22/epilogue
あれから十年経って、ぼくは大学生になった。
お酒も飲めるし煙草だって買える。高校生になってひと月足らずだったというみことくんの年齢はとうに越えてしまった。
それでも不思議とぼくの中のみことくんはお兄さんのままだし、ぼくはあの頃よりずっと背が伸びたけれど、まだみことくんを見上げるような気持ちでいる。
きっといつまでもぼくは彼を追い越せないのだろう。十年前のそんなうすぼんやりとした予感は、未だに覆されていない。
ぼくはスマートフォンで時間を確認した。早く起きすぎたせいで逆に意味のないゆとりが生まれてしまい、気づけばいつもよりも遅くなってしまった。けれど、ああ。なんとか間に合いそうだ。
自宅から駅まで軽く走ったせいでぬるい汗が首筋を伝う。最近なんだかぐんと暑くなった。
ごった返した朝の駅を早足で歩きながら、ぼくは夢想する。
ぼくは随分大きくなった。たった数駅の校外学習が大冒険だったあの頃は遥か過去になり、遠い田舎の無人駅も影法師のいそうな地下鉄も怖くなくなった。
けれど、不意に思い出す。何かがりんと心に響いたとき、いつの間にか無意識にあの日を連想してしまうのだ。
特にこんな、彼が一番最初に立っていたあの駅のような夏空が遠く駅のホームから見える日は。
人とは思い込みの激しい生き物だ。ぼくの中で「みことくん」という記憶に刷り込まれた表象は馴染んで一体化して、きっと二度と姿を変えることはないのだろうと思う。
みことくん。饒舌で不安定で子供っぽくてお兄さんで、ぼくと同じ人間だったみことくん。
唇を噛んだ微笑も、嗚咽を漏らしながら語ったあの泣き顔も、ぼくの背中をさすってくれた優しい表情も。
――忘れないでね。
そう彼が言ったことも、ぼくはちゃんと覚えている。
「覚えてるよ、みことくん」
五月、初夏の透った空を視界の端に、ぼくは小さくそう呟いて前を向いた。
――とき。
どん、と肩に衝撃。その勢いにぼくは思わずよろめいて、誰かの足を踏みながらそのままふらついて手をついた。
ぼくが急に転ぶものだから誰かがぼくに躓いて背中を蹴っていったけど、それも仕方ない。
うわ。恥ずかしい。
きっと自分に注がれているであろう侮蔑の視線を頸髄反射で想像しながら、これもまた反射のように落としてしまったスマートフォンを探して振り返った。
肩に衝撃を感じてから、この間たった数秒。
たった数秒の出来事だった。
ゆるい波紋のようなどよめき。「あ、」という息を呑むような呼吸。ホームに響く大きな警笛。つんざくような急ブレーキの音。
気のせいだろうか。ぼくよりも下の方で、ぐちゃ、と柔らかい何かが潰れて弾ける音がした。
ホームは阿鼻叫喚を極めていた。悲鳴、怒号、吐瀉物が床を打つ音。それからヒソヒソ声と……なんて不謹慎で非情なことだろう。おびただしい量のスマホのカメラのシャッター音。けれどぼくの耳にそれらは届かなかった。
今の、なに。何いまの。なにが起きた?
本気でそう思った。ぼくは冷静でなかった、いつもならいつもならすぐに瞬時に理解できたものを、いつまで経っても認められなかった。波打つようにどよめくホームの中、ぼくだけがぽつんと真っ白になっていた。
わかっている。この状況がなんなのかは、きっとわかっている。けれどまさか。まさか。まさか。
――まさか、誰か、轢かれた?
そんな馬鹿な! と被せるように心中で叫んで頭を掻きむしる。だって、だって今日はいつもと変わらない日だったじゃないか。ぼくは何もおかしいことなんてしていないじゃないか。なんで、なんでなんで。馬鹿な。そんな馬鹿なことが。
エスカレーターは駆け下りる人のためにいつも半分空いている。ホームを急いで早足で抜けるなんて学生でもサラリーマンでも日常茶飯事だ。列をなした乗車待ちの群衆を避けるために白線の外側を歩くことだって誰もがやっている。その証拠に今日だってほらホームはこんなにごった返している、少しよろめいたら誰かの足を踏んでしまうくらいに、誰かに蹴られてしまうくらいに。そう。人とぶつかるなんてよくあることだ。よくあることなのに。
ぼくは気持ち悪くなって口元を押さえた。頭の中は様々な言葉が雪崩れ渦巻きぐちゃぐちゃになり、何がなんだか分からなくなる。
――落ち着け。落ち着け。よく考えるんだ。あれは本当にぼくにぶつかった人だったか? 他の誰かじゃなかったか? その誰かに躓いてぼくは転んだんじゃなかったか?
ぼくは撹拌した脳を必死につなぎ合わせ、歪になるのも厭わず回転させる。思い出せ、思い出せ、正しい記憶を。ぼくは悪くないという確固たる証拠を。あれ、ちょっと待って。記憶ってそういうものだっけ?
ごった返したようなホームの中、ぼくは不意に開きっぱなしのスマートフォンが落ちているのを見つけた。
ぼくのものではないそれは手帳型のケースに入っていて、本体の反対側のカードポケットには電車の定期やコンビニのポイントカードが入っている。
そのポケットの一番手前。
一番手前のポケットに入った、学生証。
どくんと心臓が大きく脈打つ。
そこには、見覚えのある“お兄さん“の顔が、ポケットから半分だけはみ出て微笑んでいた。
人とは、思い込みの激しい生き物だ。事実は心の中でひっそりと膨らみ尾ひれを生やし、元々の姿はいつの間にか霞んでしまう。
けれど。
ぼくは思い出した。
振り返らなかった彼の背中。花火の終わった暗い夜空。
彼が開けてくれた、彼とぼくを繋ぐ最後のものだったあの窓。
『さよなら、みことくん』
ゆるく開いたあの窓は、確かに、この手で、ぼくが閉めたのだった。




