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1998年12月 福岡県北九州市小倉北区

 公子は小倉駅のコンコースの柱にもたれかかっていた。


 昨日は眠れなかった。ぼんやりした顔で夫を送り出し、子供を母に預けた。母は何の疑いもなく息子を預かってくれた。


 それから急ぎ足で岸和田駅へ向かい、南海本線で大阪・なんばへ向かう。そこから地下鉄に乗り換えれば新大阪はすぐだ。新大阪から小倉まで新幹線で3時間。思ったより近いものだ。11時30分という待ち合わせ時間ちょうどに着いた。ソバットのいうコンコースの柱で待っているがまだソバットは来ない。12月である。駅は一応建物内ではあるのだが、外気とつながっているコンコースに北風が入ってきて寒い。


 11時40分。

 ソバットは来ない。

 

 約束の時間を間違えたのだろうか。一応メールを確認するが確かに待ち合わせは11時30分と書いてある。ソバットの返信だ。


 11時50分。

 まだソバットは来ない。


 待ち合わせの場所を間違えたのだろうか。もう一度メールの内容を確認する。きょろきょろして場所を確認するが間違っていない。ここだ。この柱だ。寒い。外套の襟をさらに立てる。この時期にこんなところで待ち合わせはふつうしないだろう。歩行者が体を丸めて速足で歩いていく。


 12時になった。

 外では日本青年社の街宣車が騒いでいる。

 隣の柱には『宇宙人襲来Ⅲ』と大きな映画のポスターが貼られている。近日公開の映画だ。いつの間にか日本はUFOと街宣車に乗っ取られたようだ。


 公子は深いため息をついた。すると、目の前に赤と黒のシマシマの柄のラガーマンのようなトレーナーを着た、スポーツ新聞を持ち、牛乳瓶の底のような厚めの眼鏡をかけた男が肩を揺らしてこちらに向かってきた。


「おいって」

「え?あ、はい?」


 公子は男をまじまじと眺めた。ぼさぼさの頭に髭の剃り残しのあるワイルドな顔立ちである。


「おいって。俺っち、ソバット。伊豆弓彦ってもんよ」

「え?は、はい。キュンです。国広公子です」

「よろしくってもんよ」


 ソバット、こと伊豆弓彦は肩を揺らしてにやにやと笑った。この男がソバットか。確かにワイルドな顔立ちだ。この男が古事記を研究し、ゼミで俳句を詠む文学青年とは到底思えない。人は見かけによらないということだろうか。デートに男が遅れるなんて聞いたことがないのだが、弓彦は悪びれもしない。几帳面な旦那とは正反対な性格だ。こんな男性初めてである。公子は何だが嬉しくなった。


「おいって、これからスペースワールド行くって」

「スペースワールドって?」

「遊園地って」


 会話がかみ合っていないが、ソバットは遊園地に行くようだ。てっきり小倉観光をしながらデートだと思っていた。駅前の書店で買った観光ガイドには、小倉城や松本清張の記念館が近辺にあると書いてあったので、そのあたりに向かうと思っていたのだが。


 ソバットは勝手知ったる我が家のような動きで切符を買うと、そのまま駅構内を歩いていく。公子はそれについていくだけで精いっぱいであった。ホームに着くと、やっと到着した公子を振り向いた。無精ひげの生えた、ワイルドな顔立ちである。


「汽車に乗るってもんよ」

「電車?」

「電車じゃないってもんよ。汽車だってもんよ。若松を走っているのはディーゼルだから汽車だってもんよ」


 よくわからない。予備知識のない人間にどんどんローカルな話題を入れてくる。「おいって」とよくわからない掛け声を上げてソバットは博多行と書いてある電車、いや汽車に乗り込んだ。


 公子は隣に座った。ソバットはだいぶ汗臭かった。お風呂に入れているのかしら。妙な心配をしてしまう。電車が動き出した。休日の昼間だというのに客は少ない。寒いので自宅でゆっくりしているのだろう。社外からは日本青年社の軍歌が大音量で流れてくる。騒音被害でそのうち訴えられるんじゃないだろうか、そんなことを思ってしまう。まばらな車内で公子は話しかけた。


「ソバットは、小倉に住んではるの?」

「俺っちは若松ってもんよ」

「ワカマツ?」

「ここまで車でオリオまで来てクロサキで乗り換えて電車で30分以上かかったってもんよ」


 さっきから知らない地名がバンバン出てくる。土地勘のない公子にはさっぱりわからない。きっと北九州市は広いのだろう。


「キュンは岸和田からどうやって来たってもんよ?」

「駅から南海本線に乗って、なんばで乗り換え…」

「着いたって」


 ソバットは突然電車を降りた。え、私さっき話してたのに。人の話を聞かないわ、行き先をろくに告げないわ不親切な対応である。


 公子は電車を降りる。駅名は枝光とあった。エダミツ、と読むのだろうか。ソバットは公子が降りたのを確認もせずに黙々と歩いていく。他の人を気にせず、我が道を堂々と歩いていくのがソバットの生きざまなのだろう。


 2人はスペースワールドに着いた。原寸大の巨大なスペースシャトルの模型が来場者を出迎えてくれる。太陽の塔と同じぐらいの大きさに見える巨大なモニュメントに公子は驚いた。スペースワールドの周りにも『宇宙人襲来Ⅲ』のポスターがあちこちに貼られている。たしかにコンセプトは同じなので宣伝効果はばっちりだろう。


 スペースワールドは1990年に開園した、コンセプトが宇宙、のテーマパークである。ウォーターアトラクションの激流アドベンチャー惑星アクアやその当時最大傾斜度を誇ったジェットコースター・タイタン、スパイラルジェットコースター・ヴィーナスなどの絶叫系のアトラクションが多く、1997年には年間来場者216万人を誇った。


 ところがそれをピークに来場者は年々減少。2005年には営業権を新日本製鐵からリゾート運営会社の加森観光(本社はなぜは北海道)に譲渡することを発表。再建計画の一環として、翌年にザターンという名前で日本初登場のインタミン社製急加速型ローラーコースターを導入した。お家芸の最新絶叫マシンで集客を図った。


 2008年には年間フリーパスの大幅値下げや、プールなどの新規施設の開設等により来場者数は増加に転じ、2016年には過去最高益を達成している。

 

 ところが同年、事件が発生する。

 

 売り物にならない規格外の魚を鮮魚店から仕入れ、氷漬けにした氷床を設けた園内の「氷の水族館」としたスケートリンクが、「生きたまま氷漬けにした」と勘違いされたことで「命を粗末にしている」と批判され炎上。運営企業が翌日に公式サイトにて「不快に思われた皆様に深くお詫び申し上げます」と謝罪を表明する事態になった。リンクの展示は中止。氷漬けの魚は解凍されお祓いをし、供養した後に肥料や飼料として活用する方針が発表された。

 この事件は、長年さっぽろ雪まつりで氷漬けの魚を展示していたすすきの会場の運営にも飛び火し、こちらも自粛となった。世知辛い世の中である。


 翌2017年にスペースワールドは閉園した。閉園の理由は、地主の新日鐵住金と運営者の加森観光との間で、賃貸借契約の更新交渉が不調に終わったことが原因とされるとの一部報道があるが真偽のほどは確かではない。


 キュンとソバットが向かったのはそんなスペースワールドに斜陽が見え始めた1998年のことであった。きっと、どの北九州市民もこの20年後に閉園することになるとは夢にも思っていなかっただろう。


 2人は入口でそれぞれ入場料を支払った。


「半日しかないからあんまり乗れないってもんよ。だから回数券買うってもんよ」


 ソバットがそう言うのでそれぞれ10回つづりで1回サービスになる11回回数券を購入した。園内はひと気がない。確かにこの寒空の中ウォーターアトラクションやジェットコースターに乗ろうという人はいないだろう。ソバットは特にアトラクションに乗るというわけでもなく、公子をベンチに腰掛けさせるとソバットは尋ねた。


「おいって。何か食べるってもんよ?」

「え?うち、お腹すいたけどそんなに動いてへんしぼちぼちかな?」

「何か食べるって」


 ソバットはそういってふらりとどこかへ出かけた。何も聞いていないに等しい。公子は寒いわ、と思いつつぼんやりと来園客もまばらなスペースワールド内をぼんやりと眺めていたが、すぐにソバットは肉まんを持って帰ってきた。


「おいって、食べるってもんよ」


 ぶっきらぼうに渡す。寒空の下での肉まんはとても暖かかった。公子はつぶやいた。


「…うまいわ」

「おいって、うまいってもんよ?もっと食べるってもんよ。また買ってくるってもんよ」


 ソバットは肉まんをほおばる公子を見てニコニコと笑うと、肉まんを加えたまま立ち上がり、またどこかへ去っていった。公子がぼんやりしていると今度はソフトクリームを両手に持ってやってきた。


「おいって。暑いって。ちょっと脱ぎたいって」


 確かにここに来てから椅子に座ることなく動き回っているので寒くはないとは思うが、脱ぐことはないと思う。ソバットはソフトクリームを公子に二つとも渡した。肉まんの温かさが抜けていく。ソバットはラガーマンのようなトレーナーを脱いだ。その瞬間に強烈なたばこのにおいがした。トレーナーにこびりついている匂いだ。この寒空の下、ソバットはTシャツ一枚になった。Tシャツには「1MARK」と書かれている。あれ、このTシャツどこかで…。


「おいって。アイスくれって」

「は、はい」


 公子はソフトクリームを渡した。今にも雪の降りそうな分厚い雲に覆われた寒空である。しかも、ここは海に近いのだろうか。風がひっきりなしに吹いてくる。体感温度はマイナスかもしれない。こんな中、ソフトクリームは選択しないだろう。


「おいって。溶けるってもんよ」


 この寒さの中ソフトクリームをほおばるソバット。公子は震えながらソフトクリームを無理やり口の中に入れた。


「ところでソバット、そのTシャツどこで買ったの?」

「これってもんよ?」


 ソバットは自分のTシャツを眺めた。この寒い中よくシャツ一枚でやってられるものだ。シャツの中にうっすらと見える胸毛がワイルドさを引き立てている。


「知らないけど誰かからもらったってもんよ。店でバイトしてるときにってもんよ」

「店?それってソバットのオトンが仕事しとる?」


 公子は尋ねた。そういえば、ソバットは父親が脱サラ後に経営を始めたコンビニでアルバイトをしているのだ。学生時代にコンビニでアルバイトしていた経験を買って、福岡の下宿先を引き払ってまで実家に連れて帰ったという。


「店でバイトしてたらよくわかんない人にこのシャツと靴下もらったってもんよ」

「靴下?それってベンガル…」

「そうだってもんよ。よくわかったってもんよ。さすがキュンってもんよ」


 ソバットは笑った。あのTシャツ、家族だけでなく福岡のソバットまで着ているとは。どこまで広がっているのか。


「おいって。何か乗るってもんよ」

「そやね…」


 せっかく回数券を買ったのだから何かアトラクションには乗りたい。でも寒いのであまり屋外にいるのもしんどいのだが。目の前に子供用と思われるジェットコースターがあった。


「あのジェットコースターはどや?」

「おいって。ジェットコースターはぐるぐる回るから怖いってもんよ」


 浅草花〇しきにありそうな、背の低い幼児が乗れそうなジェットコースターなのだがソバットは嫌がった。隣には誰も乗っていないティーカップがぐるぐると回っている。


「あのティーカップはどうや?」

「ぐるぐるまわると気持ち悪くなるってもんよ」

「観覧車は?」

「回るし高いところは嫌いだってもんよ」


 ソバットは目の回るアトラクションは苦手で、しかも高所恐怖症のようだ。そもそも遊園地のアトラクションはそんなものばかりなのだが、なぜこんなところに私を誘ったのだ?突然ソバットが口を開いた。


「おいって、デートといえば遊園地だってもんよ」

「え?」


 公子は自分の考えを見透かされたような気がした。ソバットは続ける。


「デートは遊園地だってもんよ。だから選んだってもんよ」


 ろくにアトラクションに乗れないのに遊園地に誘うなんてなんてワイルドなの?ふらふらと閑散とした園内を歩いているとソバットが何かを見つけた。


「おいって。あのメリーゴーランドに乗るってもんよ」

「ソバットはさっきぐるぐる回る乗り物はだめって言わんかった?」

「あれは馬にまたがるから大丈夫だってもんよ」

「そう」


 回転するものはダメなくせにメリーゴーランドは大丈夫だという理屈はよくわからなかったが、きっとその意味不明なところもソバットの魅力なのだろう。二人は誰も乗っていないメリーゴーランドに入ると、無言で馬に乗った。いよいよ細かい雪が降り始めた。寒い。


 メリーゴーランドは実は誤った日本語表記であり、正式には「メリー・ゴー・ラウンド(merry-go-round)」という。イギリスではラウンダバルト、フランスではカルーセルなど国によって表現が変わり、日本では回転木馬と表記するのだが、某千葉の埋め立て地の施設ではフランス語読みをする。ここでは「メリーゴーランド」に統一する。


 けだるそうな茶髪の係員が「発車します」とやる気なくアナウンスする。ぐるぐるとメリーゴーランドは回る。子供と旦那を置いてはるばる大阪から九州まで来て、週末なのに閑散とした遊園地で、しかも雪の中メリーゴーランドに乗るなんて。公子は不思議な気分になった。隣のソバットを見ると、顔面蒼白状態で馬の首にしがみついていた。寒さのせいではない。メリーゴーランドの作動時間はたかだか五分ぐらいなのにソバットはしんどそうだった。


 メリーゴーランドの動きが止まった。遠くから右翼の街宣車の声が聞こえた。


「停車します。完全に停車するまでたたないでください」


 茶髪の、おそらく高校生バイトであろう係員がやる気のない声でアナウンスし、ブザーを鳴らした。


「まもなく停車します…って、あ!あ!」


 係員が驚きの声を上げた。公子は正面しか見ていなかったのでわからなかったが、ソバットがメリーゴーランドの停車中に馬から落ちたようだった。公子は横を向いて叫ぶ。


「ソバット!」

「大丈夫っすか?」


 けだるそうに仕事をしていた茶髪の係員が叫んだ。停車中のメリーゴーランドを緊急停車させたため、ガタン、と衝撃が走る。公子が近寄り、係員がよたよたと駆け寄ると、ソバットは右手を高く上げた。


「大丈夫だってもんよ」


 右手を高く上げるしぐさはどこかで見たプロレスラーのようだったが、誰なのかは思い出せなかった。ソバットは大丈夫だというがどう見ても大丈夫そうには見えない。落ちた拍子で靴が脱げたのか、白い靴下に「BENGAL」と書かれているのが見えた。そのまま何とか立ち上がると、ふらふらしながらメリーゴーランドを出ようとした。


「お客さん、靴をうぅっ!」


 2人が出ようとするとき、茶髪の係員が声をかけたが、なぜかうずくまっている。どうしたのだ?ソバットは振り返らずによたよたと歩いていき、一番近いベンチに座った。唯一の健常者である公子はソバットを確認すると茶髪の係員のところに向かった。


「何や、どうされたんですか?」

「ぱねーっす。その靴」

「靴?」

「靴のにおいがぱねーっす。こんなに臭いの産まれて始めてっす」

「靴って、あ、靴履いてへん」


 公子がベンチにぐったりと座っているソバットの足を見ると、ベンガル靴下が見えた。


「すみません」


 と言って靴を拾った。


「ヴっ」


 公子は一瞬めまいがした。靴を落とす。


「ぱねーっすよね。もうバリ臭。バリ越えてバリバリバリっすよ。こんなの昔バイトしてたラーメン屋でとんこつラーメンのスープが暑さで腐ったとき以来っすよ」


 茶髪バイトはよくわからない例えを出して手を振った。冬のこの寒さでこの匂いである。夏はどれほどのものだろうか。公子は意を決して靴をつまむと大急ぎでベンチに向かい、ソバットの目の前に投げた。ソバットは濁った眼をして靴を履いた。公子はソバットの隣に座る。場内アナウンスが鳴った。


『本日もスペースワールドにご来場誠にありがとうございます。誠に申し訳ございませんが、メリーゴーランドは保守点検のため、しばらく運転を停止させていただきます。誠に申し訳ございません』


 公子はこんな時に遊園地のアトラクションは「保守点検」という言葉を使うんだ、と勉強した。隣ではぐったりとソバットが座っている。アトラクションが苦手なのに無理して来るから…。公子は母親に似た感情をソバットに抱きつつあった。


 その後、何とか歩けるようになったソバットと公子は遊園地内を特に何かのアトラクションに乗るというわけでもなくうろうろしていた。冬の1日は短い。午後4時を回るともう夕方である。1日が終わる。公子は焦った。ここから大阪まで最低3時間はかかる。そろそろ帰らなければ帰宅時間が21時を過ぎてしまう。久しぶりの女子会と言って家を出てきたがさすがに遅いと怪しまれる。


「ソバット、うち…」

「おいって。帰るってもんよ?」


 ソバットは本能的に公子が帰ることを悟ったのだろう。そそくさと出口へ向かった。結局、2人が遊園地で乗ったのはメリーゴーランドだけで、最初に買った10回つづりの回数券もすべて使わずじまいだった。


 小倉駅の新幹線改札口で別れるとき、公子はソバットにふと尋ねた。


「また、会えるかいな?」

「次は俺っちが大阪行くってもんよ」

「やった。今度はうちが大阪案内するわ」

「どこ行くってもんよ?」

「宗右衛門横丁。ちょっと鄙びた界隈だけど大阪らしさを満喫できるわ」

「おいって。よかったって。これからは一杯関西行くってもんよ」

「やった」


 公子は自分がどんなことをやってしまったのか。そんなことはどうでもよかった。ただ、家族とは別の居場所を見つけた喜びを感じていた。

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