異聞〈光也と徹の巻〉
〈光也〉
あいつは和名で徹という。本名? はっ! 忘れたね。覚えていても意味の無い言葉、名前、儀式。無駄以外の何ものでもない。きっと今も、和人の目を盗んで、こそこそと狩でもしているんだろうさ。
あれは馬鹿だ。
頭を低く、腰を低く、大風が過ぎるのを待つように、耐えて耐えて、その先に何がある? 何もありゃしないんだ。
あいつの顔を見ているだけで、俺は苛々してくる。
〈徹〉
私の兄は和名で光也という。本名? 兄は名を捨てた。家族を捨て、誇りを捨て、自分を自分たらしめるものを、すべて捨てた。兄は和名を名乗らされたのではなく、和人の戸籍を買って自分を捨てたんだ。
兄は逃げた。
前へ前へ、傲岸不遜、そっくり返って歩いているが、前へ前へと、その先に何がある? 何もありはしない。
兄の顔を思い出すだけで、なぜか私は悲しくなってくる。
〈光也〉
今は北海道などと言われているが、昔、この土地には多くの鹿や鮭がいた。ユクコロカムイとチエプコロカムイが、それぞれ鹿を放ち、鮭を下ろしてくれると、エカシなんかは本気で信じていたな。
だが、アイヌモシリから蝦夷、蝦夷から北海道と呼ばれるようになって、名前と一緒に土地は奪われ、俺たちの土地は和人の土地になり、狩猟は密猟に、漁撈も密漁になった。ばかばかしい話だ。
鹿も鮭も、乱獲されて缶詰になっていった。
カムイがどれだけ鹿を放ち、鮭を下ろしても追いつかなくなっていったんだろうさ。俺たちは、その日食べるものにも苦労するようになってきた。
それは、狼や羆たちも同じだ。
〈徹〉
名前を奪われること、言葉を奪われることは、魂を奪われることと同じだ。どう名付け、どう呼ぶか。それが、この世界をどう見てどう感じるかにつながる。私と兄とでは見ているものが違う。
時代が変わり、支配者が変わり、掟から法律に変わった。その中で、あるいは流され、あるいは逆らい、不満もありながら従い、従いながら裏切る。不条理なことは、いつだって人の前にある。
缶詰になろうと、鹿は鹿、鮭は鮭だ。
カムイが鹿や鮭を遣わしてくれなくなることは、これまでもあった。原因も様々だ。その度に何としてでも生き抜くことを考えてきた。
それは、狼や羆たちも同じだった。
〈光也〉
アイヌモシリで猟をした者が、北海道で密猟をした者として捕まるようになった。
牧場を襲ったり、開拓民の村を襲ったりした狼や羆たちが殺されるようになった。
だが、アイヌと和人の混血、アイノなどと呼ばれて、どちらの側からも受け入れられない俺にとっては、どちらもどうでもいいことだ。
俺はカムイなど信じていない。ただ、狼や羆退治で金が稼げるようになって助かっている。今日も、俺は羆退治にきている。
〈徹〉
昔から使っていた場所で鹿を狩っていただけで、密猟として捕まったこともある。
狼や羆たちも腹をすかせて、銃を持つ者にさえ襲い掛かるようになっていた。
だが、私は狩人だった。獲物がいるのなら狩るし、飢えた狼でも羆でも、敬意をもって対峙したものだ。見るべき場所はそこではない。
私はカムイなど信じていない。ただ、敬意を忘れないようにしたいだけだ。私は、私自身に対しても敬意を忘れない。
〈光也〉
これまでにないような巨大な羆。
そう話には聞いていた。だが、実際に目の前にしてみると、とても信じられない大きさだ。すでに開拓民を5人、アイヌを3人、老人や女子供も見境なく8人の人間を殺したという。
アイノの1人目になるのか、俺は。それとも、数えてすらもらえないのだろうか。
かなりの金になると踏んで、意気揚々と羆退治にきた間抜けな狩人たち。俺も含めてだが、銃さえ持っていれば、何人もの撃ち手がいれば、多少危険でも、俺たちは狩る側だと思っていた。
それがいま、夕暮れ時、俺たちの拠点に、そいつは乗り込んできた。
戸を叩くとか、戸を開けるとか、そんな面倒なことはせず、壁をぶち抜いて入ってきた。同時に数人の仲間が殺られ、逃げようとした者も、慌てて銃を取り出した者も、アイヌも和人も、犬も人も、給仕女も、何者であるかに関わらず、等しく殺された。
俺は腰が抜けて動けず、数歩の距離にある銃を取りに行くことすらできなかった。ただただ小便を垂れて死ぬのを待っている。
祈る? 助けを呼ぶ? 命乞いをする?
いや、俺はただ、死にたくない、死にたくないと繰り返しているだけだ。頭の片隅では、これがウェンカムイかと思いながら。俺は祈らない。生き方を悔い改めるとも言わない。何に対してか分からないが、許してくれとも思わず、死ぬのを待っている。
銃を構えていた男が頭を叩き割られる。死んだ振りをしていた女が巨体に踏みつけられ悶死する。近付いてくる。次は俺だ。
だが、ウェンカムイは、俺の前でくるりと向きを変えた。
遠ざかっていく。
逃げ出そうとした男が開けた戸を億劫そうにくぐって、のっそりと出て行く。いくら待っても戻ってこない。
俺が動けるようになったのは、真夜中になったころ。なぜ、俺は生きている?
〈徹〉
これまでにないような巨大な羆。
そう話には聞いていた。だが、実際に死体を目の前にしてみると、とても信じられない大きさだった。狩人も含めて、十数人が殺されたという。老人や女子供も見境なく、兄も死んだとか。
だが、私には分かっていた。兄は死んでいなかった。
兄は、かなりの金になると踏んで、羆退治に出向いた。わざわざ死にに行くことはないという諌めも無視して、私を臆病者と罵って出て行き、金が入っても分けてやらんと吼えていた。
それがあの日、兄の姿を見る最後の日になるとは思わなかった。
何も言わず、何も告げず、自由奔放な兄らしく、一切の連絡なく行ってしまった。その日、何人もの狩人が殺され、背を向けた者も、立ち向かった者も、アイヌも和人も、犬も人も、給仕女も、何者であるかに関わらず、等しく殺された。
兄の死体はなく、しかし、死体すらないことを悼まれ、私を慰める人も多かった。ただただ、黙って、私はそれを受け入れた。
死んだ? 殺された? 兄を奪われた?
いや、兄は死んでいない。死んでいないと私が思っているだけか。頭の片隅では、兄は死んで先祖の下へ行ったとも思いながら。私は疑う。兄に生きていて欲しいとは言わない。何に祈るということもなく、死んでいてくれとも思わず、再会する気がしている。
兄の銃はそのまま放置してあった。死んで転がっていた者の持ち金が妙に少なかった。私は疑っている。兄はまだ。
だが、ウェンカムイは、私の前でごろりと斃れていた。
遠ざかっていく。
逃げ出さないように私が閉ざしている戸を、兄は通り抜けて、するりと出て行く。いくら待っても戻ってこない。
私が動けるようになったのは、犬のおかげだった。なぜ、私は羆を殺した?
〈光也〉
暴風のようなウェンカムイを前に、因果応報などないことを俺は知った。
羆を暴れさせたのは誰だ?
アイヌの猟師か? 開拓民の小僧か? 逃げそびれた妊婦か? それとも俺か? 俺たちが悪いのか?
違う。
違う、違う、違う。
そうではない。
缶詰だ。缶詰を食っている連中だ。
放たれた鹿も、下ろされた鮭も、みんな缶詰になった。
飢えた羆も、飢えた狼も、みんなウェンカムイになった。
飢えた俺たちは、銭を稼ぐために、羆を、狼を殺し続けた。
そして、時に殺された。
だが、それでも、戦っているのは俺たちではないのだ。ウェンカムイと缶詰の戦争に巻き込まれて、あいつらは死んだのだ。
ウェンカムイは力の塊だ、暴風だ、嵐だ。
俺が死ななかったことに理由など無い。
ただただ、選択は常に力ある者に託される。
そうだ。俺は選択する側になってやる。絶対にだ。
慈悲もまた、力ある者の特権であり、気紛れだ。ウェンカムイがくるりと向きを変えたように。それはただの気紛れだ。
白黒つけるのは、いつも力、そして金だ。地獄の沙汰も金次第、ましてこの世においては。ない袖は振れぬ。力なき正義に力なし。
俺は缶詰を食う側になる。絶対にだ。
この世に因果応報などない。何をしようと、力なき者の吠え声は狼の遠吠えに変わらない。善も悪も理屈もなく、荒れ狂う力の前に滅びさるしかない。あるいは、慈悲という名の気紛れにすがるか。施しか、死か。
俺はそうはならない。俺は選ぶ側に立つ。絶対にだ。
〈徹〉
暴風のようなウェンカムイを前に、その時の兄は何を思ったのだろう。
アイヌの誇りか? 死んだ父母のことか? 勇敢な仲間たちか? それとも私を? 生き延びたのか?
違う。
違う、違う、違う。
そうではない。
兄のみだ。兄のみが分かることだ。
推測も憶測も、希望も絶望も、あるのは事実のみだ。
見えるものも、見えないものも、カムイは在るのみだった。
戸惑う私達は、答えを知るために、羆を、狼を殺し続けた。
そして、時に見失った。
だが、それでも、意味を知ることが重要ではないのだ。答えを、意味を求める者は、それに翻弄され、もろくなったのだ。
ウェンカムイは力の塊だ、暴風だ、嵐だ。
兄が死ななかったことに理由などない。
ただただ、答えは灰色の土に眠っている。
そうだ。私は答えを求めない。意味もだ。
意味もまた、力なき者の慰めであり、惑わしだ。ウェンカムイを、なぜか私が撃ち殺したように。それはただの気紛れだ。
白黒つけるのは、いつも弱さ、そして貧しさだ。意味を求めても意味はない、この不条理な世界で。知らぬが仏。触らぬ神に祟りなし。
私は今日もここに在る。ただ在るのだ。
この世に寄る辺などない。何をしようと、食って生きるしかないのなら、人も動物に変わらない。善も悪も理屈もなく、食うことが生きることでしかない。あるいは、生きることは食うことであろうか。食うか、死ぬか。
私は狩を続ける。狩りの度に頬の傷跡が疼く。
〈光也と徹〉
ウェンカムイは力の塊だ、暴風だ、嵐だ。
それでも、俺は〈私は〉、生きている。




