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1998年2月 福岡県北九州市

 私が伊豆弓彦と出会ったのは大学の3回生だったころだと記憶している。


 世紀末、世間がUFO騒動で荒れていた時代である。どこかの星のエイリアンに地球が侵略される『宇宙人襲来』という映画はシリーズ化されもう今年で第3弾である。第3弾も大ヒットを記録していた。3年もたてばある程度収まるはずの騒動は収まるどころか各地でさらに燃え上がりつつあった。謎の飛行物体が毎日のように目撃され、政府もいよいよ重い腰を上げて具体的な対策を行おうを始めたところだった。


 その当時の私は精神的に病んでいた。


 高校時代に恋愛・部活そっちのけで猛烈に勉強したものの、猛烈さに結果が付いてこず、滑り止めの大学に進学することになった。その後そのうっぷんを晴らすかのように大学のオーケストラサークルに入部したのだが、サークル内で古典的なクラシックを演奏したい伝統を守る保守派と、ポップスでもゲーム音楽でもよいからハイカラな音楽を演奏したいミーハーな革新派の対立があった。私は単に音楽を楽しみたいがために入部したのだが、この争いに巻き込まれ、次第に消耗し、いつしか幽霊部員となり、バイトばかりする不健康な学生生活を歩むようになっていった。


 バイトでも凶悪な主任に目を付けられ、シフトを一方的に入れられる状況だった。今でいうブラックバイトである。大学から1人暮らしをしていたアパートに帰ると、ついていた留守番電話には『明日朝9時仕事。ヨロシク』という人の予定も予定も減ったくれもない一方的なバイトの主任の留守番電話が入っているのも日常茶飯事だった。


 ブラックバイトとサークル内の内部抗争は次第に私の精神を蝕み、学生の本文である授業にすら欠席しはじめた。一週間全く授業に出ないという時もあった。自堕落生活まっしぐらである。それでいて体力もあり、バイト生活なのでそこそこのお金はあってしかも元気である。毎日欲望の赴くままに生活していた。


 私の学生生活に劇的な変化をする男と知り合ったのはそのころのことである。


 穴生≪あなき≫なる浅黒い顔をした、一歩間違えば歌手の松崎し〇るに似た男と知り合ったことだった。穴生は何故か私と気が合った。そんな穴生はサークル内の保守・革新の派閥闘争に喜んで参加した。結果、革新勢力の主要メンバーとなって保守派を翻弄、保守派のリーダー格お気に入りの後輩数人を言葉巧みに篭絡し、自らの退団に合わせて篭絡した後輩数人とまとめて退団するという暴挙に出た。退団後、穴生と故意にしていた私は以前にもまして保守派からにらみつけられることになる。


 ブラックバイトに時間を取られ、ろくにサークル活動に参加していなかった私は精神的に参っていた。そんなころに退団した穴生からオーケストラを内部分裂させるようなテロまがいの話やブラックバイトの話をするようになった。実情を友人に吐露することにより、私は精神的に落ち着いていった。サークルにも復帰し、授業も真面目に受け始めた。


 そんな頃である。保守派先輩の子飼いの後輩をまとめて退団させた穴生が新たな刺客を送り込んできたのは。


 名前を伊豆弓彦といった。入団当時は私と同じ3回生だった。彼は良くも悪くも「本能的」な男であったと記憶している。


 弓彦はサークル内の保守・革新勢力の派閥争いがあることは何となく理解できていたかもしれないが、そもそも音楽とは何かよくわかっていなかったようである。彼はコントラバスを担当していた。コントラバスという楽器を選んだ理由も「なんとなく」と言っていた。


 よくよく聞いてみると「ベース」をやったことがあるという。「ベース」イコール「コントラバス(ウッドベース)」ではあるのだが。ギターのベースはコントラバスとは違う。一説によると穴生の指示で送り込まれていたらしい。保守・革新問わずオーケストラ自体をひっかきまわしてくれるだろうという自爆テロ要員である。


 弓彦の出現に保守派は驚愕した。穴生は何を考えているのか、と。弓彦は穴生の先兵であると保守派は確信していたが、彼の行動を見るたびに保守派の驚愕は平穏に変わっていった。「この男は変人だが無害だ」そう保守派は決めつけ、弓彦を保守派に近づけようと、かわいい後輩を接近させたり先輩の威厳を持って飲み会に誘うなど「弓彦は気に入られている」という権威付けを行ったりとあの手この手の作戦で保守派に取り入れようとしていた。


 ところが、弓彦はアクロス福岡での定期演奏会ののち、突然保守派の子飼いの後輩の数名を連れて退団したのである。穴生と同じ行動をとったのだ。理由はわからない。おそらく弓彦の「本能的」な行動と、仲良くなった後輩が「弓彦さんが辞めるなら私たちもやめる。弓彦さんについていく!」というよくわからないカリスマ性があったからかもしれない。


 ともかくも穴生と弓彦の2人で散々サークルを引っ掻き回したのは事実である。1年足らずで弓彦のサークル生活は終わった。


 4回生になったころ、弓彦の身辺は激変していた。旅行代理店に勤めていた父が早期退職を勧められ、退職金を持って某コンビニチェーン店を開業したのである。弓彦の学生アルバイト先もコンビニだったため、即戦力として店の手伝いをするようになった。


 ただ、学生の本分は学業に専念することである。結果、大学近辺の寮と実家の往復という二重生活が始まった。


 折しも就職氷河期の真っただ中であった。第二次ベビーブームに生まれた私たち『団塊ジュニア』は、人口が多い。しかもバブル崩壊のあおりを受けて就職口は少ない。そんな絶望の中、就職活動を始めていたのである。企業が就職を絞る中、学生たちは必死になって、もうどこでもよい、という勢いで就職先を探していた。100通履歴書を送り、面接までたどり着けるのは3件あるかないかという友人もいた。そんな中、弓彦ははからずも父の経営するコンビニの手伝いという確実な就職先を見つけていたのである。周囲からは羨ましがられていた。


 事件が発生、というか事件が露見したのはある飲み会の席であった。泰彦と穴生、その他数名で酒を飲んでいた時のことである。弓彦はそれほど酒が強くないのだが、飲ませれば飲ませるほどコサックダンスを踊ったりポリ袋をかぶったりと面白いことをし始めるのでみんな躍起になって酒を飲ませていた。かなり酒量が入ったとき、弓彦は何度かメールを確認するようになった。


 穴生が尋ねた。


「弓彦君、何をやっているの?」

「チャット」

「チャット?」


 私たちはよくわからなかった。


 チャット (chat) とは、インターネットを含むコンピュータネットワーク上のデータ通信回線を利用したリアルタイムコミュニケーションのことである。chatは英語での雑談のことであり、ネットワーク上のチャットも雑談同様に会話を楽しむための手段である。ツイッターやラインなど様々なスマートフォンのアプリを知る、20年後の世界を生きる私たちにとっては死語のようなものであろう。


「誰とやってるの?かわいい女子高生?弓彦君はモテモテだからね」

「イケメンだからね。ワイルドだし」

「そうそう。そのワイルドな仕草に惚れる女の子もいっぱいいるよね」


 私たちは弓彦をそう褒めたたえた。人間だれしも褒められれば喜ぶものだが、泰彦は褒めたたえると調子に乗ってあらぬことを喋りだす癖があった。弓彦はニヤニヤしながら酒を飲むと、携帯電話で返信を打ちながらつぶやいた。


「おいって。実は…人妻って」


 一瞬場の空気が静まり返った。私たちは顔を見合わせた。ボソッとつぶやいた弓彦はしまった、という顔をした。


「その人は若いの?」

「……」

「どうして仲良くなったの?」

「……」

「ハンドルネームって持ってるの?」

「…ソバット…ってもんよ」


 それからというものの、私たちの話を弓彦は聞こうともしなかった。おそらく調子に乗って『人妻』というワードを発してしまい、失敗した、と思ったのだろう。人妻ということで背徳の気持ちもあったのかもしれない。ともかくも、私たちは、知り合ったというチャットのサイトの名前と弓彦のハンドルネームを聞き出した。何も話そうとしない弓彦はもう用済みだったのだ。


 私たちは半ば強引に会を解散する形をとって酩酊した弓彦だけをタクシーに乗せ(一応タクシー代数千円を渡しているが、会場から自宅まで30分以上ある。深夜料金なので金額を見ると酔いがさめるはずだ)、川岸というその当時として貴重な、ネット環境が整備されたパソコンを持つ男の家に集まった。


 私たちはコンビニで大量の酒とつまみを買い込み、川岸の家で弓彦がチャットをしているサイトを探り当てた。


「これですな」


 川岸はニヤニヤしながらサイトを探し当てると、『ソバット』という検索ワードを記入し最近のチャット内容まで見つけてしまった。


ソバット『おいってもんよ』

キュン『ああ、ソバットね』

ソバット『おいって、キュンはどこに住んでるってもんよ?』

キュン『大阪。大阪の岸和田』


鬼軍曹『岸和田ってだんじりの?』

キュン『祭りで死人出るとこ』

ソバット『おいって。死人出る祭りって大変だって。河童神社の祭りじゃ死人出ないってもんよ』

鬼軍曹『祭りで死人はよくある話』


ねこだまし『そうそう。長野の御柱祭りも』

スネヲ『あれは死んであたりまえ』

鬼軍曹『山から真っ逆さまだからな。神様がいけにえを欲しているんだよ』

キュン『こわいわ』


ねこだまし『だんじりはちゃんとやれば大丈夫』

キュン『ちゃんとやんないから困ってるのよ』

ソバット『おいって河童神社はそんなことないって』

鬼軍曹『じゃ、しごと』


ねこだまし『これから子供迎え行ってくるわ』

キュン『子供さん何歳?』

ねこだまし『もう保育園の年長さん。またねー』

スネヲ『おやつ買いに行ってくる。またね』


 ―鬼軍曹さんが退席しました。

 ―ねこだましさんが退席しました。

 ―スネヲさんが退席しました。


 内容を見ながら川岸がつぶやく。


「こんな内容を数回繰り返してますな。たわいもない世話話を数人で話して、伊豆弓彦くん、ああ、ここではソバットがちょっと変なことを言って、話している数人がすっとどこかへ行ってしまうという感じです。はい」


 川岸はチューハイの缶をぐびりと飲んだ。私は尋ねた。


「それって弓彦君が空気が読めないってことなのかな?」

「空気が読めないというか。独特な雰囲気を持っているんですが他の人が付いていけないところがありますからな」

「でもこれ見てると、このねこだましさん、弓彦くん、いやソバットがいなくなるとまた出てきてる。仕事があるって言ってた鬼軍曹さんも」

「そんなもんですよ」


「嘘ついてるんですか?例えば男が女に成りすましたり女が男に成りすましたり」

「ああ、それネカマ」


 穴生がもう3本目になろうかというビールに手を付けた。私が尋ねた。


「ネカマ?」

「ネットオカマ。通称ネカマ。わかりやすいでしょう?」


 川岸は私の質問に答えると、するめに手を付けた。穴生は目を皿のようにしてソバットのチャット内容を眺めている。何かネタがないかと探しているようだ。


「嘘も愛嬌です。ネットの世界じゃ誰も見てませんから。でも、そのうちテレビ電話みたく会話もできるようになるでしょうから、そんなこともできなくなるでしょうね」


「きっと、ネカマも死語になるんでしょうね」


 川岸はしみじみとつぶやいて、缶チューハイをくぴりと飲んだ。


 私はなんとなくインターネットという壮大で、最新の世界に足を踏み入れたような、未知の体験をしている。そんな気分になった。


「そうそう。このキュンさん、歳は比較的若いみたいですな。たぶん弓彦くんと2つぐらいしか離れていない。あと2歳になる男の子が一人いるみたいです。専業主婦みたいでいつでもメールしてますな。時間帯見たら昼間の時間が多いでしょう?時間に余裕があるんですな。住んでるとこは大阪府岸和田市で。ああこれはさっき見ましたな。旦那さんの話があんまり出てきていないんで、きっと夫婦仲はよくないんでしょう。チャットにはまる典型ですな」


 川岸がチャットの内容を簡単に説明してくれた。パソコンに詳しくない私には大変助かる。


「チャットでもUFOの話題になってる。どこでも人気なんだな」


 隣で川岸とパソコンを眺めながら穴生が言う。私はこの不倫騒動がまさかの展開になるとは思いもしていなかった。

 

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