06『真実をお教えします』
(昨日は、いつもと様子が違っていたわね)
真理江は、大学の正門をくぐり、道場に向かいながら考えていた。第一に、これまでは壁に姿を現していたのに、今回は林の中だった。
それに、あの場違いな霧。あの時に嗅いだ独特の匂いの正体が思い出せないが、あの霧に浮かんでいた狸は霧でぼやけて居たせいか、いつもとちょっと違っているようにも見えた。
「おはようございます。藤島先輩」
道場の更衣室に入ると、すでに三沢雛子が着替えていた。ぴんと伸びた背筋に沿うように長いポニーテールがたらされた、すらりとした長身。つくづく道着が似合う風貌である。
「あ、おはよう。三沢さん。今日はいつもより早いのね」
「ちょっと早く起きちゃったもので……。昨日はどうでした?」
雛子に尋ねられ、真理江は昨日あったことを話す。
「さすがにもう疲れてきちゃったわ。考えるの」
誰が、何のために、どうやって。全てが何も分からないままだ。瀬名川との距離が縮まったのは成果と言えば成果だが。
はあ、とため息をつきながら、竹刀と防具を取り出そうとロッカーを開けて、そこに見覚えのない封筒が入っているのが目にとまった。それは、どこにでもある郵便用の封筒で『藤島真理恵様』と宛名が書いており、差出人には『青山千鶴』と書かれていた。
誰だろう、と一瞬迷ったが、昨日会った妙に間延びのした口調でしゃべる男に思い当った。
ちらりと雛子に目をやるが、彼女は着替えが終わり道場に出ていくところだった。
独りになったところで封筒の中から手紙を出して開いてみる。白紙の真ん中に、意外にきりっとした文字でたった二行だけ書かれていた。
『真実をお教えします。
つきましては、山内紀子様の本日の行動にご注意ください』
かちゃり、と扉を開く音が聞こえた。
そこに入ってきたのは、
「おっはよー。あら、まだ着替えてなかったの? 珍しいわね。さては昨日瀬名川君と何かあったな~!」
そう言ってニマニマ笑って、近づいてくる紀子の目から、真理江は反射的にその手紙を隠してしまった。
* * *
竹刀の素振りのメニューをこなしたところで、休憩が入った。雛子は、道場の壁際において追いた自分の水筒から、水で薄めたスポーツドリンクを取り出し、ごくごくと喉を鳴らしながら飲む。
運動した体に急に冷たいものを飲むのはよくないので、ぬるいまま飲むストイックぶりである。
背にした壁には道場から外に通じる入口があり、少しでも風通しを良くするために、それは開けられていた。
雛子はその扉の向こうにちらりと見えた人影を見逃さず、独り言のように話しかけた。
「言われたとおりにしたけど、本当にあれで犯人が分かるの?」
雛子は、今日の朝、千鶴に頼まれごとをしていた。それは封筒を真理江のロッカーに入れること。そのためにいつもより早起きをしたのである。
「分かるよー、それはもう、明確にー」
相変わらずの間延びのした口調だ。だが、その言葉自体は力強い。やたらと自信のこもった千鶴の力強い言葉に、雛子は一年前の出来事を思い出す。
千鶴は再び謎を解こうとしているのだ。
「雛子ちゃん、『追い掛け狸』ってどんな話だと思うー?」
不意を突くような問いに、雛子は戸惑いながらも答える。
「どんなって、野心を抱く娘に岡惚れした百姓が娘のために犯罪を犯して、それを裏切られて死んでもなお化け物になって彼女の前に姿を現す話、でしょ?」
「それなんだよねー。僕の知ってる話とそれは全然違う話なんだー」
敬愛するオジサマ(赤羽教授)のゼミに入ろうと多少は民俗学をかじり始めた雛子が思ったのは「それがどうしたのだろう」である。伝えられた伝承の中で違うバージョンの結末があることはよくある話だ。
だが、雛子は千鶴が無意味にそのような話をする男ではないことを知っていた。
「……じゃ、千鶴の知っている話は?」
「僕の知ってる話は“野心を抱く娘が、自分に岡惚れした百姓を最後まで利用しようとする話”なんだよー。そして、僕は色々調べたけど、この話に他のバージョンは存在しない」
ということは、雛子の知っている『追い掛け狸』はそれを伝えた人物によって歪曲されたものということだ。雛子は真理江からこの話を聞いた。そして真理江は―――
道場内に集合が告げられる号令の最中、雛子がたどり着いた結論を、さらにかき乱すように千鶴は付け加えた。
「この話で重要なのは“配役”。この事件の誰が、この話の誰になっているか、ということなんだよ」
* * *
昼休みとなり、全員が一旦汗を流して昼食を食べに食堂へ移動していく。真理江は日中のロードワークもありながら、まるで日焼けしない肌にタオルを這わせて汗をぬぐいながら、紀子の姿を探す。
いつも彼女と一緒に昼食をとっていることもあるが、今日ばかりは特別だ。青山千鶴からの手紙である。
軽薄そうな印象のある彼だが、わざわざ女子更衣室の自分のロッカーにまで手紙を届けたのに意味がないはずはない。そして彼に嘘を突く理由は、ある場合を除けばあり得ない。
その、ある場合とは青山千鶴こそが自分を付け狙うストーカーであるというケースである。根拠は一つだけあった。
彼には女子更衣室の自分のロッカーがどこかを知る術などないはずなのだ。男子部員でさえ知らないはずのその事実を知っていること、それはつまり、女子更衣室にいる自分を見ていた、有り体にいえば“覗いていた”可能性があるということである。
事件が動き出してきたことに、真理江は多少の興奮を感じることを禁じ得なかった。そして、考えたのである。青山の思惑に乗ってやろう。そして、彼が動くのを見極めて捉えよう、と。そのため、紀子をマークしていたのだ。
その転機は昼休みに来た。
「アタシ、ちょっと買うものがあるからさ、真理江、先に食べてて」と、真理江を置いて女子更衣室を出て行ってしまった。
――つきましては、山内紀子様の本日の行動にご注意ください
今朝受け取った青山千鶴からの手紙の内容を反芻した真理江は、竹刀を持って紀子を尾行しはじめた。まるっきり素人の尾行であったが、いつものテンションの高い様子とは裏腹に、焦った様子で不安げに歩く紀子が後をつける彼女に気付く様子は全くない。
そして、彼女で向かった先、夏休みで人気のない大学の教室で待っていた人物は――
「どういうことだ、山内? 昨日はまるで話が違ったじゃないか」
まだ壁が邪魔で姿が見えないが、見ずとも声でわかった。何しろこの数日真理江は彼のことばかり考えていたのだから。
否定はしたい。だが聞き間違うはずもない。
紀子の向かっていた先で彼女を待っていた人物。そして合うなり今までの爽やかさが微塵もない口調で紀子を詰問しているのは瀬名川浩介その人だった。
飛び出したい気持ちを精一杯に抑えて真理江は教室の扉の外で聞き耳を立てる。
「何で昨日は来なかった?」
紀子は俯いたまま黙っている。暗い顔で委縮する紀子、彼女をまるで使えない下僕のように蔑んだ眼差しで睨む瀬名川、両方とも真理江が全く知らない二人の顔である。
「全く昨日は台無しだよ。山内が悪戯をする。俺がそれを見つける。それで一件落着。事件を解決した頼もしい俺に、ガードの固い藤島も転ぶって寸法が台無しだ」
さすがその言葉に真理江は飛び出さざるを得なかった。扉を開き、教室の中に入る。
そこで初めて机の上に腰かけた瀬名川と目があった。彼が今まで真理江に見せなかった、どこか攻撃性のにじみ出た表情に、問いただそうとした言葉が出ない。
瀬名川はもはやそれを隠そうともせず舌打ちをする。
「……聞かれてたのか。つけられてたな、山内」
「紀子……本当にどういうことなの?」
紀子は何も答えない。ひたすら俯いて丸みを帯びた身体を小さく縮めこませるばかりである。
「藤島こそ、なんで山内をつけたりしたんだ? 今まで疑われるようなヘマはしてなかったはずなんだけど」
「ある人に、紀子から目を離さないようにって言われたのよ」
わざと青山の名前は出さずに、真理江は答えた。青山はストーカーではなく、あの言葉も自分を罠にはめるための言葉でもなかった。
青山はすでに真相を知っていた。その上で真理江に助言をくれたのだ。
「ある人……ね。山内、君はどうなんだ? 何で昨日は来なかった?」
先ほどから紀子を問い詰める、この質問の意味はまだ分からない。だが、昨日紀子を使って真理江を陥れるための何らかの計画があったことは読み取れた。
紀子は俯いたまま小さな声で答えた。
「……私は、あなたの友達に言われたの。今夜は自分がやることになったから帰っていいって」
「俺の……友達? どんな奴?」
「背が高くて……“のんびりした口調の人”だったわ」
「山内さん、それってこんな人じゃなかったー?」
この教室に新たに登場した人物に全員の目が集まる。細いが背は高く。どこか間の抜けた語尾を長くする口調。紀子の説明と共に、真理江と、おそらく瀬名川も想像した人物であろう。
青山千鶴が、教室に入ってきた。
その後を追うように、なぜか三沢雛子も入ってくる。
「雛子ちゃん……?」
「ごめんなさい、藤島先輩。昨日は初対面みたいなふりしちゃったけど、私、青山先輩のことは前から知ってたんです」
なぜ会ったばかりの青山が当事者のように事件のことを知っているのだろう、という疑問があったがその説明で合点が行った。真理江は雛子に事件の全てを話していた。それが雛子から彼に伝わっていたのだ。
今日、真理江のロッカーに手紙を入れたのも雛子なのだろう。彼女なら当然真理江のロッカーの場所は知っている。
「で、どういうことか、説明はいただけるんですか? 青山先輩」
丁寧な口調ながら、混ざる恨みを隠そうとせず、瀬名川が千鶴に問う。
「分かった。じゃ、最初から行こう。せっかくだからみんな座ったら?」
青山は、真正面から瀬名川の言葉を受けると、授業で講師が立つ壇上に上がった。
講義が、始まる。