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楽園  作者: 八塚
9/12

09 sinners


 よく避けたな、グレイシアス。

 投げかけられた声は感心したようで、どこかしら空々しく明るい。その声だけはよく知る僚友のものに思えて、それはグレイシアスの混乱をより強くした。

 何も言えぬまま、彼は緊張にこわばる剣の先に相手を見る。

 一方で右手の剣を下ろしたままのゴーシュは首を傾げた。もしかして俺を疑っていたのか、と皮肉げに呼びかけてくる。


 グレイシアスは微かに息をつくと唇を引き結んだ。

 意識してそう考えていたわけではない。僚友の裏切りは、彼にとってまったく予想外のものだ。ただ違和感の欠片はあった。

 夜の見回りをしていたというゴーシュ。

 だが天使狩りはほとんど下層の見回りにはこない。天使が潜んでいるという話があったとはいえ、それで広大な路地の網の目をあてもなく巡回するほど、グレイシアスの知るこの男は真面目な人間ではないはずだった。このような夜中に下層で彼と出くわすということ自体、不自然なのだ。それに。

 俺が殺した天使が、と乾いた唇を舐めてグレイシアスは言う。

 怪訝さを浮かべるゴーシュへと、彼は続けた。

 言っていたんだ。自分はころしていない、と。


 すでに信じるに値しない、うわ言にも思えた言葉。

 それを聞き流して忘れようとしなかったのは何故だろうか。

 お人よしだな、お前は、とゴーシュが心底呆れたように息を吐く。

 思いきり気にしてるじゃないか、と指弾してくる声に、青年は無言を保った。

 彼自身、捨てても良いと思っていた甘さ。

 だがそれによって辛うじて命を拾ったグレイシアスは、今の状況を捉え直した。直感で、そうであろうと思われることを口にする。


 薬師を殺していたのは、あんただな。

 そうだ。全員俺が殺した。

 ここに至っては言い逃れをするつもりもないのか、ゴーシュはあっさりと認める。受け入れがたい真相にグレイシアスは目を細めた。

 この男が下層の薬師たちを殺していた。

 天使に成りすまして、というのは、今更聞くまでもないことだろう。

 下層に天使が出没していたのは事実だ。それが先だったのか、それとも偶然に時を同じくしたのか、ともかくゴーシュは自らの殺人に天使の存在を利用したのだ。

 天使を騙る方法も、この際どうでもいいことだろう。グレイシアス自身、やろうと思えばできることはある。たとえば彼が昼間見つけたように、天使の羽をどこかで拾っておく。あるいは天使狩りを行った時、密かに羽根の欠片をかすめ取るか、あるいは天使の死体を片付ける者たちから横流しなどをさせてもいい。

 そうして殺人を為した後、その傍にその羽根の欠片を撒いておくのだ。実際に天使の目撃証言がある以上、その殺人はまず天使のものとして認められるはずだ。


 すんなりとそこまで考えつく自分に、グレイシアスは微かに片頬を歪める。

 悪い誘惑だ。この仕事をしている全員が、おそらくは一度は同じことを考えたことがあるだろう。すなわち、この街を守ることに倦んで、耐えきれなくなった時――――誰にも知られず、人狩りをすることが可能なのではないか。

 だが実際にそれを行なってしまうなど、あまりに度が過ぎている。

 なぜこんなことを、と努めて冷静に問うと、男は嘆息した。

 下層の薬師が売ってる薬の話、知ってるか。

 咄嗟には意味を掴みかねる返答。この今からは切り離されているかのような話題を逆に問われて、グレイシアスは眉を顰めた。

 思い返してみると、そのような話を聞いたことがあった。

 詰所でも張り紙がされていたのだ。下層で違法な薬物が流行していると。

 殺された薬師たちは、その売人だったとでもいうのか。


 疑問を浮かべて問うグレイシアスに、ゴーシュは唇を歪めて笑う。

 依存性の高い麻薬だ。一度はじめるとやめられなくなって体を滅ぼす。あいつらがなんて言ってその薬を売りさばいてたと思う。天使除けだと。飲むと天使と取り替えられずに済む薬だと言って、奴らは街に薬を撒いてた。

 そんなわけがないのにな、と男は吐き捨てる。

 静かな口調。だがそこには決して癒えることのない怒りが宿されている。

 天使除け。飲むと天使と取り替えられなくなる。

 それが欺瞞であることを、天使狩りである彼らは誰よりも知っている。そのような薬は絶対に存在しえない。だが天使という存在への不安は、口にしないだけでこの街の誰しもが抱えている。

 いつか誰かに殺されるかもしれない。

 いつか自分でなくなった自分が、誰かを殺すかもしれない。その恐怖から逃れたいと思う者たちにこそ、その薬は標的として売りつけられたのだろう。誰か大切な人間と、この先も一緒にいたいと願う者たちだ。

 何もかもがくだらないとでも言うように、男は冷笑を浮かべてみせた。売る奴も、それを買った奴も馬鹿ばかりだ、と口の端に皮肉をのせる。

 誰を守ることもない痛罵。

 それは自らごと、守り育てた花の茎を断ち切るかのような。

 グレイシアスは僅かに目を伏せる。これは復讐なのか、と小さく呼びかける。


 なるほどその薬を扱っていた薬師は悪人だろう。

 しかしそれで自ら殺人をして回るほど、普通の人間は正義感に狂ってはいない。男の漂わせる行き所のない殺意と憎悪は、だとすれば。

 少し前に他の天使狩りから聞いた話を、彼は今更のように思い出す。

 いつも変わらぬ、強い精神を持ち合わせているように思えた男。

 恋人を失ったという男の顏から、冷ややかな笑みがゆっくりと引いていく。

 残されたものはただ虚ろで、そこに暗い影を揺らめかせた瞳だ。下層の人間がいくら死のうと、どうでもいいと思っていたんだがな、と男は呟いた。


 元々、からだが弱い人間だった。

 体調を崩していたのも知っていた。

 弱っていたところに毒となる薬を飲んだことで、男の恋人はあっけなく死んだ。彼が本当のことを知ったのは、全部が終わった後だったという。

 ……グレイシアス。

 あいつが最後になんて言っていたか、お前には分かるか。

 一人にしないで、だ。


 ゴーシュは緩やかに嘆息して右手の剣を上げる。

 片腕で差し向けられた鋭利な切っ先を、青年は黙って見返した。

 下層で流行っているだけの薬であれば良かった。

 だがそれがいつからか中層にまでやってきて、唾棄すべき文句を餌に広まっていた。そして自分の大事な人間を毒牙にかけたのだと、そう男は語った。

 対価を払わせなければならない。汚濁は濯がねばならない、と。


 彼の怒りは正当なものだと、グレイシアスは頭の片隅で考える。

 同時に、このようなことが許されるはずがないという思いも。

 共感も非難も、だが彼の喉からは出てこない。

 この場に至って、どのような言葉が意味を持つというのか、グレイシアスには分からなかった。歩み寄るための、否と跳ねのけるための、思いを伝えるための――――手段であったはずの彼らの声。それは一線を踏み越え、全てを拒絶している者には届かない。同じ色を知り、同じ単語を用いても、そも根幹から分かたれてしまえば響くものはない。こうして剣を向けあっている彼らは、もはや別の断崖に立っているのだ。

 それでもここで、何かを探さないわけにはいかないだろう。

 絶望を否認し、暴力によらぬ道を選ばないのなら――――。

 彼は奥歯を噛む。塞ぐ喉をこじ開けるように息を吸った。


 俺たちが許されているのは天使を狩ることだ。

 他の人間を自ら裁けば、その正しさは誰にも分からない。

 そうでないなら――――俺たちが今までしてきたことは、なんだったんだ。

 天使とどう違うんだ。


 努めて抑揚を抑えた問いは、彼自身のこれまでをかき集めたかのようで、また自らに吐いた慟哭のようだった。

 やりきれなさを押し隠した訴えは、二人の天使狩りの間に転がる。

 地面に落ちたそれを目で追って、ゴーシュは冷えた視線を伏せる。正しい殺人なんてものは、はなからないだろう、と無表情に言い捨てる。

 気づいてしまったのだ、と男は慨嘆して告げた。

 人を無差別に殺して回る天使。だがそれよりも殺すべきものが、この街には多くいるということに。自らの欲のため恫喝も辞さぬ者。他者を滅ぼす麻で益を得る者。法など下層では守られない。罰されることなく野放しで悪徳を啜る罪人たち。

 街で俺たちを見てくる奴らもそうだ。

 嫌悪の眼をしながら、素知らぬ顔で汚れ仕事を押し付ける浅ましさ。天使を殺して守る価値があるほどに、それらは善良と言えたのか。

 この街のために殺戮を積み重ねてきた。

 ならば、いまさら人間というだけで見逃す理由もない。

 正しさの是非、排すべき相手は己で決める。

 心がありながら為される悪は、度し難い。天使などよりもよほど。


 秩序を守るためならばと、剣を振るってきた天使狩り。

 だがその秩序を疑うことになった彼は、我慢がならなくなったのだという。

 他者を蹴落とし、欺瞞を良しとする人の獣性に。

 下層の天使は俺が殺した。こんなことは長続きしない、とグレイシアスが険しい表情で反駁すると、そうかもな、と短い肯定が返ってくる。

 だが俺の仕業が明らかになることもないだろう、と男は淡々と続けた。


 なに、とグレイシアスは眉根を寄せる。

 それはどういう意味なのか。ゴーシュの口調からは、単純に彼が自身のしていることを隠し通せるという、それだけではない何かが感じ取れた。

 やってみて分かった、と男は小さく息を吐く。その語気に、それまでにはなかった苛立ちのようなものが滲む。

 下層で人死にが出ているというのに、調べはろくに進んでいない。

 殺人を重ねれば多少は動きにくくなるかと思っていたが、その気配もない。

 これが人の仕業かもしれないと、そう勘づいている者はいるはずだ、とゴーシュは言った。見つからない天使が人を殺し続けるという状況は、それだけで不自然なことだからだ、と。だが天使に扮して人を狩り続ける者がいるとなれば、それは天使狩りかもしれない。天使の仕業を偽装すること、人を殺害すること、街の衛兵である天使狩りの捜査を潜り抜けること――――それらは普通の人間には難しい。

 だがそこまで気づいても、実際に事態を解決しようとする者はいない。

 天使狩りが人を殺したなんて醜聞は、この街の権力者たちも広げたくないのだろう、とゴーシュは唇を歪めて皮肉に笑む。


 いくら疎まれようと、天使狩りがこの街の秩序の一端を担っているのは事実だ。

 どこか得体の知れぬ、それでも自分たちを天使から守ってくれる剣。

 だがそれが憎しみをもって、襲い掛かってくるかもしれないと知れたなら。

 天使という存在のせいで、この街の人々の精神は見た目ほど安定しているわけではない。根幹に危うさを抱える秩序への打撃は、絶対に避けられなければならない。

 この街の上役たちは、この事件をあくまで下層の天使の仕業として片づけたいはずだ、とゴーシュは滔々と語る。統治の届かぬ地区の貧民の犠牲は、そのために黙認されている。だから進んで下層の捜査が行われることもないのだ、と。


 あり得ない、とグレイシアスは受け入れがたさに首を振った。

 理屈は理解できる。だがそれでは、天使狩りの高官や街の議員たちは意図的に被害者を見殺しにしていることになる。より大きな秩序を守るという大義のために、少数の犠牲を容認するのでは、本末転倒ではないか。秩序は一人ひとりの命を守るためのもののはずだ。いかなる理由があろうと、殺人が看過される理由にはならない。

 だが――――現に下層の天使の捜索は、積極的とは言えぬものではなかったか。

 そのことに気づいて、剣を構えたまま立ち尽くすグレイシアスに、ゴーシュはまなじりを細める。果てしなく大きな、世界そのものを憐れむかのような情念がその目に浮かぶ。


 きっとこんなことをしでかしたのも、俺が初めてではないんだろう。

 お前は聞いたことがなかったか、とゴーシュは青年に問いかける。

 こうして隠れて人を殺す天使が出たことが、以前にもあったらしい、と。

 その話を聞いた時は、変わった天使がいたものだと思った。だが実際にこうなってみると――――それは、自分のような天使狩りだったのではないか。天使は人を殺すものだ。人から隠れて、人を殺しうるような例外などまずありえない。


 男の仮説は、グレイシアスにひどい気分の悪さを感じさせる。

 つまりはその時も、その何者かの殺人は黙認されていたというのか。

 天使に扮した何者かが殺戮に飽くか、あるいは捕まるかするまで。

 そうして人間による犯行は存在しないものとして、闇に葬られた。

 ……その話に証拠はあるのか、とグレイシアスは険しい表情で問う。

 今回の天使は実際に言葉を話していたのだ。

 そして人から隠れる知性も持ち合わせていた。あの天使は人を殺しまではしなかったようだが、例外そのものは確かに存在しえたことになる。

 もたらされた反証。男は動じるでもなくゆっくりと頷く。

 そうだな、実際のところは分からない。

 だが、お前はどちらだと思う。

 男の声音は有無を言わさぬものでなく、静かなものだった。向けられた切っ先が青年自らに自問させる。そこまでこの街が綺麗なものだと信じられるのか、と。


 変り種の天使が生まれる率と、人がそれを偽った率。

 グレイシアスは何か反論を声にしようとする。自身の正しさを証明するための糸口を。だが喉をこみあげてくるのは、息苦しさの欠片だけだった。

 答えを探すだけの沈黙は、そのものが雄弁な回答だ。

 もう分かったろう。この街は根幹から腐っている、とゴーシュは鼻を鳴らす。

 だからここで殺されろと言うのか、と声を押し殺して問い返す青年に男は何の感慨もなさそうに首肯した。

 下層の天使がどうなったかなど、半ばどうでもいいことではある。だが、死んでいるよりは生きていてもらったほうがまだ動きやすい、と。


 ――――それはつまり、グレイシアスには生きているより、死んでもらった方がいいということの同義だ。そのような理由で僚友であったはずの人間から殺されようとしていることに、グレイシアスの胸には怒りよりも、むしろ虚脱が生まれる。

 あんたの都合はどうであれ、天使は死んだ、とグレイシアスは重ねて訴える。

 天使の仕業であることを偽って殺人を重ねる男。

 だが問題の天使もいなくなった今、どうあれそこには限界がある。ここでグレイシアスが天使の死を伝えずとも、いずれ不自然さが露呈するのは避けられない。

 この街の誰もがそれを座視しようとしても、いつか終わりは来るのだ。

 人々から狩り立てられ、切り捨てられる終わりが。

 男はその指摘に微かに鼻で笑ったようだった。

 いまさら何の痛痒も感じていない表情。

 だとしてもかまわないのだと、グレイシアスは悟った。


 下層の天使が死んだことが知られても、この男は殺人をやめるつもりがない。下層で麻薬を売る薬師を殺し、おそらくは次にそれに関わった者を殺し――――そしてさらには、彼が罪人だと思う他の人間たちを殺していくつもりなのだ。

 止まることはない。止められもしない。

 血に濡れた剣を振りかざし続け、他の人間に殺されるまでは。


 もはや命を奪うほかない。

 この男はそういうものになった。

 グレイシアスはそう理解して、剣を握る指に力を込めた。全ての納得いかなさを飲み込んで、瞳に冷えた戦意を浮かべる。

 俺は天使狩りだ。この街を守らなければならない。

 何のために。その価値などないと、お前は知っているだろう。

 違えられた道。重ならぬ願い。

 互いの剣先は揺るがない。

 これ以上の問答は無意味だ。それが道理の通じぬ相手なら。

 グレイシアスは覚悟を決めて息を吸い、声を上げる。


 問おう。汝は人なりや。

 男の口元が釣り上がる。皮肉げに、どこか満足げに。そうして何者でもなくなった男は無言で剣を一閃させると、ただ天使狩りの青年へと地を蹴った。



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