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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第1192話「お土産は思い出だけで十分:レシートまで契約書化して返品窓口が地獄」

◆夜・市内のアパート台所(楽しかった日の終わりに、紙だけが家で増えていると、人は急に笑えなくなる)


 楽しかった外出の日は、家へ帰ってから急に静かになる。


 玄関で靴を脱ぎ、買ってきた袋を床へ置いて、コートを椅子の背へ掛け、子どもが先にお茶を飲みたがる声と、冷蔵庫を開ける音と、温泉街でもらったパンフやレシートがテーブルの上へばらばらと置かれていく。その雑多な一連の動きの中で、昼間はあんなに賑やかだった出来事が、やっと「今日の思い出」として家の中へ収まっていく。観光って、本当はそこまで含めて一つなのだろうと、若い母親の佐伯奈々はいつも思う。外で盛り上がるだけならイベントで済む。でも、家へ戻ってから「楽しかったね」と言えるなら、それはちゃんと生活の中へ残る。


 その日の温泉郷も、最初はそういう一日だった。


 夫と三歳の娘を連れて、湯けむりの立つ通りを歩き、足湯のそばで写真を撮り、魔界芸術団の広場では少しだけ立ち止まり、派手な看板と黒いテントを遠巻きに眺めた。娘は花の形のクッキー缶を欲しがり、奈々は土産屋で焼き菓子を二つと温泉まんじゅうを一箱買い、夫は職場用の小分けクッキーを選んだ。レジの店員は感じが良く、袋へ入れてくれたあとで、いつもより少しだけ立派な紙のレシートを渡してきた。黒い飾り罫が端に入っていて、「今日だけ特別版なんです」と笑っていたから、奈々はその時点では単純に「へえ、凝ってるな」としか思わなかった。


 だから、夕食のあと、テーブルの上で袋を開きながらレシートの端へ見慣れない文字が増えていることに気づいた時も、最初は目の錯覚だと思った。


「ねえ、これ、買った時こんなの書いてあった?」


 夫がビールの缶を置きながらレシートを覗き込み、すぐに眉を寄せる。


「いや、こんなに字は無かった。金額と店名と、あと飾りが少し入ってたくらいじゃなかったか」


 奈々は照明の下へレシートを寄せた。紙の中央には確かに買い物明細がある。クッキー、焼き菓子、温泉まんじゅう、合計金額。それは普通だ。問題は、その下だ。


『第九条 本品を口にした者は、ひまわり温泉郷を年一回想起する義務を負う。』

『但し、想起が困難な場合は写真投稿をもって代替とする。』

『袋を保管した者には、次回来訪の気配が付与される。』


 娘はひらがなの少ない紙には興味を示さず、クッキー缶の蓋を開けることばかり考えている。だが奈々は、その“義務”という単語だけで急に家の空気が変わるのを感じた。笑えるようでいて、笑いきれない。思い出すのが嫌なわけではない。写真を投稿する気も無いわけではない。けれど、家へ帰ってからレシートに勝手に増えた言葉としてそれを読まされると、どうにも気持ちが落ち着かない。


「こういうの、なんていうんだろう……。怖い、って言い切るほどじゃないんだけど、なんか嫌だね」


 奈々が正直に言うと、夫もすぐ頷いた。


「嫌だな。買った時に店頭の演出として見せられたなら、イベントだと思えたかもしれない。でも家に着いてから増えるのは違う。しかも、年一回想起の義務って、笑わせたいのか本気なのかの距離が嫌だ。明日、職場の同僚にこのレシート見られて『なにこれ』って言われたら、説明するだけで疲れそうだし」


 奈々は袋の中を確かめた。レシートだけではない。クッキー缶へ掛けられていた小さな紙タグにも、帰りには無かった一文が増えている。


『食べ終えた後、空き缶を捨てるか飾るかで旅人の気質が測られる。』


「測られたくないんだけど……」


 奈々は思わずそう言ってしまい、夫も苦笑する。だが、その苦笑のあとには、明らかに困った沈黙が残った。


 楽しさは確かにあった。娘はクッキーを手にして嬉しそうだし、温泉街そのものに悪い印象があるわけでもない。だからこそ、この小さな紙が家の中へ持ち込んだ余計な“守らなきゃいけない感じ”が、妙に邪魔だった。外の賑わいの続きとしてではなく、家の静けさの中へ勝手に入ってきたものとして、それはかなり居心地が悪い。


「明日、市役所に聞こうか」


 夫がそう言うと、奈々は少し迷ってから頷いた。


「うん。怒鳴るとかじゃなくて、こういうの、どこまで本気なのか聞きたい。娘がまた明日この袋を触って、紙が増えたら、それはさすがに嫌だから」


 娘はその横で、クッキーをひとかけら口に入れながら、何も知らずに笑っている。


 その笑顔の前で、奈々は思った。お土産って、本当はこういうものじゃない。家へ帰ってからまで気持ちをざわつかせるより、袋の底に少し甘い匂いを残して、「また行けたらいいね」と言えるくらいの軽さでよかったのだ。


 レシートは冷蔵庫の上へ置かれた。寝る前にもう一度見た時、但し書きが一行増えていたらどうしよう、というくだらないのに切実な不安を抱えたまま、その家の夜は少し浅くなった。


◆翌朝・市役所玄関ロビー(怒っている人ばかりに見える列でも、実際には“どう処理したらいいのか分からない”が大半を占めている)


 翌朝の市役所には、開庁前から人が溜まり始めていた。


 行列そのものは役所にとって珍しいものではない。申請の切替時期、給付金の案内、催事の整理券、季節の変わり目の相談窓口。人が並ぶ理由はいくらでもある。けれど、その朝の列が見慣れなく見えたのは、全員が同じように手に細長い紙を握っていたからだ。レシート。しかも普通の白い感熱紙ではなく、妙に飾りが入っていて、端の方に黒い罫や赤黒い印が見える。


 勇輝がロビーへ出るより先に、美月は受付カウンターの陰から顔を出した。元気な時の弾む感じではなく、低く抑えた声だ。


「主任、来ました。かなり多いです。しかも、交換だけじゃなく、“これがどこまで効く言葉なのか”を確認したい人が多い。返品希望、返金希望、単純な説明希望、子どもが触った件、袋を捨てていいかの相談、そのへんが混ざってます」


「混ざると厄介だな……」


 勇輝は小さく言ってから、すぐ先頭へ向かう。


 先頭は、昨夜レシートを冷蔵庫の上へ置いた奈々たち夫婦だった。奈々はベビーカーを押しながら、レシートを差し出す手に少し力が入っている。怒鳴る一歩手前ではない。むしろ、怒るより先に「どう扱えばいいか分からない」疲れが顔へ出ていた。


「すみません、これ、返品とか交換ってできますか。昨日、温泉郷で買ったクッキーなんですけど、レシートに変な条文が増えていて……。別に温泉郷を思い出すのが嫌なわけじゃないんです。ただ、義務とか代替とか、家に帰ってからそういう言葉が増えるのは正直しんどくて」


 勇輝はレシートを受け取り、読んだ。


『第九条 本品を口にした者は、ひまわり温泉郷を年一回想起する義務を負う。

 但し、想起が困難な場合は写真投稿をもって代替とする。

 袋の所在不明は、物語の散逸とみなす。』


 最後の一文は昨夜より増えている。勇輝は眉ひとつ動かさず、まず相手の言葉の置き場を作ることにした。


「これは嫌ですよね。買い物の記録のはずの紙に、家へ帰ってから“義務”とか“代替”とかが増えると、それだけで日常へ余計な気配が入ります。まず、交換と返金のどちらも選べるようにします。その上で、文面については“演出ではあるが、持ち帰りの紙としては強すぎる”という整理で現場と調整します」


 夫が少しだけ驚いたように顔を上げた。


「そう言ってもらえると助かります。昨日の広場でなら、もしかしたら笑えたんです。でも家に着いてから増えると、笑っていいのか分からなくなって。娘が今朝、袋をまた触って遊びたがった時に、つい取り上げちゃって……。それもなんか嫌だったので」


 加奈が横から、小さな箱をそっと差し出す。冷たいおしぼりと、今朝石鹸店から追加で届いた『手をいたわる布』だ。


「お子さんの手、もし紙を触って気になる感じがあったら、こっち使ってください。刺激の強いものじゃなくて、やさしく拭くやつです。あと、袋やレシートはここで回収できます。家に持ち帰って増えるかも、って思いながら置いておくの、落ち着かないですもんね」


 奈々は少しだけ息を吐いた。


「ありがとうございます。こうやって“嫌だった”って言っても大げさじゃないって分かるだけで、だいぶ違います」


 列の後ろからも声が上がる。


「うちのは“次回来訪の予約権”って書いてあるんですけど、予約してません」

「土産袋を保管する責務って、燃えるゴミに出したらだめなんですか」

「レシートの裏に“開封は合意に準ずる”って増えてて、開ける前に言ってほしかったんですけど」


 美月は端末を抱えたまま、低く呟いた。


「“呪いのレシート”が出る前に、もうかなり危ないところまで来てますね。まだ“悪趣味”とか“いやだ”で留まってる人が多いですけど、放置したら変な名前が付きます」


「よし、窓口を立てる」


 勇輝はすぐに受付へ向かった。


「返品・交換・説明・回収を一本化します。土産屋への問い合わせもここでまとめて受ける。レシートや袋を見せたい人と、商品交換したい人と、言葉の意味を確認したい人が混ざると時間を食うので、列を分けてください。あと、“義務”“責務”って単語へ引っ張られないように、“演出の紙が持ち帰りに強すぎた”で統一します」


 そこへ市長が現れた。さすがに今回は、最初から眉間に少し皺が寄っている。


「……今度はレシートか」


「レシートです。しかも持ち帰り後に育つやつです」


 美月が容赦なく現状を伝える。


「止めたら土産屋の売上が落ちる、っていう顔を今しそうでしたけど、先に言います。レシートが怖いままだと、土産そのものが敬遠されます。だから今は“土産を止める”じゃなく、“増える文字だけ止める”です」


 市長は口を開きかけて、そのまま閉じ、素直に頷いた。


「分かった。必要な手配、全部回す。観光を守るためにも、まず家に帰ってから困る要素を潰す」


「お願いします」


 勇輝は短く返して、広場へ向かった。


◆午前・温泉郷広場 土産屋並び(舞台の外へ持ち出す紙が、家の中で勝手に育つなら、もうそれは舞台道具として扱えない)


 温泉郷の広場そのものは、昨日と同じように賑わっていた。アトリエの看板も、黒いテントも、ひまわり型の固定刻印も、口上も、表から見える範囲ではかなりうまく回っている。問題は、その外縁だった。


 土産屋の列を追うと、原因は想像より分かりやすかった。グラ=ヴァルドが、どうやら「購買の線も芸術だ」と本気で考えていたらしい。レシートの一番下へ小さな刻印を押す。袋の口の留め紙へ細い印を入れる。購入完了の瞬間を作品として扱う。その発想自体は、イベントとしては理解できなくもない。だが、それが家に帰ってから紙の中身を増やし始めるなら、話は別だ。


 アトリエ看板の隣には、いつの間にか土産屋の袋が山積みになっていた。グラ=ヴァルドはそれを誇らしげに眺めている。


「おお、線の管理者よ! 見よ、購買の線もまた物語となった! 支払いの証は、単なる数字ではなく、旅人と町の間に生まれた小さき契約の証明である!」


「芸術になってるのは分かります」


 勇輝はまずそこを受け止めた。


「でも、レシートが家で育つのは困る。買った時と家に着いた時で内容が違うなら、レジの説明が意味を失うし、返品窓口が毎回初回になります。何より、家のテーブルの上で“義務”が増えるのが、日常に対して強すぎる」


 グラ=ヴァルドは少し不満そうに口を尖らせる。


「余韻ではないか。買い物の喜びが家でも続くのだぞ」


「続くなら思い出でいいです」


 加奈が一歩前へ出た。


「でも、条文が続くのは違う。お土産って、家に持って帰って初めて“楽しかった”になるものだから。袋を開けるたびに“義務”とか“責務”が増えたら、楽しかった気持ちまで一緒に濁る。そこ、かなり大きいよ」


 美月が端末を見せる。


「しかも、言い回しが全部強いです。“来訪の予約権”“袋保管の責務”“開封は合意に準ずる”。面白がれる人もいるでしょうけど、半歩ズレるとかなり嫌われます。今朝の窓口、怒ってるというより疲れてる人が多かったです。あれ、回復に時間かかるやつです」


 グラ=ヴァルドは、その“疲れる”という単語に少し眉を寄せた。燃えるのが嫌、嫌われるのが嫌、静かに離れられるのも嫌。そういう人だから、ここで引く余地がある。


「では、どうする。購買の高揚を、ただの感熱紙へ戻せと?」


「戻しません」


 勇輝は即座に言った。


「買い物のワクワクは残したい。だから、レシートに芸術を乗せるのはやめる。その代わり、別の持ち帰りに変える。増えない、固定、あとから怖くならない。そこへ切り替えたい」


 グラ=ヴァルドが腕を組み、顎を少し上げる。


「別の持ち帰り?」


「メッセージカードです」


 美月がすぐに言った。


「レシートは普通のまま。そこへ作品を載せない。代わりに、土産袋へ小さなカードを一枚だけ同封する。文面は義務でも責務でもなく、“また思い出したくなったら”くらいの短い一言。しかもその場で固定する。買ったあとに増えない」


「袋の中なら、家で見つけても“あ、入ってたんだ”って思えるしね」


 加奈が続ける。


「レシートって、家では“家計の紙”になるでしょう。そこに物語が乗ると、急に生活へ食い込む。でもカードなら、“おまけ”として受け取りやすい。冷蔵庫に貼るなら貼る、捨てるなら捨てる、自分で距離を決められるから」


「距離を決められる……」


 グラ=ヴァルドは、その言葉をゆっくり繰り返した。


「地上はつくづく、距離を大事にするな」


「距離があると、また近づけますから」


 勇輝は答える。


「持ち帰りで一回嫌になると、その後はもう手が伸びません。でも、“ちょっといいな”くらいで残るなら、また次に来た時も買える。土産はその方が強いです」


 市長もそこで、ようやく前向きに乗った。


「それだな。思い出は増えていい。でも条文は増えなくていい。家まで連れて帰るのは、次回来訪の義務じゃなくて、“また来たいかも”の余韻の方がずっと強い」


 グラ=ヴァルドは少し渋い顔をしつつも、最終的には頷いた。


「よかろう。レシートへの刻印は止める。袋には一枚、固定された言葉だけを忍ばせよう。ただし、言葉は短くても弱くはしない」


「弱くしなくていいです」


 美月が即答する。


「でも育たせない。そこだけ守ってください」


◆午後・土産屋の裏手 作業台(代替がすぐ出ると、人は“取り上げられた”とは思いにくい)


 レシート刻印を止めるだけでは、商店側は不安になる。何かをやめさせる時に、その場で代わりが見えないと、「売上が落ちるのでは」「イベントの熱が消えるのでは」が先に立つからだ。だから勇輝たちは、その場で土産屋の裏手へ作業台を借り、カード方式をその日のうちに形にすることにした。


 長机の上に、無地の小さなカード、印刷見本、封入用の小袋、ひまわり型の固定印、封入袋用の“内容固定済み”札が並べられる。土産屋の女将たちが覗き込み、観光課の職員が文言をメモし、加奈が言葉の丸みを見ながら案を出していく。


「“また湯けむりが恋しくなったら、思い出してね”はどう?」


 加奈が言うと、土産屋の年配の女将がすぐ笑った。


「それ、いいわね。押しつけがないし、でもちゃんと残る」


「“恋しくなったら”って、自分のタイミングがある感じするもんね」


 若い店員も続ける。


 美月は別の案を並べて、表情を見ていく。


「“今日の甘さがまた欲しくなったら、温泉郷を思い出してください”は少し説明っぽいですかね。レシートの代わりなら、もう少し軽い方がいいかも」


 加奈は頷きながら、手元のカードに一文ずつ書いていく。


「“お土産はこれで終わり。でも、思い出したらまた来てね”は長いかな」


「ちょっと長いです」


 美月がすぐ返し、二人で少し笑う。


 グラ=ヴァルドは、そのやり取りを真剣に見ていた。芸術家としては、言葉が短くなるのは少し不満なのだろう。けれど、相手の反応が見える形で言葉を選ぶ作業は、嫌いではないらしい。


「地上の者は、家に帰ったあとでも読める強さを求めるのだな」


「そうです」


 勇輝は土産袋を手に取りながら答える。


「店先で強くても、家で読むと邪魔な言葉があります。逆に、店先では地味でも、家でふっと効く言葉もある。土産って、そっちの方が長く残るので」


 最終的に、三種類のカードが採用された。


『また湯けむりが恋しくなったら、思い出してね。』

『今日の甘さが、明日もちょっと嬉しい記憶になりますように。』

『お土産はこれで終わり。でも、旅の話はまたいつでも。』


 どれも短い。義務も責務も、予約権も、宿命もない。けれど、弱くはない。家へ帰って読んだ時に“ちょっと嬉しい”くらいの距離感が保たれている。


 さらに、美月が提案した“封入袋”も効いた。透明な小袋へカードを入れ、その外側へ『内容固定済み』の小さな札を付ける。客は袋ごと受け取るので、「家で増えるかもしれない」が減る。増えないと最初から見えているだけで、人の呼吸はかなり違う。


 土産屋の女将が、その袋を手に取って感心する。


「こういう“止めました”って分かるの、大事ね。昨日のレシートは、家に帰ってから増えたって話が一番怖かったもの」


「はい。だから“今ここで終わりです”を見せたいんです」


 勇輝は頷く。


「固定されたって分かること自体が、持ち帰りの安心になるので」


◆午後・試し運用の最初の一時間(土産は軽く持ち帰れてこそ強い。軽くしすぎて意味が消えてもいけないから、町はまた途中で手を入れる)


 カード方式へ切り替えたあとも、勇輝たちはすぐには広場を離れなかった。ここで「代替を置いたから大丈夫だろう」と引いてしまうと、また別の形で後手に回る。土産の現場は、理屈が正しくても、受け取る手の動きが少し噛み合わないだけで印象が変わる。だから実際に客がどう受け取り、どう戸惑い、どこで足を止めるのかを見る必要があった。


 最初の三十分で見えてきたのは、思わぬ別の詰まりだった。


 レシートの刻印が消えたことで、レジの空気は確かに落ち着いた。だが、その代わりに封入袋へ入ったカードを見た客が、今度はその場で袋を開けるようになったのだ。袋を開けて中身を読み、同行者にも見せ、別の文面があるかどうかを聞き、店員へ「三種類あるなら選べるんですか」と尋ねる。質問自体は悪くない。むしろ関心が向いている証拠でもある。ただ、会計の流れの中でそれが起きると、レジがまた少しずつ滞る。


 土産屋の若い店員が、忙しい手つきのまま苦笑した。


「怖くなくなったのは本当に助かるんですけど、今度はみなさん、会計の場で“どの言葉が入ってるか”を確認したくなるみたいで。選べるわけじゃないのに、なんとなくそこで会話が始まっちゃうんです」


 たしかに、客の側からすれば、そこへ小さな楽しみが追加されたとも言える。だが、レジ前で長く止まられると、後ろの人は待つ。待つ時間が長くなると、せっかく消したはずの緊張が別の場所へ戻る。


「袋に入れるだけだと、“ここで開けてください”に見えちゃうのかもね」


 加奈が列の後ろから様子を見ながら言う。


「プレゼントもそうだけど、手渡された途端に中身を確認したくなるの、普通だもん」


「だったら、確認する場所をレジからずらしましょう」


 美月がすぐに答えた。


「“カードはこちらでゆっくり読めます”って、小さな台をレジの外へ置く。会計の場では渡すだけ。読みたい人は数歩離れて、袋を開ける。流れと楽しみを分けます」


 その案はすぐ採用された。店先の脇へ、小さな木の台と立て札が一つ置かれる。


『カードはお会計のあと、こちらでどうぞ。』

『中身は固定済みです。ゆっくり読んでください。』


 立て札の文言も、美月が二度ほど削った。

 最初は『袋の開封はレジ前をご遠慮ください』だった。

 それだと禁止が先に立つ。

 次が『カードはゆっくり読める場所があります』で、ようやく空気が柔らかくなった。


 台を置くと、流れはかなり変わった。客は会計を終えたあと、そのまま脇へ移動して袋を開ける。同行者と笑い合い、カードを読み、良ければ写真を撮る。レジ前はまた“買う場所”へ戻り、店員の声も朝より楽になる。


 ただ、今度は別の気配が出た。台の前で、観光客の若い女性二人が、同じ文面のカードを見て少し首を傾げている。


「かわいいけど、ランダムじゃないんだね」

「全部同じなら、ちょっとだけ拍子抜けかも」


 加奈がその声を拾い、勇輝へ小さく伝える。


「今度は逆に、整いすぎてる感じがするみたい。怖さは消えたけど、選ぶ楽しさとか偶然っぽさが欲しい人もいるんだね」


「なるほどな……。強すぎるのを削ったら、今度は“お土産としての遊び”が薄くなったか」


 勇輝は少し考え、それからグラ=ヴァルドへ向いた。


「三種類の文面は固定でいいです。ただ、“どれが入るか”だけは店ごとに揺らしてもらえますか。増えない、変わらない、でも選べない偶然は少し残す。そうすれば、家に帰ってから育たないまま、買った時の楽しみだけは残せます」


 グラ=ヴァルドは、その条件なら満足らしく口角を上げた。


「よい。宿命ではなく、巡り合わせだな。選ばぬが、巡り会う。しかも固定。地上にしては悪くない遊びだ」


「“巡り合わせ”までなら、まだ家で嫌われませんね」


 美月が言うと、加奈も笑った。


「うん。そのくらいなら冷蔵庫に貼っても、ちょっと話題になるだけで済む」


 そこで、三種類のカードは“店ごとの封入順”だけを少し変える運用になった。喫茶では甘さの記憶に寄ったもの、和菓子屋では湯けむりに寄ったもの、土産の定番店では“また話をしてね”の文面が中心になる。ランダムではない。けれど、店ごとの顔が少しだけ出る。そのくらいの揺れがあると、観光の余韻としては十分だった。


◆午後・商店会のすり合わせ(店の人が“自分の言葉で説明できる”ところまで落とさないと、運用は続かない)


 広場の即席調整がひと段落すると、今度は商店会の面々が集まってきた。土産屋、和菓子屋、乾物屋、喫茶、旅館の売店担当。みんな、朝のレシート騒ぎでそれなりに神経を削られている顔だが、その一方で「じゃあ今後どう説明するのか」を自分の言葉で掴みたがっている様子でもあった。


 勇輝は、広場の端へ折りたたみ椅子を並べてもらい、その場で短い説明の場を作った。会議室ではない。通りの空気が見える場所でやる方が、この話は伝わりやすいと思ったからだ。


「まず、今日からレシート刻印は停止します。理由は、家に帰ってから文面が増えると、買い物の記録が生活の中で強くなりすぎるからです。代わりに、袋へ固定済みのカードを入れます。レシートは普通に戻します」


 そこまでは、もう皆うなずいていた。問題は、その次だった。


「で、お客様に何て言えばいいんですかね」


 和菓子屋の店主が率直に尋ねる。


「うち、朝から“なんで昨日と違うの”って何回も聞かれたんですよ。“作品なので”だけだと押し切れないし、“市役所が止めました”って言うのも角が立つし」


 その悩みは当然だった。運用が正しくても、店の人が説明に困るなら、その運用は長く持たない。


 加奈がそこへ、店先の言葉として自然な形を置いた。


「“お土産の言葉、持ち帰りやすい形に整えました”でいいと思う。止めたとか、ダメだったとかを前に出すより、“家に帰ってからも楽しみやすくしました”の方が、お客さんも受け取りやすいから」


 喫茶ひまわりのレジに立つ人間らしい言い回しだった。責任逃れに見えず、押しつけにもならない。


 美月もすぐに補足する。


「それ、使えます。広報でも“持ち帰りやすい形へ整えました”で統一しましょう。“仕様変更”だけだと固いし、“改善しました”だと前のやり方が全面的に悪かったみたいにも読める。今回って、悪意でやったわけじゃなくて、強さの置き場所を間違えた感じなので」


 旅館の売店担当も、それでかなり表情が和らいだ。


「なるほど。“家で読みやすい言葉にしました”でも通じますね。お客さんって結局、家に帰ってから奥さんや家族に見せたりするから、そこを大事にしましたって言えた方が、たぶん納得される」


 勇輝は頷く。


「そうです。町としても、そこを守りたい。店先の盛り上がりだけじゃなくて、帰ってから嫌われないことの方が、結局また来てもらうには大事なので」


 商店会の面々は、その一言でかなり腹落ちしたらしい。観光の現場にいる人ほど、“また来るかどうか”の重さを知っている。今日一回売れることより、嫌な後味を残さず次へつなぐ方が長い目では強い。役所の理屈というより、商売の実感として入る言葉の方が、この場では効いた。


 最後に、加奈がカードのスタンドを一つ持ち上げて見せた。


「これ、レジ横にちょこんと置いておくといいと思う。聞かれたら説明できるし、聞かれなくても“こういう感じです”が伝わるから」


 その姿を見て、和菓子屋の店主が笑った。


「ちょこんと、がいいんだな。昨日までのレシートは、紙の方が前へ出すぎてた。今日はこっちが“ちょこんと”置くくらいで、ちょうどいい」


 その“ちょこんと”という感覚は、ひどくこの町らしかった。強すぎるものを完全に消すのではなく、生活の隅へ置けるくらいまで小さく整える。ひまわり市は、結局いつもそれをやっている。


◆午後遅く・市役所の臨時窓口(選べることを先に渡すと、怒りはかなり整理される)


 市役所へ戻ると、臨時窓口は朝よりずっと回転がよくなっていた。


 理由は単純で、選択肢が先に見えるようになったからだ。

 交換。

 返金。

 回収。

 説明のみ。

 どれを望むかが、最初から札で分かる。さらに、“今後はレシート刻印を停止し、カード方式へ切替済み”が明記されたことで、来た人は少なくとも「話が前に進んでいる」と分かる。


 奈々たち夫婦も、窓口の前で新しいカードを受け取っていた。夫はカードを読んで、小さく笑う。


「これなら、冷蔵庫に貼っても変じゃないですね」


 奈々もその一言へ続く。


「うん。家で読むなら、これくらいがいい。思い出してね、くらいなら、こちらの機嫌で受け取れるから」


 加奈がその言葉を聞いて、少し嬉しそうに頷く。


「“こちらの機嫌で受け取れる”って、すごく大事なんです。昨日のレシートは、紙の方が先に主張してたから」


「まさにそれでした」


 奈々は言う。


「楽しかった記憶まで、命令口調にされた感じがして。今のは、ちゃんと家の空気に合う」


 別の窓口では、年配の男性が返金を選んでいた。


「私はもう品物は返すよ。そこまで怒ってるわけじゃないが、こういう“あとから増える紙”は性に合わん。でも、対応がこうやって分かれてるなら、わざわざ大きな声を出さなくて済む」


 勇輝はその言葉に、静かに礼を返す。


「ありがとうございます。大きな声を出さなくて済む形へ持っていくのも、こちらの仕事なので」


 美月は端末を見ながら、表情を少し和らげていた。


「SNSも戻ってきました。“レシート増殖やめたらしい”“カード方式に変わった”“冷蔵庫に貼れるならむしろいい”って流れです。ネタで済む段階へ戻ってる」


「それなら、今日は勝ちだな」


 市長が素直に言うと、勇輝もようやく頷けた。


「少なくとも、“家に帰ってから困る”はかなり減らせました。イベントの中で困るなら、その場でまだ対処できます。でも家まで持ち込むと、町の手が届きにくくなるので」


◆夕方・温泉郷の土産屋通り(暮らしの中へ入るものは、家の棚に置いても疲れない顔をしていなければいけない)


 夕方の温泉郷は、昼より人の歩き方が穏やかになる。


 土産屋通りを歩く観光客の手には、紙袋や小箱や、お決まりの温泉まんじゅうの包みがある。その一つひとつは小さいのに、旅の最後の印象をかなり左右する。だから、そこへ付く紙の顔も案外大事だ。


 切替後の土産屋を見に行くと、レジ横の空気は朝とは別物になっていた。レシートは普通のレシートへ戻り、店員は袋へ小さな封入袋を一つずつ入れていく。会計を終えた客がその場で中身を覗くこともあるが、そこにあるのはもう“義務”でも“責務”でもない。


「また湯けむりが恋しくなったら、思い出してね、か」


 若い観光客の女性がそう読んで笑う。


「これならいいね。押しつけられてない感じする」


「うん。勝手に約束されたくはないけど、こういう一言なら嬉しい」


 レジの店員も、朝よりずっと自然な顔だった。


「昨日まで、レシート渡す時ちょっと構えてたんですよ。家に帰ってから変わるって言われると、こちらも“じゃあ今ここで何を説明したらいいの”って分からなくなってたので。今はカードだから、“袋に一言入ってます”で済むのが助かります」


 グラ=ヴァルドは、その光景を少し離れたところから見ていた。芸術家としては、レシートに直接刻印したかったのかもしれない。だが、客が自然に袋を受け取って、家へ持って帰る空気を見ているうちに、彼の顔にも少し納得が浮かんできた。


「お土産は、家へ帰っても人を困らせてはならぬ」


 彼は静かに言った。


「困らせるなら、舞台の中で困らせるべきだ。そこで解けるなら、喜劇になる。家まで連れて帰れば、ただの手間になる」


「その分け方、かなり大事です」


 勇輝が答える。


「舞台の中の厄介さは、イベントにできます。でも家で増える条文は、だいたい家計簿と一緒に嫌われるので」


 加奈が笑った。


「家計簿と一緒に嫌われる芸術、かなり損だもんね。冷蔵庫に貼れるくらいが、たぶんちょうどいい」


 美月も端末をしまいながら頷く。


「魔界の人、泣くかと思ってましたけど、思ったより飲み込みましたね」


「続く方が好きなんだろうな」


 勇輝は言う。


「燃えるのも嫌だし、回収箱に入るのも嫌だし、静かに来なくなるのも嫌。だったら結局、暮らしに合う方へ寄せた方が長く残るって理解できる」


 市長が、土産屋通りを眺めながらしみじみと言った。


「観光って、派手に売ることばかりじゃないんだな。家へ持ち帰っても嫌われない顔をしてることの方が、ずっと大事かもしれん」


「かなりそうです」


 勇輝は頷く。


「旅先のテンションで押し切るより、帰ってから“また食べたい”“また見返したい”って思える方が強い。土産はそのためのものだと思うので」


◆夜・喫茶ひまわりのレジ横(思い出は、命令口調じゃなく、ふと目に入った時に嬉しいくらいの重さがちょうどいい)


 閉庁後、加奈は喫茶ひまわりのレジ横へ、小さなカードを一枚だけ立てた。

 今日採用された文面のうちの一つだ。


『お土産はこれで終わり。でも、旅の話はまたいつでも。』


 木の小さなスタンドに差すと、押しつけがましくはないのに、ちゃんと目へ入る。レジの隣に置かれたジャム瓶や焼き菓子の包みとも馴染んで、いかにも“持って帰るための言葉”という顔になった。


 勇輝はそれを見て、ようやく今日の着地が腑に落ちた気がした。


「これ、かなりいいな」


「でしょう」


 加奈は少し得意そうに笑う。


「レシートに条文が増えるのは嫌だけど、こういうのは嫌じゃない。家の棚に置いてあっても、読んだ時に疲れないから。思い出って、たぶんそれくらいの重さでいいんだよ」


 美月もレジ横を見て、肩の力を抜いた。


「“冷蔵庫に貼れる芸術”って、かなり良いラインかもしれませんね。舞台で見ると派手、家に持ち帰るとちょうどいい。そこへ入ると急に強い」


 市長はその言葉を聞いて、珍しく深く頷いた。


「お土産は、思い出だけで十分。だが、その思い出をまた来たいに変える仕掛けは要る。今日のカード、たぶんそこを押さえてるんだな」


「そう思います」


 勇輝はレジ横のカードから目を離さずに答えた。


「命令されたら嫌だけど、自分のタイミングで思い出せる余白があると、人はまた戻りやすい。町の側がやるべきなのって、たぶんそこです」


 外では、温泉街の夜が静かに始まっていた。昼の賑わいも、広場の口上も、窓口の列も、今はもう少し遠い。残っているのは、今日一日で整えた運用と、レジ横に立つ小さなカードと、これなら家に持ち帰っても大丈夫だと思える静かな手触りだけだ。


 魔界の芸術は、相変わらず派手で、強くて、ちょっと油断すると家までついてこようとする。けれど、そのたびに町の側が“ここまでは舞台、ここからは暮らし”の線を引き直していけるなら、付き合い方は少しずつ上手くなる。


 ひまわり市はまた一つ、異界の面白さを消さずに、家の棚へ置いても疲れない形へ変える方法を覚えた。


 それは大きな勝利ではない。拍手が起きる種類の解決でもない。けれど、買った土産を家で開ける時に、もう一度だけその町を好きでいられる。その小さな安心を守れたなら、今日の窓口の地獄にも、きっと意味はあった。

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