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第82話

ふわり、と空中を漂いながら、インナは城のある方向へ戻っていく。

重力の抵抗がない感覚。

足を運ばず、息も切れず、

ただ“行きたい”と思った方向へ進める。

(何回やっても、本当好き。 クセになるかも)

そう思った直後、自分の動きが、思ったほど自由ではないことにも気づく。

霊体にも、どうやら制約はあるらしい。

速度は、せいぜい早歩き程度。

一気に加速したり、急に方向を変えたりするのは、まだ難しい。

(ふーん……。 ま、元の生活に比べたら全然自由だし? アンデッドも悪くないよね)

本によれば、上級の霊体系アンデッドであれば、こういった能力も上がるという。

種類によっては短距離間で瞬間移動が出来たり、生者から不可視化できたりと様々。

しかしインナは、いわゆる初心者ゴースト。

足がないせいか、振り返るだけでも、一瞬、身体全体を回転させる必要がある。

(……ここはちょっと不便だなぁ)

それでも、この違和感には、少しずつ慣れてきていた。

もともと、チコの霊体だったからだろう。

視線の高さは低く、見下ろすというより、

街と同じ目線で漂っている感覚に近い。

(……ていうか私の体型って、

こんなに小さかったっけ)

自分の身体を持っていたころの感覚と、

今の感覚が、うまく噛み合わない。

名残惜しさを胸に抱えたまま、

インナは城の外壁へと辿り着いた。

高く積まれた石壁、昼間は近づくことすら許されない場所。

けれど今は、ただ自分はそこに浮かんでいる。

壁の表面に近づいた、そのとき。

――胸の奥が、ふっと、ざわめいた。

(……あれ?)

理由は分からない。

今さら、怖さや寒さなど感じないはずなのに、

それでも胸の奥で、“何か”が引っかかる。

(……変だ。

なんだろう、この胸騒ぎ……)

そのとき、ふと気づく。

(……あっ)

ガントが、いない。

この時間帯なら、昼食を終えた門番のガントが、

必ず外壁沿いを巡回しているはずだ。

だが、今はその姿が、どこにもない。

インナは、すうっと城壁をすり抜け、

城の内側――物置部屋――へと入った。

掃除具の並んだ空間。

そこからさらに奥の廊下へ。

その瞬間――自分のすぐ後ろ側から、

鈍く、重たい音が響いた。

ガシャン――と、陶器が砕ける音。

それは、落ちた音ではなく、すでに床に散っていた破片を、

誰かが踏み荒らした音だ。

切迫した足音が近づき、次の瞬間、執事が脇をすり抜けて駆けていく。

そして――

「――王女殿下ッ!!」

声が、廊下に叩きつけられる。

驚きではない。

取り返しのつかない光景を前にした者の、

反射的な叫びだった。

(……え?)

インナは、思わず動きを止める。

――いや、足はない。

それでも、思考が凍りついた…..次の瞬間。

怒号が重なり、鎧の擦れる音と足音が、

混乱の気配が、廊下を満たしていく。

――鐘が鳴る。

一度、二度。

規則も合図もない、荒い打ち鳴らし。

“すでに起きてしまった”非常事態を知らせる音だった。

城中は、もう統制を失っている。

あの厳格で、常に冷静だった父の声が、

今は怒鳴り声と命令の境目を失い、廊下に響いていた。

指示は出ているのに、声には苛立ちと焦りが滲んでいる。

侍女が、その場に崩れ落ちて泣き出す。

別の者が肩を掴んで立たせようとするが、力が入らない。

命令が飛び、それをかき消すように、別の命令が重なる。

「聖術師を呼べ……!」

「もう、意識が……!」

「いつから、こうなった……?」

「十五分ほど前です!」

「これは……毒か……」

断片的な言葉が、風に乗るように、霊体のインナの耳へ突き刺さる。

意味が、繋がらない。

いや――繋げてはいけない、と本能が拒んでいる。

インナの思考が、完全に、止まった。

(……私? いや、今は…チコ!)

思考が、ぐちゃりと絡まる。

(今、あそこに倒れてるのって……

チコが入ってる、私の身体……だよね?)

喉の奥が、ひくりと鳴る。

(じゃあ、もし……もし、あの身体が死んだら……

私は、どうなるの? チコは?

……戻れない、ってこと?)

理解が追いつく前に、

恐怖だけが先に膨れ上がる。

「ちょ、ちょっと待って……待って待って待って……!」

霊体の声は、誰の耳にも届かない。

それでも、思わず声が漏れた。

インナは、混乱の渦中にいる人々の間を、ふらつくように漂う。

泣き崩れる侍女の前に立ち、

必死に手を伸ばす。

「ねえ……そこにいるの、私……私なの……!

違うの、それ、私じゃ……」

叫んでも、叫んでも、

視線は自分をすり抜ける。

侍女は、倒れた王女の身体を抱え、声を殺して泣いている。

「……あ」

その瞬間、ようやく理解した。

(あ……これ……

ゴーストって、こういう……)

触れられない……声も届かない。

存在しているのに、世界に影響を与えられない。

今まで“浮ける”“壁を抜けられる”という

楽しさや解放感しか見えていなかった霊体の在り方が、

ここへきて、一気に“檻”のように思えてくる。

(……そうだよね……

そうだけど……どうしようもできないじゃん……)

胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

(戻りたい……今すぐ、身体に……)

だが、どうやって?

戻る方法なんて、知らない。

チコに頼もうにも――

あの身体の中にいるのは、今、チコなのだ。

そのとき。

「……だから言ったでしょう」

背後から、澄んだ声が、静かに落ちてきた。

インナは、びくりと振り返る。

そこに立っていたのは――

いや、“浮かんでいた”のは、

ひと目で“王”と分かる霊だった。

王冠。

だが金属ではない。

淡く輝く霊光でかたどられた、古い意匠の冠。

白く編み込まれた三つ編みの髪が、

胸元へと静かに垂れている。

身にまとうのは、荘厳な礼装の蒼翠ドレス。

時代を感じさせる古式ゆかしい意匠だが、

その佇まいは、今なお王宮の玉座に立っていても不思議ではない威厳を帯びている。

肩から流れる長いマント。

その縁取りには、霊体でありながら質感を感じさせるほどの、

ふさりとした毛皮の装飾が揺れていた。

手には、細く長い杖。

先端には、みたことのない紋章がうっすらと浮かび上がっている。

そして――喉元に輝く、赤い宝石のネックレス。

霊でありながら、それだけはまるで“現世の物”のように、

はっきりとした存在感を放っていた。

顔色は、死人のように血の気がない。

だが、その造形は、息をのむほど整っている。

年の頃は四十代半ばだろうか。

王としての年月と、女としての美しさが、

不思議な均衡で同居している面差しだった。

「……あなた……」

名が、自然と喉からこぼれる。

「ゴースト・クイーン……

エルアレイ……?」

百二十年前、

王家から忽然と姿を消した女王。

この国の歴史の中で“空白”として扱われた存在。

エルアレイは、静かに頷いた。

「ええ。

あなたが思っている、その人よ」

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