11,私的ワイドスクリーン・バロック論
以下に書くのはSF好き拗らせ奴の戯れ言です。ただの言葉遊び以上の何物でもないので、気にすることはまったくありません。
「ワイドスクリーン・バロック」……SFにどっぷり浸かったことがある方なら恐らく一度はこの言葉を聞いたことがあるでしょう。具体的にはアルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』やA.E.ヴァン・ヴォクト『非Aの世界』『イシャーの武器店』、クリス・ボイス『キャッチワールド』、バリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』『禅銃』や、国内だと小松左京『果しなき流れの果に』と言った作品群を指して「ワイドスクリーン・バロック」と呼ばれることが多いようです。
しかし、この言葉ほど意味のわかりにくいものはありません。なぜならこの語自体の定義が極めて曖昧なものであるからで、そもそもブライアン・オールディスがSF評論『十億年の宴』(東京創元社:刊行)の中で、Charles.L.Harness『The Paradox Men(未訳)』を評して用いた言葉だからです。
「私自身の好みは、ハーネスの『パラドックス・メン』である。この長編は、十億年の宴のクライマックスと見なしうるかもしれない。それは時間と空間を手玉にとり、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛び回る。機知に富み、深遠であると同時に軽薄なこの小説は、模倣者の大軍がとうてい模倣できないほど手ごわい代物であることを実証した。この長編のイギリス版の序文で、私はそれを《ワイドスクリーン・バロック》と呼んだ」
「ワイドスクリーン・バロックでは、空間的な設定には少なくとも全太陽系ぐらいは使われる――そしてアクセサリーとして、時間旅行が使われるのが望ましい――それに、自我の喪失などといった謎に満ちた複雑なプロット、そして身代金としての世界というスケール、可能性と不可能性の遠近法がドラマチックに立体感をもって描きだされねばならない。偉大な希望は恐るべき破滅と結びあわされる。理想をいえば、登場人物の名は簡潔で、寿命もまた短いことが望ましい」
(双方とも『十億年の宴』より引用)
また同著の別の箇所(p284)で、オールディスはベスター『虎よ、虎よ!』を指して「ワイドスクリーン・バロック」の決定版だとし、それを「絢爛華麗な風景と、劇的場面と、可能性からの飛躍の楽しさに満ちた、自由奔放な宇宙冒険物」と書いています。
『十億年の宴』は、SF史をほぼ初めて体系的にまとめ上げた記念すべき評論で、そのクライマックスとして挙げられうるとされた『パラドックス・メン』……ひいて「ワイドスクリーン・バロック」は、「SFの中のSF」に冠せられるべき代名詞のように広まってしまった(それも主に日本で!)のです。
実際「ワイドスクリーン・バロック」と呼ばれた作品群はSF史に名だたる知名度を有し、比類のない濃密さと圧倒的スケールとで中毒染みた面白さを持っています。例えば『虎よ、虎よ!』は、ゆうに小説六冊分のアイディア/ガジェット(瞬間移動の普及した地球社会、逆流する一方通行型テレパス、加速装置などなど)を文庫本一冊にぶち込んだうえに、ひと言では説明しようのないほどの膨大なスケール(太陽系規模の戦争や階級社会的な世界観)と勢い(スピーディに次々と移り変わる展開)と表現力(絢爛な文体にタイポグラフィー)で、 消化不良寸前の状態に追い込んでゆく。立ち止まる間もなく、ひたすらに筋を追い掛けているうちに、読者はいつの間にか、その作品で表される価値観やら観念やらを、分かった気になってしまうのです。その濃度はあまりに高く、ひと言で要約しようにも、なかなかできないほどの内容の複雑さが広がっています。ある意味では非常にアクの強い部分でもありますが、こういう疾走感と次々と「未知」に出逢い、振り回される感触は他のジャンルでは滅多にできない体験のように思われます。
結局のところ、面白ければ何だって構わないということは、まず先に但し書きとして書いておきます。しかしその上で言わせてもらうのであれば、「ワイドスクリーン・バロック」なる言葉ほど愛好家たちのあいだで濫用され、独り歩きしていったものはありません。実際GoogleやTwitterで調べてみれば、いかにこの言葉の定義が不明瞭なまま、用いられているのかがハッキリわかると思われます。あるときは「SFの中のSF」の代名詞として、あるときは「絢爛豪華な文体で描かれた異形のスペースオペラ」として、またあるときは「とにかくスケールがデカいお話」として、酷い場合は作者名で一括りにして猫も杓子も「ワイドスクリーン・バロックだ!」と評する有り様。別に単なる言葉だけの問題なので気にするだけ野暮なのですが、やっぱりちょっと違うんじゃあ……と思ってしまうわけでして。
そこで、超個人的な「ワイドスクリーン・バロック」の定義を以下に書いてみることにしました。根拠はちゃんとありますので、酔狂なお方がいらしたら御覧ぜよ。とりあえずは箇条書きでいきます。
1.大量のアイディアを注ぎ込んだ、スペースオペラ(宇宙を股にかける、やや荒唐無稽な冒険活劇)の亜種であること。
2.作品の分量は小説一冊分(10万字〜20万字程度)で、舞台設定は太陽系以上の空間スケールを有すること。
タイムトリップなどを絡ませた二重三重の複雑なプロットや、全人類や宇宙の危機とでも言うようなスケールのデカさ、もしくは主要人物の自我崩壊などによる謎だらけの筋書きである方が望ましいが、その限りではない。
3.トンデモ理論や時代錯誤じみた大掛かりな設定・演出が、世界観のあちこちを占めていること。さらにはそれらのトンデモ理論・設定が、さも尤もらしくこじ付けられているとなお望ましい(正確な科学的根拠に基づいたものである必要はなく、むしろ実際には間違ってしまっていても良い)。
またこの条件を満たしたうえで、それらのトンデモ理論・設定、もしくは烈しい展開の移り変わりが、或る哲学的な「観念」を伝達するように働きかけていること。
以上三点が、「ワイドスクリーン・バロック」の必要条件(ないし十分条件)なのではないか、と私は考えています。その根拠をこれから挙げていきましょう。
まず第一項目。これは用語の創設者オールディスの定義と例示に拠っています。オールディスは『パラドックス・メン』を指して「ワイドスクリーン・バロック」と呼び(上記参照)、そのあとに「これに類する作家はE.E.スミス、A.E.ヴァン・ヴォクト、そして恐らくはアルフレッド・ベスターだろう」と続けていますし、また『パラドックス・メン』序文にて、同作に似た特徴を有する作品を二つ、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』とカート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』を挙げているのです。特に重要なのはレンズマンシリーズで有名なE.E.スミスが挙げられていることでありまして、それが火星シリーズのエドガー・ライス・バローズや、キャプテン・フューチャーシリーズのエドモンド・ハミルトンではないということです。つまり、表面的には宇宙冒険物でありながら、その或る極に立つ何かを持たないと、「ワイドスクリーン・バロック」とは呼び難いのだと言えます。そしてそれを私は、作中に放り込まれるアイディアの量と(それも、一冊当たりの)密度に拠るのでは、と考えているのです。
また、敢えて「スペースオペラの亜種」と置いたのは、「セカイ系」と区別したいからです。全世界規模のスケールで話が進められるのは「セカイ系」を始め、いわゆるボーイミーツガールにありがちな大風呂敷ですし、それらと区別がつけがたい点ですが、「セカイ系」が「ボクとキミの日常」という舞台/人間関係上の制約を有するのに対して、「ワイドスクリーン・バロック」はそうした舞台の制約を持たず、文字通り「気の狂ったスズメバチのように」時間と空間を飛び回るのをそれらしいと考えます。
第二項目の条件は、他のスペースオペラと「ワイドスクリーン・バロック」を峻別するポイントの一つです。これは「ワイドスクリーン」という言葉の語義を注視します。つまり巻数を重ねて世界観を広げてゆくのではなく、一巻で突拍子もなく次から次へと太陽系やら銀河やらと舞台を飛び回り、スケールを押し広げる方がそれらしい。
追加条件については、第三項目に深く関係ありますが、作品の複雑性や、伏線の濃さが高ければ高いほど喜ばれるところでしょう。
さて第三項目ですが、これは「バロック」という言葉を意識しています。もともと「歪んだ真珠」を意味するポルトガル語バロッコから来ているこの言葉は、激しく流動的かつ感覚的で、豪華絢爛な、派手派手しい傾向を持つ十六世紀末から十八世紀半ばごろの芸術様式やその時代概念を指しています。代表的なバロック演劇は、カルデロン・デ・ラ・バルカの『人生は夢』、あるいはバロック音楽ではヘンデルが有名でしょう(同時代に大バッハもいて、ブリタニカなどには大バッハもバロック音楽だと言われているのですが、頭一つ抜きん出ているため例外として扱います)。
しかし私はあえてこの言葉を、恐らく本義とは少し異なる意味で、「ワイドスクリーン・バロック」を定義します。ここに於ける「バロック」とは、「異形かつ派手派手しい、ほとんどファンタジーと紙一重なトンデモ理論や世界観設定、ガジェット」のことを指します。
具体例を挙げると、ヴァン・ヴォクト『イシャーの武器店』シリーズに登場する、イシャー朝銀河帝国と、武器店。同作者による『非Aの世界』における一般意味論(非A哲学)、ベスター『虎よ、虎よ!』のプレスタイン財閥などがひしめく、ヴィクトリア朝めいた上流階級の社交界や、テレポーテーションが普及化した未来社会の図。バリントン・J・ベイリーの『カエアンの聖衣』では、カーライルの「服は人なり」という衣装哲学を借りた独自の異形世界観を構築しております。またE.E.スミス『レンズマン』シリーズでは一巻目からQ砲という馬鹿でかい兵器や、宇宙船に乗り込んで戦斧による白兵戦などの描写がありますし、クリス・ボイス『キャッチワールド』では法華経に支配された近未来日本の姿や、終盤には黒魔術などでてきておどろおどろしくなります。原典となった『パラドックス・メン』ではアメリカ帝国(America Imperial)という巨大国家が存在し、奴隷制と決闘制度が復活。盗賊協会(The Society of Thieves)が貴族から富を奪い、奴隷解放を行なっているという勢力図があるうえに、個人レベルのフォースフィールド(盗賊アーマーと呼ばれています)が弾丸を弾いてしまうためにチャンバラが正当化されているという謎めいた、しかし魅力的な設定が付いています。
これらの設定は、しかし、現代から見ればおおよそありえないと考えられるような異形の未来世界でありながら、独自の哲学的な観念(あるいは合理性)を有しており、それが作中世界を尤もらしく裏付けていることが多いです。例えば『武器店』シリーズのそれは、(『パラドックス・メン』の盗賊協会と似てますが)「武器は人を自由にする」という、アメリカの思想からインスパイアされたのではないか疑りたくなるような哲学を有していますし、『虎よ、虎よ!』のジョウント(テレポーテーションのこと)は、「人間の精神にある新しい辺境」と位置付けられています。ベイリーの『カエアンの聖衣』は上記の通りで、『キャッチワールド』では明示されてはないものの、人間の存在論認識論に言及できるようなガジェット(機械知性による人格シミュレーション)があります。小松左京の『果しなき流れの果に』には進化の階梯と呼ばれる階級制度的なものが登場し、クロニアムと呼ばれる永久砂時計が、時間と宇宙のテーマを内包しているためにこれを是としてもいいかもしれません。
なおここまで定義を遵守していた『レンズマン(銀河パトロール隊)』は、レンズやQ砲などのトンデモガジェットには一応それらしい合理的な説明が施されている点で、共通していると見ていいかもしれません。レンズとアリシア人を巡る壮大な背景と人間讃歌的なテーマも、またそれらしさを感じさせます(とはいえ、続編からシリーズへ広がっていくと定義から外れてしまいますネ)。
またカート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』も例外となりますが、オールディスはこの作品を傾向として似ているとし、実際には「ワイドスクリーン・バロック派からの洗練された借用である」と評していたようなので、この定義の上では外してもいいでしょう。
しかし定義に沿うか沿わないかは作品の面白さを損なうものではないということは固く注意します。実際のところ、これらの定義付けは一応の意味以上の何物をも持っておらず、単に「『ワイドスクリーン・バロック』なるものを書いてみたい/読んでみたい」と思ったときの、一つの物差し程度の役割しか果たせないのです。
ちなみにこの定義の上で扱うならば、アニメ『天元突破グレンラガン』も「ワイドスクリーン・バロック」になります(地底都市から銀河の果て、多元宇宙まで向かうスケール、ドリル→螺旋→DNA→銀河というガジェットのこじ付け、獣人たちの支配やガンメンと呼ばれる戦闘ロボットなどといった異形の世界観、そして時代錯誤的な名乗り、決めゼリフの数々……)。もともと脚本を書いた中島かずきさんも「ドリルをモティーフにしたワイドスクリーン・バロックがしたかった」との旨をフレドリック・ブラウン『天の光はすべて星』再販版巻末解説で書いておりますので、差し支えないのではと思います。
まあこのように作品を枠付けることで、読書/執筆の方針を決めることはできると思いますし、そのためにはこうした定義付けは有意義だとは思います。しかしそれは面白さの定義ではないため、どうかその辺は勘違いなさらぬよう。異論反論は認める。




