線香までこだわった葱の羹 二
そこは闘技場だった。
踏み固めた土の、円い広場。その壁の上には血に飢えた観衆――鴨の羹を給仕に注文し、鴨を探しに調理場へ行った人たち。
葱の羹を頼んだ人たちは他にもいたけれど、誰も足枷をつけていないし、ふたりで一組にされていない。さらに言うなら、重武装をしていた。
わたしたちの背後で太い綱が軋む音がして、格子戸が閉じた。
「昼食をとる前だから」ヒュンガがつぶやいた。「血に酔わずに済む」
燐を燃やしてつくった白くぎらつく光の下で、武神キロガや数多の英雄を模した剣闘士たちがわたしたちをできるだけ惨いやり方で殺そうと待っている。
わたしたちは逆だ。できるだけ速やかに殺して、その場を去る。
惨いことをするのは情報が欲しいときだけだ。
銅鑼が鳴った。
わたしは盾を捨て、右腕をヒュンガの、細いが厳しく締まった胴にまわし、剣吊りの革帯をつかんだ。左手を開けておいたのはちょっとした暗器があるからだ――ここに来る途中、皿洗いの桶から失敬した箸が二本。唐辛子鍋などをつつくのに使う鉄製の箸だ。
わたしが残酷に殺されることを望む観衆たちの声を聴きながら、わたしはヒュンガの腰にしがみつき、振り回された。
ヒュンガの剣さばきの勢いを利用して一本の箸を投げた。
四角い鉄の箱のような兜の斧闘士。その目の部分には小さな穴が開いているが、そこに見事命中した。くぐもった悲鳴はきこえなかった。ヒュンガの剣が誰か別の剣闘士を具足ごと断ち切る音のほうが大きかった。
もう一本を四角い鉄の箱へ投げると、もうひとつの目の穴へまた入って、血が噴き出た。自分では箸の命中率は三回に一度だと思っていたが、思ったよりもいい。もっと箸を盗んでくればよかった。
「サキ」
ヒュンガの静かな声がして、すぐにわたしの目の前に三日月刀があらわれた。その白く輝く柄をつかむと、すぐわたしの目の前に迫ってきた大きな盾を真横から払う。曲がっているほうを先にして。盾に隠れた腕がザクッと裂ける音がした。盾が落とされ、その後ろに剣士があらわれた。青と白に塗られたその顔がたちまち真っ二つに切り裂かれ、血煙に消える。
わたしはもうヒュンガの腰から離れて、鎖でお互いの足を文字通り引っぱらないよう工夫をして、背を預け合って、残りの剣闘士に対峙した。
ひとり、またひとりと屠ってわかったのだけど、剣闘士たちは観客の期待にこたえて、なぶり殺しばかりしているうちに致命傷の与え方を忘れてしまったようだ。向こうがこちらの手足の腱を狙おうと剣を構えたときにはわたしかヒュンガ、どちらかの刃が急所に滑り込んでいる。武神キロガに扮した剣士が一番ひどかった。かつては優れた剣士だったのが、ここで見世物を繰り返すうちにすっかり牙を抜かれたのは見ていられなかった。だから、わたしの剣とヒュンガの剣が左右から襲って、一撃のもと、首を刎ね飛ばした。
全てが終わると、しん、とした。
門が開いて、鎖帷子で全身を守った男たちが死体や死体が使っていた武器、それに試合の最中、観客が投げ込んだ金属の皿や瓶を集めて、闘技場の外に運び出した。
そのあいだも観客たちは言葉を失っている。見たところ、兵役をさせられるような低い階級はいないし、軍人も飾りみたいな服を着た張りぼて。だから、無駄のない人殺しを見たことが一度もないのだろう。
「もし、やつらが」ヒュンガがささやいた。「満足しないで、こっちを殺る気になったら、どこに行けばいいか分かるな?」
「ここから右斜め後ろの壁。ヒビがあるから、そこを足掛かりに観客席に上れる。そこで斬りまくる」
最後の男がわたしたちの足元にしゃがみ、足枷を外した。
燐の光が観客席にある何かに反射した。
剣か、何かと思った。
身構えた。
白く輝く硬貨が雨のように降ってきた。
心からの歓声とともに。
翌日、報奨金と一緒に、勘違いした慰謝料ももらった。というより、慰謝料のかわりにあの酒楼で最も美味で、最も高価な羹をごちそうになることになった。これには口止め料も含まれているに違いない。
わたしとヒュンガは返り血で駄目にした旅の服を前と全く同じもので買い直し、入店した。
世のなかには死肉をついばむカラスでさえ、お腹を下して死んでしまうようなものを宮廷料理だと言って、出す恥知らずがいる。
そして、残念なことに本物の宮廷料理は堕落を極めている。
君主が人肉を食べてみたいと言い、料理人が自分の息子の喉を掻き切って、血抜きをし、丸焼きにして供したのは許されることではないが、立身出世のための打算があることは理解できる。
でも、熊の掌の羹に蟹を丸ごと入れるのは理解できない。何がどうなったら、そんなことが思いつくのか。
「怒っているのか?」
「怒っていない」
「おれには怒っているように見える」
「ヒュンガはわたしのことが分かるの?」
「すまない」
「……ごめんなさい」
ああ、最悪だ。こんなに感情が揺り動かされるのは生まれて初めてだ。
それほど、わたしを不機嫌にさせた。あの熊の掌の羹とそれにとっぷり浸かった渡り蟹は。
あの店の席を蹴って後にし、怒りに任せて歩いた先には料理に使う用の線香の専門店。
振り向くと、少し元気がないヒュンガがいる。
「少しだけ、待っていて」
わたしは店に入ると、葱の羹用の線香を一束買った。
線香はどれを使っても同じだ。
でも、葱の羹用の線香を使えば、気持ちが変わる気がする。
ごめんなさいはかえってヒュンガを追い込む。
わたしだって、そんな感情に長けていない。
だから、いまのヒュンガ、それに何よりもわたしに必要なのは気持ちが変わる、葱の羹用の線香を使って作った、非の打ち所がない、夢のような葱の羹なのだ。




