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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第1175話「壁画が散歩する町」

◆夜の商店街で、壁が小さく息をし始める


 夜のひまわり市は、昼より静かなはずだった。

 商店のシャッターが半分だけ下り、喫茶ひまわりの窓から柔らかな灯りがこぼれ、通りを歩く人の足音も、昼間の観光客が立てる気配よりずっと細くなる。昼の町が「見てもらう」ために少し背筋を伸ばしているとすれば、夜の町は「暮らす」ために肩の力を抜いている。勇輝は、その抜け方が好きだった。役所へ持ち込まれる話は昼のほうが多い。だからこそ夜の町には、問題が起きていない限り、少しだけほっとする匂いがある。


 けれど、その夜の商店街には、ほっとする匂いの代わりに、絵の具が湿った夜気を吸っているような、不思議にざわつく気配があった。


 商店街の角、古い文具店の横壁。

 昼間なら小学生が立ち止まって写真を撮り、観光客が「かわいいね」と笑う程度の、色鮮やかな案内壁画がそこにある。妖精界との芸術交流で描かれたもので、公園へ続く道を青い矢印と花の模様で示し、下の方には小さなリスの絵が走っている。見る人の気分を少しだけ軽くする、そういう素直な壁だった。


 ところが今夜、その壁は素直さを別方向へ使っていた。


 昨日まで確かに『←公園 200m』と書かれていた矢印が、今は『→温泉 たぶん近い』に変わっている。


「“たぶん近い”じゃないのよ。案内が急に個人の勘で喋り始めたみたいになってる」

 加奈が呆れた声を漏らし、腕を組んで壁を見上げた。怒っているというより、困って笑っている顔だった。笑ってしまいそうなのに、そのまま笑い話で済ませるとあとで痛い目を見ると分かっている人の顔でもある。


 勇輝は一歩下がって全体を見た。昼の壁画は、輪郭がはっきりしていて、矢印も花も素直にそこへある。だが夜になると、光る絵の具が夜気を吸うのか、線の縁がほのかに発光し、その縁取りがじわじわとほどけて移動する。動き方が妙に生々しい。幽霊みたいにすっと消えるわけではなく、近所のおばちゃんが買い物帰りに、あっちの八百屋も覗こうかしらと寄り道するくらいの速度で、ゆっくり、確実に向きを変えていく。


「主任、これ、完全に歩いてます」

 美月が端末を構えたまま言った。録画している手は安定しているのに、声の温度だけが少し低い。面白がっているときの目ではなく、仕事としてまずいものを見たときの目だった。

「歩いてるね。しかも、行き先が適当」

 勇輝がそう言うと、壁画の矢印がほんの少しだけ揺れ、まるで「適当じゃないし」とでも言うように、先端の角度を細かく変えた。


「反応した……?」

 美月が小さく息を吸う。

「これ、私たちの話を聞いてる可能性ありますよ。聞いてるうえで、軽くムッとしてます」


 その背後で、役所から借りてきた懐中電灯の光がふっと揺れた。市長が到着した合図だった。やけに軽い足取りで、妙に楽しそうに。


「よし。夜の観光スポットが増えたな!」

「市長、まず安全」

 勇輝が即座に返すと、市長は「はいはい」と両手を上げながらも、壁画へ一歩近づいた。

「いや、でも見てみろよ。可愛いじゃないか。光ってるし、動く案内なんて珍しいぞ」

「可愛いのと、通学路が夜のうちに変わるのは両立しません」

 勇輝は市長の肩を軽く引いて止めた。

「今朝、教育委員会から電話が来てます。登校班の集合場所へ向かう小学生が、壁画の案内を信じて違う路地へ入りかけたって」


 加奈が頷いた。喫茶ひまわりにも、すでに被害が出ているらしい。

「うちの常連さんも、朝の散歩コースが壁画の矢印頼りになっててさ。今朝“温泉がたぶん近い”って言われて、普通に住宅地の奥まで行ってた。途中で犬の散歩してる人に聞いて戻れたけど」

「壁画に人生を委ねすぎだろ」

 美月が呟き、加奈が「それはそう」と苦笑した。


 その間にも、壁画の文字がじわりと揺れた。今度は単に位置が変わるのではなく、文そのものを組み替えるようにして、下の方へ新しい一文を浮かべる。


『きのうの道、混んでたから。』


「混んでたから、って……」

 勇輝は本気でこめかみを押さえたくなった。

 絵が、交通状況を判断して勝手に最適化している。しかも、住民の生活圏の中で。

「美月、これ、拡散はまだ止めて」

 勇輝が言うと、美月はすぐに頷いた。

「止めます。今はむしろ“情報が出過ぎると危ない”やつです。面白がって見に来る人が増えると、動く壁画の周りに人が集まって、余計に道が詰まります」

「そう。今夜のうちに原因を掴む。最低でも、“何をきっかけに動くか”だけは押さえたい」


 市長が腕を組み、珍しく真面目な顔になる。

「芸術が勝手に歩くのは面白いが、通学路に踏み込むと役所が死ぬな」

「死ぬのは私の胃じゃなくて、まず窓口です」

 勇輝が返すと、市長は「そこは全員で生きろ」と雑に励ました。励ましとしては雑だが、今はそこへ長く付き合っている余裕もない。


 壁画は、そんなこちらの会話を聞きながら、最後に温泉通りのほうを指し示してから、なんとなく満足したみたいに光を弱めた。

 夜の町が静かなはずだった、という前提が、そこで完全に崩れた。


◆翌朝の校門前で、芸術は否定しないが道路でやるなと言われる


 翌日。市役所へ直行するはずだった朝の予定は、教育委員会からの連絡であっさり書き換えられた。

 場所は、ひまわり第二小学校の校門前。校庭から聞こえる朝の声はいつも通りなのに、門の横で待っていた教育委員会の職員の顔だけが、まったくいつも通りではなかった。


「主任、子どもが迷子になりかけました」

 言い方は淡々としているのに、目が笑っていない。

「壁画の案内が夜の間に変わっただけで、集合場所へ向かう途中の子が二人、別の角を曲がりました。途中で上級生が気づいて連れ戻しましたが、あれがあと五分遅かったら普通に校門へ間に合っていません」


 勇輝はまず頭を下げた。

「すみません。対策を今日中に入れます」

 職員は少しだけ表情を緩めたが、甘くはならない。

「原因が妖精界の絵の具だという話は聞いています。芸術を頭ごなしに否定したいわけではありません。でも安全は譲れません。芸術は教室で見ます。道路でやるな、です」

「ほんとそれ」

 美月が小声で同意し、加奈が「分かりやすい」と頷いた。


 そこへ、当の妖精界アーティストがやって来た。背丈は小さく、羽が透けていて、帽子のつばがやたら広い。服の端にまで細い光の粉がついていて、本人だけ見れば、夜の壁が歩き出す理由そのものみたいな姿だ。しかも目が、やたらきらきらしている。


「壁画、歩くの楽しいでしょ!」

 開口一番がそれだった。悪びれがまったくない。

 市長が反射で「楽しい!」と言いそうになったのを、勇輝が視線だけで止める。


「楽しい以前に、危険です」

 勇輝は言葉を短く切りすぎないように息を整えてから続けた。

「夜のうちに案内が変わると、子どもが迷います。大人でも迷います。実際に迷いました。あなたの絵の具が悪いと言いたいんじゃない。町で使うなら、守るためのルールが必要なんです」


 妖精は首を傾げ、ちょっとだけ口を尖らせた。

「ルールって、縛るの?」

 そこへ加奈がすぐ入る。声は柔らかいが、逃がさない。

「縛るじゃなくて、守るの。あなたの絵も守るし、子どもも守る。どっちかを諦めるんじゃなくて、両方残る形にしたいんだよ」

 妖精は加奈の顔をじっと見て、やがてふっと笑った。

「……あなた、話し方があったかいね」

「喫茶の看板娘は伊達じゃない」

 美月が小声で言い、勇輝は「今それ言う?」と目で突っ込んだ。


 妖精は帽子のつばを指でちょんと上げて説明を始める。

「光る絵の具はね、“道の気分”を覚えるの。昼に人が多く歩いた方向とか、夜に風が気持ちいい方向とか、暗くてつまづきやすいところとか、そういうのが絵の具に入る。だから混んでる道は避けたくなるし、歩きやすい方を案内したくなる」

「つまり、壁画が勝手に最適化してる」

 勇輝が要約すると、妖精は誇らしげに胸を張った。

「そう! 賢いでしょ!」

「賢いの方向が生活とぶつかってます」

 勇輝は笑えない。だが、責めるだけでは何も前に進まない。

「じゃあ聞きます。壁画はどこまで動ける? 動ける範囲の上限と、動かないようにするスイッチはある?」

 妖精は少し考えてから言った。

「動けるのは、描いた場所の“近所”まで。遠くへ旅するほど強くはない。スイッチは……ない。だって絵の具だもん。でも、約束はできる」

「約束を仕組みにしましょう」

 美月がすっと言葉を差し込んだ。

「約束だけだと忘れます。人も妖精も。仕組みがあれば、守りやすい」


 教育委員会の職員が、それまで黙って聞いていたが、最後に短く言った。

「運用でいいです。とにかく、今週の登校に間に合わせてください。子どもが“壁の言うこと”を信じる速度は、大人が思うより速いので」

「間に合わせます」

 勇輝はそこで腹をくくった。面白い壁画をどう扱うかではない。生活の中へ入り込んだ壁を、今日中に“町のルールの側”へ引き戻さなければならない。


◆午後の合同会議は、壁画を消すかではなく、歩かせる責任を誰が持つかへ進む


 その日の午後、異世界経済部の会議室は臨時の合同会議になった。教育委員会、道路管理、観光、広報、指定管理者。壁画本人は当然来られないので、妖精アーティストが代理で参加している。しかも机の上に座って足をぶらぶらさせながら。役所の会議室としてはかなり攻めた絵面だが、今日に限ってはそんなことを気にしている余裕がなかった。


 道路管理が、最初にかなりまっすぐなことを言った。

「壁画を消すのは?」

 言い方は淡々としているが、中身は強い。

「消すのは簡単です。塗り潰せばいい。安全だけを考えれば、その方が早い」

「だけど観光的に死にます」

 市長が先回りして言い、加奈が苦笑する。

「消したら“せっかくの作品を!”って反発も来ます」

 美月も頷いた。

「炎のときと同じです。安全と感動の両立を、ちゃんと“見せる”必要がある。ただ“消しました”だと、役所が面白いものを潰しただけに見える」


 勇輝はホワイトボードに、太い字で二つ書いた。


「壁画は動く前提」

「動くなら、動くルール」


「固定するのは難しい。スイッチがないから」

 勇輝はそう言って、さらに線を足していく。

「じゃあ、動いていい時間、動いていい範囲、動いていい内容を決める。そして、動く先は登録しておく。勝手に旅させない。町の中で“ここまでは歩いていい”を先に決める」


 妖精が目を丸くした。

「登録って、壁画が役所に出すの?」

「壁画は出せません」

 勇輝は苦笑しつつ、でもかなり丁寧に重ねる。

「だから、あなたが管理者として出す。責任者が必要です。その代わり、勝手に消したりしない。作品として尊重する」

 妖精は腕を組み、しばらく唸ったあと、ぽんと手を叩いた。

「わかった! 私、壁画の“飼い主”になる!」

「言い方」

 加奈が吹き出し、勇輝も思わず口元が緩んだ。だが、その言い方は案外核心でもあった。誰かが世話をし、誰かが見回り、何かあったらその人へ話が行く。その一本がないと、町の運用には落ちない。


 具体は、そこからかなり現実的に詰められていった。


 動く時間は夜二十二時から朝五時まで。通学・通勤時間に重ならないよう固定する。

 動ける範囲は、描かれた通りの中で最大三十メートルまで。交差点は越えない。

 動いていい内容は、道案内の矢印と補足だけ。目的地そのものを変えない。

 壁画の基準位置と、動ける範囲、管理者を市へ登録する。

 事故・工事・災害時は、妖精が“封印線”を描いて一時固定する。

 近くに「夜間は動く可能性があります」の看板を置き、QRで最新位置を見られるようにする。


 教育委員会の職員が、そこで現場目線の注文を足す。

「看板は、目立つように。子どもが読めるように。難しい漢字は避けてください。保護者向けの説明は別紙でいいです」

「了解です」

 美月が即座に答える。

「子ども向けは“夜はうごくよ”くらいの語彙で。大人向けはQR先で丁寧に書きます。“朝はもとのばしょにもどるよ”も入れたい。そこがないと不安が残るので」


 道路管理が、別の角度から言う。

「交差点を越えないのは最低条件です。あと、工事中の仮設バリケードや夜間通行止めには反応してほしい。絵が気持ちよさだけで動くなら、工事現場へ人を誘導しかねない」

「そこは絵の具へ覚えさせます」

 妖精がすぐ言った。

「危ない匂いは嫌うから」

「匂いで管理しないでください」

 勇輝はすかさず止める。

「工事情報は道路管理からもらって、封印線で先に閉じる。その二重でいきます。絵の気分だけに任せない」


 市長が満足そうに頷いた。

「これで、壁画が歩いても迷子は減る」

「減らすだけじゃなく、逆に安全に使えます」

 勇輝はそう言い切った。

「壁画が“暗い”“危ない”を覚えているなら、夜間の注意喚起に使える」

 加奈がぱっと顔を上げる。

「たしかに。壁画が勝手に“ここ危ない”って書いてくれたら助かる」

「勝手に書かれたら困るけど」

 美月が言い、勇輝も頷く。

「勝手に書くのを、“書いていい場所”へ誘導するのが役所です。夜間注意の欄を壁画の下に最初から作っておけば、そこで喋らせられる」


 妖精はその発想をかなり気に入ったらしく、帽子のつばをぱたぱた揺らした。

「いいね。壁画にも“仕事の欄”があると分かりやすい。自由に歩くけど、何をしていいかは決める。地上っぽい!」


 その“地上っぽい”が褒め言葉なのかどうかは分からなかったが、少なくとも前へは進んでいた。


◆黄昏前に、問題の壁画は一枚ではなかったと分かる


 会議が終わりかけたころ、観光課の職員が慌てて飛び込んできた。手にはプリントアウトされた地図がある。嫌な予感しかしない。


「主任、動いてる壁画、あそこだけじゃありません」


 地図の上には、赤い丸が四つ付いていた。商店街の公園案内、温泉通り入口の足湯案内、旧図書館横の歴史散歩壁画、そして駅前ロータリーの観光マップ。つまり、妖精界の絵の具が使われた“夜に光るタイプ”の案内壁画は、ほぼ全部、少しずつ場所や文言を変えているということだった。


 会議室の空気が一段重くなる。


「……四件」

 美月が地図を見ながら言う。

「しかも全部、人の流れがあるところです。商店街、温泉通り、旧図書館前、駅前。見事に生活と観光の境目」

「駅前まで動くのか」

 勇輝は息を吐いた。

「それは夜間のタクシー動線にも触れる」


 道路管理がすぐ立ち上がる。

「順に見ますか」

「見ます」

 勇輝も即答した。

「今日のうちに全地点の傾向を掴みたい。動き方が同じなのか、場所で違うのか、それによって登録の項目が変わる」


 加奈が紙袋を持ち上げた。

「じゃあ私、移動しながら簡単に食べられるもの買ってくる。今日は絶対、夕飯の時間がずれる」


 市長が「温泉通りならついでにコロッケを」と言いかけ、美月に睨まれてやめた。

 今はたしかに、コロッケより壁のほうが先だった。


◆黄昏の実地確認で、壁画の性格は場所ごとにちゃんと違うと分かる


 最初に向かったのは温泉通り入口だった。ここに描かれた壁画は、もともと足湯と旅館街の方向を示すもので、昼間は湯けむりの絵と一緒に湯飲みを持った猫が笑っている、妙に親しみやすいデザインをしている。


 夜になると、その猫がなぜか少しだけ歩幅を広げた姿勢になっていて、矢印も昨日までより細かく角度を変えていた。しかも、商店街の壁画みたいに投げやりではない。むしろ妙に親切だ。


『こっち。ぬれてもいい道、じゃない。』


「こっちは、ちゃんと気を遣ってる」

 加奈が感心したように言う。

「昨日の“たぶん近い”とは全然違う」

「場所ごとに性格が出てますね」

 美月が端末へ打ち込む。

「つまり、絵の具の問題というより、描かれた場所が覚えた情報の差かもしれません」


 次に旧図書館横へ行くと、今度は歴史散歩の壁画がやけに遠回しになっていた。もともとは史跡へまっすぐ向かう矢印なのに、夜になるとぐるりと大回りして、街灯の多い道ばかりを繋いでいる。


『こっち、明るい。ゆっくり見て。』


「これはこれで、かなり良いガイドなんだけどな」

 勇輝は苦笑した。

「問題は、元の案内と違うルートを勝手に作るところか」


 駅前ロータリーの観光マップに至っては、もっと露骨だった。観光案内の吹き出しが、電車の到着時間や人の流れに合わせて、目立つスポットを入れ替えている。


『いまなら温泉通り、空いてる。』

『駅カフェ、先に寄ると混まない。』


 市長が少しだけ嬉しそうに言う。

「賢いな!」

「賢いですが、勝手です」

 勇輝は即答した。

「駅前で“いまなら”を始めると、群集誘導の責任が出ます」


 だが、この地点の観察で一つはっきりしたこともあった。壁画は無秩序に歩いているわけではない。場所ごとに覚えた“気分”と“人の流れ”に沿って、それぞれ違う最適化をしている。つまり、四枚を一律に止めるより、性格ごとに役割を与えるほうがうまくいく可能性が高かった。


 美月が地図へ色分けを始める。

「商店街は“回遊型”。温泉通りは“安全配慮型”。旧図書館前は“夜間観賞型”。駅前は“混雑回避型”ですね」

「分類して登録すれば、運用がだいぶ楽になる」

 勇輝が頷く。

「全部を同じ壁画として扱うのが無理だったんだ。案内の役割が違う」


 加奈もその整理を聞いて、すっと納得した顔になる。

「なるほど。人間でも、商店街の人と駅前の人って案内の仕方違うもんね。壁画も同じか」


 そこへ、駅前の観光マップが、まるで会話を聞いていたみたいに一行だけ足した。


『やくわり、わかるひと、すき。』


「褒められた」

 美月が呟き、市長が「やはり観光の味方だ!」と胸を張り、勇輝は「味方でも登録は必要です」と釘を刺した。


◆夜の二回戦で、壁画同士は勝手に会話を始める


 商店街の壁画で封印線の効果を確認し、温泉通りと旧図書館前、駅前の性格も把握し、町内会と教育委員会へ速報を流したところで、ようやく今夜は終わるかと思った。役所の夜仕事というのは、そういう油断をした瞬間に次を寄越す。


 温泉通りの壁画から、連絡が入ったのはその直後だった。連絡といっても、壁画本人からではない。通りを巡回していた観光課の臨時職員が、半分笑い、半分青ざめた声で無線を飛ばしてきたのだ。


『すみません、温泉通りの案内壁画が、商店街の壁画へ話しかけてます』


 全員で数秒黙った。

 市長が最初に口を開く。


「会話?」

「そう言うしかないです」

 美月が端末を見ながら答える。

「通りごとの壁画が、互いの案内を見て補足を書き始めたらしいです」


 現場へ行くと、それは本当に“会話”だった。温泉通り入口の猫壁画が、商店街角の矢印へ向けてこんな一文を足している。


『そっちまわりでもいいけど、足湯やってるよ。』


 すると商店街の壁画が、やや不服そうに返す。


『いま、つうがくろだから。よるだけね。』


 さらに旧図書館前の歴史散歩壁画まで混ざってくる。


『夜はしずかな道のほうが、月がきれい。』


「……壁画同士で連携し始めた」

 勇輝が言うと、美月はもう笑うしかない顔で頷いた。

「登録制度を入れたせいで、たぶん“仲間”だって認識したんですよ。管理番号が付いたから、壁画同士で社会ができた」

「そんな社会の芽生え方、聞いたことない」

 加奈が呆れながらも笑っている。

 市長だけは妙に感心していた。

「自治会みたいだな」

「自治会にするな」

 勇輝は即座に止めた。


 だが、ここでも内容自体は悪くなかった。通学路を優先し、夜だけ温泉を勧め、静かな月見の道も添える。無秩序な雑談ではなく、ちゃんと役割分担の延長にある会話だ。問題は、それが“誰の許可で、どこまで”なのかという一点に尽きる。


 勇輝はその場で新しく線を引いた。

「壁画同士の補足連携は、同一エリア内のみ許可。エリア越えの相互誘導は禁止。登録された目的地だけ。観光の宣伝合戦にしない」

 妖精が「きびしい」と唇を尖らせる。

「きびしくないと、駅前の壁画が全部温泉へ送る未来になる」

 勇輝が言うと、美月がすぐに頷いた。

「絶対なります。数字が見える壁画ほどやります」

「数字を見せない」

「見せなくても、混んでる空いてるは感じますよ」

「感じる範囲を制限する」

 このやり取りだけ聞くと、なんだか壁画ではなく新入職員の研修みたいだなと加奈は思ったが、口には出さなかった。出したらたぶん全員が笑ってしまう。今はまだ、それを笑い話にしきるには早い。


◆保護者説明は、壁画の面白さより先に“朝は戻る”を伝える場になる


 翌々日の朝、学校だよりとは別に、保護者向けの小さな説明会が開かれた。夜間可動壁画なんて言葉を、普通の保護者はまず人生で聞かない。だから、役所の側が慣れた言い方で済ませると、その瞬間に話が遠くなる。勇輝は校門横の会議室へ入る前から、そのことをかなり意識していた。


 集まった保護者の表情はさまざまだった。単純に面白がっている人もいれば、「昨日うちの子、ほんとに違う道へ行きかけたんです」とまだ気持ちが尖っている人もいる。どちらも自然だと思えた。夜に壁が歩く町なんて、当事者でなければ笑って済ませるし、当事者になれば笑えない。


 最初に口を開いたのは、美月だった。今回は広報としてではなく、“難しい話を普通の言葉へ落とす係”として前に立つ。


「夜のあいだ、一部の案内壁画が少しだけ位置や文言を変えることがあります。ただし、学校周辺の壁画は、朝の通学時間までに元の位置へ戻し、通学路を変えない運用へ切り替えました。ここがまず一番大事な点です」


 その一文だけで、前列にいた母親たちの肩が少し下がった。人は“何が起きるか”より先に、“朝には戻るのか”でかなり安心できるらしい。


 加奈は、そこで壁画を怖いものにしすぎないよう、生活の言葉を足した。

「夜のうちに、暗い道や段差を教えてくれることもあります。だから、“壁が勝手に子どもを連れていく”みたいに思わなくて大丈夫です。朝は元の場所に戻るし、学校の近くは動かない約束にしました」


 保護者の一人が手を挙げた。

「約束って、誰が守るんですか。壁ですか?」

 場に小さな笑いが落ちたが、質問は本質だった。


 勇輝は正面から答える。

「壁そのものではなく、管理者が守ります。妖精界のアーティストが責任者になり、市へ登録します。加えて、市の側でも夜間巡回を行い、必要なら一時固定をかけます。“不思議だから仕方ない”では済ませない形にします」


 別の父親が続ける。

「子どもには、どう説明すればいいですか。“夜は動くから気をつけて”だけだと、面白がって朝も見に行きそうで」

「それは確かに」

 加奈が頷いた。

「だから、“夜はお仕事してるんだよ、朝はもう終わってるよ”って伝えるのはどうかな。夜の見回り係みたいな感じで」


 教育委員会の職員もその案に乗った。

「いいですね。“夜だけ道を見てくれる壁”なら、怖がらせすぎずに説明できます。朝の登校では、壁の矢印より先生と班長を信じる、そこは学校でも繰り返します」


 説明会の最後、勇輝はかなり具体的なお願いをした。

「今週いっぱいは、お子さんに“朝の壁の文字が違っていたら大人へ言う”とだけ伝えてください。自分で解釈して別の道へ行かないこと。こちらも朝の巡回を増やします」


 派手な話ではない。けれど、こういう一言の積み重ねが、一番町を静かに守るのだろうと勇輝は思った。


◆夜間巡回で分かったのは、壁画が“迷わせる”だけでなく“拾う”こともあるということ


 制度を作り、台帳を整え、説明を重ねると、次に必要になるのは観察だった。運用は始めた瞬間より、二日目三日目のほうが本性が見える。壁画が本当に収まっているのか、それともこちらが一度勝った気でいるだけなのか。確かめなければならない。


 その夜、勇輝たちは商店街から温泉通り、旧図書館前、駅前までを一周する巡回を組んだ。観光課の若手、道路管理、教育委員会の職員も一部合流し、かなり大所帯だ。夜の町を歩くにしては人が多いが、最初の週だけは仕方がない。


 商店街の壁画は、相変わらず温泉のほうをちらちら見ていたが、通学路には触れていない。温泉通りの猫壁画は、濡れた石畳を避ける矢印を保ったまま、下の注意欄へ短く書き足していた。


『ここ、すべる。はしらない。』


「ちゃんとしてるなあ」

 道路管理の職員が感心したように言う。

「たまに人間より具体的です」

 美月が返し、加奈も笑った。


 旧図書館前では、歴史散歩の壁画が月の位置に合わせて少しだけ文字の位置を変え、眺めやすい立ち位置を教えていた。そこへ、観光客らしい若い二人組が立ち止まっている。男の方が地図アプリと壁画を見比べ、女の方が不安そうに言った。

「駅、こっちで合ってるかな」


 そのとき、壁画の下の注意欄がじわりと光った。


『駅はあっち。こっちは月。』


 二人は一瞬固まり、それから吹き出した。

「親切だね……」

「親切だけど、ちょっと偉そう」

 そんなことを言いながら、ちゃんと駅の方向へ向き直る。


 勇輝は少し離れたところでそれを見ていた。夜の町にある案内というのは、看板であれ人であれ、結局は“迷いそうな人を拾えるか”なのだと、改めて思う。壁画が勝手に歩くのは困る。だが、勝手に拾うなら、それはきちんと町の役に立つ。


 もっと露骨だったのは駅前だった。最終列車が出たあとのロータリーで、観光マップ壁画が、少し酔った旅行客へ向けてこんな一文を出していた。


『ホテルは右。コンビニ寄るなら左のあと。』


「細かい」

 市長が感心する。

「細かいですけど、たぶん実際に助かってます」

 美月が言う。

 酔った旅行客は壁画を見て、素直に右へ歩き、途中でコンビニの方へ逸れそうになってから、またホテル方向へ戻った。人が壁の言うことをそこまで聞くのかとも思うが、夜の町では、はっきりした一言があるだけで足が決まることもある。


 その光景を見て、加奈がぽつりと言った。

「この子たち、迷わせるより先に拾ってるんだね」

「うん。だから、ただ止めるだけじゃもったいなかったんだと思う」

 勇輝はそう答えた。昨日までは、動く壁画は問題だった。けれど、今日見ていると、問題を起こしうる性質が、そのまま夜間の道具にもなりうる。町の運用って、たぶんこういう“厄介さを役割へ変える”仕事なのだ。


◆制度が町に馴染み始めると、最後に残るのは“どこまで増やすか”という欲だ


 巡回を終えて市役所へ戻るころには、さすがに全員疲れていた。だが、疲れているのに顔が暗くない。危ないものを止めるだけでなく、使えるものとして手応えが出ると、夜の役所は少しだけ前向きになる。


 会議室へ入るなり、美月が端末を机に置いて言った。

「現時点で、夜間可動壁画の運用は成立してます。少なくとも、“迷わせる”より“拾う”が勝ってる」

「ただし、だからといって増やしすぎると危ない」

 勇輝がすぐ続ける。

「最初の一件がうまくいくと、次を入れたくなる。でも、台帳と巡回と説明が増えた分だけ、管理の手も増やさないと同じことが起きます」


 市長が椅子へ座りながら腕を組んだ。

「つまり、壁画の数そのものに上限がいるか」

「いります」

 勇輝ははっきり言った。

「少なくとも試行期間中は、学校周辺一件、商店街一件、温泉通り一件、駅前一件、旧図書館前一件。このくらいで頭打ちにして、次を増やすなら月次の検証後です」

「“壁画が歩く町”を広げるんじゃなく、“歩いていい壁画を選ぶ町”にするわけね」

 加奈が整理すると、美月も頷く。

「そのほうが伝え方もきれいです。全部を歩かせると混沌ですが、選ばれた壁画だけが夜の役割を持つなら、観光としてもストーリーがある」


 妖精アーティストは、その話を聞いて少し考えてから言った。

「増やしたい気持ちはある。でも、手が届くぶんだけ育てるの、たぶん大事。妖精界でも、庭は一晩で森にしない」

「いい言葉だな」

 市長が感心し、勇輝も素直に頷いた。

「それを申請書の冒頭に書きたいくらいです」


 最後に、勇輝は台帳の末尾へ一文を足した。


『夜間可動壁画は、観光装飾ではなく、夜間歩行支援を兼ねる登録制設備として扱う』


 味気ない。役所らしい。だが、それでいい。面白いものを残すためには、どこかでこういう味気ない文が芯になる。


 市長がその文を読んで、少しだけ笑った。

「設備、か。壁画が聞いたら怒りそうだな」

「怒ったら、“設備欄”じゃなく“役割欄”に変えます」

 美月が返し、加奈が吹き出した。

「役所のやさしさ、そこなんだ」

「やさしいというより、面倒を減らしたいだけです」

 勇輝はそう言ったが、半分は本当で、半分は違った。面倒を減らすだけなら、最初に塗り潰して終わりにしている。ややこしいものを、ややこしいまま役に立つ形へ残したいから、こんな台帳まで作っているのだ。


 窓の外の夜は、昼より静かだった。けれど、その静けさのどこかに、光る絵の具がそっと働いている。町の夜はもう以前とまったく同じではない。だが、同じではないことを、そのまま危険にしない形が少し見えたなら、たぶん今日はかなり良い日だった。


 勇輝は最後に机の上の地図をたたみながら、小さく息を吐いた。

 面白い壁画が歩く町は、たしかに厄介だ。

 でも、厄介さごと運用へ落とせるなら、それはもう町の一部だ。

 そのことに、今夜は少しだけ安心できた。


◆帰り道で、町は“面白い”を少しだけ普通のほうへ寄せる


 帰り支度を始めたころ、加奈が紙袋の底からまだ温かいパンを一つ取り出して、勇輝の机へ置いた。

「食べてないでしょ。さっきから地図ばっかり畳んでる」

「食べる暇がなかった」

「暇は作るの。夜の壁画にも言っといて」

 そんな会話をしながらも、加奈の目はどこか安心していた。昨日の夜、動く壁を前にした時の困った笑いではなく、今日はちゃんと手を入れた後の笑いだ。


 美月も端末を閉じ、椅子の背へぐっともたれた。

「主任、正直に言います。最初に“壁画が歩く”って聞いた時、また一個おもしろ事故案件だと思ってました。でも、ここまで来ると、事故というより制度の立ち上げですね。しかも、夜の町にちゃんと役割が増えてる」

「役割が増えると、書類も増える」

 勇輝が言うと、美月はすぐ頷いた。

「それは増えます。でも、増えた書類の分だけ、明日から誰かが迷わずに済むなら、まあ納得はできます」


 市長は最後まで機嫌が良かった。広報文の草案と台帳案と地図を見比べてから、やけにしみじみした声で言う。

「ひまわり市は、最近“変なものを追い返す町”じゃなくて、“変なものを働かせる町”になってきたな」

「表現が雑です」

 勇輝は返したが、完全には否定できなかった。

 炎も、壁画も、最初は厄介だった。けれど、厄介さをそのまま嫌って捨てるのではなく、役割へ変えるほうへ少しずつ手が伸びるようになっている。それはたぶん、この町が異界に来てから身につけた、一番地味で、一番役に立つ技術なのだろう。


 庁舎を出ると、夜風はひんやりしていた。遠くの商店街の角で、例の壁画が小さく光っているのが見える。今夜はもう動かない。ただ、そこにいて、通りの先にある温かい場所を知っている顔をしている。


 勇輝は少しだけ立ち止まり、その光を見た。

 夜の町が昼より静かなままでいられない日もある。けれど、静かでないものを全部追い出さなくても、町は回る。回る形を作れれば、面白いものも、危ないものになりきらずに済む。


「行く。ただし、次は申請書を増やしすぎるなよ」

 聞こえるはずもない壁へ小さく言うと、商店街の角の光が、ほんの一瞬だけ、分かったみたいに細く揺れた。

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