◯どぼん!
お食事の後には、必ずやらなくてはならないことがあります。つい忘れがちですが、毎日のルーティンとなっていたアネモネはそれを欠かさずに行っていました。この日はこの店に来て日が浅いロアに、その習慣について教えているところでした。
「私がお皿洗いをするときは、ゴム手袋を忘れないようにしなきゃね。朝露が手に触れるくらいなら大丈夫だけど、大雨みたいに沢山のお水を使うんだもの。それに長時間は危ないから、ささっとできる範囲だけ。簡単なところだけやってしまえば、あとはマスターがやってくれるわ」
「そうか、難儀だな。なら洗い物ぐらいは私が代わろう。リスクを犯してまでやることではあるまい。マスターの仕事が減るならそれも一石二鳥」
「あら、いいのかしら……私ってばウェイトレスなのに」
「それを言ったら、私もコックであるから」
「じゃあお互い様ね? できることはやるから、何でも言って頂戴ね!」
ロアが洗い物をする様子を眺めながら、アネモネはそう言いました。ざぶざぶと沢山のお水を使っても、特に誰かに怒られるわけではないので、ロアは悠々とその作業を進めていました。シャボンがふわりと舞います。目はお皿の汚れ一点に集中しつつ、ロアはアネモネに質問をしました。
「もし誤って水の中に落ちてしまったら、アネモネはどうする」
「大ピンチね。いえ、それは私みたいな人形じゃなくても大ピンチだわ」
表情が一気に深刻なものになりました。
「そうね……どぼん!ってなっても私の場合は溺れるとかではないのだけど、沈んでしまうから誰かに引き上げてもらわないと。それに後が大変なのよ、後が。全身乾くのにどれだけの時間がかかるかしら。一日なんかじゃきっと足りないわ」
「濡れたままだと体調を崩すか」
「わからないけど、きっと気持ち悪いんだわ。それは間違いないの。ああ……想像しただけでちょっとぞっとしちゃう……。女の子なら皆バスタイムが好きなんでしょうけど、その点、私は例外だわ」
身を震え上がらせ、腕を抱えるようにしたアネモネは、今蛇口から流れ続けている水をきっとにらんでいました。よほどだったのか、その様子を見たロアは思わず真顔で蛇口を閉めました。それを見たアネモネは気遣いは不要とばかりにころっと表情を変え、身を乗り出してシンクの片隅を指さします。
「でもシャボンのコロンとかは大好きなのよ。お皿洗いが嫌じゃないのも、洗剤の香りが私のお気に入りのものだからなの」
言われたロアは、くしゃりと握ったスポンジに鼻先を近づけてその香りを確かめました。たしかに良い香りがします。甘めでアネモネが好きそうな、それでありながら爽やかさも兼ね備えた柑橘系の香りでした。
「苦手なものも好きなもので打ち消すか。成程」
「マスターがほんのたまに街に連れて行ってくれたときに、必死で自分の好きな香り探したのよ! 限られた時間で見つけるの、大変だったんだから」
「苦労がしのばれる……」
残りが僅かになった洗剤のボトルを傾けながら、ロアは言いました。次に街に行ったときは、ちゃんと次の洗剤は同じものを買ってこようと決めた瞬間でもありました。ボトルを元の位置に戻してから、話も元に戻します。
「私は水の中に落ちても、何も起きないと言うべきか。泳げるのである程度は大事ないであろうが、長時間は難しい。ヒレのない人魚であるから」
「海中を自由に泳げる人魚さんて羨ましいわよね。海の中ってどうなっているのかしら。写真でしか見たことがないわ。ましてや深海なんて」
「私も海中はもっぱら写真でしか知らない」
「陸地で暮らす私達には憧れるしかないのかしらね……うーん、ちょっぴり悔しい」
皿に付いた泡をざっと水で洗い落とし、濡れたままかごに移動させます。ロアはすべての皿をそうしてから、乾いた布巾でそれらの水滴を拭い取りました。
「代わりに、魚たちが見ることのできない花々を見ることができる。そちらの幸福に目を向けなくては」
「そうね、そのとおりだわ。悲観にくれてる暇なんてないくらいのものがあるはずよね」
「花々やハーブでポプリでも作れば、枕元において楽しめる。作ってみても良いのでは」
「それ素敵ね! 私じゃ全然思いつきもしなかったわ、どんなポプリが作れるかしら!」
「これが終わったら調べてみよう」
ロアが皿の水滴を拭う音がきゅっと鳴ります。アネモネはにこやかにそれを見守りながら、どんなポプリを作ろうか、想像を膨らませるのでした。




