第4話 塩素の匂いとショートボブ
浅野と契約を結んだ次の日の朝、俺が音楽を聴きながら一人で学校に向かっていると、後ろから肩をポンポンと叩かれた。
振り向こうとしたとき、頬にツンと指が当たる。
「おはよー!」
浅野が笑顔でそう言った。
俺はイヤホンを外しつつ、「おはよう」と返す。
「今日さー、体育あるじゃん。そろそろプールかなー?」
「うーん、どうだろうね」
「私の友達が先週の土日に先輩たちとプール掃除したんだって」
「ふーん。じゃあ今日からプールかもな」
「深瀬くんはプール好き?」
「正直好きではないかなー。浅野は?」
「そうなんだー。私も――」
たぶん浅野は「私もそんなに好きじゃない」と言おうとしたのだと思う。
いつも通り同調しようとして、思い出したのだ。
俺の前では合わせようとしなくてもいいということに。
「えっと、結構得意かな」
好き嫌いでなく、得意というのが彼女の水泳の授業に対する素直なイメージなのだろう。
「へえ、意外。みんな『日焼けする』とか『髪が痛む』とか言って、嫌がりそうなのに」
「あはは、正解! 私もみんなの前ではそう言ってるし、実際日焼けは最悪なんだけど……。でも、水の中にいる時って、何も考えなくていいでしょ? だから、別に嫌じゃないんだよね。みんなにプール嫌いって言っちゃってるから、これ内緒ね?」
浅野はそう言って、笑顔で人差し指を口元に当てた。
「わかった。……誰にも言わないよ」
浅野が「ふぁー」とあくびをした。
「てか、今日めっちゃ眠いんだけどー。」
昨日、SNSをフォローしあった俺たちは、夜遅くまでメッセージでやりとりをしていた。
女の子とメッセージでやり取りしたことなんてなかった俺は、当然イオに夜遅くまで付き合ってもらった。
「深瀬くんが寝かせてくれないからー」
「変な言い方するな。……というか、深夜2時くらいに送ってきた『ふふふぬ』って何だよ。怖いんだけど」
「あー!! もー、それは見ちゃダメなやつ!! 削除したと思ったのに!」
浅野が顔を真っ赤にして俺の肩をポカポカなぐる。
「眠気と戦いながらメッセージ打とうとしたら、変なの打っちゃったの! 2時まで話し続ける深瀬くんが悪いの!」
「そうですか。それは悪かったですねー」
どちらかと言うと話を終わらせてくれなかったのは浅野の方だ。
スタンプ一つで終わらせればいいものを、彼女は律儀に、あるいは楽しげに、新しい話題を次々と放り込んできた。
「あー、そろそろ学校着いちゃうね」
「だな」
「一緒に教室入ったらバレちゃうし、私先に行くね?」
「ああ、また後で」
「……うん。また後でね!」
彼女は嬉しそうに手を小さく振った後、少し駆け足で学校に向かった。
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玲奈の予想通り、その日の4限目はプールだった。
玲奈は授業が始まる前こそ、「プール最悪だよねー」と友人たちと談笑していたが、得意と言っていた通り、見事な泳ぎを見せていた。
クラスでもかなり早い方かもしれない。
一方、本当に水泳が苦手で嫌いな俺は、できるだけ泳がなくていいように、プールサイドをゆっくり歩いたり、他のやつに泳ぐ順番を譲ったりして時間稼ぎをしていた。
それでもヘトヘトになった俺は、チャイムと同時にプールサイドのベンチに座り込んだ。
女子生徒たちが「前髪やばい!」「早く鏡見たいんだけど」など騒ぎながら、濡れた顔をタオルで隠し、更衣室に走っていく。
その集団についていくようにプールサイドから出ていく浅野の後ろ姿を見送ったところで、俺の隣に一人の女子生徒が座った。
「あー、疲れたー、ちょっとここで休憩してもいいー?」
「うん、いいけど」
黒髪のショートボブの彼女、綾瀬千夏はクラスでも不思議な立ち位置にいる生徒だ。
クラス内のいわゆる1軍グループにいるイメージはそんなに無いのだが、女子のリーダー格の高田や、浅野とは、親しい関係を築いているようだし、校内ではよく3年生のグループの中に混ざっているのを見る。
クラス内カーストの外側にいつつ、スクールカーストの頂点に君臨しているような、そんな感じ。
「ねえ、昨日、玲奈と一緒に帰ったらしいけど、深瀬くんと玲奈って付き合ってるの?」
ドキッと心臓が強く跳ねる。
イヤホンをしていない今、そういう話になるのはかなりまずい。
「いや、そういうのじゃないよ」
「ふーん。玲奈って本心をあんまり話してくれないからさ。深瀬くんに聞こうと思ったんだけど…、深瀬くんも隠すタイプ?」
綾瀬がすこし前かがみに距離を詰めつつ見つめてくる。
俺は反射的に体をのけぞらせた。
綾瀬の髪から滴り落ちた水滴が俺の太ももにあたって弾けた。
「そんなんじゃないって、本当に」
「そっか、なら、そういうことにしとく」
綾瀬はくすくすと笑いながら、濡れて束になった前髪を無造作にかき上げた。
他の女子たちが必死に隠そうとしていた「崩れた姿」を、彼女はあえて楽しんでいるようにさえ見える。
滴る水滴が彼女の白い首筋を伝って身体へと流れ落ちていく。
「……疑ってるのか?」
「ううん。ただ、玲奈が誰かと一緒に帰るなんて珍しいなーって思っただけ。あの子、誰にでも優しいけど、自分のテリトリーには絶対誰も入れないでしょ?」
間違いない。
綾瀬は浅野が普段仮面をつけていることに気づいている。
気づいたうえで助けない選択を取っている。
「俺は、テリトリーの中におびき寄せられた覚えはありません」
「なんで食べられちゃうみたいな設定なの?」
綾瀬がまたくすくすと笑う。
「もしかして、食べられたいの?」
妖艶な笑みを浮かべて彼女は言った。
その笑みはゾッとするほど美しく、たまらなく恐ろしかった。
俺が何の言葉も返すことができないまま、蛇に睨まれた蛙のように固まっていたところ、「蒼くん」と他の生徒に声をかけられた。
そこにいたのはすでに着替えを済ませたイオだった。
「蒼くん、今日図書委員の当番でしょ?もう昼休憩入ってるよ?」
「あ、ああ、そうだった」
ありがとう、イオ、助かった。
「イオちゃん、転校してきたばかりなのに、クラスメイトの委員会の当番覚えてるなんてすごいね?」
「蒼くんにはいろいろ聞いてたから知ってるだけ」
「ふーん、じゃあ、そろそろ行こっか」
綾瀬が俺の方を向いて言う。
俺が「ああ」と返事をすると、綾瀬は濡れたままの身体で軽やかに立ち上がった。
数歩歩き出したところで、綾瀬がくるりと振り返った。
濡れた髪を肩で弾ませながら、彼女は俺と、その隣に立つイオを交互に見つめる。
「玲奈には、私と内緒のお話してたこと、言わないでおいてあげようか?」
「……勝手にしろよ」
「ふふ、じゃあそうしとくね。《《蒼くん》》?」
彼女はそう言い残してプールサイドを後にした。
残された俺とイオは、何も言葉を交わすことはなかった。
イオの無機質な瞳は、千夏が去っていった方向を、まるで未知のウイルスを検知したかのように、じっと見つめていた。




