第十八話「連休中の過ごし方(4)」
食パンの焼けるいい匂いがトースターから漂ってくる。
いつも朝はパンをモソモソとかじるだけなのだが、なんとなく休日マジックでちゃんとした朝ご飯が食べたくなってしまった。ヴォルフとの散歩の効果かもしれない。やっぱり一時間も歩くとお腹が空くし。
『料理するのか?』
「そうよ。まあ、料理っていうほど立派なもんじゃないけどね」
薄給の一人暮らしなので一応自炊は人並みにはできると思う。凝った料理はまったく作らないし、時短で食べられる味ならいいという考えなのであまりそれ以上の上達は見込めないが。
ヴォルフと話しながら適当にチーズとコーンを混ぜたスクランブルエッグを焼いて、レタスをちぎりプチトマトを添えただけのサラダと一緒にお皿に盛る。本当に料理というほど大したことはしていないのに、貰い物の仕切り皿のおかげでなんだか素敵な朝ご飯が完成した。
ヴォルフも自分のお皿を持って隣にやって来たので、そこに恭くんから渡されているドッグフードを入れる。
「いただきます」
『いただきます』
テレビから流れるニュース番組を見ながら、今日はのんびりできそうだなと二人で他愛もないことを話して過ごした。
使った食器などを洗っていると、私の足元で寝そべっていたヴォルフがむくりと起き上がり、その耳をそばだてるようにぴくぴくと動かした。
「どうかした?」
『……玄関の前に誰かいる』
「え?」
『“新條”とは莉佳の名字だろう? 誰かが呼んでいる』
ヴォルフはそう言うが私には何も聞こえない。
もちろん玄関には誰もいないし、インターホンが押される気配もない。……スッと自分の周りの気温が下がった気がした。昨日の夜に見たホラー映画のシーンを思い出してしまい小さく息を呑む。
幽霊? えっ、こんな爽やかな朝に??
もう少し出るタイミングを考えてはくれないだろうか。いや、夜に出られたらそれはそれで本気で怖いから困るのだが。
そしてなぜ私の名字を呼んでいる。
「…………」
意を決して、ドアスコープから外を覗く。
小さな穴から見える範囲に人影は見当たらない。しかし、確かにヴォルフの言う通り何かがいるのだろう。ドアにピタリと耳をつければ、ドアの向こう側から小さな声が聞こえてくる。
『人間はいないぞ。廊下を歩く足音は聞こえなかった』
幽霊には足がないのが定説なんだよ。
しかし彼らはドアもすり抜けられそうだが、その何かが家に入ってくる気配はない。このまま無視するというのも精神衛生上よろしくないしと、覚悟を決めチェーンロックをしたまま少しだけドアを開けた。
『聞いてくだせぇ、新條の姐さん! って、うわあぁぁっ!? 犬ぅ!?』
隙間から騒がしく飛び込んで来た何かは、勢い余って私の横を通り過ぎ、上がり框の前まで来ていたヴォルフを見て盛大に腰を抜かしてへたり込んだ。
◇◇◇
そのジャンガリアンハムスターは先程の衝撃が抜けきらないのか頻りに毛づくろいをしてから私たちへと向き直った。
『いやぁ、情けねぇところをお見せしちまって』
『驚かしてすまなかったな』
『いやいや。犬の旦那のせいじゃありませんよ。オレっちの肝が小せぇんだ。お恥ずかしい』
「それでどうしたの? というか、ヤス、何度も言ってるけど家の外に出たら危ないじゃない」
このハムスターは私と同じ階に住んでいる藤木美智子ちゃんのペットだ。脱走の常習犯で、家のなかはもとより、こうして勝手に外に出てしまっていることがときどきある。ちなみに、ヤスを何度か捕獲した縁で藤木ちゃんとは仲良くなった。
『ちょっとの危険がなんだってんだ。オレっちはもうアイツには愛想が尽きたんでさぁ』
「また藤木ちゃんと喧嘩したの?」
『喧嘩なんてなまっちょろいもんじゃあねぇ! 今日という今日は許さねぇぞ。……なんで、新條の姐さんの手下にしてもらおうとやってまいりました。今日からどうぞよろしくお願いしやす』
「待って待って待って」
勝手に話を進めないで。
家出も困るけど、なんで“手下”なの。そんなの募集したことないんですけど。
『何があったんだ。飼い主に不満でもあるのか?』
『聞いてくれますか、旦那!』
ヴォルフの言葉に、ヤスは8cmほどのその小さな身体のどこにそれほどのパワーがあるのかという勢いで話し始めた。
どうやら藤木ちゃんは最近ゲーム――ヤスの話から推測するに所謂“ソシャゲ”だ――にハマっているらしい。元々超のつくインドア派の彼女はこれまでにも度々趣味に没頭するあまりヤスの怒りを買ってきた。
『昔はオレっちが飯を食ってるだけで、やれ“可愛いっ!”とデレデレしてやがったくせに、今じゃ一生懸命滑車回しても見向きもしやがらねぇ』
憤懣やる方ないと言わんばかりのヤスは立っているローテーブルをタシタシと踏みつける。
前回、ヤスがケージから脱走して藤木ちゃんと一緒に探したときは、彼女がヤスを放置して熱心に子猫の動画を見ていたことが原因だった。
『飼い主に構われないのは確かに辛いな』
『世話をすりゃあいいってもんじゃないでしょう? アイツにはオレっちを一番に考える義務があるはずだ』
ヤスは超のつく寂しがり屋だ。
少し構わないと脱走するは、一晩中滑車回し続けるはと暴れまわっている。
まあ、結局いつものやつよね。
要するに飼い主の気を引くための行為である。
ヤスからすると、ゲームもテレビなどの娯楽も、彼女の通う大学や勤め先のコンビニだって、自分から飼い主の関心を奪う憎い敵なのだ。
「仕方ないなぁ。藤木ちゃんが迎えに来るまではここにいたらいいわよ」
『……迎えなんて来やしませんよ。アイツはきっと、オレっちがいなくなったことにも気づきやしねぇ』
「そんなわけないじゃない」
いま、こっそりLINEで連絡を入れたからな。
『莉佳が言うんだ。少し待ってみたらどうだ?』
『犬の旦那』
しょんぼり顔のヤスをヴォルフが慰めてくれる。
最初の威勢の良さはすっかり萎んでしまったらしく、ヤスは言葉少なに頷いてローテーブルの上で丸くなった。
そんなヤスを尻目に、ヴォルフがこっそり問いかけてくる。
『……アイツの飼い主はちゃんと迎えに来るのか?』
「大丈夫よ」
『よかった』
ヤスの話だと朝方までソシャゲに勤しんでいたらしい藤木ちゃんが起きるのは早くてもお昼前だろう。彼女ならLINEを見たら大慌てでやって来るはずだ。
いつだって彼女は自分のペットを大切に思っているのだから。
我が家のインターホンが押されたのは、ヴォルフとヤスと私の三人でゾンビ映画を二本見終わったときだった。
「すみません、新條さん。うちのヤスがまたご迷惑を」
「いらっしゃい。気にしないで、うちの前にたまたまいたのを保護しただけだから」
「ううっ。家のドアも窓も全部ちゃんと閉めてたのにどこから出ていったんだろう」
それは本当に不思議だ。
ヤスに聞いても“それは新條の姐さんでも教えられねぇ”と言われてしまうので、彼の脱走経路は未だ不明のままだ。彼しか知らない秘密の抜け道でもあるんだろうか。
「ヤス、お迎え来たよ」
ゾンビに思いっきりビビり、ヴォルフの尻尾に包まりながら映画を見ていたヤスは私の声にどこかおずおずとした様子でそこから顔を出した。
『…………』
「ヤス! もうっ、心配したじゃない!!」
『ホントにオレっちを迎えに来たのか?』
「あれ、新條さん犬飼ったんですか? この子、アラスカン・マラミュート? めっちゃ格好いいですね」
『!』
「あ」
“いいな大型犬”と続けられた藤木ちゃんの言葉に、ヤスが私のベッドの下へと走り出す。
やばい。
さすがに家のなかでこんな小動物とかくれんぼは無理だと、とっさに捕まえようと手を伸ばすがヤスの方が速かった。
残念ながら私の瞬発力じゃかすりもしない。
するりと視界から消える姿にがっくり肩を落とすと、何を思ったかヴォルフがヤスを追うようにその顔をベッドの下へと突っ込んだ。
「ヴォルフ?」
『へっ、犬の旦那!? ……ぎゃーっ!』
ヤスの断末魔のような悲鳴のあと、鼻の頭に少しだけ埃をつけたヴォルフは私たちに向き直ると口のなかから何かをペッと吐き出した。
『うああぁぁおおぅうああぁぁぁああ!?』
犬の口から転がり出るという大変貴重な経験をしたヤスは言葉にならない叫びをあげる。そのヤスの表情から彼に消えないであろうトラウマが刻まれたことを察した。
「ヤスーっ!」
『すまん。俺が捕まえた方が早いかと思って』
いや、うん。助かったよ。
怪我もさせていないみたいだし、ヤスもこれに懲りて少しは脱走を控えるようになるかもしれない。
これにて一件落着、かな。
そうして若干犬の唾液でしっとりしたヤスは、震えながら藤木ちゃんに掴まり帰っていった。




