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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第10話「異界祭と消えた温泉」

◆早朝 ひまわり温泉郷


 朝五時。山あいの温泉街は、いつもなら霧と湯気が同じ白さで溶け合い、遠目には町全体がふんわり浮いて見える。早起きの常連が木戸をきゅっと鳴らし、旅館の女将が「おはようさん」と返す。そんな静かなやり取りが、この町の朝の合図だった。


 ところが、その合図が鳴らない。


 湯気がない。匂いがない。あたたかい空気のふくらみが、まるごと抜け落ちている。

 風は冷たく、石畳の上をすべっていく。暖簾は揺れているのに、いつもの湿り気がついてこない。


 老舗旅館「花まるの湯」では、女将がまだ薄暗い浴場へ入り、灯りを点けると同時に、湯船へ手を差し入れた。

 ぬるい、のさらに下。人肌にも届かない水が、ぽつんと底に溜まっている。


「……湯が、出とらん」


 短いひと言が、浴場に落ちた。

 言葉が落ちた場所から、じわじわと恐さが広がっていく。温泉街で「湯」が止まるということは、火が消えるのと同じだ。あたたかさだけじゃない。生活も、商売も、気持ちのよりどころも、全部に関わる。


 女将は手を引っ込めて、手のひらを見つめた。水滴が、いつもより透明に冷たく光る。


 そして、電話を取った。


◆午前八時 ひまわり市役所 異世界経済部


 開庁前の廊下は、コピー機の起動音と、誰かが持ち込んだパンの匂いで満ちている。異世界対応が始まってから、ここはいつも「臨時」と「日常」の境目みたいな場所になった。大きな出来事があっても、書類の角はきちんと揃えられ、付箋は丁寧に貼られる。


 だけど、この朝は、揃える余裕が追いついていなかった。


 ドアが開いて、市長が入ってくる。息を切らすような走り方ではないのに、目だけが早かった。いつもなら、先に冗談で空気をほどく人が、先に結論を投げてきた。


「みんな、今すぐ耳を貸してくれ。温泉が止まった」


 勇輝は、手元のマグカップを持ち上げたまま止まった。美月のペン先も、ノートの上で固まる。加奈は朝の予定表を閉じる音を、必要以上に静かにした。


「止まったって……電気系ですか。ボイラーが落ちたとか、配管のバルブが閉まったとか」

 勇輝が確認すると、市長は首を横に振る。


「源泉そのものだ。花まるの湯だけじゃない。温泉街の複数の旅館から同じ連絡が来ている」


 美月がタブレットを抱え直し、画面をぱっと上に向けた。すでに観光協会からの連絡ログが並んでいる。そこに、追加の通知がふたつ、みっつと重なる。


「キャンセル、増え始めてます。……もう百八十件。今日は午前中だけで、まだ伸びます」

 言い方は淡々としているのに、指が少しだけ震えていた。


 加奈が、息を整えるようにして、机の端に置いてあった「異界祭」パンフの束を指で押さえた。


「異界祭まで、あと三日。温泉が止まると、宿も露店も、全部連鎖します。お風呂目当ての人が一番多いから」


 勇輝は、頭の中で「祭りの工程表」を一気に並べた。露店の衛生許可、消防の導線、交通規制、臨時ゴミ集積、異界通貨の換算端末の設置、そして……温泉卵の大量仕込み。


「卵どころか、洗い場の給湯も止まる。食堂の仕込みも止まる。旅館は布団が干せない。冷えた浴場は事故も起きやすい」

 言いながら、ひとつずつ「現場の困り」を頭の中で拾っていく。行政は、こういう時に強い。強いというより、止まらない。


 そこへ、会議室の角で静かに資料を綴じていたリエン監査官が、顔を上げた。

 転移管理省の黒いローブ風スーツ。背筋がまっすぐで、声はいつも淡い温度なのに、目の焦点だけは現場の速さに合わせてくる。


「本件は、観光資源の枯渇ではなく、生活インフラの停止として扱うべきです。優先順位を切り替えましょう」

 リエンがそう言うと、市長は一度だけ頷いて、勇輝を見る。


「主任。現地へ行けるか」


「行きます。……でも、行く前に三つだけ」

 勇輝は机上のメモに赤線を引いた。


「第一に、温泉街へ『現時点の状況とお願い』を出します。勝手な憶測が先に走ると混乱します」

「第二に、保健所と消防へ連絡。冷えた浴場での転倒、配管の凍結、温度差事故。先に注意喚起します」

「第三に、祭り実行委員会へ。代替案を用意しながら進めます。最悪の場合、温泉に依存しない導線に切り替える」


 市長は、笑いはしなかった。だけど、その目に「頼む」が見えた。


「よし。美月、広報。加奈、温泉街の調整。勇輝、現地の原因特定。リエンさん、もし可能なら魔力側の計測を」

「承知しました」


 美月がタブレットを叩き、加奈が電話帳を開く。勇輝はカバンを持ち上げた瞬間、ふと立ち止まった。


「市長、ひとつだけ。……異界祭のポスター、もう王国にも魔王領にも配ってますよね」


「配った。たっぷりとな」

 市長がきっぱり言う。


 勇輝は静かに頷いた。逃げ道がない方が、現場は前に進む。そういう種類の覚悟が、今のひまわり市にはすでに根を張っている。


◆午前九時半 温泉街 現地連絡と応急対応


 温泉街へ着くと、普段の朝とは違う匂いがした。湯の匂いではなく、人の不安の匂いだ。

 旅館の玄関に立つ女将や番頭たちが、道を行く観光客を引き止めて説明している。説明している、というより、謝っている。


「すみません、今朝からちょっと調子が……」

「いつ復旧しますかねえ……」


 加奈は、慣れた手つきで頭を下げながら、言葉の順番を間違えないように気を配った。


「状況は確認中です。いま市役所が源泉地へ向かっています。決まり次第、旅館組合と観光協会に一番先に共有します」

「加奈ちゃん、頼むよ。うちは湯が命だからね」

「分かってます。だから、今だけは浴場を閉める判断をしてください。半端にぬるいと、かえって危ないです」


 勇輝は横で、旅館組合の会長に「冷えた浴場の事故リスク」の説明をしながら、応急の貼り紙の文面まで頭の中で組み立てていた。

 見に来た観光客に、謝りながらも不安だけを残さない。それは、言葉の作り方ひとつで変わる。


 その間にも、美月からのメッセージが次々に届く。


『SNSで「温泉枯れた」って投稿が出てます。今のうちに公式が出したほうがいい』

『観光協会のサイト、アクセス増。サーバ落ちそう』

『王国語と魔王領語の短文版も作ってほしい』


 勇輝は足を止めずに返信した。


『公式は「原因調査中」「安全のため浴場停止のお願い」「問い合わせ窓口」だけ先に。復旧見込みは書かない。書けないから』

『短文は「温泉は一時停止」「危険だから入らない」「案内は市役所へ」で統一』


 リエンは、温泉街の空気の違いを一瞬だけ見回したあと、淡々とメモを取る。


「住民への周知、来訪者への注意喚起、事業者への休業判断の支援。……この手順が自然に出るのは、自治の経験値ですね」

「経験値って言い方、ゲームみたいですけど」

 勇輝は苦笑してから、視線を山の方へ向けた。

「でも、今はその経験値に助けられてます」


◆午前十時半 源泉地区 裏山の調査


 源泉地へ向かう道は、いつもより静かだった。鳥の声はあるのに、湿った熱気がない。森の匂いがすっきりしすぎていて、逆に落ち着かない。

 地面の苔が乾きかけている。温泉街の「ぬくもり」が山から届かなくなっているのが、足の裏から分かった。


 源泉小屋の前で、勇輝は一度だけ深呼吸した。

 ここに来ると、いつも「町の心臓」を見に来た気分になる。止まっていればなおさらだ。


 リエンが魔導端末を開き、淡い光の板を地面にかざす。光が波紋のように広がり、数値に似た紋様が浮かび上がった。


「地脈魔力の流れが、通常の方向と逆です。熱源が枯れたのではなく……熱が別の場所へ吸われています」

「吸われてる?」

 美月が首を傾げる。

「盗まれてる、みたいな?」


「盗むというより、奪われるというより……引っ張られている。ここが弱点になっている」

 リエンは、言葉を選びながら続けた。

「原因は、地下の構造ではなく、地表側にある可能性が高い」


 勇輝が足元の地面へ視線を落とした時だった。


 ごご……と、土が鳴った。

 揺れというより、地面が「息をした」ような、ゆっくりした動き。木の葉がひとつ、はらりと落ちる。


 土の裂け目から、青い鱗が見えた。

 次に、もっと大きな鱗が現れ、背中のラインが山肌に沿うように盛り上がっていく。


「……え」

 美月の声が、かすれた。


 それは、背中だった。巨大な生き物の背中。山の一部に見えていた起伏が、動く。


「……ドラゴンが、源泉の真上で寝てる」


 加奈が、口元を押さえて小さく言う。

「寝てる、というより……巣にしてる感じ」


 巨大な鼻息が、森に白い霧を吐いた。

 その霧は、湯気の白さではない。冷たい、薄い霜のような白さだった。


 リエンが端末を見て、眉をわずかに動かす。


「熱が……吸われているどころか、冷却されています。周辺の温度が異常に下がっている」


 次の瞬間。

 ドラゴンが、ゆっくりと目を開けた。琥珀色の瞳が、こちらを捉える。森の空気がぴんと張り、誰もが足を動かせなくなる。


「……誰だ。我の眠りを乱すのは」


 低い声が、胸の奥に直接響く。

 市長は、喉が鳴るのをこらえながら、いつものように一歩前へ出た。怖いのに前へ出る。その癖が、ひまわり市の行政トップの癖だ。


「失礼します。ひまわり市役所です。……ええと、名刺を」

 市長は名刺を差し出したが、ドラゴンの指先は名刺より大きい。名刺が、落ち葉みたいに小さく見える。


 ドラゴンは名刺を取らずに、鼻先を少し近づけた。


「……人の匂い。温い匂い。だが、ここは我の寝床だ」


 勇輝は、心の中で「概念が違う」を静かに唱えた。交渉は、数字以前に、前提から違う。


「寝床なのは分かります。ただ、町の温泉が止まってしまって……。源泉の熱が、ここまで届かない状態になっています」

 勇輝は、言葉を選んだ。責めない。押し付けない。だけど、困っている事実は置く。


「止まった? 温い湯が?」

 ドラゴンは、少しだけ首を傾けた。

「……我も、温さを失っている。最近、眠っても背が冷える。地が冷える。だから、さらに深く潜った」


 美月が小声で呟く。

「ドラゴンさん、寒がりになってる……?」


 加奈が、思い出したように言った。

「温泉って、熱だけじゃなくて湿りもあります。乾いた冷えって、体に残るんですよね」


 その時、リリアが前へ出た。今日の彼女は、真紅のドレスではなく、動きやすい上着とスカート。町内会で覚えた軍手までしている。魔王の妹という肩書きより、今は「この町の手伝いをする人」の顔だった。


「ちょっと、近くで見てもいい?」

 リリアはドラゴンの返事を待たず、けれど礼を失わない距離で、地面に測定器を置いた。温度計の針が、常識と違う動きをする。


「……やっぱりね。冷えてる。ドラゴンの体温が落ちてるんだわ」

「ドラゴンの体温が?」

 勇輝が聞き返すと、リリアは頷いた。


「竜族は、地脈の熱と呼吸を合わせて体温を保つ。だけど今、ここの地脈は逆流してる。熱が回らない。だから竜は冷える。冷えるから、さらに地面へ潜って熱を探す。結果、源泉の熱が通らなくなる」

「……悪循環だ」

 勇輝が呟くと、リリアは口元を少しだけ上げた。


「そう。悪いのは誰でもない。状況が悪い。だから、直すなら状況を直す」


 リエンが端末を閉じ、淡い声で続ける。

「つまり、移動させるのではなく、温度のバランスを戻す必要がある。行政的には、熱供給の再配分」


「行政的に言うと、急にそれっぽくなるの、ずるいですね」

 美月が言うと、勇輝は苦笑した。

「それっぽく言うのは得意なんだよ。中身を作るのが大変で」


 市長は、ドラゴンを見上げて、真面目に頭を下げた。


「お願いがあります。あなたが冷えるのをなんとかしたい。そうすれば、温泉も戻る。町も助かる。……一緒に、方法を考えさせてください」


 ドラゴンは、しばらく黙っていた。

 黙りは拒絶にも見えるし、考えているようにも見える。巨体の沈黙は、それだけで圧になる。


 やがて、ドラゴンは低く言った。


「……よい。だが、我の温さを奪う策なら許さぬ」


「奪いません。温めます。温かさを、分け合います」

 加奈が、自然に言葉を継いだ。商売人の家の人間の言い方だった。怖い相手でも、話の入口を作る。


 ドラゴンの瞳が、少しだけ細くなる。

「分け合う……それは、巣の仲間の言葉だ」


 勇輝は、その一言を聞いた瞬間に「交渉の糸口」を掴んだ気がした。

 この竜は、敵ではない。寝床を守りたいだけだ。なら、寝床の条件を整えればいい。


◆正午 市役所 緊急対策会議


 市役所へ戻る車の中で、勇輝はずっとメモを取っていた。思いつきを書き捨てるのではなく、実行できる順番に並べ替える。行政の癖だ。


 会議室に集まったのは、異世界経済部だけじゃない。観光協会、温泉組合、消防団の代表、設備業者、そして商店街の顔役。町の危機に対して、この町は迷わず「集まる」。

 集まるのは、文句を言うためじゃない。仕事を分けるためだ。


 ホワイトボードには、美月が太字で書いた見出しが並ぶ。


【温泉停止 原因:源泉地上部の竜族寝床化+地脈逆流+冷却】

【目標:三日以内に最低限の湯量復旧】

【前提:竜族を排除しない】

【安全:事故防止/衛生確保/情報発信】


 勇輝は説明を一通り終えると、最後に言った。


「移動させる案は、危険もコストも時間も大きい。だから、温める。竜族の体温を戻して、地脈の流れを正常に戻す。これは魔法の話でもありますが、同時に設備の話です」


 設備業者が恐る恐る手を挙げた。

「ええと……温めるって、どれくらいの熱量を……」


 リエンが淡々と数値を出す。

「概算で、浴場の大型ボイラー複数台分。ただし、局所に集中させれば効率は上がります。熱が逃げる前に、背中へ当てる」


 消防団の代表が頷いた。

「背中に当てるなら、火事の心配もある。燃える素材は避けよう。電気は……異界側の魔力供給が安定しているなら、魔導炉と組み合わせがいい」


 商店街の人が身を乗り出す。

「魔導炉の部材なら、うちの金物屋の倉庫に……いや、でも規格が」

「規格は合わせます」

 勇輝が即答した。

「合わせないと祭りが困る。ここは合わせる方向で動きます」


 加奈が、旅館側の事情を補足する。

「温泉街は、いま『お湯が出ません』だけが先に走ってます。復旧の見込みを聞かれるけど、適当なことは言えません。だから、言えることを増やしたい。『原因はここ』『対策はこれ』『今夜これをやる』って」


 美月がうなずいた。

「工程を出せば、不安がちょっと落ち着きます。ライブ配信は……やめておきます。余計な誤解が出るので」

「判断が早い」

 勇輝が言うと、美月は苦笑した。

「最近、早くならないと追いつかないんで」


 市長は、机の端を軽く叩いて、全員の視線を集めた。


「今夜、やろう。町の総力で、竜を温めて温泉を戻す。祭りは、止めない。止めないために、止まっているものを直す」


 誰かが「はい」と言ったわけじゃない。

 でも、全員の呼吸が同じになった。動くと決まった時の空気だ。


◆夕方 源泉地区 作戦準備


 夕方、裏山へ向かう道に、軽トラと軽バンが連なった。荷台には、断熱材、金属フレーム、温度センサー、そして「魔導温熱装置」と書かれた仮設の札。

 札を付けたのは、勇輝だ。こういう時、札は笑いを生む。笑いは手を動かす。


 ドラゴンは、昼より少しだけ目を細めて、こちらを見ていた。

 警戒していないとは言えない。でも、逃げる気もない。


 リリアが一歩前へ出て、竜へ声をかける。

「あなたの背中に、温かい板を置く。じんわり温める。熱いのは嫌でしょ」

「熱すぎるのは嫌だ」

 ドラゴンが正直に言った。

「昔、溶岩に落ちた。あれは嫌だ」


 美月が小声で言う。

「そんなトラウマ、あるんだ……」

「誰だってある」

 加奈が、当たり前みたいに言った。


 勇輝は作業班の配置を確認しながら、リエンに目を向ける。

「監査官、危険判定、お願いできますか」

「できます」

 リエンは短く返し、端末を構えた。

「危険をゼロにすることはできない。ですが、危険を見える形にすることはできます」


 消防団が導線を作り、若手が工具を渡し、設備業者がセンサーを取り付ける。異界側からは、エルフが風で煙を散らし、ドワーフが金属の歪みを一瞬で見抜いて補強していく。

 ひまわり市の現場は、いつの間にか多国籍になっていた。いや、多種族と言うべきか。


 市長は、竜の横で「お願い」と「説明」を丁寧に繰り返した。

 交渉は、一回で決まらない。繰り返すことで安心が積もる。


「これは仮設です。今夜だけじゃない。あなたが冷えないよう、しばらく調整します。代わりに、源泉の熱が町へ届くようにしてほしい」

「……町へ」

 ドラゴンは、少し考えるように言った。

「湯が流れれば、人が喜ぶのか」

「喜びます」

 加奈が即答した。

「喜ぶと、笑います。笑うと、また来ます。あなたが嫌じゃなければ、あなたのことも『すごいね』って言います」


 ドラゴンの目が、ほんの少し柔らかくなる。

「……褒められるのは、嫌いではない」


 美月が、背中側で小さくガッツポーズをした。交渉が「いける」空気になった時の、あの動きだ。


◆夜 源泉地区 温熱装置稼働


 日が落ち、森が暗くなると、作業の音がいっそう響いた。金属の鳴る音、ボルトが締まる音、センサーが反応する電子音。

 そして、点火の合図。


「魔導炉、起動。出力は段階的に上げます」

 設備業者が言い、リエンが数値を見て頷く。

「温度上昇、安定。安全域。……続けて」


 温熱装置が、竜の背へじんわりと熱を渡す。

 熱が伝わると、竜は大きく息を吐いた。吐息が冷たい霧から、少しずつ湿った白へ変わっていく。


「……あたたかい」

 竜の声が、森の奥へ広がった。

「背が、戻る」


 その瞬間だった。


 地面の下から、ぽこぽこと小さな音が上がってきた。

 湧き上がる時の、あの音だ。水が押し出され、熱が追いつき、湯が息を吹き返す時の音。


 源泉小屋の脇で、細い蒸気が立ち上がった。

 次に、もう一本。さらに一本。

 湯気が、白い線になって夜の闇へ伸びる。


「出た……!」

 誰かが、思わず声を漏らした。


 勇輝は、その声に便乗せず、まず温度計を見た。熱い。だけど熱すぎない。湯として成立する温度。センサーが緑に揃っていく。


「温泉街へ流れるライン、再開できます。まずは湯量を絞って、温度を安定させてから」

 勇輝が言うと、加奈がすぐ電話を取り、旅館組合へ連絡を入れた。


「出ました。少しずつですけど、戻ってきます。今夜は安全確認が終わるまで、開けないでください。朝までに、順番に案内します」

 加奈の声が、先ほどより明るい。明るいのに、浮かれていない。こういう声が出せる人がいる町は、強い。


 竜は、背中の温かさに身を任せるように、ゆっくり目を閉じた。

 その時、低い声が落ちてくる。


「この地を……我の寝床として、永く」

 言いかけたところで、市長がすぐに手を上げた。慌てているのに、言い方は丁寧だ。


「寝床にするのは、相談させてください。町としても守るべき場所があって……。代わりに、あなたが冷えない場所を、別に整えます。どうでしょう」

「別に?」

「はい。あなたが安心して眠れる場所を。ここは源泉のすぐ上なので、町へ影響が出ます。影響が出ると、町の人が困ります。困ると、あなたも落ち着かないはずです」


 竜はしばらく黙り、やがて、低く「分かった」と言った。


「……ならば、眠りの条件を定めよう。巣には掟がある」

「掟、いいですね」

 勇輝が頷いた。

「うちにもルールがあります。文書にしましょう。覚書。明日、ちゃんと作ります」


 美月が小声で言う。

「行政、こういう時だけ強い……」

「こういう時ほど強くないと困るからね」

 加奈が返し、リリアが小さく笑った。

「うん。強いのは、魔法じゃないのね」


◆翌日 異界祭当日 ひまわり温泉郷


 異界祭の朝、温泉街はいつもの白に戻っていた。

 湯気が立ち、匂いが戻り、路地の角が少しだけ柔らかく見える。

 旅館の玄関では女将が「よかった、よかった」と何度も言い、番頭がタオルの山を抱えて走っている。


 祭り会場は、朝から人で埋まっていた。

 王国の客が花畑を写真に収め、魔王領の客が屋台の列で腕を組んで待つ。エルフが看板の文字を整え、ドワーフが屋台の火加減を見ている。ひまわり市の人たちは、その間を縫うように歩きながら、いつも通りに声をかける。


「いらっしゃいませ。足元、滑りやすいので気をつけてくださいね」

「チケットの通貨換算はこちらで。分からなければ聞いてください」

「温泉卵は熱いです。袋、二重にしますね」


 名物の「ドラゴン温泉卵」は、朝から伝説みたいに売れていた。

 昨日の騒動を知らない人は、ただの名物だと思って買う。知っている人は、少しだけ笑って買う。どちらにしても、卵はちゃんと美味しい。


 勇輝は、保健所の担当と並んで温度管理表を確認しながら、小さく息を吐いた。


「温度、安定。衛生も問題なし。……助かった」

「助かったのは、現場が止まらなかったからです」

 保健所の担当が言う。

「止まらないで、ちゃんと『止める判断』もしてくれた。あれが一番大きい」


 そこへ、リエンがメモを手に現れた。相変わらず淡々としているが、視線は祭りを楽しむ人の顔へ向いている。


「異種災害対応の実地例として有効。温熱装置の設置手順、住民周知の文面、事業者への休業判断支援……記録しておきます」

「監査官、記録ばっかりですね」

 美月が言うと、リエンは少しだけ口元を緩めた。

「記録は、次の誰かを助けます。あなたたちも、いつも記録しているでしょう」

「確かに」

 美月は苦笑した。

「議事録、嫌いじゃないです。嫌いじゃないですけど、増えすぎると泣きそうになります」


 リリアが屋台の端で、温泉卵を持ってこちらへ来る。

「これ、すごい。昨日より美味しい気がする」

「昨日はバタバタして、味わう余裕がなかっただけです」

 加奈が笑うと、リリアは少し照れたように視線を逸らした。


 その時、遠くの裏山から、大きなくしゃみが聞こえた。

 竜がくしゃみをしたのだと、誰もがすぐ分かった。音の大きさが違う。


 次の瞬間、空へ向かって薄い湯気が上がり、その湯気が光を拾って、虹色の筋になった。

 湯気の虹。ありそうで、なかった。祭り会場の人たちが一斉に空を見上げ、歓声が起きる。


「きれい……!」

「写真、撮っていいですか!」

「これ、今日の目玉になるやつだ!」


 勇輝は、歓声の中で小さく呟いた。

「……観光資源、勝手に増えていくな」


 市長が隣で頷く。

「増えるなら、守る。守るなら、整える。整えるなら、予算を組む」

「最後だけ現実が強い」

 加奈が言うと、市長は肩をすくめて笑った。

「現実が強くないと、祭りは続かないからな」


 温泉街の湯気は、夕方まで途切れなかった。

 止まっていた時間の分だけ、町は丁寧に動いた。誰かが焦ると、誰かが落ち着かせる。誰かが言葉に詰まると、誰かが補う。そんな連携が、いつの間にかこの町の当たり前になっている。


◆夜 市役所 静かな終業後


 祭りの片付けが一段落し、市役所へ戻ると、廊下は昼の喧騒が嘘みたいに静かだった。

 勇輝は机に座り、今日の対応を報告書にまとめ始める。美月は広報用の写真を整理し、加奈は旅館組合へ最後の連絡を入れている。


 リエンは、提出用の記録を束ねながら言った。

「今回の件で、あなたたちは『共存』を、言葉ではなく手順に落とした。これは強い」


「強いっていうより、必死だっただけですよ」

 勇輝が答えると、リエンは首を横に振った。

「必死は、力です。必死を仕組みに変えられるのは、さらに力です」


 その言葉に、勇輝は少しだけ肩の力が抜けた。

 褒められると、疲れが遅れてくる。そういう日だ。


 机の端に、ひとつの封書が置かれているのに気づいたのは、その時だった。

 白でも黒でもない、淡い青。封蝋には、羽の紋章が押されている。


 美月が先に見つけて、小さく息を呑んだ。


「主任……これ、さっき届いたって。差出人、天空国アルセリアの……」


 勇輝は、封書の文字を読んだ。

 短い文面なのに、空の高さを感じる書き方だ。


『天空国アルセリア 外交使節 来訪の報

 転移技術に関する協議を求む』


 市長が、静かに言った。

「来るか。空の国」


 加奈は苦笑しながらも、きちんとペンを持ち直した。

「また資料が増えますね。今度は空の文化も調べないと」


 勇輝は封書を机に置き、窓の外を見た。

 温泉街の灯りが、遠くで揺れている。湯気は見えない距離でも、戻ったことは分かる。あたたかさが戻った町は、今日も眠る。


「よし。明日も、直す仕事だ」


 言い切る声は、疲れているのに、ちゃんと前を向いていた。

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