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1998年11月 大阪府岸和田市

 国広公子は緊張していた。

 

 まさか、チャットで知り合った大学生と会う約束をしてしまうなんて。


 ことの発端は、付き合って2年、結婚して2年になる夫がここ数年最近話題のUFO騒動にはまってしまい、天体望遠鏡やらUFO関連の雑誌を山のように買い込み、たまの休みも子供の世話をせずにUFO関連サークルやら天体観測に出てほとんど家にいない。早くも結婚生活に嫌気がさしたことにある。


 専業主婦の公子は子供の世話と家事さえやればあとは比較的自由だ。その空いた時間はワイドショーと韓流ドラマを見ることが多いのだが、その時間、父に紹介された携帯電話のチャットをやるようになった。家の周りは相変わらず日本青年社の街宣車が軍歌を流しながらうろうろしている。


 「キュン」という公子の下の名前をちょっとアレンジしただけの個性のないハンドルネームを作った。小学校時代のあだ名だ。変な輩がいないか恐る恐る始めたのだが、チャットの中にいる人は比較的普通の人で、公子の悩みにも真摯に答えてくれる人が多かった。


 たまに「荒らし」と呼ばれ、チャット内の会話に因縁を吹っかけて散々罵倒した挙句、去っていく人がいるが、そういうのは相手にしない。無視すればいなくなるので、時間がたてば復帰するようにしている。そのチャットの中で、公子の悩みに一番真摯に回答してくれるのが、「ソバット」というハンドルネームを持つ大学生だった。


 ソバットは福岡の大学に通う学生で、いつもは福岡県北九州市というところに住んでいるらしい。北九州は九州の北で北部九州ということなのか、福岡の北なのかよくわからなかったが、地図を見てそんな名前の都市があることを知った。


 彼は能動的でわかりやすい性格のようで、公子が、「最近夫が子供の世話をしない。どうしたらよいか」と質問すると、普通は「それは夫が悪い」「ちゃんとやらせろよ」と返事が来る。ところがソバットは「おいって、夫がやらないなら自分がやれってもんよ」と返してきた。何の解決にもなっていないのだが、そう思わせない迫力というか、勢いを感じる文面である。


 また、「両親が年に数回海外旅行に行くのでお金が無くならないか心配している」と書くと、「止めてやれよ」「行かせてあげたら」と賛否両論だったが、ソバットは「海外は危険だから受け身をして体を鍛えるってもんよ」と予想の斜め上をいく返事が来た。そもそも公子が海外に行くわけでもないし、しかも受け身は柔道の技だったはずだ。床をパンパン叩いて体が鍛えられるのだろうか。もしかしたら体幹を鍛えるという意味なのかしら。一度考え始めるとソバットの回答は哲学的問いに満ち溢れている。


 こういう不思議なやり取りをするうちに、何故か公子はソバットに惹かれるようになった。理由はよくわからない。ソバットが本能的にコメントするように、公子も本能的に惹かれるようになったのかもしれない。


 公子とソバットはメールアドレスと電話番号をやり取りし、連絡を頻繁に取るようになった。かつては書簡をやり取りする、言わば文通が今では電子メールである。世の中も便利になったものだと思う。ちなみにラインやツイッターなどのソーシャルネットワークサービスが普及するにはこれより20年後を待たなければならない。


キュン「ソバットはどうしてソバットっていうハンドルネームなの?」

ソバット「おいって。ソバットはローリングソバットからって」


キュン「ローリングソバット?」

ソバット「プロレスの技ってもんよ。ぐるぐる回って決めるって」


キュン「ソバットはプロレスが好きなの?」

ソバット「男同士の裸のぶつかり合いに熱いものを感じるってもんよ。将来はスポーツ新聞でプロレス専属の記者になるってもんよ」

キュン「そうなの」


ソバット「そのために大学で日本語の勉強をしているってもんよ」

キュン「そうなの。私はあんまり難しいことはわかんないな」


 公子は短大を卒業しただけなので、大学に行けるのはほんの一握りのエリート中のエリートだと思っている。しかも日本語の勉強となると高校で習った古文や現代文とはまた内容が違うのだろう。就職先は国語の先生ぐらいしかイメージがわかない。


キュン「日本語の勉強ってどんなことをやるの?」

ソバット「今はゼミで俳句や川柳を読んでいるってもんよ」

キュン「俳句?どんな?」


ソバット「大波乱 座布団乱舞 千秋楽」

キュン「へえ」


ソバット「ゴレンジャー 有名なのは ペギー葉山」

キュン「へえ」


 公子はなんだかよくわからないが驚いた。相撲の千秋楽で座布団を投げるのはマナー違反だと聞いたことがある。ペギー葉山は歌手だったからゴレンジャーではないと思った。大学のゼミで俳句を詠むなんて、なんて高尚なことをやっているのだろうか。そもそもこれは俳句なのか?新聞の社会面の隅の天気予報の隣にくっついている読者川柳と似たようなにおいを感じるが。


ソバット「卒論は古事記をやるってもんよ」

キュン「ソツロン?コジキ?」


ソバット「卒論は卒業論文で、大学生はみんな卒業するときに論文を書いて出るってもんよ」

キュン「そうなの」


 夫の富幸は確か大学の建築学科を卒業しているから、きっと卒業した時に家業のコンクリートに関する論文を書いているはずだ。


キュン「それからコジキって?」

ソバット「古事記は日本で一番古い本だってもんよ」


キュン「そのコジキを読むの?読めるの?すごいね。どんな本なの?」

ソバット「おいって。神話だってもんよ。古事記を読んで卒論を書くって」


キュン「コジキをそのまま読んで書いたら論文にならないよね。うちの旦那は家業のコンクリートを合成樹脂や鉄で繊維補強したらどれくらい強度があるかをずっと実験しながら調べたって言ってたけど、神話でどうやって論文になるの?」


ソバット「愛欲の世界を書くって」

キュン「神話の中の男と女の関係ね。ロマンを感じるわ」


 古事記なんて一般人の会話に出てくる内容ではない。俳句をゼミで読み、古事記を研究するとは日本文学の奥深さを感じる。それがスポーツ新聞の記者とどうつながってくるのかはわからないが、深い教養を身に着けていればきっと記者人生何らかの役に立つことがあるのだろう。


 そんな教養があり、それでいてワイルドな一面もあるソバットに会うという話が持ち上がったのは秋も深まる11月のことである。相変わらず夫の富幸は仕事の帰りも遅く、休みの日はUFO散策で家にはいない。家の外には、最近活動が盛んになってきた日本青年社という右翼団体の街宣車が狭い岸和田の町を縦横無尽に走り回っている。


 聞くところによると、だんじり対右翼団体の戦いが激しさを増しているらしい。先日はだんじりチームの鉄砲玉がいきり立って突然右翼団体目がけて発煙筒を投げつけて警察が出る騒ぎになった。被害を受けたのは右翼団体である。裁判沙汰になる寸前だったが両者の賢い人たちが話を丸く収めたのだろう。だんじりチームは当面市街地での練習は自粛ということになった。

 

 これで話は収まったかに見えた。

 

 ところが、調子に乗った右翼団体の活動がさらに活発になった。これでもかというくらい岸和田市内の街宣を続けている。家で子供と二人で遊んでいても息が詰まるので実家に帰ると、パーマをあてるカーラーを2、3つ付けたままの母が例の「1MARK」シャツを着てトドのように寝っ転がったまま、せんべいを食べながら韓流ドラマを見ていた。


「いらっしゃいまちぇ~」


 母は孫に気づくと、満面の笑みで駆け寄った。孫に食べかけのせんべいを渡す。


「今日は富幸さんどうたの?」

「よくわかんないUFO研究会や」

「ほんま?あいかわらず好きやんねぇ。最近は『宇宙人襲来Ⅲ』なんて映画もあるから人気なんや」


 そう言って母はカーラーを揺らしてゲラゲラと笑ったが、いつも残されてる人の気持ちにもなってほしい。


「その変なTシャツはどうしたん?」

「あ、これ。ペアルックや。ドイツで買ったんや。靴下もバングラディシュで買ったんや。ペアルックや」


 あの変なTシャツは富幸に渡しただけでなく両親も買ったのか。見知らぬ東洋人に3着も買わせるとはよっぽど商売上手なドイツ人がいたのか。それともそんなにあのTシャツに魅力があるというのか。


「一部の業界でしか流行ってないけんレアなんや」


 母は巨体を揺らして笑った。ただ、売れていないだけということではないのだろうか。公子はいつも母と一緒に同じ番組を見ている父の姿がないことに気づいた。


「おとんは?」

「おとんは1泊2日で台湾行っとるわ。時代は韓国なのに。これから鶴橋行ってサムゲタンでも食べん?」


 韓国料理といえば石焼きビビンバぐらいしか思いつかないし、キムチは味がきついので幼児には食べさせられないので敬遠してしまう。


 そういえば最近市内を徘徊している日本青年社の本部は台湾にあるというのをニュースでやっていたのを公子は思い出した。


「あのうるさい街宣車」

「日本青年社や」


 母は子供に夢中で振り向きもしない。


「おかん、あれの本部は台湾か韓国やなかった?」

「知らん。天皇陛下ばんざーい、なんて言ってる右翼団体の本部がどうして台湾なんや?」

「そうやけど、おとん台湾行ってるんでしょ?」

「そうや」


「あの街宣車と関係あるんちゃうやろか」

「おとんはただの旅行や。ま、おとんの仕事柄、街宣やってる人たちと仲が良くたって不思議じゃあらへんわ。右翼も左翼も街宣車乗っとる人はみんな根っこは同じ極道なんや」


 母はせんべいをバリバリ食べながら孫を眺めている。そんな孫はおばあちゃんが買ってくれた山のようなおもちゃで黙々と遊んでいる。公子はテーブルに座り、紅茶を淹れ、一服するとぼんやりとおもちゃで遊ぶ息子を眺めていた。


 そんなとき、メール着信音が鳴った。ソバットからだ。最近の着信履歴はみんなソバットである。


ソバット「おいって。日本青年社とかいう街宣車が家の周りうろうろしててうるさくって卒論研究できないってもんよ」


タイムリーな話題である。確かに最近街宣車が急増している。そんなに規模の大きな組織なのだろうか。


キュン「うちも多いわ。最近」

ソバット「あれは右翼団体ってもんよ。右翼は右だから日本が大好きってもんよ。あと左翼団体ってあって左翼は日本が嫌いってもんよ」


キュン「ばんざーいって言ってるのは?」

ソバット「どっちもって」


キュン「どっちも?」

ソバット「右翼は日本大好きばんざーい、左翼は日本大嫌いばんざーいって言ってるってもんよ」


キュン「そうなの?じゃあ何でばんざーいっていうの?」

ソバット「気合い入れてるってもんよ」

キュン「気合い?いくぞ!おお!って言ってるの?」


 さすがソバットである。気合いですべてを解決するところはいつも同じだ。気合いがあれば私は大金持ちになれるだろうか?幸せな結婚生活が送れるだろうか?哲学的な問いである。ソバットは続ける。


ソバット「そうだって。気合いがあればなんでもできるって猪木師匠が言ってたってもんよ。猪木師匠は人生の先輩だってもんよ」

キュン「イノキって?」


ソバット「前にも話したけどアントニオ猪木師匠ってもんよ」

キュン「ソバットはアントニオ好きだもんね」


ソバット「おいって、コンド、合わないかって、もんよ」

キュン「え?」


 突然脈絡もなく何を言い出すのだ?日本青年社の街宣車はどうなった?アントニオ猪木師匠はどうなった?公子は淹れたての紅茶が入ったカップを落としそうになった。ソバットの文章は明らかに動揺している。


キュン「うち、九州行ったことないんやけど」

ソバット「シンカン、センニ、乗ればすぐって!!??」


 句読点の付け方がおかしい。ソバットは動揺している風だったが、公子も動揺していた。息子はずっとおもちゃで遊んでいるし、母は韓流ドラマに夢中だ。悟られてはいない。


 ソバットは確か福岡の北九州という町だ。確か小倉という新幹線の駅がある。新大阪から3時間ぐらいで到着するはずだ。子供も、ママ友と一緒に京都に出かけると言って出かければ母は預かってくれるはずだ。時間はいくらでもある。平日だろうと休日だろうと朝早く出勤する夫を送り出してしまえば、もうフリーだ。帰りは多少遅くなってもよい。夫は天体観測で帰りは深夜だ。かたや、相手は学生だ。講義のない週末を選べば問題ない。


 何を会うことを前提にこんなことを考えているのだ。


 ソバットとの密会には好条件が整いすぎている。だが、それでよいのか。公子は23歳、ソバットは大学3回生らしいので21歳だろう。年齢が2つ下とそんなに変わらないとはいえ、仮にも公子は子持ちの人妻である。


 これは、不倫ではないか。


 夫とは職場結婚、しかも2人とも入社早々に付き合い始め、授かり婚なのだが、自由恋愛の末の結婚である。夫を愛していないことはない。ただ、最近は相手にしてくれない。子供も私も置いて自分の趣味に邁進する夫は、私のことを愛してくれているのだろうか。様々な思いが募る。


 本当に会ってよいのだろうか。 

 

 ソバットは学生である。キャンパスには美人女子大生もたくさんいるだろう。言動から見ればワイルドなソバットはきっとモテモテなはずだ。自分が子持ちの主婦だし、見た目もそんなに美人ではない。自分でいうのもなんだが、のっぺりした顔である。平安貴族のようだと言われたこともある。そんなことはわかっているはずなのに、どうして会いたいなんて。

 

 公子は苦悩する。


 今までメールでは近況報告や趣味の話しかしたことはない。恋愛の話はしたことはない。きっとこれは遊びだ。遊びだ。私も日帰りで九州の旅に出かければいいんだ。1回だけ、1回だけ合えばソバットは落ち着くはずだ。そう、私も。

 

 公子はおどおどしながらメールした。


キュン「いいよ」

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