41 真名
妖精たちは、仕事が早い。
アランが深く息を吐いたのを確認すると、無言で役割分担が始まった。
一人は上着を受け取り、一人は靴を脱がせ、一人は椅子を引く。
誰も指示しない。
慣れている。
『まずは、温かいものを』
『消化に良いものを』
『今日は刺激は禁止です』
「刺激ってなんだ」
『竜の里』
「……納得した」
アルシェは少し離れた位置でそれを眺めている。
邪魔はしない。
でも、視線は外さない。
アランがそれに気づいて、手を軽く振った。
「……大丈夫だぞ」
アルシェが瞬きをする。
「分かってる」
それでも、視線はそのままだ。
◇
屋敷の中は、静かだった。
竜の里の静けさとは違う。
音がないわけじゃない。
“人が暮らしている”静けさだ。
食器の触れる音。
湯気の立つ音。
妖精たちの小さな羽音。
アランは椅子に座ったまま、ぼんやりとそれを聞いていた。
「……不思議だな」
アルシェがすぐ隣に来る。
「なに」
「さっきまで、竜だらけだったのに」
「うん」
「今は……普通だ」
アルシェは少し考えてから言った。
「普通、好き?」
「……嫌いじゃない」
「覚えた」
「覚えなくていい」
「覚える」
アランの前に、湯気の立つ椀が置かれる。
『どうぞ』
「ありがとう」
口にすると、ほっとする味だった。
主張しない。
胃を刺激しない。
“帰ってきた人間”用の味だ。
アランは自然と、肩の力を抜いた。
「……なあ」
「なに」
「帰り道。おまえ、ずっと竜型だったろ」
「うん」
「疲れないのか」
アルシェは首を傾げる。
「疲れない。そもそもあれが本性」
「……でも」
一拍。
「俺の前では、人でいてくれるんだな」
アルシェは一瞬だけ、言葉を探す顔をした。
「……近いから」
「近い?」
「人の形の方が、距離が分かる」
それは、とても竜らしくて。
同時に、とても人間的だった。
アランは小さく笑った。
「……そういうところだぞ」
「なにが」
「俺が落ち着く理由」
アルシェは黙って、アランの隣に腰を下ろした。
触れない。
でも、近い。
◇
夜になった。
屋敷の灯りが落とされ、外の音も遠くなる。
アランは寝台に腰を下ろし、靴を脱いだ。
「……今日は、色々あったな」
「うん」
「疲れたか」
「少し」
「俺もだ」
アルシェは頷いて、少しだけ視線を逸らす。
「……ねえ」
「ん」
「言ってなかったこと、ある」
アランは眉を上げた。
「嫌な予感しかしないが」
「大事なこと」
アルシェは一拍置いて、はっきり言った。
「竜にとって、名前は段階がある」
「……段階?」
「呼ばれる名前」
「呼ばせる名前」
「教える名前」
アランは、背筋を伸ばした。
「……それ、今ここで聞く話か」
「今がいい」
アルシェの目は冗談を言っていない。
でも、圧もない。
ただ、選択肢を渡している。
「……教える名前は?」
「伴侶だけ」
部屋が、静かになる。
アランは息を吐いて、正直に言った。
「……俺、その“重さ”をちゃんと理解してるとは言えないぞ」
アルシェは頷いた。
「いい」
「いいのか」
「知ってから、決めるものじゃない」
そして、少しだけ笑った。
「決めたから、教える」
アランは、もう逃げなかった。
「……聞かせてくれ」
◇
アルシェは、すぐには言わなかった。
一度、深く息を吸う。
竜が、名を口にする前の仕草だ。
「――アルシェ」
自分の名を、まず一度。
「アルシェ=アストラエリア=フェル=ドラグナシオン=エルミナリア=セレストリア=アルマディアール=インフィニタス=ソルヴァリア=レギン=オルフェリス=エテルナシア」
長い。
でも、早口じゃない。
一つ一つが、置かれていく。
世界を名乗るためじゃない。
支配するためでもない。
ただ、“あなたにだけ伝える”ための音だ。
「これが私の真名。魂に刻まれた名前」
アランは、途中で口を挟まなかった。
笑いもしなかった。
最後まで、聞いた。
そして、静かに言った。
「……長いな」
アルシェが、少しだけ肩をすくめる。
「竜だから」
「……だろうな」
一拍。
アランは、ちゃんとアルシェを見て言った。
「それで、その名前を教えたってことは」
アルシェが頷く。
「番」
笑った。
照れもなく。
でも、誇らしげに。
「正式」
アランは、ゆっくり息を吐いた。
「……やっと腹を括れってことか」
「うん」
「ずるいな」
「ずるくない」
「ずるい」
アルシェは首を傾げる。
「許す?」
アランは苦笑して、答えた。
「……許す」
その瞬間、アルシェがほんの少しだけ距離を詰めた。
「触っていい?」
「……今さらだろ」
「聞く」
「……いい」
手が、重なる。
熱くない。
冷たくない。
逃げ道も塞がれない。
ただ、そこにいる。
アランは目を閉じて、小さく言った。
「……帰ってきたな。本当に」
アルシェが、低く、穏やかに答えた。
「うん」
一拍。
「ここが、帰る場所」
その夜、世界は静かで。
神も、祈りも、竜の里も、遠くて。
屋敷の中には、二人分の呼吸だけがあった。
それで、十分だった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




