閑話_江戸の春の幻想
春の陽気が、江戸の町を柔らかく包み込んでいた。
先見えぬ闇を這うような仕事を終え、清十郎はようやく布団の温もりにありつけると、伊多田鬼屋の門をくぐった。
「もう!なんで誰もいないのよ、バカ!」
二階からぶつくさと文句を言いながら降りてきたのは、同じ伊多田鬼屋の仲間であり、組織内でも最強と目される「四強」の一人、途咲 凛だ。
まだあどけなさの残る美少女。
清十郎より二つほど年上だが、彼女の二つ名は「誘惑殺」。
化粧、服装、立ち振る舞いを自在に変えることで、勝ち気な商売娘にも、妖艶な花魁にもなり、標的を骨抜きにして仕留める。
だが、そんな彼女の「素の顔」は、その場をぱっと明るくするような、活発で太陽のような町娘だった。
一階に降りたところで清十郎に気づくと、凛の膨れっ面が一瞬で満面の笑顔に変わる。
「あ、清くん!おかえりー!ちょうどいいところに!」
(このまま布団に入りたいのですが…。)
直感的に危機を察知した清十郎は、「今帰ったところで眠くて」と断ろうとしたが、凛の強引な腕に袖を引かれてしまった。
「何言ってるのよ、こんな良い天気なのよ?遊びに行かなきゃ損じゃない!」
なす術なく、清十郎は凛に連れられて、賑わう江戸の町へと繰り出した。
◇◇◇
春の江戸は華やかだ。
街ゆく人々の顔も、この時を待っていたかのように笑顔の花が咲いている。
ところどころに植えられた桜も花をつけ始め、風に舞う花びらが、町をいっそう絢爛に彩っている。
春の様相に様変わりした呉服屋や小間物屋を巡る二人。
そんな時、一際長い長蛇の列にぶつかった。
江戸で人気の団子屋だ。
「次は腹ごしらえね!」
凛が目をキラキラさせながら、団子屋に向かって直進する。
もちろん、逃げられないように清十郎の袖はしっかりと握られたままだ。
「凛さん、そんなに急がなくても団子は逃げませんよ?」
清十郎は苦笑するが、凛の鼻息は荒い。
なんでも、少し趣向を変えた「春限定の団子」が新たに売り出されたとかで、女子供はもちろん、喧嘩上等の江戸っ子たちもこぞって並んでいるようだ。
ようやく手に入れた団子を手に、二人は桜の木の下へ移動した。
「…見た目は普通ね。」
凛が、手に持った団子をまじまじと観察する。
「一口でいくのがコツって、店員さんが言ってたわ。…よし!」
そう言うと、凛はその小さなくちに似合わず大口を開けて、パクりと団子を頬張った。
その飾らない姿を笑顔で見ながら、清十郎も団子を大口で頬張る。
――瞬間。
薄い皮が弾け、中から鮮やかな紫色の果汁が勢いよく飛び出した。
「おっと…!」
仕事では返り血一滴すら浴びることのなかった清十郎の白い着物に、果汁が点々と染みを作った。
「あはははは!清くんってさ、仕事以外だと本当に抜けてるとこあるよね!」
腹を抱えて笑う凛。
清十郎は苦笑いを返すが、その笑い転げる凛の姿が、不意に別の誰かに重なって見えた。
(…なにか、とても大事ななにかを、忘れているような…。)
突如、強い風が吹き抜け、乾いた砂が舞い上がる。
清十郎が一瞬目を閉じ、そして再び開いた時。
眼前にいた凛は、全くの別人に変わっていた。
赤い髪に、一筋の白い髪が混じった、凛とした強さの中に優しさと、どこか悲しげな色を湛えた瞳を持つ女性。
『…戻ってこい、セイジュウロー。』
泣きそうな笑顔で、彼女がそう呟くと、清十郎の視界は眩いほどに白く染まった。
◆◆◆
ゆっくりと目をあける。
そこには、見慣れた桜の残照ではなく、抜けるような青い空が広がっていた。
鼻を突くのは、木の焼ける匂い。
そして耳に届くのは、複数人が和やかに談笑する声。
その談笑の声の中に、はっきりと彼女の気配があるのがわかる。
清十郎は、小さく微笑むと、安心したように再び目を閉じた。




