21
電車がゆっくりになってきていよいよみことくんとお別れだという頃、確かぼくは訳のわからないことを言った。自分の名前がわからなくなってしまった、と。
みことくんは一瞬とまどったあと、すぐにカバンから筆箱を出しマジックを出してぼくの手を取った。
「さつきくんの苗字ってなんていうの?」
名前が分からないと言ったばかりなのに、彼にそう聞かれたらするりと自分の名字が出た。聞かれたから答えたという記号のような応答で、ぼくの頭の中に文字としてそれが浮かんだ訳ではないような気もするけれど、あのときぼくが何を考えていたのかはよくわからない。
ただ、なんとなく、ぬるい水の中にいるような浮遊感を感じていたと思う。水面に顔を出せば足がつかなくなってしまうような。足をつけば息ができなくなってしまうような。そんな。
みことくんはぼくの名前の漢字を聞いた。平仮名です、と答えた。
さつき。
女の子のようなその名前がぼくはひどく嫌いだったのに、みことくんはいい名前だねと言った。僕は早月が好きなんだ、とも。
みことくんはするするとぼくの手の甲にぼくの名前を書いた。なんだか少しくすぐったかった。
「はい、できたよ。そんなに泣かないで。きみは『さつきくん』だよ。忘れないで」
まだ泣くぼくを慰めながらみことくんはそんなようなことを何度か繰り返して、少し手を止めた。そしてその後、ゆるく微笑んで静かにこう書き足した。
『←僕のともだち』
「……」
ぼくの名前のすぐ横に書かれたそれを、ぼくはじっと見つめていた。
「泣き止んだね」
そう言われてはっとする。ひどい顔ではあっただろうけど、確かに、やっと、涙は止まっていた。
みことくんを見たら、彼は眉をさげてへにゃりと口元を緩ませた。
駅に着いたらドアが開く。ぼくはドアのところまで歩いて行って手を振って、ドアが閉まってからは彼が開けた窓から手を振った。
みことくんは笑ってぼくに手を振っていたけれど、やがて踵を返して歩いて行き、もう振り返ることはなかった。ぼくはじっとその背中を見送った。
花火はもう終わってしまっていたけれど、今さらどうしようもなく名残惜しくて寂しくて仕方なくなってしまって、いつまでも真っ暗な空を眺めていた。
「忘れないでね」
みことくんが最後にぼくにかけたのは、そんな言葉だった。
ぼくは馬鹿だ。なにか具体的な後悔があった訳ではないけれど、そう感じた。漠然としてはいたけれど、きっとあれは確信だったのだ。
ぼくは、ぼくが思っていたよりも、ずっと馬鹿だった。
「さよなら、みことくん」
窓の向こうの流されていく景色の先、もう見えなくなった彼に、ぼくは小さく呟いた。
そこから先はあまりはっきりと覚えていない。
最後までずっと窓の外を見ていたわけではなくて、そのうちちゃんと座席に座りなおしたと思う。
ただ、もう向かいの窓を眺める気もしなくて、じっと自分の爪先を見つめていた。
ふと振り返ると、みことくんが開けてくれた窓は閉まっていた。
——見て。さつきくん。綺麗だねえ。
そう言ったみことくんも綺麗な花火ももうなくて、ひどく悲しくなったのを覚えている。
ゆるく開いたあの窓は、きっとみことくんとぼくを繋ぐ最後のものだったのだ。
きっとぼくは彼にたくさん迷惑をかけた、それなのに彼はぼくを慰めてくれた。本当に優しいひとだった。そこまで考えて、ふと気付いた。
……ああ、違う。みことくんだってきっと、ぼくが思うほどばかじゃない。でも、ぼくが思っていたほど大人でもなかったのだ。
「忘れないでね」と彼は言った。「僕の友達」、そうぼくを呼んだ。
忘れてほしくなかったのだ。「僕」を。
そう考えるとなんだかぼくは安心した。なんだ、人間だ。みことくんだって人間だった。ぼくはぼくが一番大切だったように、みことくんはみことくんが一番大切だった。向こうの世界に引っ越す彼は、こっちの世界から忘れられてしまうのが嫌だったんだ。
なんだ、なんだ。彼の優しさは偶然の気まぐれなんかじゃなかった。みことくんはちゃんと、ぼくに見返りを求めていたのだ。
妙な安堵がぼくをつつみ、ぼくはだんだん眠くなった。重いまぶたが閉じる前、ふとまた分からなくなる。
ぼくって一体誰なんだっけ。手の甲を見る。ああそうだ、ぼくはさつき。そしてこれを書いてくれたのはみことくん。
ぼくの友達のみことくんだ。
マジックで書かれたその文字は水に溶けるように消えていってしまったけれど、もう忘れることはなかった。そうしてぼくは、目を閉じた。




