プロローグ_知らない世界
意識の底、底なしの深い闇の中から清十郎を引き戻したのは、頬をなでる柔らかな風の感触だった。
鼻を突く鉄錆のような血の匂いも、耳朶を打つ絶望の叫びも、今はもう遠い。
代わりに鼻腔をくすぐるのは、芽吹いたばかりの若草の匂いと、どこか甘い水の香りだった。
「…んっ。」
鉛のように重い瞼を押し上げると、そこには抜けるような、それでいてどこか見慣れない蒼穹が広がっていた。
自分が柔らかな草の上に横たわっていることに気づくと同時に、失われていた五感が急速に熱を取り戻していく。
「アーデルミノス、さん…っ!」
突如として脳裏をよぎったのは、死の淵で冷たくなっていく彼女の指先の感覚。
清十郎は弾かれたように上半身を飛び起きさせた。
あの日、崩れゆく玉座の間で、確かにその手に握りしめていたはずの、愛おしくも悲しい残照のような感触がない。
焦燥に駆られ、弾かれたように周囲を激しく見渡す。
そこは、鏡のように穏やかな水面を湛えた湖のほとりだった。
静寂を形にしたような水面は、双つの太陽が放つ光を神秘的に反射し、岸辺には見たこともない色彩の極彩色の花々が、風に揺れて囁き合っている。
そして、その湖畔にただ一人、静かに水面を見つめて佇む、見慣れた背中があった。
炎のように鮮やかな朱色の髪が、風に誘われてゆるやかに揺れる。
「アーデルミノス…さん?」
震える声で、祈るようにその名を呼んだ。
人影は、ゆっくりと、慈しむような動作でこちらを振り返る。
「…ああ、ようやく起きたか、セイジュウロー。」
そこにいたのは、紛れもなく彼女だった。
血に染まり、命の灯火を消したはずのアーデルミノスが、今は何事もなかったかのようにそこに立っている。
胸を貫いた漆黒の刃の痕も、魂を削り取った戦いの疲弊すらも見当たらない。
その肌は月光を吸った真珠のように艶やかで、瞳には生命の力強い光が宿っていた。
「どうして…。ボクたちは、確かに死んだはずじゃ…。」
「私にもわからん。気づけば、この湖のほとりにいた。お前が眠り続けている間、私もまた、この場所の意味を問い続けていたのだがな。」
清十郎はふらつく足取りで彼女に歩み寄る。
幻ではないことを、その確かな体温を、鼓動を確かめたくて。
彼女は困ったように、けれど清十郎がかつて見たことのない、すべてを許容するような笑みを浮かべた。
「…セルスは、どこに。あの化け物も、ここに来たのでしょうか?」
清十郎の切実な問いに、アーデルミノスは小さく首を振った。
「見ての通り、あたりには誰もいない。私とお前、二人だけだ。…だがセイジュウロー、それよりもあれを見ろ。我々が知る理は、もはや通用せぬようだ。」
彼女が指し示したのは、遥か高みの空だった。
清十郎がその視線に合わせ、天を仰ぐ。
「…っ、これは…。」
言葉を失った。
そこには、重なり合うようにして、二つの太陽が天頂に君臨していた。
一つは生命を燃やすような黄金、もう一つは静謐を湛えた白銀。
双子のような太陽が、この不可思議な世界のすべてを平等に照らし出している。
そこは、清十郎が元いた世界でもなければ、先ほどまで命を賭して戦っていた世界でもない。
次元の暴走が導いた、新たな『異世界』だった。
二人がその未知の光景に圧倒され、言葉を失っていた、その時。
カサリ、と。
静寂に包まれた湖畔に、不自然に乾いた音が響いた。
二人の背後、色鮮やかな茂みの中で、一つの人影がゆらりと動いた。
「っ、誰だ!」
アーデルミノスが鋭く声を上げると同時に、その全身から強大な魔力が立ち昇る。
清十郎もまた、咄嗟に彼女を庇うようにして身構えた。
新たな世界の息吹。
終わったはずの運命。
物語の歯車は、再び、そして鮮烈に回り始めた。




