12,近代的/現代的「魔法」論 前半部
ファンタジーにはほとんど欠かせない要素といえば、やはり「魔法」でしょう。
しかし、その反面であまりにも暗黙の前提となりつつあり、新鮮味を欠きつつあるように思われます。というのも、ファンタジーを通じてあまりにも多く読み込まれてしまったため、単なるお約束以上の意味を持たなくなった、とでも言えばいいでしょうか。
そのどれもにおいて陳腐化された型の書き直しと化しつつあり、「魔法」それ自体の質感が薄れてしまった感触があります。
試しに創作上で仕分けしてみましょう。まずコンピュータゲーム由来の、「1.MP消費型」の魔法。これは、魔法それぞれにはコストがあって、使用者の魔力や才能を数値化したリソースを消費させる制限下で発動させるものです。
同様に「2.呪文詠唱型」魔法。特殊な詠唱文句を叫べば、主に自然摂理を操作できるとするもの。この場合での制限条件は詠唱時間や詠唱文句の暗記。
あるいは、本格派ファンタジーに多い「3.言霊/不思議/異能型」の魔法。そもそも理屈や理論を超越してるから「魔法」というのであって、その論理は形式以上の何物でもない。要するに「考えるな、感じろ」とするタイプ。こういうのは往々にして超能力/異能という扱いになり、制限条件は個々人の才覚や属性的な弱点となりがちです。
おおむねファンタジーにおける「魔法」とは、(読み手としては)三種類に分けられるのではないでしょうか。例外的に「魔石」などの魔法資源を必要とするタイプが存在しますが、原理的には「MP消費型」と変わらないので、そこと同列に置いて考えます。
魔法にシステムは必要か?(http://www.kotaku.jp/2012/06/why_does_magic_have_to_make_sense.html) というネット記事がかつて創作界隈で話題になりましたが、上記の分類でいうなら1と2が「システム的魔法」ということが可能でしょう。同記事内でも散々言われてますが、「法則を有してないとファンタジー警察に文句を付けられる」という事態があるようです。
実際『ファンタジーの歴史』を書いたリン・カーターも、同著内で「優れたファンタジーはシステム化された魔法を持つべき」というような主張を述べていました。が、私はこの主張には賛同しがたくて、要するに、「システム化された魔法」というのは「テクノロジーの代替物」じゃないのか、とも思うのです(この方の読書ブログも参考にしました→http://www2a.biglobe.ne.jp/~mizuki/book/review/bk050523.htm#FANTASY)。「高度に発達した科学技術は魔法と区別がつけられない」と述べたのはSF作家アーサー・C・クラークですが、言うなれば、昨今のファンタジーはその裏返し「魔法とは高度に発達した科学技術的体系である」という信条を有しているように見えます。
しかし、理屈のわかりきった「魔法」をそうだと認識できるのでしょうか? 理屈を知りたいと思う好奇心が満たされるという点では、好ましいですが、しかしそれが「ファンタジー」特有の感動(第3回参照。童心に帰るような感触)を導くとは思えません。なぜならそれは非常に論理的で、理性的な働きだからです。本当に「ファンタジー」だと言える作品には、どこか、こう、理屈ではない感動を催すと思われてならないのです(別項で考察→『人間批評』「あなただけの秘密の王国」:http://ncode.syosetu.com/n3526cy/9/)。しかし、システム化され、明瞭になったものにはそれはあり得ない。ゆえにそれを作中用語としての「魔法」というならまだしも、実際に「魔法」なのかというと疑問があります。
この「魔法」に関する議論を深めるためにに、そもそも「魔法」の根源から探って参りましょう。
『とある魔術の禁書目録』の鎌池和馬が(たしかあとがきだったで)制作秘話的に書いていたように、「魔法と科学はその本質において似ている」ものです。現にゲーテの『ファウスト』に登場するファウスト博士は、博覧強記の大学者でありながら、魔術師です。当時の「魔術師/魔法使い」は、今でいうところの「錬金術師」に近いものですが、「この世界の真理を探究する」という点では非常に類似しています。
これを分類上、「A.近代的魔法」と呼びましょう。すなわち、「魔法≒科学」です。
これとは別に、魔女狩りで処罰対象とされた類いの「魔法」もありますが、これは「B.古代的魔法」とします。
この定義上でゆけば、実は多くの「ファンタジー」作品が、「近代的魔法」によって成り立っていることがわかります。つまり、「魔法≒科学」なので、その本質においてSF的なものであったと言って過言ではないのです。
ところで少し脱線しますが、「ファンタジー」ジャンル確立の背景には、「反近代」が潜んでいます。
いまのファンタジーの典型たる「剣と魔法(Sword and Sorcery)」の、その原点と呼ばれる『英雄コナン』シリーズでは、「魔法」とは「近代文明」のメタファであるとする評論(たぶんオールディスかディ=キャンプが言ったはず)があるくらいです。現に同作では「魔法」を有する側が文明国であり、対する主人公は「剣」を持った野蛮人という設定があり、工業化・近代化する当時の世相に対してのアンチテーゼとしての力強さを、同作は発揮していた節があります。
これと対照的に、『指輪物語』では、「二つの塔」にて裏切り者の魔法使いがオルサンクの塔の美しい光景を「要塞化」し、「開発」したことで崩壊してしまったという描写がありますし、かの作品世界観では荒んだ土地開発が冥王サウロンや魔王モルゴスの国の呪われた景色を創り上げている、としているような説明があります(作者トールキンの書いた『妖精物語について』という評論でも、「ファンタジーの現実逃避の作用」に関して、逃げ先を自然豊かな外界としています)。
また、『モモ』や『果てしない物語』で有名なミヒャエル・エンデも、その作品には近代の産物と形容してもいい資本主義への懐疑・洞察が含まれています(例:『モモ』の時間泥棒→時は金なり。あるいは銀行の金利の暗示)
さらに言うと、これは厳密にファンタジーではないですが、日本国内においても「時代(伝奇)小説」が大衆文学として受容されていました。このうち、中里介山の『大菩薩峠』や、直木賞の直木三十五が書いた『南国太平記』は、「反近代」というテーマの上での「ファンタジー」でもあります。「剣と魔法」が、「日本刀と御一新」となっただけで、ともに幕末を背景に、妖術が飛び交う和風ファンタジー的な展開を魅せてゆきます(ある意味ダークファンタジーかも)。
こうした「反近代」思想のファンタジーは、やがて二つの系譜に分岐します。
ひとつは、「剣と魔法」のように「魔法≒科学」と置いて、TRPGやゲームとして膾炙していったタイプ。これらはマナやエーテルと呼ばれる特殊エネルギーを置換する保存則のようなものを有していたり、呪文詠唱による手続きを踏まえるテンプレートと化したりしています。一番大きいのは『ドラゴンクエスト』などのゲームや、『スレイヤーズ!』の影響でしょうか。ある種の保存則やシステム、エネルギー法則によって拘束されるこれらは、「近代的魔法」の末裔であり、極論を言えば「SF的超技術」と置換できるものです。
もう一方は「古代的魔法」の系譜です。こちらは主にフレーザー卿の『金枝篇』や、澁澤龍彦の著作、神秘学者ルドルフ・シュタイナーの著作などを参考に世界観を構築したものがそれに相当するでしょう。要するに、「システムなんかではなく、非合理だからファンタジーの『魔法』だろ?」と考え、それを実行している創作陣です。
代表格はやはりルグィンの『ゲド戦記』。しかし「近代的魔法」が、質量的な制限に縛られシステム化された魔法であるのに対して、「古代的魔法」は、文化人類学的な研究に裏付けられているものが多く、その根幹には古代の信仰や、儀礼儀式といった、非合理的かつ独自のルールを有しています。例えば「真名」。『ゲド戦記』にも出てくるこの信仰は、古代ギリシアと中国、日本などで確認されていますが、本名と呼び名を区別して、親しい人以外には教えてはならぬとする信仰です。どうも言霊にも絡んでくるのですが、「名前はヒトを支配する」と考えられていたようで、「古代的魔法」はこうした科学的には信じがたい文化的慣習やメカニズム、もしくは宗教的なイメージを用いています。心理学や哲学の概念から作り上げられることもありますが、その手の魔法は、保存則や無矛盾性を良しとする厳密な科学とは異なる性質のものとなります。
この、合理性重視の「近代的魔法」と、非合理重視の「古代的魔法」とがちょうど鏡合わせように対立し合っていて、その攻防は映される鏡像のようにキリがありません。
しかし、私はひとつ疑問を提出します。
本当にこの二つしかないのでしょうか?
その答えについては後半に続きます。
12/9.後半部が上手くまとまらないのと、いろいろ間違いが指摘されたので書き直します。エッセイを非公開にする予定です。




