04『雛子と千鶴』
三沢雛子が我ながら大胆なことをしている、と最初に気付いたのは、ワンルームマンションの理不尽なまでに小さなキッチンで悪戦苦闘しながらも何とか並べた夕飯をその部屋の主と二人で平らげた後だった。
「……“追い掛け狸”って知ってる?」
雛子は、この部屋の主である青山千鶴に氷を浮かべた麦茶を置きながら尋ねた。
「あ、ありがとー」
にへら、と笑う千鶴のひょろりとした長身とゆっくりとした口調や動作はのろまそのものにしか見えない。
だが、千鶴はお茶を受け取ると、あっさりと答えた。
「“追い掛け狸”? この辺の伝承だねー」
千鶴は、民俗学を専攻する大学院生で研究室において教授に一目置かれている程のこの学問に通じているのだ。
どうやら話に通じそうだ、と雛子も自分の分の麦茶をもって、千鶴の卓袱台を隔てた向かい側に座る。
「それがどうかしたのー?」
「最近、剣道部の先輩がそのタヌキに憑かれてるんだって」
そう言って雛子は、二日前から剣道部の先輩である藤島真理江が“追い掛け狸”を目撃し続けていること。それを同じ剣道部の男子部員である瀬名川浩介が相談に乗ったこと。そして昨夜、真理江が瀬名川に自宅に送ってもらう途中で、今度は二人して“追い掛け狸”に出くわしたことなどを話す。
これらの話は全てもう一人の先輩である山内紀子が脅迫、誘導尋問を駆使して真理江本人から聞き出した話である。
だが、“追い掛け狸”の解釈や、現実的思考からストーカーの悪戯だろうとというあたりは付いていても全く事態は進行していないことから、雛子はとりあえず同じく民俗学をやっている千鶴に相談しようと思い立ち、「夕飯を作りに行ってやるから、相談に乗れ」と持ちかけたわけだ。
しかし、よく考えたら嫁入り前の年頃の娘がノコノコ男の家に上がり込んでいるような状況である。もっとも、このほにゃらら男なら、妙な心配はないだろうが。
「ふうん、二人して見たんだねー」
「もっとも、怪我の功名かしらね。藤島先輩と瀬名川先輩、今急接近してるのよ」
「付き合ってるのー?」
「まだ、らしいけど時間の問題ね。瀬名川先輩のことになると藤島先輩、すっかり乙女の顔だもの」
四六時中、瀬名川のほうを見ていたり、不意に瀬名川の名前が出てくると挙動不審になったり、いったいどこの女子中学生かと突っ込みたい、と雛子は力強く語った。
「……雛子ちゃんのほうが年下なんだけど、達観してるよねー。恋愛に関してはー」
それは特殊とも言える雛子の趣味によるものだろう。雛子は同年代の男にはほとんど好意を抱かない。一番のタイプと公言するのが民俗学の赤羽教授なのだ。ちなみに赤羽教授と雛子は同郷であり、彼女は教授をオジサマと呼んで慕っている。
そして、千鶴はそのオジサマの愛弟子であり、その関係で一年前の夏にとある事件を通して知り合ったのである。その際、雛子は千鶴が第一印象通りの人物ではないことを知った。
「まあ、仕方ないことなんだけどね。藤島先輩、大学に出てくるまでホント箱入り娘だったらしいし」
これは真理江の同級である紀子から聞いた話である。入学当初はいろいろ世間知らずな行動で数々の“伝説”を築いていたらしい。
「お嬢様なんだー?」
「実家が田園調布ってだけで想像つくでしょ。家の方針で今は一人暮らししてるみたいだけど。実家は相当のお金持ちって話よ」
「お金持ち……ねー。瀬名川君のほうはどうなの、藤島さんのことー?」
千鶴の問いに、雛子はお茶うけに置いてあった煎餅の封を切りながら首をかしげた。
「あんまり絡んだりしないから良くわかんないけど、やっぱり好きなんじゃない? でなきゃ毎日キツイ練習終わった後に駅と逆方向の先輩の家まで送ったりできないでしょ」
「……なるほどねー」
「千鶴こそどうなのよ。瀬名川先輩、民俗学のゼミの人なんでしょ? どんな人なの?」
「僕もあんまり絡まないからよくわからないけどねー。まあ、勉強熱心なコだよー」
もっとも、赤羽教授は非常に勉学に厳しい人物であるため、勉強熱心でなくてはゼミ生は務まらず、よほどやる気があるかモノ好きでなければ赤羽教授のゼミに入ろうとは思わないだろうが。
「結構モテてる印象は受けるかなー。けっこう頻繁に“彼女”の名前が変わってるしねー」
「へえ、誠実そうに見えたけど案外、恋愛には浮ついた人なのかしら」
その時、雛子の中で瀬名川の評価は思い切り下がる。今時の若い男にしては毎日真理江を家まで送ってやる甲斐性に、送った先で上がり込もうともしないという紳士的な振る舞いをしているので、雛子の中では高評価だったのだが。
「どう、何か分かりそう?」
「………」
千鶴は、麦茶の中の氷をしばらく見つめていたが、雛子の目を見つめて言った。
「ちょっと確かめたいことがあるんだー。明日ちょっと協力してもらえるかなー?」