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第十話_逃亡劇

白亜の魔王城から辛うじて脱出した清十郎とクラウハルトだったが、その足取りは絶望的に重かった。


「…ハァ、ハァ…っ。クラウハルトさん…。」


清十郎に背負われたクラウハルトは、既に意識を失っている。

右腕を根元から断たれ、死に体でありながら放った渾身の『地竜絶槍』。

その代償はあまりに大きく、背中越しに伝わる鼓動は、今にも消え入りそうなほど微かだった。


そして、清十郎自身もまた限界を迎えていた。

セルスの黒い直剣に貫かれた腹部の傷は深く、一歩踏み出すたびに焼けるような激痛が全身を駆け抜ける。

溢れ出る鮮血が足元を濡らし、硬い石畳の上で何度も足がもつれた。


霧の立ち込める城下町。

そこは既に、静寂な眠りの場所ではなかった。


「あっちの路地だ!」

「アマデウス様の命だ、生け捕りに拘るな!殺しても構わん!」


アマデウスの魔族兵、そしてバルハート帝国の重装歩兵たちが、松明の炎を揺らしながら二人を執拗に追い詰めていく。

清十郎は土地勘のない見知らぬ路地裏に身を潜めるが、包囲網は確実に狭まっていた。


(…これは、本当にマズいですね。)


冷や汗が頬を伝う。

早く町を離れなければならないが、出血多量による目眩が視界を白く染めていく。

その時、暗闇の中から低い唸り声が響いた。


「グルルル…ッ!」


バルハート兵が連れてきた魔獣、ワイルドウルフ。

滴り落ちる清十郎の血の匂いに、獣の嗅覚が反応したのだ。


「見つけたぞネズミめ!噛み殺せッ!」


兵士の鋭い指示と共に、銀色の毛並みを持つ巨狼が跳躍した。

清十郎は慌ててクラウハルトを壁際に降ろし、刀を構える。

だが、踏み込もうとした足に力が入らない。

腹部の傷が開き、どろりと熱い感触が伝わった。


「がっ…あ…っ!」


押し倒され、ワイルドウルフの鋭い牙が喉元に迫る。

清十郎は反射的に刀の鞘を噛ませて防御するが、獣の圧倒的な筋力が彼を地面に縫い止める。

視界が火花を散らす中、清十郎は咆哮を上げる狼の首を、執念だけで左腕に抱え込んだ。


「…墜ちろッ!!」


渾身の力。

骨の砕ける嫌な音が響き、ワイルドウルフの巨体が力を失って崩れ落ちた。

首をへし折って勝利したものの、清十郎は地面に這いつくばり、激しく吐血する。

もはや、指一本動かすのさえ億劫なほどの疲労が彼を襲う。


「…ほう。かなりの使い手と聞いていたが、このザマか。」

「これなら、俺たちだけでも十分に仕留められるな!」


ワイルドウルフをけしかけた三人のバルハート兵。

抜き放たれた剣が、月光を反射して冷たく光る。


清十郎は震える手で刀を杖代わりにつき、どうにか立ち上がろうとした。

だが、膝が笑い、無様に前のめりへ倒れそうになる。


(…ああ。ここまで、ですか…。)


始末屋として日陰の道を歩んできた人生だった。

いつか、誰かによって、どこかの路地裏で野垂れ死ぬ。

そんな覚悟は疾うの昔に済ませていた。

江戸の空の下で人を斬り、この異世界に流れてきてもなお、自分の命に価値などないと思っていた。


薄れゆく意識の淵で、懐かしい江戸の風景が脳裏をよぎる。

吹き抜ける川風、屋台の匂い。


だが、そのセピア色の記憶を塗りつぶすように、別の光景が鮮烈に浮かび上がった。


不器用な自分を「か弱い町娘」だと嘯き、傲慢なくせに誰よりも寂しがり屋で、そして――自分に向かって、心底楽しそうに笑うアーデルミノスの姿。


(また見たいな…、あの人の笑う顔を。)


その想いが、折れかけた清十郎の魂を繋ぎ止めた。

歯を食いしばり、血の混じった唾を吐き捨てる。

清十郎は、地を這うような低い姿勢から、雷光のごとき一閃を放った。


「――ッ!!」


舐めてかかっていたバルハート兵たちに、叫ぶ暇さえ与えなかった。


一瞬。

三人の首がほぼ同時に宙を舞い、鎧の隙間から噴き出した鮮血が壁を赤く染める。

崩れ落ちる肉体の音を聞きながら、清十郎は荒い息をつき、その場に膝をついた。


「…ふふ。こんな情けない最後…、アーデルミノスさんには、とても見せられません、ね…。」


自嘲気味に笑い、清十郎の意識は急速に闇へと沈んでいく。

刀を握る力が抜け、彼はゆっくりと地面に倒れ込んだ。


◇◇◇


遠のく意識の中で、ドタドタという騒がしい足音が聞こえてきた。


「いたぞ!」


そんな誰かの声が、鼓膜を叩く。


(ああ、これで終わりか…。)


そう思って静かに目を瞑る清十郎。


「ク、クラウハルト様!!」


その声は追手のものではなく、深い忠義と驚愕に満ちた、クラウハルトの部下の叫びだった。


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