26 本物の聖女
灰色の空の下で、馬車が止まった。
扉が開くと、ジゼルは屋敷の方へは向かわなかった。
足が自然と、庭園の奥へ向かう。
風は冷たく、湿り気を帯びている。
向かい風に逆らうように、小走りで進んでいく。
まるで、何かに導かれるみたいに。
やがて、彼女は足を止めた。
そこに、あった。
色を失いかけながらも、まだかろうじて生をつないでいる、小さな花。
ジゼルは、ゆっくりと膝をつく。
「枯れていなかった」
“時知らずの花”を、壊れ物のように両手で包む。
「ジゼル、風が冷たい。早く帰ろう」
アーノルドは、まだ知らなかった。
──彼女が、すでに覚悟を終えていることを。
ジゼルは目を閉じる。
心臓が、早鐘のように打っている。
指先は冷え切っていた。
「失敗すれば、生き残れるだろうか」
(それでも……)
「これは賭けです。もし成功して……消えてしまっても、私の選んだことです」
迷いを断ち切った声。
──そして。
小さく息を吸い込み、囁く。
「私の力を全て捧げます。どうか“時知らずの花”を生まれ変わらせてください。すべての難病を治癒する“奇跡の花”に」
言葉が、空へ溶けていく。
風が、止んで嘘のように静かになる。
鳥の声も。
木の葉の擦れる音も。
すべてが、遠ざかっていく。
まるで、世界そのものが耳を澄ませているみたいだった。
“時知らずの花”が、かすかに揺れた。
枯れかけていた花弁が、淡く光る。
アーノルドの背筋に、ぞくりと震えが走った。
(やはりジゼルは真の聖女だ)
再び強い風が吹き抜け、白金色の髪が宙を舞う。
アーノルドは急いで上着を脱ぎ、彼女の肩に掛けた。
泣きたい気持ちを、奥へ押し込める。
代わりに、強く抱きしめる。
そして唱えた。
(私の命、私のすべてを代償にすればいい!)
「数えるよ、999回。奇跡をおこそう」
「はい。お願いします」
ジゼルは、始めた。
命を賭けた、長い長い祈りを。
*
張り詰めた光景に、ナタリアは悲鳴を上げそうになった。
濡れた地面に膝をつき、北風にさらされる二人。
風に乗って、兄の声がかすかに届く。
祈りを、数える声。
「家中の毛布を持ってきなさい! 早く!」
執事と使用人たちは、事情も分からぬまま駆け出す。
「あれは、何をしているんだ?」
近づこうとするベルハルトを、ナタリアは手で制する。
「邪魔をしないで。あなたの願いを叶えようとしているのよ」
「あれがか?」
「そう。ああ……消えないでジゼル……お願い」
ナタリアの頬を、涙が伝う。
ベルハルトは外套を脱ぎ、無言でナタリアに掛けた。
やがて、毛布を抱えた執事たちが戻ってくる。
ナタリアは1枚を受け取り、ジゼルをアーノルドごと包み込んだ。
異様な光景に、誰もが言葉を失う。
沈黙を破ったのは、ベルハルトだった。
「何をしている! 毛布を広げて風を防げ。他にも何か持ってこい! 暖の用意もだ!」
*
日が沈んでも、誰も動けなかった。
庭園には薄闇が満ち、冷たい風が肌を刺す。
それでも、途切れない声がある。
――ジゼルの祈り。
そこへ、セドリックはリーゼを伴って現れた。
「ベルハルト!」
呼びかけた声は、軽かった。
だが、振り返ったベルハルトの目は、氷のように冷えている。
「何しに来た。君まで席を外すと、困るのではないか?」
責められているわけでもないのに、胸が詰まる。
「いや……晩餐会までには戻ってくれるな?」
「さあ、いつになるか、分からんな」
拒絶。
はっきりとした拒絶だった。
理由を問う資格が、自分にあるのか分からない。
隣でリーゼが、興味深そうに首を傾げる。
「ねぇ、あれはなんなの?」
視線の先には、毛布や木の板を持って立つ使用人たちがいた。
まるで、誰かを守るための陣を張っているようだった。
ベルハルトが言う。
「本物の聖女が、奇跡を起こそうとしているんだ」
セドリックの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「よくも俺に嘘を言ったな? 見損なったぞ、セドリック!」
否定できない。
何を言えばいいのか。
「……本物の聖女だって? ではアーノルドは……」
問いかけながら、答えを聞くのが怖かった。
「帰れ。ここは君達のいる場所ではない」
足早に離れていくベルハルト。
線を引かれた。
はっきりと。
(本物の聖女……?)
だが、友を裏切った彼に、真実を確かめる勇気は残っていなかった。
「聖女は私よ!」
リーゼの声が響く。
あまりにも、空虚だった。
「でも、もしも奇跡が起こったら……その功績を私のものにできないかしら」
無邪気な声。
なのに、ひどく醜く聞こえた。
セドリックは、ゆっくりと数歩下がる。
息が、苦しい。
夢は、もう終わっていた。
──そう告げるように、二人の間を風が通り抜ける。
「うぅ寒いわ。帰りましょうよ」
「ああ……君は帰るといい。……神殿に」
最後の言葉は、風にさらわれた。
リーゼは気にも留めず、軽やかに踵を返す。
それを、セドリックは重たい足取りで追う。
ふと振り返る。
闇の向こうには、祈りの気配だけが漂う。
「ナタリア……」
そこは、かつて自分が捨てた──決して踏み入れることができない場所だった。
読んでいただいて、ありがとうございました。




