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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第1050話「ナギルの航路係、観光地図が分岐だらけの“選択式物語”になる」

◆朝・喫茶ひまわり 店先


 開店前の温泉通りは、湯けむりの音が先に起きる。湯気が立ち上がる気配、石畳が昨夜の湿りをゆっくり乾かしていく匂い。観光の町は派手に見えるけれど、朝だけは裏方の時間が表に出る。掃き掃除の竹ぼうきの音、店先に出される小さな看板、配布ラックに並ぶパンフレットの紙の擦れる音。


 加奈は喫茶ひまわりの入口で、ラックの整理をしていた。昨日の夕方、観光課から届いた新しい観光地図を、いつもの位置に差し替えるだけの作業。いつもの作業。いつもの、はず。


「……え?」


 手に取った一枚が、妙に軽い。紙質が薄いというより、触れた瞬間に「読む」ことを求められてくる感じがある。加奈は表紙を見て、目をぱちぱちさせた。


『ひまわり市観光地図

 選ぶたび、湯けむりは姿を変える』


 下に小さく、制作名が入っている。


 制作:深海都市ナギル 航路係 カイラ


「航路係……海の人だよね。地図、作ってくれたんだ」


 感謝の気持ちは、まず浮かんだ。異界の人が町のために動いてくれるのは、今では珍しくない。けれど、次の一行で加奈の感謝は、いったん棚の上に置かれた。


『プロローグ:あなたは温泉通りへ向かう』


「……向かう?」


 地図に、命令形の気配がある。加奈はページをめくった。そこから先は、地図というより、ゲームブックだった。


 目的は?

 A:温泉で癒やされたい(P3)

 B:ご当地グルメを制覇したい(P7)

 C:異界住人に会いたい(P11)


 P3へ……。P7へ……。P11へ……。


「これ、地図……じゃないよね」


 通りの向こうで、朝の散歩をしていた観光客が、ラックの前で足を止めた。紙を一枚抜き、表紙を見て、顔がふっと明るくなる。


「えっ、なにこれ。楽しそう」

「選択式? この町、そういうのやってるんだ」


 加奈は反射で笑顔を作りかけて、途中で止めた。楽しそう、は大事だ。でも、楽しそうのまま、人の足が迷子になると困る。温泉通りは景色が似ている場所が多い。湯気、石畳、提灯、土産物屋。目印に頼ると、意外と迷う。


 加奈が迷いを抱えたままラックを見つめていると、奥から美月が顔を出した。今日は役所へ行く前にコーヒーを受け取りに来たらしい。端末を片手に、寝起きの髪を軽く整えた、いつもの朝の美月だ。


「おはよー……って、加奈さん、なんか固まってない?」

「美月、これ見て。観光地図」


 加奈が差し出すと、美月は表紙を見て、すぐに目が笑った。面白いのを見つけた時の目だ。でも、その笑いが二秒で消えた。


「……え、これ、配布用?」

「昨日届いた。新しい地図だって」


 美月はページをめくり、指を止めた。そこに書かれていたのは、こうだ。


 P5:ここであなたは道を誤る。戻るにはP2へ。


「戻るってどこに戻るの……。P2、ない」


 美月は端末を操作し、通知欄を見てから、眉を寄せた。


「主任に連絡する。いまのうちに。これ、笑ってる場合じゃないかも」

「うん。ごめん、私もちょっと面白いって思った。でも、これで迷子が出たら笑えない」


 加奈がそう言うと、美月は珍しく真面目にうなずいた。


「面白いのは、置き場所が合ってる時だけ。これ、置き場所ズレてる匂いがする」


 その言い方が妙に役所っぽくて、加奈は小さく笑ってしまった。笑ったけれど、手は止めない。ラックから新地図を一度引き上げて、古い地図を戻す。朝の混乱を増やさないために、まず「いつもの」に戻す。


 店のベルが小さく鳴った。観光客が二人、入ってくる。


「地図、もらっていいですか?」

「はい、こちら……あ、今日はね、いつもの地図に戻してあります。新しいのが確認中で」


 加奈は言い方を柔らかくした。否定はしない。混乱を増やさない。必要なのは安心だ。


◆午前・ひまわり市役所 異世界経済部


 庁舎の朝は、紙の音と足音でできている。コピー機の起動音、廊下を早足で通る革靴、電話の呼び出し音。音が重なるほど、「今日も回る」が立ち上がる。


 勇輝は端末を開いたところで、美月からのメッセージを受け取った。添付された画像を見た瞬間、眉が一段だけ動く。感情というより、危険検知の反応だ。


「……観光地図が、選択式」


 口に出して確かめると、加奈が差し入れの紙袋を机に置きながら、首を傾げた。


「選択式?」

「地図じゃなくて、ゲームブックみたいなやつ。しかも配布ラックに入ってる」


 美月が端末を持って椅子に座り、続ける。


「主任、現場の声も来てます。案内所のスタッフから。『P5ってどこですか』って聞かれて、答えられないって」

「そりゃそうだ。ページ番号は場所じゃない」


 勇輝はすぐに立ち上がり、観光課へ内線を回した。責めるためじゃない。止めるためだ。


「観光課、今朝配布してる新地図、確認できますか。ナギルの航路係が作ったっていう……はい、タイトルに“選ぶたび湯けむりが姿を変える”……。いま温泉通りで配布されかけてます。すぐ一時停止してください。回収も」


 電話口で「えっ」と声が上がる。知らないのだろう。知らないなら、なおさら早く止める必要がある。勇輝は続けた。


「責任追及じゃない。現場が混乱してる。地図は“迷わせない”が最優先。物語として面白くても、配布の形が違う。現地で臨時対策します。観光課から一人、案内所へ来てください。できれば版下担当も」


 切って、次に警備へ連絡する。配布停止の掲示と、ラックの差し替えは現場の手が要る。


「温泉通り案内所、配布ラックの新地図、いったん引き上げ。回収箱を用意。混乱が出てるので、案内係の判断で止めていい。責任はこちらで取る」


 加奈が、少しだけ安心した顔になる。


「“止めていい”って言葉、現場が一番欲しいやつだね」

「現場が迷うのが一番危ない。迷わせないために、止める」


 美月がタブレットを見ながら、もう次の段取りを立てている。


「主任、SNSも出始めてます。『地図が物語で楽しい』って。まだ大荒れじゃないけど、このままだと『迷った』が増えて、怒りが混ざります。早めに“通常地図はこちら”を出した方がいいです」

「出す。ただし煽らず、短く」


 勇輝は観光課との共有フォルダを開き、既存の地図データを引っ張り出す。幸い、ひまわり市の観光地図は以前から整備されている。問題は「差し替えが間に合うか」だ。


「美月、通常地図のデータ、今日印刷できる?」

「できます。庁内プリンタでA3、案内所用にA4も。QRは私が貼ります。……ただ、現地の“現在地”が要ります」

「案内所に着いたら決める。まず現地」


 加奈が紙袋から小さなメモ帳を出した。


「案内所のラック、種類が多いよね。通常地図と物語地図を“置き分け”するなら、札が必要。私、札の文言考える。短いやつ。迷わないやつ」

「助かる」


 三人の動きが、自然に揃う。

 守る順番が分かっている時、仕事は速い。


◆午前・温泉通り 観光案内所


 案内所の前は、軽い渋滞になっていた。行列というほどではないが、人が立ち止まっている。紙を読み込んでいる。地図のはずなのに、目が「読むモード」になっている人が多い。地図は、立ち止まらせると負ける。


「すみません、“橋を渡る”を選んだんですけど、橋はどこですか?」


 若い女性が、紙を胸に抱えて案内係へ尋ねている。案内係は困った顔でページをめくるが、そこに地図はない。文字と選択肢だけがある。視線が泳いだ。


「えっと……橋、は……温泉橋、ですかね。たぶん……」

「温泉橋って、どっちです?」

「えっと……」


 そのやりとりに、別の観光客が混ざる。


「私、P5に行ったら“道を誤る”って書いてあって……戻れって……でも戻るページがなくて……」


 案内所のスタッフの顔が、少し青い。普段は笑顔で回せる人たちだ。回せない時は、紙が悪い。人のせいにしない。紙を戻す。


 勇輝が前に出て、まず声を落として言った。


「すみません。いま配布されている地図に分かりにくい部分がありました。通常の地図をこちらでお渡しします」


 案内所のスタッフが、ほっと息を吐く。観光客の表情も、少し落ち着く。「分かりにくい」と言ってもらえると、自分が悪いわけじゃないと分かるからだ。


 勇輝は、バッグから予備の通常地図を取り出した。まだ数は少ないが、まずは人の流れを戻す。


「現在地はここです。温泉橋はこの矢印の先。徒歩で四分くらい。坂を避けるなら、このルートが楽です」


 説明が短くなる。紙がまともだと、言葉も短くて済む。

 そこへ、美月が小さく手を挙げた。


「主任、来ました。制作の人」


 案内所の奥から、涼しい顔の女性が現れた。水紋のローブ、薄い水晶板、胸の徽章。ナギルの航路係。カイラだ。


「深海都市ナギル、航路係。カイラ」


 彼女は丁寧に頭を下げてから、穏やかに言った。


「皆さまの旅が迷いに変わったと聞きました。私の地図が、そのように」


 責められて防御するタイプではない。まず、その点で救われる。

 勇輝は、いきなり否定せずに、状況を整えながら言った。


「カイラさん、制作の意図は分かります。旅を楽しくしたい。選ぶ楽しさを入れたい。そこは良い」

「海の航路は分岐します。潮は気まぐれ。ゆえに旅は選択で語られます。地図とは、選択の物語」


 カイラの言い方は美しい。美しいけれど、陸の運用と噛み合わない。

 美月が、冷静に補足する。


「観光地図の役割は、まず“位置情報”です。現在地、方角、距離、所要時間。これがないと、選択以前に迷子になります。いま案内所が“P5”で質問されて、現場が止まっています」


 加奈も、観光客の様子を見ながら、やさしく続けた。


「選ぶのは楽しいけど、迷うと怖いからね。迷わない地図があるから、冒険できる。これは先に“羅針盤”が欲しいタイプ」


 カイラは、少しだけ黙った。水晶板を握る指が、ほんのわずかに止まる。

 やがて彼女は小さく頷いた。


「……海でも、救命艇の案内は物語にしません。誰が見ても同じ方向へ動けるように、短く、同じ形で」


 勇輝は、内心で小さく息を吐く。通じる。救命の比喩は、ナギルの人に届く。


「そういうことです。地図は救命艇の案内と同じ。まず迷わない。物語は、別の場所で光らせる」


 カイラが、ゆっくりと視線を上げた。


「別の場所。灯りとして、ということですか」

「はい。灯りは必要です。旅の気持ちも必要。でも、灯りを持ったまま危ない場所へ誘導したら困る」


 加奈が小さく笑う。

「言い方はやわらかいけど、伝えたいのはそれだね」


 勇輝はスタッフに向き直り、短く指示を出す。


「配布ラックの新地図、いったん回収箱へ。『企画用の読み物です』と札を付けて、通常地図を前に。案内所の入口に“通常地図はこちら”の表示を出します。場所は今、私が決めます」


 スタッフが「はい」と返事をして動き出す。返事が揃うと、案内所の空気が戻る。

 美月はすでにタブレットを開いて、掲示用の短文を打っていた。

 加奈はラックの前に立ち、札の文言をその場で決める。迷わない言葉を選ぶ顔だ。


◆午前・観光案内所 臨時対策スペース


 案内所の奥、普段はパンフの在庫を積む小さなスペースに、急ごしらえの作業台ができた。机の上に、通常地図の元データを印刷した試し刷り。赤ペン。シール。ラミネートフィルム。案内所の備品が、急に“編集室”みたいになる。


 観光課の職員も到着した。息が少し上がっている。朝の現場は、役所の机より走る。


「すみません、主任。新地図、聞いてなくて……」

「大丈夫。ここから整えましょう。責めるのは後でいい。まず今、迷ってる人を減らす」


 観光課の職員が、ほっとする顔になる。責められると、手が止まる。止まると、現場が困る。だから責めない。


 勇輝は地図の上に指を置いた。


「Aとして配る通常地図は、今日の混乱点に合わせて“強く”する。要素はこれ」


 紙に書き出す。ホワイトボードではなく、机の上のコピー用紙に太字で。場所を取らない工夫も、現場だ。


・現在地(You are here)

・主要ルート(駅/市役所/温泉通り/市場)

・目印(橋/鳥居/ドラゴン像/案内所)

・距離と徒歩分数

・迷いやすい分岐の注意(ここで右、など)

・外国語は最低限(英語+ピクト)

・緊急時の集合点(案内所・市役所)


「地図は、見た瞬間に“行ける”が出る形。文章は最小」


 美月が頷き、端末でピクト素材を呼び出した。


「既存のアイコンに合わせます。新しいアイコン増やすと現場が混乱します。橋は橋、トイレはトイレ。ドラゴン像は……ドラゴン像アイコン、作ってましたよね?」

「以前、落とし物案内で使ったやつがある。流用しよう」


 加奈が札を二つ作って、ラックに貼る位置を指で示した。


「ラックを二段に分ける。上段は“迷わない地図(無料)”。下段は“読み物:選択式物語(イベント用)”。読み物には“まず地図”って一行入れる。順番が大事」

「順番、いい」勇輝が頷く。「読ませるなら、座れる場所も用意したい。立ち止まらせない」

「ベンチ横に小さな棚、出せます。喫茶の前にあるやつ、貸すよ」

「ありがとう。座る場所があると、道の真ん中で読む人が減る」


 観光課職員が、カイラの方をちらりと見た。カイラは申し訳なさそうに、でも逃げずに立っている。


「カイラさん、Bの物語はどうする?」

 勇輝が尋ねると、カイラは少し考えてから、はっきり言った。


「私が直します。物語は残す。ただし、最後に必ずAへ戻る道を付けます。分岐の終わりに、“現在地と次の一歩”を載せる。海の航路図でも、物語を語る時は座標を添えます」

「座標、いい言葉だな」

 美月が小さく言う。

「座標があるなら、物語も迷子になりません」


 勇輝は頷いた。

「よし。Aは今日の混乱を止める。Bは次の企画に回す。今日の配布はAのみ。Bは“回収”して、差し替え完了後に希望者へ渡す。案内係が口頭で説明できるように、短い文も用意する」


 観光課職員がメモを取る。

「説明文、こちらで作ります。例えば……『通常の地図はこちらです。選択式の物語地図はイベント用で、読み物としてお楽しみください。道案内は通常地図をご利用ください』みたいな」

「いい。短い。丁寧。責めない」


 美月が画面を見て、追加する。

「SNS用はさらに短くします。『通常地図を配布しています。物語地図はイベント用として準備中。迷ったら案内所へ』。このくらい」

「煽らず、事実だけ。よし」


 加奈が、ふと気づいたように言った。

「“イベント用”って書くと、逆に欲しくなる人いるかも。配布制限、どうする?」

「制限というより、順番」勇輝が言う。「Aを先に渡す。Bは『読んでから歩くと迷うので、座って読む』って案内する。持ち帰りはOKにするけど、道案内には使わない。位置づけを明確に」


 その判断に、観光課職員が頷いた。

「“禁止”じゃなく“用途分け”ですね」

「禁止は燃料になることがある。用途分けは落ち着く」


 カイラが、静かに頷いた。

「海でも同じ。禁じられた航路は、挑戦したくなる。だが、灯台が示す航路は、自然に船を導く」


 加奈が小声で言う。

「海の人の例え、すごく分かりやすい」


◆午後・温泉通り 差し替えの手と、案内の言葉


 印刷されたA地図が束になって届くと、案内所の空気が一気に動き出した。紙は軽い。軽いけれど、現場にとっては重い武器だ。たった一枚で、説明が短くなる。


 スタッフがラックを整え、上段にAを並べる。札の文字は加奈が書いた。


【迷わない地図】こちら(現在地・距離つき)

【読み物】選択式物語地図(イベント用)※道案内は上の地図を使用


 札の「※」が効く。強く言わずに、用途が分かる。

 ベンチ横には、小さな棚が置かれた。Bはそこへ。立ち止まって読むのではなく、座って読む。動線の中に“読む”を置かない。


 美月は案内所の外で、短い声かけを繰り返した。叫ばない。押し付けない。必要な情報だけを同じ順で。


「通常地図はこちらです。現在地と徒歩分数が載ってます。物語地図は読み物なので、座って読むのがおすすめです。迷ったら案内所へどうぞ」


 言葉が固定されると、スタッフも同じ言葉を使える。言葉が揃うと、観光客の不安が減る。不安が減ると、質問が整理される。


「温泉橋ってどこですか?」

「ここです。徒歩四分。坂が苦手なら、このルートが楽です」

「市場は?」

「ここから七分くらい。途中にドラゴン像があります。目印です」


 案内係の顔色が戻っていく。

 現場は、こうやって回復する。派手な演出じゃない。紙と、言葉と、順番。


 そこへ、カイラがBを抱えて戻ってきた。水晶板の上で文字が淡く光り、ページの分岐が整理されている。彼女は、少し恥ずかしそうに言った。


「“誤る”という言葉を消しました。代わりに、“回り道”にしました。回り道は、失敗ではない。旅の選択です」

「その修正、好き」

 加奈が素直に言う。

 美月も頷いた。

「言葉一つで責められてる感じが減ります。観光向けには大事」


 勇輝はBを受け取り、最後のページを確認した。そこにはちゃんと、A地図へのQRが載っていた。さらに、各ルートの終わりにも“小さな現在地”が添えられている。


『いま、あなたは温泉通り入口にいます(案内所の赤丸)

 次の一歩:温泉橋へは青線、徒歩4分』


 文字の温度は残っている。でも、座標がある。道が戻っている。


「これなら“読み物”として成立する」

 勇輝が言うと、カイラは小さく息を吐いた。

「海で学んだことを、陸に持ち込む時は翻訳が要る。今日、それを学びました」


 その言葉に、案内所スタッフが思わず笑った。笑いが出るのは、余裕が戻った証拠だ。


◆午後・温泉通り 小さな実験と、迷いの解消


 差し替えが終わった頃、勇輝は一つだけ確認をした。地図は紙として整っても、「実際に迷わないか」は歩いてみないと分からない。机の上で完璧でも、石畳の上で迷うことはある。


 勇輝は加奈と美月と一緒に、A地図のルートを短く歩いた。観光客の目線に合わせて。


 案内所から温泉橋へ。

 角を曲がるところに、確かに紛らわしい分岐がある。右に見える提灯が似ている。左にも似た店の看板がある。ここで迷う人が出やすい。


「注意書き、ここに入れよう」

 勇輝が言う。

「“提灯が二つ並ぶところで右”みたいな、目印を一つ固定」

 美月が頷く。

「写真アイコン入れられます。小さい写真なら容量も大丈夫。見た瞬間に分かる」

 加奈が、現場の匂いを嗅ぐように言った。

「この店の前、いつも湯気が濃いよ。湯気が目印になる。『湯気が濃い角を右』って、ちょっと面白いけど実用になるかも」

「湯気は日によって変わるけど、確かに“この角”は湯気が溜まりやすい」

 勇輝は頷いた。

「目印は、変わらないものと、だいたいあるものを組み合わせる。固定の目印はドラゴン像みたいなやつ。変動する目印は補助にする」


 温泉橋の上から見る湯けむりは、確かに綺麗だった。

 観光客が写真を撮っている。

 でも今日は、立ち止まる場所が自然にできている。A地図に「撮影おすすめ帯」が小さく示され、そこだけ滑り止めが厚めに撒かれている。以前の冬の経験が、ここで効いている。観光と安全は、相性が悪いわけじゃない。順番さえ守れば、むしろ助け合える。


 市場へ向かう道も確認する。

 ドラゴン像は目立つ。子どもが見てすぐ分かる。迷子の時の集合点にも使える。

「集合点、地図に入れよう」

 勇輝が言うと、美月が即座にメモする。

「“迷ったらここへ”を二つ。案内所とドラゴン像前。観光客は案内所まで戻るのが面倒なことがあるから、途中に一つあると助かる」


 その場で、観光課職員にも共有した。

「地図に集合点があると、案内も揃います。スタッフも言いやすい」

 職員が頷く。

「次の改訂で入れます。今日のAは暫定なので、まずは回す。次回の版で強化します」


 暫定でも、回ることが大事。完璧を目指して止まると、本末転倒だ。

 その判断ができるようになっているのが、ひまわり市の強みだと勇輝は思う。転移してから、現場に鍛えられた。


◆夕方・観光案内所 収束の手触り


 夕方、案内所の前の空気は朝とは別物になっていた。

 人が流れる。立ち止まる人は、ベンチ横へ誘導される。

 質問は短くなり、答えも短い。短いほど、安心が広がる。


「すみません、市役所ってどっちですか」

「この青線です。徒歩六分くらい。坂が緩い方なら、こっちの道」


「異界の屋台が見たいんですけど」

「市場の横にあります。ドラゴン像を目印に、まっすぐ」


 その合間に、Bの物語地図を手に取る人もいる。

 でも、座って読む。笑って読む。道の真ん中で迷いながら読む人はいない。用途が分かれているからだ。


 案内所スタッフが、そっと勇輝に言った。

「主任……助かりました。朝は本当に、どうしていいか分からなくて」

「分からないのが普通です。紙が紙じゃなかったから。戻せたなら、現場は回ります」


 美月がタブレットを見て、報告する。

「問い合わせの投稿、変わりました。『通常地図分かりやすい』が増えて、P5は消えました」

 加奈が笑う。

「P5、短い命だったね」

「短い方がいい」勇輝も頷く。「ページ番号で迷うのは、地図の負け方だから」


 カイラが近づいてきて、静かに頭を下げた。

「今日、私は人を迷わせました。海のやり方が、そのまま陸に通じると思ってしまった」

「迷わせたのは“意図”じゃなく“形式”です」

 勇輝ははっきり言った。

「意図は良かった。だから残せる。形式を戻したから、意図も生きる」


 カイラは少しだけ笑った。

「物語は灯り。地図は羅針盤。両方があれば、旅は怖くない」

「その分け方、今日の合格」


 美月が横で、現実的に釘を刺す。

「ただし、次に作る時は“現在地”を最初に入れてください。いきなりプロローグは危険です」

 カイラは真面目に頷いた。

「承知しました。海でも、船が出る前に座標を言います。陸でも同じですね」


 加奈が、ふと思いついたように言った。

「物語地図、子ども向けに“迷子にならないルール”を入れたらどうかな。最初のページに『迷ったら案内所へ』『大人と一緒に』って、短く」

 カイラが目を丸くする。

「物語の最初に、救命の一行」

「うん。最初にあると安心」

 加奈が頷くと、カイラは水晶板に小さくメモを取った。

「それは良い。灯りの前に、手すりを置く」


 勇輝は、その言い方が嫌いじゃなかった。手すりは派手じゃない。でも、あれば転びにくい。そういうものを増やしてきた町だ。


◆午後・ひまわり市役所 観光課・印刷室前


 案内所だけを整えても、町は落ち着かない。地図はラックだけに置かれているわけじゃないからだ。駅前のパンフ台、旅館のロビー、温泉街の足湯の横、バス車内のポケット、イベント会場の受付。配布の場所が広いほど、回収の手も広い。


 勇輝は案内所で差し替えが回り始めたのを確認してから、市役所へ一度戻った。観光課の小さな作業室には、印刷した紙の束と、回収用の箱と、差し替えのチェックリストが並んでいる。現場の空気は「怒っている」ではなく「追いつきたい」だった。


 観光課の係長が、ホワイトボードではなく、壁に貼った大きな紙に線を引いていた。地図を配っている場所の一覧だ。


・ひまわり駅前 パンフレット台(観光案内窓口)

・温泉街旅館協会 加盟施設ロビー

・商店街組合 配布ラック(各店)

・巡回バス車内 案内ポケット

・市役所ロビー 資料コーナー

・喫茶・飲食店 設置協力店


「主任、どこまで出回ったか、正確には分からなくて……」

 係長が申し訳なさそうに言う。

 勇輝は首を横に振った。

「分からないのが普通です。配布は“自然に増える”から。だから、分からなくても回収できる仕組みにする」


 美月が端末を操作し、差し替えのメッセージを短く整えた。電話もメールも、同じ文で流す。言葉が揃うと、混乱が減る。


《観光地図差し替えのお願い》

本日配布の一部地図に、道案内として分かりにくい点がありました。

通常の観光地図(現在地・距離つき)へ差し替えをお願いします。

選択式の物語地図はイベント用の読み物として準備中です(道案内は通常地図をご利用ください)。

ご不明点は観光課まで。


 加奈が横から、言葉の角を少し落とす。

「“分かりにくい点”って言葉、いいね。責めてない。受け取った側も動きやすい」

「動きやすさが目的」勇輝がうなずく。「動きにくい言葉は、正しいことでも現場を止める」


 係長が、さらに現実を出した。

「印刷、今日だけで相当な枚数が要ります。紙代も……」

「紙代は重いけど、迷子が出るよりは安い」

 勇輝は淡々と言った。淡々と言えるのは、もう何度も比べてきたからだ。

「ただし、無駄にしない。回収した物語地図は“B”として生かす。廃棄じゃなくて用途替え。今日はそれで帳尻を合わせる」


 美月が顔を上げる。

「回収したBに、“読み物・イベント用”のスタンプ押せばいい。道案内として使われないように。スタンプなら一瞬で処理できます」

「いい。誰が見ても分かる印にする」

 勇輝が頷くと、係長がすぐに印鑑箱を探し始めた。役所の強みは、こういう時に「押す文化」があることだ。手書き説明より速い。


 そこへ、市長が顔を出した。今日は出先から戻ったところらしく、コートの肩に少しだけ風の匂いが残っている。


「お、地図の件か。面白いことになってると聞いた」

「面白いで終わらせないようにしてます」

 勇輝が言うと、市長は頷いた。

「迷うと怒る。怒ると帰る。帰ると評判が落ちる。つまり、今のは“交通”だな」

 美月が小声で言う。

「市長、今日はちゃんと現実で来た」

 加奈が笑う。

「珍しい言い方」


 市長は、机の上のA地図を手に取った。

「ほう。現在地が赤丸で、距離が分数で、目印が固定……良い。こういうのが観光の土台だ」

「土台があるから、上で遊べる」勇輝が返す。

「遊びは否定してません。順番だけです」

 市長は面白そうに口角を上げかけて、加奈の視線に気づき、すぐ真面目な顔に戻した。

「分かってる。今日は順番の話だな。よし。旅館協会と駅には、私からも一言入れる。動いてもらいやすい」


 市長が動くと、現場の動きが一段速くなる。権限というより、安心がつくからだ。

 係長が頭を下げた。

「助かります。電話がつながるだけで違うので」

「つながらないのが一番、不安を増やすからな」

 市長が言うと、勇輝は小さく頷いた。今日の市長は余計な提案を挟まない。珍しいけれど、ありがたい。


◆午後・ひまわり駅前 パンフレット台


 駅前は人の入れ替わりが早い。地図の影響が最も広がりやすく、混乱も最も増えやすい場所だ。

 改札を出たところにあるパンフレット台には、さっきまで物語地図が山になっていた。タイトルが目立つから、手に取られやすい。


 駅員が困った顔で、台の前に立っていた。

「これ、地図なんですよね? でも質問が『P7はどこですか』で……」

「地図としては厳しいです。差し替えます」

 勇輝が言い、観光課の職員がA地図に入れ替える。回収したBには、赤いスタンプ。


《読み物(イベント用)/道案内は通常地図へ》


 スタンプが入ると、紙の立場が変わる。

 読む人は読む。けれど、道を聞く人はAへ行く。役割が分かれると、駅前の会話が整う。


 そこへ、背中にリュックを背負った家族連れが来た。小学生くらいの子が、Bを手に取って目を輝かせる。


「わ、これゲームみたい! やりたい!」

 母親がA地図を見て、ほっとした声を出す。

「ありがとう、普通の地図もある。まずこっちで場所確認しようね」

 子どもが少し不満そうにしたが、A地図のドラゴン像のアイコンに気づいて、顔が変わる。

「ドラゴンいる! 見に行く!」

「それ、目印です」

 美月が笑いながら言う。

「写真スポットでもありますけど、道路の真ん中で止まらないでくださいね」


 冗談みたいな注意だが、今日は真面目に効く。地図の目的は、迷わせないことだけじゃない。止まらせないことでもある。


 駅員が小さく息を吐いた。

「助かりました。駅前って、わずかなズレが一気に増えるんで」

「増える場所は、整える場所です」

 勇輝が言うと、駅員は頷いた。言葉が短く通じる。現場が噛み合っている。


◆夕方・観光案内所 小さな反省会


 日が傾く頃、案内所のバックヤードで短い反省会が開かれた。長くしない。現場は疲れている。要点だけを共有する。


 勇輝は、紙一枚にまとめた。


・混乱の原因:位置情報不足/ページ分岐が場所と誤認/否定語(誤る)が不安を増やす

・即時対策:配布停止・差し替え・用途札・座って読む場所

・次版改善:現在地・距離・集合点・迷いやすい分岐の写真アイコン

・Bの運用:イベント枠・QRでAへ戻る・子ども向け安全一行


 スタッフが頷き、メモを取る。

 カイラもそこに座り、真剣に聞いていた。彼女は最後に、短く言った。


「私は“選ぶ楽しさ”だけを信じました。だが、選ぶためには土台が要る。今日、土台を学びました」

 観光課職員が、少しだけ微笑む。

「土台があると、企画も通りやすいです。議会にも説明しやすい」

 勇輝が頷いた。

「説明しやすいは、強い」


 加奈が、机の上のBを一枚、丁寧に揃えた。

「これ、読み物としては本当に面白い。だから残したい。残すなら、守れる形で残そう」

 美月も頷く。

「残すなら、運用をセットで。運用がないと、また混ざります」


 それを聞いて、案内所スタッフの一人が笑った。

「混ざると事故る。今日の合言葉、うちでも使います」

 勇輝は少しだけ肩の力を抜いた。

「使ってください。現場が使いやすい言葉は、現場が作るのが一番です」


◆夜・喫茶ひまわり 小さな棚と、置き場所の約束


 日が落ちて、喫茶ひまわりの店内に灯りが柔らかく広がる頃、加奈は店頭に小さな棚を置いた。上段にAの通常地図。下段にBの物語地図。間に札がある。


【まず地図】迷わない地図(A)

【読み物】選択式物語(B)※座ってお楽しみください


 札の横に、小さな椅子を一脚。読む人は座れる。通りの邪魔にならない。

 今日の朝に起きたことを、店の空気へ戻すための小さな工夫だ。


 勇輝と美月が、閉店前に顔を出した。仕事帰りの顔だ。

 美月は端末を閉じながら言う。


「主任、今日のまとめ。

 配布差し替え完了。回収率も高い。案内所の混乱は収束。SNSも落ち着き。Bはイベント枠へ移行。次版の改善点、メモ済み」

「助かった」


 勇輝が言うと、美月は少しだけ肩を落とした。

「ねえ主任、今日みたいな“面白いけど危ない”案件、増えてません?」

「増えてる。文化が増えてるから」

「増えるのは良いんですけどね。対策も増える」


 加奈が笑って、三人分の温かい飲み物を置いた。

「対策って言うと大変だけど、置き場所を見つける仕事だって思うと、ちょっとだけ楽しいよ。今日も、面白いのを捨ててないし」

 勇輝は頷いた。

「捨てない。混ぜない。これが最近の合言葉になってきたな」

 美月が苦笑する。

「合言葉が増えると、現場が楽になります。覚えやすいから」


 カイラは夕方のうちに、案内所へ戻ったらしい。

 けれど彼女が置いていったBの最終ページに、こっそり一行だけ追加があった。加奈が見つけて、笑ってしまったやつだ。


『迷わぬ旅は、選べる旅。

 選べる旅は、まず道がある』


「この一行、好き」

 加奈が言うと、美月も頷いた。

「好きだけど、本文Aには入れません。Bだけにしてください」

「分かってる」加奈は笑う。「混ぜない、だもんね」


 店の外では、温泉通りの湯けむりが夜の光を受けて淡く揺れている。

 旅は気持ちでできている。けれど、旅の足元は石畳だ。

 足元が見えると、人は安心して空を見る。

 その順番を、今日も守れた。


 勇輝はカップを持ち上げながら、ぽつりと言った。

「航路係が作った地図、最初はびっくりしたけど……あの“旅を届けたい”って気持ちは、悪くなかったな」

 加奈が頷く。

「悪くない。だから置き場所を変えた。置き場所が合うと、優しいものになる」

 美月が小さく笑った。

「置き場所、今日だけで何回言ったんだろう。もう私たち、置き場所の町の人ですね」


 勇輝は返す。

「ひまわり市は、置き場所で事故を減らす。地図も、物語も、同じ。人が安心して歩けるなら、それでいい」


 夜の喫茶ひまわりは静かだ。

 静かだから、紙の音もよく聞こえる。

 誰かがA地図を一枚取り、すぐポケットに入れる。

 別の誰かがBを手に取り、椅子に座ってページをめくる。

 同じ棚の中で、役割が分かれて共存している。


 それが今日の正解だった。

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