28 完結
翌日の早朝。
まだ空が白みきらぬうちから、ベルハルトは馬を走らせていた。
ジゼルが咲かせた奇跡の花を、少しでも早く従弟のもとへ届けるために。
刺すような冷気が頬を打つ。
川沿いの道を進んでいた彼は、ふと、違和感を覚えた。
川岸のところどころに、淡い光がポツポツと、かすかに浮かんでいる。
ベルハルトは手綱を引き、馬を止めた。
地面に下り、目を凝らす。
小さな光の正体は、花だった。
「殿下、どうされました?」
従者の問いかけに、ベルハルトは思わず笑い出した。
「はははは……一輪だけではなかった! あの聖女、やってくれたな」
笑いながらも、彼の胸は感動に熱く震えていた。
まだ、誰も気づいていない。
民家の軒下に。
橋のたもとに。
あぜ道の脇に。
誰も目もくれない、いつもの場所に。
同じ光を宿した花が、静かに、確かに、咲いていることを。
ベルハルトだけが気づいていた。
そのすべてが、奇跡の花へと姿を変えているのだと。
「この花は“ジゼル”と名付けよう。聖女の名がふさわしい」
その声には、深い敬意が込められていた。
*****
──ベルハルトの帰国後。
大公の子息は、病が完治した。
生命力の強いジゼルの花は、やがて誰でも手に入れられる薬草となり、
この先、数え切れないほどの命を救っていくことになる。
*****
──春が近づいた、ある日の午後。
髪が真っ白になったジゼルに、ナタリアは言った。
「髪を赤く染めればいいわ。私とお揃いよ? 本当の姉妹に見えるわ」
ジゼルが気にしていることを、彼女は知っていた。
「いや、このままでいいよ。似合っているよ」
「老けて見えませんか?」
「見えないよ? 気になるなら染めるのもいいと思うけど?」
そう言いながら、彼はジゼルの髪をそっと撫でた。
それだけで、ジゼルの胸はときめいて、
もう、髪の色なんてどうでも良くなってしまう。
他愛のない話をしているうちに、時間は静かに過ぎていく。
そこへ、一報がもたらされた。
──ミシェルとメイナが大怪我をした。
ミシェルと婚約したあと、クレスはメイナと寄りを戻していた。
ジェリコム侯爵家で鉢合わせしたメイナとミシェルは大喧嘩となり、
階段から転げ落ちたという。
どちらも重傷だった。
「あんなクズの、どこがいいのかしら」
「私もそう思います……」
あの日記を読んだ後でも、クレスと婚約した妹の勇気に、ジゼルは感心していた。
だが、その日記は今も、ニルトンの鞄の底で眠ったままだ。
「間もなくフレイヤに関わった貴族達の断罪が始まる。ジェリコム侯爵家も相当な罰を受けるだろう」
ジゼルと縁を切った両家に、没落の影が忍び寄っていた。
セドリックとリーゼの婚約も解消された。
聖女の力を失ったから神殿に追い返すのかと、王家は世間の譴責を受けた。
だが、やがて。
やはりリーゼに未来の国母は難しかったのだろう、という声へと変わっていった。
セドリックは何度も復縁を懇願し、
昨日もナタリアの元を訪れている。
『君だけを愛していると気づいたんだ』
その薄っぺらな愛を、ナタリアは受け入れなかった。
『今さら、もう遅すぎますわ』
いつの間にか、胸も痛まなくなっていた。
憎しみも、嫌悪も、もう湧かない。
ただ、距離を取ることが、互いのためだと分かるだけ。
この国を離れ、ベルハルトの許に嫁ぐ。
ジゼルは祈ってくれた。ノース国との亀裂を防ぐためにも。
自分が嫁ぐことは同盟の強化になるだろう。
(それに……彼のこと、嫌いではないわ)
ナタリアは、新しい道を選んだ。
ジゼルの《異能》は消えてしまった。
罪滅ぼしが終わった彼女には、もう必要ない力だった。
ジゼルは大きな役目を終えたと思った。
この身が消えなかったのは、女神様の慈悲だろう。
隣には、愛するアーノルドが寄り添ってくれる。
ジゼルの指には、彼とお揃いの婚約指輪が輝いていた。
春になれば、三人はノースの国を訪問することになっている。
子息の命を救ったジゼルに大公夫妻は心から感謝し、大量のお礼の品を贈ってくれた。
その上、ジゼルの境遇を知り、養女にと申し出てくれた。
なので、新しい家族にアーノルドと共に挨拶に向かう予定だ。
「春が待ち遠しいですね」
「そうだね。もうすぐそこだ」
奇跡はもう起こらない。けれどジゼルは祈る。
この先に待つものが、幸福でありますように。
白紙の未来に向かって、ジゼルも新しい道を踏み出した。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。




