の上で大人しく待っていた。甲羅は丸く、苔と柔らかな草に覆われていて、朝の光を受けると艶というよりしっとりした湿り気を返す。背の両脇には木の板を組んだ窓枠が等間隔に並び、その内側にはきちんと座席まで見える。脚は太く、しかし節々の動きは意外なくらい静かで、停まっているだけなのに地面を必要以上に掻かない。前面には小さな行先表示板まで付いていた。


《温泉通り 足湯前》


 しかも、ちゃんと点灯している。


「……あれ、完成度が高いな」


 市役所の誰かが、最初に口にした感想がそれだった。怖いでもなく、可愛いでもなく、まず構造物として完成度が高い。そこが余計に厄介だった。ふざけた持ち込みなら、怒る方が早い。けれど、ここにいるのは明らかに“真面目に公共交通をやる気のある生き物”なのだ。


「……これ、バス?」


 美月がようやく声を出す。


 生き物は、その問いが聞こえたかのように触角を揺らし、鼻先らしい部分を勇輝の方へ寄せた。苔の匂いと、朝の草を踏んだ後みたいな青い匂いがする。大きいのに、近づいてくる動きだけはやけに控えめだ。


「乗り入れの申請に参りました」


 隣に立っていたエルフの使者が、きちんと一礼する。


「交通ギルド青葉路線部のセレフィナと申します。こちら、公共輸送生体コケバチ号。温泉郷から市内主要導線へ向けた暫定運行を希望しております」


 コケバチ号は、紹介されると誇らしげに、ぷすうっと細い息を吐いた。風というより、葉の裏側から湿気を逃がす感じの柔らかな呼気だ。匂いが少しだけ甘い。


「……かわいい」


 加奈が思わず口にしてしまい、庁舎前にいた女将衆の一人が、遠くで小さく「わかる」と頷いた。


 勇輝はその空気に引っ張られず、申請の要点から入る。


「ひまわり市内の道路を走りたい理由を教えてください」


 セレフィナはすぐに答えた。


「温泉通りまでの輸送需要が増えたからです。徒歩では坂が厳しい高齢者、荷物の多い観光客、それと異界側から来る来訪者で“歩く速度”そのものが種族ごとに違いすぎるため、人流が一定以上で詰まります。最近の導線整理で“歩きやすさ”はかなり改善されましたが、逆にそこへ人が集まるようになったぶん、“歩かない選択肢”の必要性が出てきました」


 筋は通っていた。町の流れを良くすると、その先に“移動手段そのもの”が必要になる。観光地としては順当な困り方だ。問題は、その移動手段が車両登録ではなく“公共輸送生体 一体”で来たことだけである。


 勇輝は申請書を持ち上げた。


「話としては理解できます。ただ、問題はこれを何として扱うかです。道路交通の枠へ入れるのか、動物管理の枠へ入れるのか、そのどちらでも足りないのか」


 セレフィナは少しだけ胸を張った。


「青葉路線部としては、バスです」


「日本語で言うと?」


「バスです!」


「いや、そうなんだけど、そうなんだけどさ」


 美月が耐えきれず笑いそうになりながら言う。


「車両台帳に“一体”って入れる事務の気持ちになってほしいんですよ!」


 コケバチ号は、会話の流れをまるで理解しているみたいに、行先表示を一度明滅させた。


《市役所前 ただいま申請中》


「律儀なんだよなあ……」


 加奈が半分感心し、半分困った声を出した。


 ここで追い返すのは簡単だ。だが、それで終わる話ではないと勇輝は思った。必要性がある。現物もある。しかも、見た目の説得力が高い。こういうものは、止めるより先に“どう回せば町が持つか”を考えた方が、結果として早い。


「会議室を押さえます」


 勇輝は振り返って言った。


「道路管理、観光課、生活環境、総務、警察連携、それから……可能なら動物関係の知見がある人も」


「動物関係、生活環境課の嘱託さん呼べます」


 受付担当がすぐ答える。


「あと、庁舎前にそのまま待機だと視線を集めすぎます」


 美月がコケバチ号の巨体を見上げた。


「かわいさで許されてるうちに、待機位置もちゃんと決めましょう。子どもが寄ってきて触り始めると、それはそれで運用が先に始まっちゃう」


「わかった。庁舎横の搬入口前を仮待機に。草の積み藁も用意してください」


 セレフィナがすかさず言う。


「ありがとうございます。空腹だと甲殻が乾きますので」


「ほらもう、車検じゃなくて餌の欄が要る」


 美月が肩を落とし、しかし端末のメモはもう走り始めていた。


◆午前・臨時会議室(制度は、分類できないものが来た瞬間に一番仕事をする)


 庁舎内の会議室に資料が並ぶと、風景だけはかなりいつもの役所に戻る。道路運送車両法っぽい抜粋、道路占用の手引き、観光導線マップ、停留所設置の参考資料、事故時責任分担の雛形、そしてその真ん中にぽつんと置かれたマナ草のサンプル束。見慣れた書類の群れの中に、見慣れない草だけが場違いだった。


 市長は椅子へ座るなり、机の上を一度眺め回してから口を開いた。


「結論から言う。必要なら走らせる。ただし、事故るな。あと、町の紙が増えすぎるのも困る。そこは最初に枠を作れ」


 短いが、本質は全部入っている。勇輝はすぐに頷いた。


「なら、既存の車両枠へ無理に入れず、暫定の異界モビリティ登録を作ります。車両でも動物でもなく、“公共輸送に供する異界由来の移動手段”として一時登録する」


 ホワイトボードへ、太い字で見出しが書かれた。


《暫定:異界モビリティ登録(IM)》

対象:異界由来の移動手段(生体/魔導/複合)


 そこから、項目が一つずつ足されていく。


 運行管理者

 健康管理者

 停車位置

 餌(燃料)管理

 休息場所

 排泄・廃棄物対策

 興奮時の鎮静手順

 乗客の乗降方法

 事故時責任分担

 路面・歩道との接触制限

 苦情窓口


「排泄対策、そこまで正式に書くんですね」


 観光課の若手が少し引きつった顔で言う。


「書きます」


 勇輝は淡々と答える。


「かわいくても生き物ですし、道路はきれいに保つ必要がある。あと、そこを曖昧にすると、最初の一回で全部持っていかれます」


 加奈が隣で苦笑する。


「ごめん、私も最初は“そこまで書くの?”って思ったけど、たぶん必要だよね。今の町って、ひとつの失敗が“やっぱり無理だった”に繋がりやすいから」


 生活環境課の嘱託職員が、コケバチ号の写真を見ながら言った。


「この個体、甲虫型に見えますけど、完全な虫じゃありませんね。背中の苔層が呼吸も保湿も兼ねているなら、乾燥がまず危ない。興奮や脱水が起きた時の兆候も記録した方がいいです」


 美月がすぐにメモする。


「バスの点検表じゃなくて、健康観察表が要るってことですね」


「その言い方の方が正しいでしょう」


 勇輝は頷き、ホワイトボードへさらに項目を足した。


 呼吸葉枚数

 心臓石の安定状態

 背甲温度

 甲殻の乾燥有無

 餌摂取量

 休息時間

 興奮誘因


「運行記録じゃなくて、飼養記録が混ざってきましたね」


 総務の河合が半ば呆れたように言う。


「混ざってるんじゃなくて、両方必要なんです」


 勇輝は即答した。


「車両としての管理だけで見たら、急停止や車幅や停車位置だけ見ればいい。でも生体なら、空腹や乾燥や興奮で挙動が変わる。そこを無視して道路だけ整えると、最初の不具合で全部が“危ないからやめよう”になります」


 セレフィナは、その説明には真面目な顔で頷いていた。


「交通ギルドとしても、その点は同意します。コケバチ号は訓練済みですが、訓練済みであることと、地上の道路へ適応済みであることは同義ではありません。最初は短距離、短時間、誘導付きが望ましいです」


「なら、デモ走行ですね」


 市長が椅子へ深く座り直す。


「本登録じゃなく、試験運用から入る。ルートもまず温泉通り手前まで。停車位置は数を絞る。そこから課題を洗う」


 勇輝はボードの下へ太線を引いた。


《IM-001 暫定登録》

試験運用:明日午前

ルート:市役所前→坂下広場→温泉通り手前

停車:二箇所のみ

乗客:事前調整済みモニター+高齢者支援枠

同乗:運行管理者・健康管理者・市職員


 美月がその文字を見て、ようやく少しだけ笑った。


「登録番号が付くと、急に役所の手に収まる感じがしますね」


「番号って、そういう効果があるからね」


 加奈が言う。


「かわいいとか、でかいとか、甲虫っぽいとか、そういう感情が一回脇へ行って、“じゃあ一号案件として見よう”になる」


 市長がそこで、珍しく素直に感心した顔をした。


「制度って、分類できないものが来た瞬間に一番仕事をするんだな」


「分類できないから制度を作るんです」


 勇輝はそう答えて、最後に一つだけ付け加えた。


「ただし、走らせる前に現地を見る。道路幅、段差、視線の集まり方、匂い、音、停車位置、全部です。書類だけで進めると、どうせ明日現場で別のことが起きますから」


◆昼前・予定ルートの現地確認(動く前に歩いて見ると、“この町がどこで詰まるか”はだいたい分かる)


 庁舎前から温泉通り手前までの道は、図面だけ見ればそれほど複雑ではない。だが町の導線というのは、線の上に人の癖と店の都合と坂の呼吸が重なる。だから、勇輝たちはコケバチ号をまだ走らせず、まず歩いてルートを確認することにした。


 庁舎横の搬入口前で待っていたコケバチ号は、藁束をかなり丁寧に食べていた。噛むというより、口元の内側へ吸い込まれていく感じだ。セレフィナが背中の苔層へ軽く霧を吹きながら、こちらへ説明する。


「湿り気が足りないと機嫌が悪くなるので、午前中の運行前後には必ず保湿します。逆に、蒸気が強すぎると眠気が出ます」


「温泉郷に向かう乗り物としては、かなり大事な情報ですね」


 美月が真顔で打ち込む。


「温泉に近づくと寝る可能性がある移動手段って、事前に知ってないと笑えない」


「笑う人は出るでしょうけど、その時に止め方がないと困る」


 勇輝は歩きながら道幅を見る。坂道の勾配、曲がり角の見通し、足湯へ流れる観光客の密度、土産屋の看板が少しはみ出す位置、ベビーカーが止まりやすい緩い傾斜。人だけなら流せる場所も、巨体が一台入ると途端に余裕が無くなる。


 坂下広場では、商店街の組合長が待っていた。例の影騒ぎ以来、こういう新規導線の話になると必ず顔を出す。


「でかいな」


 第一声がそれだった。


「でかいです」


 勇輝は頷く。


「でも必要性はあります。問題は、どうやって通すかです」


 組合長はコケバチ号を見上げ、腕を組んだ。


「俺は反対したいわけじゃない。ただ、温泉通りの入口で写真タイムが始まったら終わるぞ。かわいいから止まる。止まった人を見てまた止まる。ああいうのは、流れが良くても一瞬で詰まる」


「そこは同感です」


 美月がすぐ言う。


「“見る場所”と“乗る場所”を分けないと、バスなのか展示物なのか分からなくなります」


 加奈も、通りの入口を見ながら続ける。


「あと、初めて見る人って、近づいてもいい距離が分からないんだよね。かわいいから触りたくなるし、でも生き物だから急に近いと向こうも落ち着かないかもしれない。乗り場の作り方、かなり大事だと思う」


 その言葉を受けて、勇輝は停留所案を修正した。最初は普通の標識を立てるだけのつもりだったが、それでは“バスが来る場所”としては説明が足りない。そこで、暖簾を応用した柔らかい停留所案が出た。停留位置の後ろへ、温泉街らしい布暖簾を一枚掛ける。色は落ち着いた藍にひまわりの印。生き物側には布の揺れと匂いで停留位置が分かりやすく、人間側には“ここが乗り場”と見た目で分かる。しかも写真を撮る人も、その暖簾の外へ立てば流れを塞ぎにくい。


「それ、かなりいいですね」


 観光課の若手が目を上げる。


「標識一本より“ここで待つ場所”って分かるし、温泉街の景観にも合う」


 セレフィナも興味深そうに頷いた。


「布はよく覚えます。風向きも拾いやすいので、停車位置の認識に向いています」


「行先表示がちゃんとしてるのに、停留所認識は匂いと揺れなんだな……」


 美月が呟く。


「ローテクなのかハイテクなのか分からない」


「生体だから、たぶん両方なんだよ」


 加奈が笑いながら答えた。


 現地確認は一時間以上かかった。だが、その間に“どこがかわいさで詰まりそうか”“どこで眠くなりそうか”“どこなら乗る人と見る人を分けられるか”がかなり見えた。役所の仕事というのは、こういう地味な歩きの中で進むことが多い。


◆午後・試験走行前のすり合わせ(既存の交通と喧嘩させないことは、異界の新しさを通すための最低条件でもある)


 ひまわり市には、もともとの路線バス会社もある。だから、新しい異界バスを通す時、既存交通へ無神経だとすぐ角が立つ。勇輝はそこを避けたかった。


 午後、地元バス会社のベテラン運転手と営業担当にも入ってもらい、短い意見交換の場が持たれた。相手の顔には、露骨な反対はないが、警戒はある。そりゃそうだろう、と勇輝は思う。自分の仕事の横へ、かわいい巨大甲虫が公共輸送として入ってくるのだから。


「正面から競合する形にはしません」


 勇輝は最初にはっきり言った。


「今の案は、坂下広場から温泉通り手前までの短距離補完です。既存路線の本線部分には入れません。むしろ、駅からの路線バスを降りたあと、最後の坂だけ補助する形です」


 ベテラン運転手は、その説明を黙って聞いてから低く言った。


「それなら筋は分かる。うちが全部拾い切れてない区間はあるからな。ただ、写真を撮る人が増えて停留所前が塞がるのだけは勘弁してほしい。バスって、見せ物になると急に危なくなる」


「そこは同意です」


 美月がすぐに言う。


「だから“見る場所”と“乗る場所”を分けます。停留所の暖簾案も、見物の立ち位置を少しずらすためです」


 営業担当の女性は、コケバチ号の図面を見ながら少し表情を和らげた。


「短距離補完なら、むしろ高齢の方に喜ばれるかもしれませんね。うちの小型車両だと、温泉通りの混雑時に入りづらい時間帯もありますし」


「最初の利用者にも、その層を入れます」


 勇輝は頷く。


「観光の話だけにしない。生活の移動が助かるなら、その方がずっと町に馴染みます」


 ここまで言えた時点で、空気はかなり良くなった。新しいものを通す時、既存の人たちが“自分たちの仕事を奪われる”ではなく、“ここは補完なんだ”と分かれば、ずいぶん違う。ひまわり市はそういう根回しを怠ると、後で必ず別の場所で詰まるのを知っている。


◆翌朝・デモ走行(最初の一回は、成功より“どこで困るかを全部見る”つもりでやった方がだいたい上手くいく)


 デモ走行の朝、庁舎前には思った以上に人が集まった。


 完全な一般公開ではない。モニター乗車として、坂道が厳しい高齢者、荷物の多い観光客、一部の地元商店主、既存バス会社の確認役、市の担当者。だが、“かわいいバスが走るらしい”という噂の強さは想像以上で、見学の人もその周りに自然と集まっていた。


 コケバチ号は、背甲を少し磨かれ、行先表示をまっすぐ光らせている。


《市役所前→温泉通り手前》


 暖簾停留所の試作品も立った。藍色の布が朝の風で静かに揺れ、そこへひまわりの印が柔らかく浮かぶ。見た目にも“待つ場所”だと分かるし、コケバチ号もそちらを見て落ち着いている。


「では、乗車を始めます」


 セレフィナが声をかけると、コケバチ号は脚をわずかに折って背を低くした。乗り込み口がふわりと下がり、高齢の女性でも足を大きく上げずに入れる高さになる。


「これは助かるねえ」


 最初に乗り込んだ老婦人が、素直にそう言った。


「坂そのものより、最後の一段がきついのよ。ここまで下がってくれるなら怖くない」


 その言葉を聞いて、美月が小さく言う。


「かわいさより先に、そこが評価されるの、かなり大きいですね」


「生活に効いてる証拠だからね」


 加奈も穏やかに答える。


 走り出しは、驚くほど静かだった。車輪がないぶん、舗装を噛む音は少なく、重い足音もリズムが一定だと案外安心感がある。背中の座席は木枠と布でできていて、揺れはあるが不快ではない。むしろ、普通のバスより上下の衝撃が柔らかく吸われる感じがあった。


 ところが、庁舎前を抜けて最初の角を曲がったところで、第一の問題が起きた。


 道端にいた子どもが、コケバチ号へ向かって大きく手を振ったのだ。


「ばすー! がんばれー!」


 その声に、コケバチ号が嬉しそうに触角を震わせ、脚を止め、くるりとそちらへ顔を向けてしまった。悪気はない。むしろ善意だけで止まっている。だが公共交通としては困る。


「……褒められると止まるのか」


 勇輝が低く言う。


「訓練で減らせますが、完全には消せません」


 セレフィナが正直に答える。


「応援を受けると、少しだけ誇らしくなる性質があります」


「かわいいけど、運行には向かない性質ですね」


 美月が真顔でメモする。


 ここで役立ったのが、既存バス会社のベテラン運転手だった。


「だったら、発車合図を一つに固定しろ」


 彼は腕を組んだまま言った。


「褒め声は褒め声で受け取るだろうが、“出る時の合図”が一つ決まってれば戻せる。人のバスだって、声かけとベルとドア操作の順があるから動けるんだ」


 それはたしかにその通りだった。即席で、小さな木鈴が一本用意された。発車時にはそれを必ず二回鳴らす。コケバチ号は最初こそ首をかしげたが、三度目にはきちんと「それが出発の印」と理解したらしい。


「よし、続けよう」


 勇輝はそう言って、試走を止めなかった。最初の一回は、成功より“どこで困るかを全部見る”方が大事だ。困りごとが出た時点で終わりにしてしまうと、その先の工夫が育たない。


 温泉通り手前へ近づく頃、第二の問題が出た。足湯から立ち上る蒸気だ。コケバチ号はそれに鼻先を向けたまま、目を細めるように速度を落とした。


「眠くなってる」


 加奈が呟く。


「温泉の匂い、絶対好きなやつだ」


 セレフィナが頷く。


「予想していました。蒸気が濃いと、休息時間だと勘違いする可能性があります」


「それ、運行中に出ると困るな」


 勇輝はすぐに停車位置を修正した。足湯の真正面ではなく、少し手前の風の抜ける位置へ暖簾停留所をずらす。香りと蒸気の境目をずらすだけで、コケバチ号の集中はかなり戻る。生体の運行は、やはり道路だけ見ていればいいわけではない。


 さらに、第三の問題はもっと地味だった。乗客が降りる時、皆つい背中を撫でるのである。


「ありがとうねえ」


 高齢の女性がそう言って甲羅へ触れ、観光客もつられて撫でる。コケバチ号は満足げに目を細めるが、そのたびに次の乗車案内が少し遅れる。人の気持ちとしてはとても自然だ。だが、流れとしては放っておけない。


「撫でる時間を別に取った方がいいですね」


 美月が言う。


「乗降の流れの中に“ふれあい”が入ると、優しいけど遅い」


「それなら、停留所ごとに“挨拶位置”を作ろうか」


 加奈が暖簾の横を見た。


「降りた後に、ここで“ありがとう”するって場所があれば、出口が詰まらない。触るのを禁止するより、その気持ちの置き場所を先に作った方が、たぶんうまく回る」


 その案もすぐ採用された。暖簾停留所の横へ、小さな木札が立つ。


『ありがとうは、こちらでどうぞ。』


 それだけで、人の動きはかなり綺麗に分かれた。乗る場所、降りる場所、見送る場所、触れ合う場所。導線とは、結局感情の置き場所でもあるのだと、勇輝は改めて思った。


◆午後・登録書類の最終化(“車両”として扱えないなら、“運用”そのものを登録するしかない)


 デモ走行を終えて庁舎へ戻る頃には、書類の形もかなり見えていた。


 勇輝は会議室のホワイトボードへ、試走で出た課題を順番に並べる。


 一、発車合図の固定

 二、蒸気過多地点の回避

 三、停留所の暖簾運用

 四、乗降導線と挨拶位置の分離

 五、健康観察項目の追加

 六、餌と保湿のタイミング

 七、子どもの呼びかけ時の対応


 そこから、書類の形がようやく“車両登録”ではなく“運用登録”へ変わっていく。


『異界モビリティ登録(IM)』

登録対象:公共輸送生体コケバチ

登録内容:個体そのものではなく、当該個体を用いた運用一式

必要添付:健康観察表、運行管理表、停留所設計図、餌・保湿管理計画、緊急時鎮静手順、苦情対応窓口一覧


「バスを登録するというより、バスのある一日を登録する感じですね」


 総務の河合が書類を見て言う。


「そうだと思います」


 勇輝は答えた。


「生き物相手だと、物だけ見ても意味がない。どう食べて、どう休んで、誰が見て、どこで止まるかまで含めて初めて“公共交通”になる」


 市長はその書類へ決裁印を置く前に、一度だけ窓の外を見た。庁舎前では、コケバチ号が藁を食べながら静かに待っている。


「面白いな」


 市長は低く言った。


「道路を整備したら、今度は道路に乗るものの分類が足りなくなる。町って、ちゃんと前へ進むと、次の困りごとも少しだけ未来っぽくなるんだな」


「未来っぽいですけど、やってることはかなり地味です」


 美月が言う。


「餌の欄作って、保湿計画書出して、暖簾の位置決めて、木鈴鳴らす。地味の積み重ねでしか動きません」


「その地味さが、わりと好きだよ」


 加奈が笑う。


「でかくてかわいいものを、ちゃんと町で回すために、地味な人たちが机の上でずっと整えてる感じ。ひまわり市らしい」


 勇輝は最後のページを揃えながら、少しだけ笑った。


「そうだな。バスが生き物でも回る町、って書くとずいぶん派手だけど、実際には“ありがとうの位置を別にする”とか“蒸気の匂いで眠るから停車位置をずらす”とか、そのへんで町が支えられてる」


 市長はそこで印を押した。

 重い音が、部屋に一度だけ響く。


 窓の外から、ちょうどその瞬間に、ぷすうっと満足そうな息が聞こえた。分かっているのかどうかは知らない。だが、タイミングだけは妙に良かった。


◆夕方・庁舎前(制度が一つできると、町の見え方まで少し変わる)


 登録が終わったあと、コケバチ号は庁舎前でしばらく待機していた。行先表示は、また律儀に切り替わっている。


《市役所前 登録完了》

《試験運行 ありがとうございました》


「本当に律儀だね」


 加奈が笑う。


「しかも、ちゃんとお礼まで出るんだ」


「交通ギルドの教育らしいです」


 セレフィナが誇らしげに答える。


「公共輸送は、道だけでなく気持ちも運ぶので」


「そこだけ聞くと、かなりいい話なんですよね」


 美月が肩をすくめる。


「でもその裏で、健康観察表と餌管理台帳と保湿計画書が要る」


「いい話ほど、裏の手順が厚いんだよ」


 勇輝はそう言って、庁舎前の石畳を見た。朝ここへ立った時、巨大な甲虫がバスとして申請に来るとは、誰もまだ腹の底までは納得していなかった。だが今は、少なくとも一つの制度ができている。名前が付き、番号が振られ、運行の条件が決まり、停留所の布が風を受け、木鈴の意味が共有される。そうなると、不思議と“ありえないもの”が“この町で扱うもの”へ変わっていく。


 庁舎前を通る職員や市民も、最初のように足を止めて固まるだけではなくなっていた。


「あれが例の異界バスか」

「温泉通りまでのやつだって」

「乗るの、ちょっと楽しそうだね」

「でも蒸気で眠るって本当?」


 そういう声が聞こえる。半信半疑ではあるが、拒絶一色ではない。町の制度が一つ受け止めるだけで、人の見え方は案外変わる。


 市長は庁舎前で腕を組み、コケバチ号を見上げた。


「走らせて、学べ。今朝はそれだけのつもりで言ったが、今日は本当にそのままだったな」


「そうですね」


 勇輝は素直に答える。


「最初から正解の枠があるわけじゃないので。走らせる前に歩いて、走らせてからまた直す。その繰り返しでようやく“町に合う形”が見えてくる」


 加奈はコーヒーの空きカップを紙袋へしまいながら、穏やかに続けた。


「でも、今日のは良かったよ。かわいいから通す、じゃなくて、必要だから通す。必要なんだけど、かわいいのも事実で、その両方をちゃんと分けて見てたから。ああいうの、町の人って案外ちゃんと見てると思う」


「うん。必要なのにかわいくないものより、必要でかわいい方が少し得して見えるのは、たぶん人間の仕様だから」


 美月がそう言って、行先表示を撮った。


「《ただいま申請中》のやつも良かったですけど、《登録完了》はもっと良いですね。手続きが通ったことを本人が理解してそうなの、かなりひまわり市っぽい」


 セレフィナは丁寧に頭を下げた。


「正式運行までは、まだ学ぶことが多いでしょう。ですが、この町が“バスが生き物でも回る可能性がある”と判断してくださったこと、交通ギルドとして深く感謝します」


 勇輝はその言葉に、少しだけ真面目な気持ちで返した。


「判断したのは可能性です。通したのは条件付きです。だから、ここから先も一緒に整えてください。町は一回通したものを、投げっぱなしでは回せないので」


「もちろんです」


 セレフィナの返事はまっすぐだった。


 夕方の光が甲羅の苔へ落ちると、コケバチ号の背はやけにやわらかく見えた。巨大で、生き物で、しかもバスだ。文章にするとかなり変だ。けれど、その変なものを変なまま追い返さず、制度の側が一段だけ前へ出て受け止めた。その事実が、今日のひまわり市にはちゃんと残った。


 交通インフラは、道路だけではできない。

 分類も、責任も、餌の欄も、停車位置も、乗る人の不安を減らす言葉も、全部合わせてようやく一つの“流れ”になる。


 そして今日。

 ひまわり市は、ついに“バスが生き物でも回る町”になるための最初の書類を、自分たちの手で作ったのだった。

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