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9.想いは時を越えて?

 ソフィア王妃は、伸ばした右手で何かを掴むように宙を握り締めると、握った手を引き寄せた。

「えっ? ぐあぁ!?」

 アルフは首が絞められる感覚に自分の首に手をやった瞬間、強い力で静羽から引き剥がされ、まるで見えない縄が首に掛かっているかのようにソフィア王妃の方へ引き摺られていく。

「アルフさん!」

「アルフ!」

 引き寄せられたアルフは、ソフィア王妃の前で今度は空中に引き上げられる。 ソフィア王妃は少し離れていて指一本触れていない。

 アルフの足が床から離れてしまい、必死にもがくがどうにもならない。まるで絞首刑にあっているようだ。首が更に締め付けられて、次第に意識が遠のき始める。

「やめてっ!!」

 静羽は叫んで駆け寄ろうとしたが、足が震えて言うことを聞かない。恐怖で竦んでしまったのだ。

 これまでは護符の力があり、それを絶対的に信じていたから無茶なこともできた。しかし、その護符を燃やしてしまうほどのソフィア王妃の力を目の当たりにして飛び出すことができなくなってしまったのだ。

「どうして!」

 不甲斐ない自分に涙が出る。

「弱虫! いくじなし! こんなときに!」

 そういって自分を罵るが、膝の震えは収まらない。そうしている間にも、アルフの抵抗する動きが目に見えて弱くなっていく。

「いやよ!! 止めてっ! お願い! 殺さないでっ!!」

 涙ながらに叫ぶが、ソフィア王妃はピクリとも反応しない。

 そのとき、自分の横から飛び出した者がいた。エトヴァだ。

「おおぉー!!」

 雄叫びを上げながらエトヴァが走る。途中懐から何かを取り出し手に握り締めた。

 ソフィア王妃はそんなエトヴァを見ようともせずに、ゆっくりと左手をエトヴァに向ける。

 エトヴァが手にした物を振り上げつつソフィア王妃に肉薄する。

 そして、その手を振り下ろせばソフィア王妃に届くというところで、まるで見えない壁にぶつかったかのように急停止した。

「くっ、くそー!!」

 エトヴァも必死に踏ん張って進もうとするが全く前に進めない。

 ソフィア王妃は弱るアルフを見詰めたまま、今度はエトヴァに向けた左手を握り締める。

「ぐっ!? かはっ!」

 途端にアルフ同様にエトヴァの首がギリギリと締め付けられる。色白の顔が苦しげに歪む。

「エトヴァさん!」

 静羽が悲痛な叫びを上げる。震える膝を叱咤して何とか立ち上がったが、どうにもならない。

「えぇい! もう見ておれん!! 総員突撃ぃ!! 陛下をお救いしろ!」

 近衛長は叫ぶと共に、自ら抜刀して駆け出す。客を護っていた他の衛兵たちも近衛長に続く。

 しかし、またしても見えない壁に阻まれ近付くことができない。剣で斬りつけてみるが、以前の後宮での戦いのときのようにビクともしない。近衛長は悔しさで歯軋りをした。

「陛下ぁー!!」

 それでも諦めずに斬りつけ続ける。必死の形相の顔から汗が飛び散る。

 しかし、何十回目かについに剣が折れてしまった。跳ねた剣先が近衛長の頬をザックリと抉り、鮮血が溢れる。そんなことを気にも留めず、近衛長は折れた剣を投げ捨てると、今度は素手で見えない壁を殴りつけた。

「おぉー! おのれぇー!」

 鬼神のような形相で殴り続ける近衛長に誰も近付けなかったが、その拳の皮膚が切れ鮮血が飛び散るのを見て、やっと数人がかりで近衛長を抑え込んだ。

「放せぇ!! 陛下ぁー!!」


 エトヴァも息ができず意識が遠退き始めた。

 しかし、震える手を必死に動かして前に持ってくると、手にしていたガラスの小瓶の蓋を開け、その中身をソフィア王妃に向かって投げるように振り掛けた。

 透明な雫が数滴、ソフィア王妃に掛かった。途端にその場所から蒸気のような煙が噴き出す。

『ギャアァァァァー!?』

 ソフィア王妃が絶叫を上げてよろめいた。

 その瞬間、アルフとエトヴァを締め付けていた力が無くなり、アルフは床に落ちて倒れ伏す。エトヴァは膝を突いて激しく咳き込んで貪るように息を吸う。

 エトヴァは息を整えながら何とか立ち上がると、儀礼用の神官服の前を開く。すると首に吊られたチェーンにガラスの小瓶がいくつも付けられていた。

「備えあれば憂いなしです」

 勝ち誇ったように言う。前回の悪霊との戦いから常に聖水を入れた小瓶を持ち歩くようにしていたのだ。

「覚悟!!」

 そうしてエトヴァは次々と小瓶の中の聖水をソフィア王妃に振り掛け始めた。

 その聖水が掛かる度にソフィア王妃は苦しげな叫びを上げる。

「ア、アルフさん!」

 エトヴァがソフィア王妃を抑えているうちに、静羽は震えて言うことをきかない膝を引き摺って、静羽は這うように倒れているアルフの傍に寄っていく。

 アルフはぐったりとしてピクリとも動かない。首を絞められていたため、顔は血の気を失って真っ青だ。

「アルフさん! しっかりして!」

 静羽は震える手でアルフの肩を揺すってみるが、反応がない。

「い、嫌・・・ 嘘よね・・・そんな・・・」

 最悪の事態に静羽は呆然とする。そこへ血相を変えた近衛長が駆け寄ってきた。

「陛下ぁー!!」

 近衛長はアルフの傍らで、何度も大声で呼び掛けた。しかしやはり反応はない。慌てて近衛長は耳をアルフの胸に当てた。

 静羽はその様子をへたり込みながら呆然と見ていた。

 近衛長が何かを必死に堪えるような悔しげな表情で、ゆっくりと顔を上げると握りこぶしを床に叩きつけた。

「・・・・・・近衛長さん?」

 静羽が恐る恐る声を掛ける。

 近衛長は悲痛な面持ちで静羽を見返し、そして、ゆっくりと首を横に振る。

「う、うそ・・・でしょ?」

 呆然と訊き返す静羽に、近衛長はもう一度ゆっくりと首を振った。

 静羽は、その事実が受け入れられない。

「ま、またぁ そ、そんな冗談、性質悪いですよ。驚かそうとしても、だ、駄目ですよ?」

 無理やり引き攣った笑いを作った静羽は、震える声で努めて明るく言った。しかし、近衛長は下を向いたまま無言で唇を噛んでいる。

「い、嫌ですよぉ そんな芝居ぶっちゃって。ちょ、ちょっとアルフさん。もう冗談止めて起きて下さい!」

 それでもアルフは動かない。静羽は震える手でアルフの体を揺する。

「ねぇ! 起きて下さい! 起きて! 起きてったら!」

 静羽は涙を流して叫びながら、激しくアルフを揺すった。

 

 エトヴァは息を荒くしながら聖水をソフィア王妃に掛け続けた。足元には空になった小瓶がいくつも転がっている。

 最後の聖水を掛けたところで、ドサリという音がした。見ればソフィア王妃に憑依された貴婦人が倒れている。呪縛が弱まって解放されたのだ。

 しかし、その場にはまだソフィア王妃の霊が苦しげな叫びを上げながら留まっていた。

「ど、どうだ! 参ったか!」

 エトヴァは勝ち誇ったように、白い煙に包まれて苦しんでいるソフィア王妃に言い放つ。

「これでもう観念して・・・・・・はっ!?」

 言い掛けたエトヴァは、ギクリとした。聖水は悪霊を弱らすことはできても、それを消し去る、いわゆる成仏させることはできない。前回の化け物のときもそうだったが、最後は静羽のクロスで止めを刺したのだった。しかし、そのクロスも今はもう使えない。

 エトヴァの額を一筋の冷や汗が流れ落ちた。

「ど、どうしよう・・・・・・」


「シズハ殿! もう止めるのだ!」

 激しくアルフを揺すり続ける静羽を見かねて、近衛長は静羽をアルフから引き剥がした。

「嫌! 放して!」

 静羽は激しく暴れて離れようとする。近衛長は後ろから抱えるようにして静羽を押さえ込む。

「シズハ殿!!」

 大きな強い声で近衛長が言うと、静羽は暴れるのを止めて、近衛長の太い腕に縋った。

「どうして・・・ どうしてなの? さっきまで元気だったんですよ・・・ 一緒にダンスして・・・ 夢のようにかっこよくて・・・ 昨日だって、昨日だって・・・ いや・・・ こんなの嫌! ああぁ!!」

 静羽は声を上げて泣き崩れた。

 近衛長は掛ける言葉も見つからず、ただ痛ましく思いながら優しく静羽の背中を撫でる。

「私のこと好きだって言ってくれたんです! こんな、こんな私に!」

「シズハ殿・・・・・・」

「まだ返事してないのに! 気持ち伝えてないのに!」

 そういって大声で泣き続ける。しかし、少しして、その泣き声がピタリと止まった。

「・・・・・・そうよ!!」

 静羽が突然泣き腫らした顔を上げる。

「そうよ! 気持ち伝えないと! 私の想い聞いてもらわなくちゃ!」

 そういうと静羽は近衛長の腕を振り解くと、アルフに駆け寄った。

「絶対・・・ 絶対聞いてもらうんだから!!」

 静羽は両手を重ねてアルフの心臓の上辺りに手を置くと、一定間隔で強く押し始めた。テレビなんかで見た蘇生術だ。正しい方法なのかも、うまくいくかも判らない。でも絶対に生き返らせてみせるという思いを籠める。

「し、シズハ殿? 何をしておるのだ? 止めるんだ!」

 蘇生術を知らない近衛長が驚いて止めようとしたが、静羽は鬼気迫る顔で叫んだ。

「邪魔しないで!!」

 数回押して、マウス・トゥー・マウスで息を吹き込む。もう恥ずかしがってなどいられない。

「絶対! 絶対! 絶対・・・」

 涙を流しながら呪文のように呟いて、静羽は心臓マッサージを繰り返す。


 どれだけ繰り返しただろう。汗が噴出し滴り落ちる。それでも静羽は止めなかった。

 手が痺れて筋肉が痙攣して力が入らなくなった頃、胸を押す静羽の手に誰かの手が添えられた。手を止めて顔を上げると、近衛長の優しい顔があった。

「もう、十分だ」

「あ・・・・・・」

 その時、静羽の中で何かが途切れた。手元を見下ろす。そこには変わらず動かないアルフの体があった。

「あ・・・あ、ああぁ! あぁー!」

 静羽は動かないアルフの胸に縋って泣いた。これまで出したこともないような大声で、失われてしまったものの大きさに泣いた。

 その時。

 縋っていたアルフの胸がピクリと動いた。

「・・・えっ?」

 驚いて顔を上げた途端、アルフの胸が大きく上下した。そして、ヒューっと息を吸い込む音が聞こえた。

「ゲホッ! ゲホゲホ!」

 アルフが苦しげに咳き込んだ。胸が激しく上下する。

 そして荒々しく息継ぎをしながら、アルフがゆっくりと目を開く。

「う、うそ・・・・・・」

 静羽はそれを呆然と見ていた。近衛長も目を見開いて言葉を失っている。

 アルフは息が整ってくると、ゆっくり視線を巡らせた。

 まだ僅かに視界が霞む。そして、傍らに静羽がいるのに気付いて目を向け、そして弱々しく微笑んだ。

「・・・・・・やあ」

 それを聞いた途端、静羽の顔が泣き笑いでくしゃくしゃになった。

「・・・どうしたのだ? ひどい顔だな・・・」

 アルフの口元にいつもの苦笑が浮かぶ。

 静羽は大きく息をついて下を向いて一言呟いた。

「・・・ばか」

 それを聞いたアルフは再び苦笑を浮かべる。

「ひどいなぁ でも、きっとその通りなのだろうな・・・」

「ばか! ばか! ばかばかばかぁ!」

 静羽はアルフの首に抱き付いた。そしてまた泣いた。でも、今度は嬉し泣き。

 そして、アルフにしか聞こえない声で、何事か囁く。

 それを聞いたアルフは軽く目を見開き、そして幸せそうな笑顔でそっと静羽を抱き締めた。

 そんな若い二人を近衛長は涙ながらに嬉しそうに見詰め、心の中で神に感謝の言葉を贈る。その肩を誰かが触れ、振り向くと、宰相がハンカチで目頭を押さえながら立っていた。青褪めながらもホッとしたように微笑む宰相に、近衛長はゆっくり頷き返した。本当によかった。また彼女に我が国王は、いや、王国は救われたのだ。

 近衛長はもう一度神に、彼女を遣わしてくれた戦女神レティメイシアに感謝の言葉を囁いた。


 そんな感動的な場面とは別に、エトヴァは一人冷や汗を流して立ち尽くしていた。

「え、えーと・・・」

 聖水攻撃の効果は目に見えて薄れてきて、ソフィア王妃の苦しげな声も小さくなってきている。

 無いと判っていつつも、何かないかと神官服のポケットをまさぐるが、結果は変わらない。

「ど、どうしよう・・・」

 思わず足が一歩退けた。しかし、ここで逃げる訳にはいかないと自分に言い聞かせて必死考えるが、焦って気持ちばかりが空回りする。そこへ救いの声が掛かる。

「エトヴァさん!」

「あ! シズハ殿!」

 何より頼もしい声に振り返ると、静羽と、静羽の肩を借りながらフラフラする体を支えたアルフが近付いてきた。

「アルフも! ご無事で!」

「ああ。お前とシズハのお陰で助かった」

「いいえ。私は何もしてないわ。足が竦んで動けなかったし。全部エトヴァさんのお陰よ!」

「そうか。やるではないか。エトヴァ」

 静羽とアルフの賞賛の眼差しを受けて、エトヴァは照れ臭そうに微笑む。

「い、いえ。そんな大したことは。必死でしたし」

「ううん。ほんとにすごいよ。ソフィア王妃もやっつけちゃったんでしょ? 見直したわ!」

 静羽の言葉に、エトヴァの笑顔が、ピキッと引き攣った。

「あ、い、いえ、それが、その・・・」

「? どうしたの?」

「あの、それが、聖水を全部使い切ってしまって・・・ それに、も、元々持ってきた聖水も万が一のためのもので、そんなに沢山は持ってなくて・・・ ま、前のときも最後はシズハ殿が止めを刺しましたし・・・だから、その・・・・・・」

「だから、どうしたというのだ?」

 歯切れの悪いエトヴァに、アルフが訝しんで聞き返す。

「す、すみません! 聖水だけでは駄目みたいです!」

 エトヴァの叫びの意味を理解すると、アルフと静羽はギョッとなって、慌ててソフィア王妃を見る。

 ソフィア王妃はうずくまるようにしているが、体から立ち上っていた白煙も収まり、喚き声もなく、今にも立ち上がりそうな雰囲気だった。

「ちょ、ちょっと! どうするのよ!?」

「どどど、どうしましょう!?」

「どうしましょうって言われても・・・」

「ま、また、シズハ殿の神具で・・・」

「無理よ! 護符焼けちゃったし・・・私自身には何も力ないし!」

「そ、そんなー!」

 泣きそうなエトヴァに、動じないアルフがいつもの苦笑を向ける。

「やっぱりエトヴァは、あと一歩が抜けているのだな・・・」

「なにを冷静に言ってるんですか!」

 静羽はアルフの頭に思わず突っ込みを入れた。非常時にも平静を保つのは王に必要な資質なのだろうが、あまりに変わらないのは逆に腹立たしい。

「痛いではないか。仮にも国王の頭を叩くな」

 アルフが後頭部を擦りながら静羽に文句を言った。

「状況判ってるんですか?? 捕まったら今度こそ死んじゃいますよ!」

「判っているさ。そうしたらまたシズハに生き返らせて・・・・・・冗談だ。冗談だからその握り拳を下ろせ」

 愛を囁き合った相手に、グーはないだろうと思いつつ、怒った顔もいいなぁなどと、口に出したら間違いなく殴られそうなことを考えながら、アルフは表情だけは引き締める。

「こうなったら何でも試してみるしかないな。エトヴァ、ファラミス神の“清浄なる霊歌”だ」

「え? で、でも、あれは土壌や水を清めるときに・・・ そうか! 聖水を作るときも、それを使っていましたね!」

 エトヴァは納得という顔で頷く。

 ファラミス神は農耕の神なので、退魔の呪文などはないが、新たな農地を開墾するときや、新しい井戸や川の水を飲用にする場合などに神官がお清めを行う。その際に唱えられるのが“清浄なる霊歌”である。

「そうだ。聖水が効くなら、それを作る霊歌も効くはずだ・・・ おっと、話している場合ではないな。エトヴァ、やるぞ!」

「はいっ!」

 二人が話しているうちに、ソフィア王妃の霊がユラリと立ち上がった。長い髪に隠されて表情は見えない。

 アルフとエトヴァは並んで、眼前に右手をかざし、左手を胸に当てた形で“清浄なる霊歌”を唱え始めた。アルフも元は神官候補だったので、二人の息はぴったりと合っている。アルフの低音とエトヴァの少し高めの声が調和して、美しいハーモニーを作り出す。

「すごい、綺麗な歌・・・・・・」

 静羽は状況を忘れて、二人の祈りの唄声に聞き惚れていた。唄が進むにつれ、周りの空気や明かりや雰囲気が清浄化されていくように思える。そして、それは会場にいた誰もが感じていた。

「よかった。効いてる・・・みたいね」

静羽はホッと胸を撫で下ろす。ソフィア王妃は硬直したようにピクリとも動かない。聖水を掛けられたときのように苦しみはしないが、少なくとも攻撃してくる様子はない。

二人の祈りが終わった。長く感じられたが、実際には二分ほどのものだ。誰もが清々しい気分で、今が異常な状況にあることを忘れそうになる。

エトヴァもアルフに笑い掛けた。

「久しぶりですね。こうしてアルフと祈りを唄うのは」

「ああ。懐かしいな」

「まだ覚えていたんですね」

「忘れるものか。国王より神官やっていた時間の方が長いのだからな ・・・と、和んでいる場合ではなかったな」

 弛み掛けた気持ちを再び引き締めて、アルフたちはソフィア王妃に正対した。霊歌が効果あったかどうか。

 ソフィア王妃に特に変わったところは見られない。ただ微動だにせず佇んでいる。

「・・・どうなったの?」

 なにも反応のないソフィア王妃を警戒しながら、静羽がエトヴァに小声で訊ねた。

「ど、どうなったのでしょう?? 動く気配がありませんね・・・ どう思います? アルフ?」

「おれに訊くな。判るわけが・・・」

「あっ! 動いた!!」

 アルフが言い掛けたところで静羽が声を上げた。三人は警戒して身構える。

 ソフィア王妃がゆっくりと顔を上げた。そして、その顔は・・・ 微笑んでいた。

「・・・え?」

 三人は意表を突かれたように唖然とした。これまでのように凍てついた表情を予想していたからだ。

 しかし、ソフィア王妃は優しく微笑んでいた。今までのことが嘘のように晴れやかに。

『清らかな祈りをありがとう。心が洗われたように感じます』

 また予想外なソフィア王妃の言葉に三人は驚く。あれほど憎しみの塊だった者から感謝の言葉が出ようとは。

 エトヴァは肩の力を抜いて、長い長い溜め息をついた。

「はぁ~。よかったぁ。どうなるかと・・・」

 アルフもホッと息をついて、エトヴァの肩に手を置く。

「やったな。エトヴァ」

「はいっ! でも、アルフのお陰ですよ! 私じゃ思い付かなかったですし。霊歌だって一緒に唄ってくれたから・・・」

「いや。お前の力だ。途中で修行を降りた俺の祈りなど、ほんのお飾りだ。もっと自分に自信を持て」

「・・・は、はいっ!」

 アルフの言葉に、エトヴァは少し照れ臭そうに頷いた。

 すっかり安心しきっている二人だったが、静羽だけは警戒を解いてなかった。何かが怪しい。あれほどの憎しみがそんなに簡単に消えるものだろうか?

『・・・こんな気持ちにして頂いたのですから、何かお礼をしなければなりませんね』

 ソフィア王妃が生前のような穏やかな笑顔を見せる。

「お礼? いえいえ! そんなことは必要ないですよ! こんなことくらいお安い御用で!」

 エトヴァは少し誇らしげに愛想笑いしていたが、静羽の女の勘が警報を鳴らす。

「ちょっと、エトヴァさん! 気を付けて! なにか怪しいわ!」

『ほんの気持ちです。受け取ってくださいな・・・』

「え?」

 ソフィア王妃は、微笑みを絶やさず両手を捧げるようにゆっくりと上げた。その笑顔を見た静羽の背筋に寒気が走った。

 次の瞬間、三人は物凄い力で吹き飛ばされた。叫び声も上げる間もなく、会場の壁に叩きつけられる。

「カッ、ハッ!?」

 衝撃で息が詰まる。三人は壁の下に崩折れた。

「あ、うぅ・・・」

 静羽は遠退きそうになる意識を必死に捕まえて、なんとか身を起こす。見ればアルフもエトヴァも何とか起き上がろうとしている。こちらに気付いたアルフが痛む体をおして静羽に手を貸す。

「大丈夫か?」

「な、なんとか・・・ ちょっとフラフラするけど・・・ あっ痛っ!」

 立ち上がり掛けた静羽が、鋭い痛みに自分の左腕を見ると、先ほど斬られた傷がまた開いて鮮血が手の方まで垂れていた。

「大丈夫か? これを・・・」

 アルフは胸ポケットからハンカチを取ると、静羽の腕に巻いて縛った。真っ白なハンカチが見る間に赤く染まる。そのとき、一度は立ち上がったエトヴァが呻き声を上げて、またその場に片膝をついた。

「エトヴァ! どうした?」

 右の二の腕を押さえたエトヴァが苦しげな顔を向ける。

「う、腕が・・・ 痛っ!! 折れたみたいです・・・」

「大丈夫か? もういい、お前は退がってい、ぐっ!!」

 今度は言い掛けたアルフが、両膝をついてうずくまってしまった。

「ちょ、ちょっと! アルフさん!? どうし・・・・・・ヒッ!」

 うずくまったアルフの肩に触れようとして、そこに突き立っているものを見て、静羽は血の気が退いた。よく磨かれた銀色に光るナイフだ。果物などを切り分けるように置いてあったテーブルナイフ。それがアルフの右肩口に深々と刺さっている。豪奢な国王の礼服が見る間に赤黒く染まり、力なく垂らした右手の袖から真っ赤な鮮血が滴る。

 静羽は真っ青な顔で口元を押さえる。

「ア、アルフさん・・・」

 震える声に、アルフは苦痛に歪んだ顔を上げて、無理やり笑顔を作った。

「だ、大丈夫だ。これくらい・・・大したことは、ない」

 そういうとアルフは左手で突き立ったナイフの柄を掴むと、歯を食いしばりながらナイフを一気に引き抜いた。鮮血が飛び散る。静羽は失神してしまいそうになるのを必死に耐えた。

 アルフは血の付いたナイフを投げ捨てた。甲高い音が静まり返った会場に異様に響く。

「陛下ぁー!!」

 近衛長が叫んで駆け寄ろうとしたが、またしてもソフィア王妃の障壁に阻まれ近付くことができない。近衛長は呪詛の言葉を叫びながら見えない障壁を叩き続ける。

「アルフ!! あっ痛っ!」

 エトヴァも駆け寄ろうとしたが、折れた腕に激痛が走って動けない。

 傷口を押さえたアルフの左手の間から血が溢れる。静羽はオロオロするばかりで、どうしたらいいのか判らない。

「お、おのれ・・・」

 アルフがソフィア王妃を睨みつけた。しかし、ソフィア王妃は優しげに微笑んだまま、僅かに首を傾げた。

『あら? このお礼は気に入って頂けませんでしたかしら? では、これなら如何でしょう?』

 ソフィア王妃がそういうと、会場内のテーブルにある全てのナイフやフォークが見えない力で宙に浮き、ソフィア王妃の周りに集まってきた。そして、その矛先をアルフたちに向ける。

「ちっ!」

 アルフは肩の傷口を抑えつつ静羽を背中に庇う。しかし、その攻撃を防ぐ手立てはない。せめて静羽だけでも守らねばと覚悟を決める。

「アルフさん・・・」

 静羽が不安げに声を掛けが、それにアルフは前を見たまま応えた。

「心配するな。君だけは必ず護る!」

 そこにもう一つの声が加わった。

「そうです! あなただけは必ず護ります!」

 エトヴァがアルフの横に並んだ。折れた腕の痛みに油汗を流しながら、気丈に静羽に笑顔を見せる。アルフもエトヴァと顔を見合わせ、力強く頷く。

「アルフさん・・・ エトヴァさん・・・」

 静羽は二人の思いに胸を詰まらせた。それと同時にソフィア王妃に対する怒りが沸々と湧いてきた。 どうしてこんなことをするの? 何百年も前のことでアルフさんたちは関係ないのに! 初めのうちは少しソフィア王妃に同情的だった。王家に呪いを掛けるほど怨んでも仕方がないと思っていた。しかし、今のソフィア王妃の行いは理不尽な逆恨みでしかない。それが段々我慢できなくなり、遂に爆発した。

「もうやめて!!」

 アルフとエトヴァが驚いて静羽を振り返える。そこには震えていた静羽はもういなかった。静羽は二人を押し退けて前に出る。

「こんなことして何になるの! 今、ここにいるのは、あなたを苦しめた人とは何の関係もない人たちなのよ!」

 ソフィア王妃の顔から微笑みが消えた。冷たい視線を静羽に向ける。

『王家の者であることには変わりはありません』

「全然違うわ! 血縁者でもないんだし!!」

『血縁など元より無意味。そこに玉座がある限り、そこに座す王が現れる。王家は滅びなければならない・・・』

「じゃあ玉座がなければいいのね? 王がいなければいいのね? 王制をやめて、議会制とかにすればいいんでしょ? そうすれば王も王家もなくなるわ! アルフさんも殺されずに済むんでしょ!」

 聞いていたエトヴァは痛みで青褪めた顔を唖然とした。静羽の言い分はいわゆる屁理屈でしかない。アルフを見ると、同じことを考えていたらしく微かに首を振って苦笑した。

 ソフィア王妃も静羽の言葉に面食らったように唖然としていたが、すぐに冷たい顔に戻り憎々しげに言った。

『・・・例え王がいなくとも、王家がなくとも、私の恨みは、悲しみは、消えはしない』

「そんな! そんなの・・・そんなの、ただの八つ当たりじゃない!?」

 エトヴァは血の気が退く。前にも王妃を怒らせて大変なことになったのだ。

「シ、シズハ殿・・・ その、あんまり怒らせないほうが・・・」

 遠慮がちに静羽の背中に声を掛けるが、憤っている静羽には全く聞こえない。

『・・・あなたには、私の憎しみ、悲しみなど判らない ・・・愛する者を奪われた気持ちなど』

 ソフィア王妃は憎憎しげに、そしてどこか悲しげに美しい顔を歪める。この場の空気が一気に温度を下げたように誰もが感じた。

「それは・・・ いいえ。私にも分かるわ。アルフさんが死んだと思ったとき、胸が張り裂けそうだった・・・」

 そういうと静羽は俯き、両手でそっと胸を押さえる。

『分からないわ!!』

 突然ソフィア王妃が絶叫した。静羽はビクリッと体を硬直させて、恐る恐る顔を上げると、ソフィア王妃は怒りの形相で静羽を睨んでいた。

『あなたになど分からない!! 目の前で愛する者が野犬に食い千切られ、泣き縋る体も残らない! そして命に代えても護りたかった、愛する人との小さな命も、肌の色が変わるほど足蹴にされた末に奪われて!! 手足を縛られ皮と骨だけになって、動くこともできなくなっても死ぬことを許されず、誰も居ない部屋で泣き続けた! それをあなたは分かるというの!?』

 静羽はあまりに衝撃的な内容に絶句した。

アルフやエトヴァも、その惨たらしい告白に顔を顰める。

「残虐王は、そこまで狂っていたのか・・・」

「・・・そうですね。不憫に思って、こっそり食事を与えようとした侍女も、その場で斬って捨てられたと聞いたこともあります・・・」

 静羽は軽々しく気持ちが分かるなどと言ったことを少し後悔した。確かにそんな状況でのソフィア王妃の想い、悲しみ、憎しみなど分かるはずもない。きっとソフィア王妃はこの国そのものを恨んでいるに違いない。愛する者を奪い、救いの手も差し伸べられなかった、この国を。でも・・・

「・・・・・・でも・・・ でも、だからと言って怨みを晴らすなんて無意味だわ。いままで何度も何度も繰り返してきて、それであなたの気持ちは晴れたの?」

 静羽の問い掛けに、ソフィア王妃は顔を歪めて絶叫した。

『この怨みは何があろうと晴れはしない!! 何度でも何度でも! いいわ! あなたにも味あわせてあげる! 愛する者を奪われる気持ちを!!』

「駄目!! させないわ!!」

 静羽が両手を広げて背後の二人を庇う。それを見てアルフも叫んだ。

「シズハ! よせ!!」

 アルフが慌てて静羽を引き寄せようとしたが、ソフィア王妃が再び声を上げる方が僅かに先だった。

『退きなさい!!』

「キャーッ!!」

 横から思い切り突き飛ばされたような衝撃を受けて、静羽は薙ぎ倒されて転がった。

『そこでゆっくり見ているがいい! 愛する者が死に逝く様を!!』

「いやぁああ! やめてーっ!!」

 急いで立ち上がろうとした静羽は、左手に何かが触れて見下ろす。自分のクロスだ。腕の傷から流れた血がクロスを赤く染めていく。

『死ぬがいいっ!!』

 ソフィア王妃がカッと目を見開くと、宙に浮いていたナイフやフォークが一斉にアルフ達に襲い掛かった。

それからは何も考えていなかった。自らの血で濡れた手でクロスを掴むと、全身をバネにして思いっきり前に飛び出した。ドレスを着ているとは思えないスピードで駆け寄る。

照明の光に煌きながら飛んでくる無数のナイフにアルフたちは為す術がない。迫る凶器群に死を覚悟したアルフたちの目の前に、白い影が飛び込んできた。

「シズハ! いかんっ!」

「だめぇええええええ!!!」

 アルフの驚愕と絶望の混ざった叫びと、静羽が眼前にクロスを構えて叫ぶのとが同時だった。

 そして、光が爆発した。

 クロスを突き出した格好で目を固く閉じていたが、暫くしても何も襲って来ないので、静羽はゆっくりと目を開けた。

「・・・・・・え?」

 自分の周りに白く輝く壁のようなものができていた。不思議に思ってよく見てみると、その壁は羽毛に覆われている。いや、壁ではない。それは翼だった。自分は真っ白で大きな翼に囲われているのだ。暫し呆けたようにその翼を見詰めていたが、ハッと気付いたようにゆっくりと後ろを振り返った。振り向きながら、頭の中にとてつもなく大きな鳥が自分を抱えている図が浮かぶ。しかし恐怖は全くない。翼が発する柔らかい光はとても清らかで優しい。そして、どこか懐かしいような安心感に包まれていた。

 振り向いて最初に目に入ったのは、胸元が緩やかに膨らんだ、神々しい碧い光を発する鎧だった。少し視線を落とすと、ビロードのような光沢のある真っ白なスカートが足のくるぶし辺りまでゆったりと広がっている。そして、その腰には豪華な意匠が施された金の柄に、鎧と同じ色の鞘に収まった長剣が吊るされている。左腕には華奢な細い腕に不釣合いな無骨な丸い盾が括られていた。

 静羽はそれらの美しさに見惚れながらゆっくりと顔を上げた。アルフより更に背が高い、というより普通の人間よりも身体のスケールが一回り大きいのだ。そして、その背中には自分を包んでくれている大きな翼が生えているのだ。

「・・・お母さん?」

 自分を見下ろす眼差しの中に、久しく会っていない母の面影を見たように思えたが、すぐに気のせいであることに気付いた。

 額から頭頂部だけを覆った兜が光を反射して煌く。ちょうど額に部分にはサファイアのような碧い宝石が輝いている。そして、まさに黄金と見紛う金の髪がゆったりと背中に流れ、神々しいとしか形容しようがない美しい顔が自分を見下ろしていた。意思が強そうに口を引き結んでいるが、その眼差しは優しい。

「・・・・・・あなたは・・・?」

 呆然と見詰めていた静羽がやっと声を絞り出した。その者は、それには答えずにそっと口元に笑みの形を作った。

 バサァッ!

 静羽を包んでいた大きな翼が開かれた。羽が数枚舞い散り、床に落ちる前に光の粉となって消えてゆく。

「おおっ!! あ、あれは!?」

 会場内がどよめく。皆、先ほどの光の爆発に目が眩んでいたが、回復して入ってきたその光景に誰もが我が目を疑った。

「あ、あれは・・・・・・ 女神様・・・」

「い、戦女神、レティメイシア・・・様・・・・・・」

 誰もが宗教画などで一度は目にしたことがある戦女神。四大至高神に次いで、最も知られている神、レティメイシアが目の前に現れていた。神話の中の作り話だと思っていた。幻を見ているのかと思った。しかし、その者から溢れ出る神聖な威圧感、そして自らの心に自然と湧いてくる畏怖の念が、その存在を受け入れている。

 呆然自失の状態から一番最初に立ち直ったのは、誰あろう顧問神官長であるエトヴァだった。痛む腕を庇いつつ、その場に片膝をつき頭を垂れた。

「女神様・・・・・・」

 次いでアルフがそれに倣った。そして会場にいた全員が慌てて片膝をついて、それぞれ礼拝の形をとる。

 静羽はまだ立ち尽くしたまま女神を見上げている。

「女神、様? ・・・神様なの、ですか?」

 女神は答えずに軽く首を傾げる。静羽にはそれが肯定とも否定とも判断が付かなかったが、一つだけ確かなことがあった。

「助けてくれたんですね。ありがとうございます」

 静羽は丁寧にお辞儀をしてお礼を言った。誰に対してでも物怖じしないのが静羽たる所以だが、人ならぬ存在である女神に対してもその不変ぶりにエトヴァは眩暈を感じ、アルフも苦笑を禁じえなかった。静羽にしてみれば、異世界にいること、ユニコーンがいたり、化け物みたいな悪霊がいたりと、ファンタジーな驚きは十分過ぎるくらい経験しており、いまさら神様が出てきてもそんなに驚くことではなくなっていた。

 対する女神は、そんな静羽の態度に好感を持ったのか、今度ははっきり微笑みを浮かべて、ゆっくりと頷く。

それを見て静羽も嬉しそうに微笑み返す。

そんな親しげな様子に、誰もが、彼女が本当に女神の使途であったのだと思った。

『あ、あなたは・・・ いえ、あなた様は・・・ まさか、そんな・・・・・・』

 呆然としていたのはソフィア王妃も同じだった。その顔が恐怖とも畏怖ともつかない表情に歪む。思わず一歩後ろへ退がる。

 その声を聞いて静羽は状況を思い出した。慌てて向き直ってクロスを構えたが、そのとき静羽は気付いた。血に濡れた左手が握っている柄の部分が僅かに発光している。そこは先ほどソフィア王妃に護符を焼かれたところだが、その下にもう一枚護符があったのだ。静羽自身もそのもう一枚の存在を知らなかったので、それがどんな効力があるものなのかは判らないが、とりあえずやってみるしかない。それに女神様が護ってくれているのだ。俄然やる気が出た。

「今度はこっちの番よ!! 覚悟しなさい!! 臨! 兵! と・・・え?」

気合を入れて九字の呪文を唱え始めた静羽の肩に、人より少し大きめな手が軽く載せられた。驚いて女神を振り仰ぐと、女神は静かに首を横に振った。金の髪が軽く揺れて光の粉が舞う。

「どうして?」

 女神の意図が読めず静羽は訊ねてみたが、女神は黙ったまま右手を上げて空中を指差した。女神が指差した方を振り返ってみるが、何もない。何なのかもう一度訊いてみようと思ったとき、その空中に小さな光が生まれた。

「え? なに?」

 その小さな光の点から、まるで雪のように光の粉が舞い落ちる。そして、それは空中に降り積もり、徐々に何かを形作っていく。

「・・・人?」

 おぼろげだった光の塊が、はっきりと人の形を取っていく。そして、光の雪が止まると、そこには騎士の姿をした男性が立っていた。立っているとはいっても霊体のため実体はない。

それは精悍な、それでいて優しげな感じの青年騎士だった。どこかアルフに似た雰囲気がある。

「だれなの?」

『ああぁ!! あなたは!?』

 静羽の問い掛けに、ソフィア王妃の叫び声が重なった。これまでの恨みの籠った顔が嘘のように喜びに満ち、大粒の涙が溢れだしている。

『ソフィア様・・・』

 青年騎士が名前を呼んだ途端、ソフィア王妃はまるで少女のように青年の胸に飛び込んだ。胸に縋り付いて声を上げて泣いた。青年も優しくソフィア王妃を抱き締める。

「あの人はもしかして・・・」

 きっと王妃と駆け落ちしようとして殺されてしまったという護衛の騎士に違いないと静羽は思った。女神様の力で冥府から連れて来られたのだ。百五十年の時を経て、やっと再会した恋人たち。殺されそうになったのを忘れて、静羽は思わず涙ぐむ。

 ひとしきり泣いたソフィア王妃が青年を見上げた。青年がソフィア王妃の頬に伝う涙をそっと拭ってやると、ソフィア王妃は恥ずかしそうに微笑む。その顔は恋する乙女の顔に戻っていた。ソフィア王妃が一番幸せだった頃の十六歳の少女の顔に。

 しかし、幸せそうに微笑んでいたソフィア王妃の表情が突然翳った。自分の下腹部に手をやり哀しげに青年を見詰める。

『・・・ごめんなさい・・・・・・ 私たちの大事な子が・・・』

 悲痛な表情を浮かべるソフィア王妃に青年は優しく微笑んで首を振った。そして僅かに体を離すと、何かを抱えるように両手を挙げた。ソフィア王妃が不思議そうに見下ろすと、そこに淡い光が生まれ、何かを形作っていく。

『ああぁ!!』

 青年の腕の中に、産着に包まれてスヤスヤと眠る赤子が現れた。ソフィア王妃は震える手でその赤子を受け取ると、壊れ物のようにそっと胸に抱いた。嬉し泣きに顔をくしゃくしゃにしながら、慣れない手付きで赤子をあやす。青年も嬉しそうにそれを見守っている。

 その幸せそうな様子を見て、静羽ももらい泣きしていた。良かった。本当に良かった。心からそう思った。

 赤子を抱いたソフィア王妃と青年騎士が、女神に向き直って揃って頭を下げた。

『レティメイシア様、ありがとうございました』

『女神様、ありがとうございました』

 しかし、女神は黙ったまま首を振ると、静羽に視線を投げる。王妃と青年も静羽に視線を移す。

「え? なに? わ、わたし??」

 三人に見詰められた静羽はあたふたとする。

『ありがとう。異界の人よ』

『ありがとうございます。そして、ごめんなさい。謝って許されることではないと分かっていますが・・・ あなたには謝罪と、そして感謝を・・・』

「い、いえ。私は別に何も・・・」

 静羽は慌てて否定しようとしたが、ここで何か言っても仕方ないと思い直し、そして笑顔で応えた。

「よかったですね!」

 そう言って笑いかける静羽に、ソフィア王妃は嬉しそうに小さく頷いた。そして青年騎士と見詰め合うと、二人の姿が薄らいでいく。消えゆく直前にもう一度静羽に頭を下げて、そして、赤子と共に消えていった。

 静羽は二人が消えた場所をしばらく見詰めていたが、一つ大きな溜め息をつくと、気を取り直したように振り返って女神を見上げる。女神が優しく頷くのに静羽も嬉しそうに頷き返すと、その後ろで同じにように嬉しそうにしている二人のところへ駆け寄った。

「アルフさん! エトヴァさん!」

 静羽がアルフに抱きつくと、アルフも動く左手で静羽を抱き締めた。次に静羽はエトヴァにも抱きついたが、エトヴァが痛みに声を上げたので慌てて離れる。痛みに泣き笑いするエトヴァを見て、静羽もアルフも声を上げて笑った。

 三人はお互いの無事を喜び合う。それを微笑ましそうに見ていた女神が背中の大きな翼を一羽ばたきした。翼から光の粉が舞い散り、三人に降り注ぐ。すると三人が負っていた傷が見る間に癒えていく。

 驚いた三人が女神を見やったが、女神がもう一度大きく翼を羽ばたかせると、光る羽が大量に舞い、それらの光が弾けると同時に女神も光の中に消えていった。

 アルフとエトヴァはその場にもう一度片膝をつき、消えた女神に祈りを捧げる。

 静羽は、やっと実感した。これでもう誰も傷付かないと。これで本当に終わったのだと。


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