◯ワールド・アネモネ
「マスターはこの世界、居心地悪くない?」
アネモネの問いでした。真剣な顔つきです。彼女の目の前にはマスターがいます。ソファに腰掛けた状態で、テーブルに頬杖をついてじっとアネモネを見つめていました。
「唐突に何を」
「私は私自身だから、ここが一番過ごしやすい世界よ。でもマスターにとって居心地の良い世界は、他に沢山あるんじゃないかしら? いえ、ここから引っ越して欲しいんじゃないの。逆なの」
「詳しく聞きましょうか」
マスターはインスタントコーヒーをすすりながら、アネモネを目の前の席に腰掛けさせました。アネモネは俯きつつ言います。
「シテンはワールドにもなれる。それだけの力を持っているでしょう。となれば、自分で世界を作り上げてそこに住むこともできる。なのに、何故……? 何故、マスターはそれをしないのかしら? 何故、既にある私の世界に留まってくれているのかしら?」
「……そういう話なら。シテンの力は貴女達に分け与えた。全身全霊での力の発揮は私にはできないのですよ。ワールドひとつを作るだけのパワーなんてありません。それだけでは理由になりませんか」
「私やロアがいるから、やらないだけ? 本当にそう?」
「……何が言いたいんです」
「べつに、ただ、もったいないと思ったからよ」
「もったいない?」
アネモネは時々、マスターにこのようなことを聞きました。シテンの本質や、その在り方についてです。ですが今日の彼女の質問は、シテンそのものというよりも、マスター個人の意見を聞きたかった様子なのです。
「マスターは旅をして、色んな世界を見てきてるんだわ。その色んな世界のコピーくらい、本来であれば容易く作れる。そこに住んだ方が……その、居心地が良いのでは無いかと思ったの。私の世界よりも、そちらの方が良いのでは無いかな……って」
「珍しい。自信を無くしているわけですか」
「自信?」
「ええ、自分よりも他の世界の方が良いのではないかと思った。この『ワールド・アネモネ』では充足し得ないものがあるのではと思った。それは、自分に足りないものがあるという自覚から生まれるものです」
「そっか……そうね、そうかもしれない」
マスターは一度立ち上がり、キッチンの中にある冷蔵庫の所まで歩いていきました。中からりんごのジュースを取り出し、グラスに注ぎます。アネモネ用です。音を立てず彼女の前に差し出し、改めて腰掛けます。アネモネはひんやりとしたそれに口をつけつつ、視線をずらします。
「マスターはこの世界を旅しない。この喫茶店に留まるだけで何処も見に行かない。だったら、他の世界の方が楽しいのかしらって思っちゃうのは自然なことでしょう? この世界の魅力が弱いのでは、って思っちゃう」
「しかし、居心地が悪いとは誰も言っていない。たしかに、留まることになったきっかけは少々強引でしたが、居心地が良いから、旅の羽休めとして拠点を作るまでに至ったんです。杞憂ですよ」
「きゆう、かしら」
アネモネはもう一口、りんごのジュースを飲みます。マスターもコーヒーをすすります。一瞬の間が生まれ、アネモネは目を瞑ります。マスターが静かに声を発します。
「貴女自身が『ワールド』という大きな単位の存在だからそんなことを考えるんでしょうけどね、私は元々ちっぽけな人間上がりのシテンです。それが改めてヒトになったところで、『ワールド』になろうだとか、作ろうだとか、そんなことは考えません。それこそ居心地が悪い」
「ただのヒトで居られる世界の方が、居心地が良いの?」
「ええ。理想郷を作るよりも、その方が良い。私は少なくともそうです」
ふう、と息をつくアネモネは、ジュースのグラスを伝う水滴を指ですくい取って手のひらにとりました。それを握り、わずかに微笑みました。
「少しだけ、安心したわ」
「ならば良かった」
マスターの表情も穏やかなものでした。
「対話できる存在というのはありがたい。話が通じない存在は、人であろうがなかろうが、意外と多いものです。その点ではアネモネ、貴女は話が出来るだけでも、他のワールドより自信を持って良いはずです。他じゃ世界そのものと喋ろうなんて、難易度の高い話でしかないですからね」
「ふふ、私の強みなのね。ありがとう! 大丈夫よ、もしマスターに悩み事ができたときは、今度は私が聞く番。なんでも話して頂戴ね」
アネモネはその時、マスターの穏やかになった表情が一瞬で元の真顔に戻ったことに気づきます。何かを思い出したように、そして思い出すことを嫌がるように、彼はわずかに舌打ちを――音は聞こえないのですが――していました。ですが彼は面倒そうながらも意を決したように、アネモネに向き合います。
「ならばちょうどよい。アネモネ、大事な話があります」
マスターは一度キッチンの奥に引っ込み、そこからトレイを両手で持ってきました。上にはアネモネが大好きなジャムを添えたスコーンがあります。焼きたてではなく、随分と前から準備されていたようですが、唐突に出されたそれを見つめるアネモネの目は、瞬きするばかりでした。そしてじっとマスターの顔を見つめました。わずかな膨れ面をして、です。
「お菓子で釣られるように見えているのなら、ちょっと心外だわ。けど、話は聞くって言ったばかりだものね。大事なお話って?」
「ええ。少しばかり、遠出をしなくてはならないんです」
「……なら、私のお留守番が長引く?」
「いいえ」
「え?」
思ったのと違う流れを予感し、アネモネは身構えました。たしかに、ただのお留守番であれば彼がこんな切り出し方をするはずもなかったのです。しかも用意よくスコーンまで差し出してのお話です。もう一度マスターの顔を見つめるアネモネの表情は、戸惑い、不安がっている者のそれでした。その様子を理解した上で、マスターは言います。
「遠出をするには、私の今の力では足りないのです。アネモネ、あなたに託してある力を一度、私のもとに集約させる必要がある」
アネモネは目を見開きました。意味を理解したのです。
「それって」
呟くアネモネに対し、マスターは頷きます。
「ええ、アネモネ。その人形の身体を、一度返していただきたいのです」
日頃中々目の合わないマスターと、その時ばかりはしっかり目が合っていました。
「勿論、ずっとというわけではありません。一時的なものです。私の一瞬の旅が終われば、そのときはまたあなたに貸し出しましょう。なにか必要であれば、対価も渡しましょう。都合はいかがです」
「対価……」
アネモネはその言葉を受け、目の前のスコーンをじっと見つめてからそっと手で掴み、パクリとしました。素朴な味わいが口の中いっぱいに広がります。大好きなジャムの甘味もします。ですが、美味しいはずのその味が、あまり美味しく感じられませんでした。先程のりんごのジュースとは、全然違っていたのです。
「そう。……また退屈な時間が始まるのね」
アネモネは憂いました。
「入れ子という制約がなくなるというのに?」
マスターはそう尋ねました。あくまでも人形の身体は、アネモネにとってただの器。そのはずでしたが、今ではそれ以上の意味を持つようになっていました。
「馬鹿なこと言わないで頂戴」
アネモネは首を横に振ります。そして思わず両手で顔を覆いました。泣いているわけではないけれど、ほんの少しの泣きたい気持ちが混ざりあった気持ちで、アネモネはじっと考え込みました。
「すぐでは無いのよね? 時間はくれるわよね?」
「ええ、貴女の心の準備が整ってからで構いません。良きタイミングで声をかけてくれれば、それで大丈夫です」
「わかったわ。少しだけ、少しでいいから、時間を頂戴ね」
そういったアネモネは椅子を引き、食べかけのスコーンをそのままに店の外に飛び出していきました。わかった、と口では言ったものの、アネモネの心の準備は整いそうになかったのです。
***
「あのね、カフェアリーヌ。ぎゅってしてもらってもいいかしら?」
「……手を? それとも、ハグかしら」
「ハグ。ぎゅーって」
両腕を広げながらもうつむいているアネモネの頭を優しくなでてから、カフェアリーヌは彼女をぎゅっと抱きしめました。優しい抱擁です。それを受けたアネモネは泣き出しそうな顔で、カフェアリーヌの腕の中にいました。アネモネが何も言わないので、どうしたものかと顔を覗き込んだときに、やっとカフェアリーヌはアネモネのその様子に気づきます。アネモネは「情けない話だわ」と言いつつも、泣きそうな表情はそのままに訴えます。
「だって、こんな些細なことですら叶わなくなるのよ!」
「何があったのかしら」
「消えてなくなるわけじゃないし、また元の生活にはすぐ戻れるのよ。それでも何故か怖いの。一度手にしたものを手放すのって、こんなに怖いのね?」
「……何があったか、聞かせて頂戴?」
アネモネは一呼吸おいてから、マスターから告げられたお話をそのまま話して聞かせました。スコーンの味がしなかったこともです。たどたどしい彼女の話を、カフェアリーヌは真剣に聞いていました。
「なるほど、だからハグができなくなるのね? ……けど、そんなの嫌よ、ってすぐに突っぱねることだって出来たはずよ。アネモネちゃんがそれをしなかったのは何故かしら」
アネモネはカフェアリーヌが差し出してくれたグラス一杯のお水をぐっと飲み干してから、ぽつり、語り始めました。
「……私ね、マスターのことはお店のマスターだからマスターって呼んでたのよ。でも、途中から変わったの。私たちは『エール』――シテンの力を分け与えられた存在」
「エール?」
カフェアリーヌにとって、それは初めて聞く言葉でした。
「そう。だから、マスターは私達の主でもある。そういう意味のマスターになっていった。……逆らえないわ。特に、彼の力そのものに関わることについては、そう。だから、言えない。ダメよ、嫌だわ、なんて……」
空のグラスをカフェアリーヌに手渡します。落として割らないように、両手でそっと優しく手渡しました。受け取りながらカフェアリーヌは頷きます。
「そっか。なら、運命を受け入れなきゃいけないのは、仕方がないことなのね。……変化を恐れず、とは言うけれど、恐れるようなものが目の前にあったら、それは後ずさりしちゃうものよね」
「そのとおりだわ」
アネモネはうなりました。彼女にとって身体を失う不安は、とてつもなく大きいものです。後ずさりしてもおかしくないのでした。
カフェアリーヌはしゃがみ込んで、アネモネの背丈に合わせて話を聞いていました。その状態で頬杖をついて、苦笑いをします。
「私も少し、寂しいわね。にぎやかなお客様が来なくなっちゃうってことだもの」
アネモネはカフェアリーヌのその言葉で、耐えかねてなのか、びゃっと泣き出してしまいました。あらあら、とカフェアリーヌはアネモネの頬を指で拭ってくれました。いつもの手の温かさです。その手に甘えて、アネモネは大泣きしてしまいます。
「そんなに怖がっちゃダメよ、なんて軽率に言っていいかわからないけれど、つゆ草さんだから大丈夫でしょう。ね、楽しいこと考えましょう。彼がお願いごとを聞いてくれるなんて滅多にない話でしょう。何かおねだりする予定は?」
「そ、そんなの考える余裕なんてなかったわ……でもね」
泣き顔のまま、アネモネはにっと笑います。
「どうせならとびっきり楽しいことをしたいわ。今から一生懸命考えなきゃ! けど、すぐに飛びつくのははしたないから、これは内緒話ね」
精一杯の強がりだとカフェアリーヌは気づきますが、知らないふりをしました。人差し指を口元で立て、にっこりと微笑みます。アネモネは両手をきゅっと握り、カフェアリーヌに言います。
「私は、沢山面白い話が聴きたいの。ただの冒険譚なら、本を読めば済む話なんだけど、そうじゃないのよ。マスターの見てくる話がいいの。彼の見てくる話には、私とも深い繋がりがある。私は自分を知るためにも彼の話が聴きたいのよ!」
目元を擦りこすり、涙を拭いながらの話でした。カフェアリーヌの顔を見つめるアネモネは、気づき、慌てて撤回します。
「あっあのね、これは別にカフェアリーヌの話じゃ物足りないって意味じゃないのよ!」
「そんな風には思ってないから、大丈夫よ?」
「本当? どちらかといえば、マスターは無愛想だから、お話聞いてて気疲れしちゃうこともあるくらいなのよ。けどそれと違ってここは温かくて、居心地が良いでしょう? だからついつい入り浸っちゃう。でもいつか卒業しなきゃいけない。今回はその練習だと思って、私頑張るわ」
「そう。居心地がいいって、嬉しい言葉だわ。改めて思う。……旅立ちを見送るのが、この店の役目。アネモネちゃんにもその時がいつか来る。私は背中を押してあげなきゃいけないわね」
「練習よ、あくまで練習……。だから、そんなお別れみたいなことは言わないで!」
「だって卒業だなんて言うんだもの」
「そっか、私の言い方の問題ね。いけないわね」
じゃあ、とアネモネは、足踏みをしながら言い換えの言葉をひねり出します。
「ほんの少しだけ、別のことをして遊んでくるだけ! だからこの身体が返ってきたら、今度はそのお話をカフェアリーヌにもしてあげるわ。楽しみに待っていて頂戴ね!」




