前編
バッドエンドです。
「母さん!」
誰?
耳元で呼ぶ声に目を開けると、滲んだ視線の先に懐かしいあの人が私の前に居た。
「...孝文さん」
「何言ってるんだよ...」
...違う。
でも本当に良く似てる、声までそっくり。
親子だから当然か。
「ああ...安孝ね」
全く、息子を父親と間違えるなんて...
どうやら終わりの時が来たのかな...
「しっかりしろよ...母さん」
「ごめんね、もう...逝かなくっちゃ...お父さんに...謝らないと...」
「...もう充分だろ...母さん...父さんだって許したんだから」
「...そんな事無い」
呼吸器の中から呟く。
充分な訳が無いの...私がしてしまった過ちは決して償いきれる物じゃないのだから...
「母さん...」
「...父さんは...決して私を許して無かった...あの人は...絶対に」
「なんで分かるんだよ」
「...分かるのよ...」
『お互い愛していたから』
決して口に出来ない。
妻として、1人の人間として許されざる行為に溺れてしまった私が口にしてはいけない言葉...
「母さん!!」
「...少し休ませて」
「分かったよ」
ごめんね安孝。
父さんが逝って、私まで居なくなったら貴方は1人になってしまう。
でも大丈夫、貴方には優しい彼女が居る。
決して裏切ったりしない、恋人を、伴侶を。
私がこうなってしまったのは、神様が与えた罰。
お父さん...孝文さんを苦しめ、早く死なせてしまった私の...
遠退く意識、私の脳裏には死にたいくらいの悪夢が浮かんで来る。
まさか最後に思い出す記憶がこれなんて...
『お疲れ様』
『『『お疲れ様でした』』』
『今回のプロジェクト成功は決して私1人の力では無い。
それは、みんなの力だ。
全員の力が一つになって勝ち得た物なんだ』
『『『はい!』』』
一大プロジェクトを無事に終え、会議室で祝杯をあげる。
プロジェクトリーダーの笠井部長は笑顔で部下の私達を気遣う。
なんて謙虚なんだろう。
笠井部長が人一倍頑張って、みんなを引っ張ったからなのに。
『さあ会場を移すか!』
『今日は飲むぞ!!』
祝杯が終わり、仲間はそのまま食事会の居酒屋へ移動する。
子供が小さい私はこのまま帰宅する予定なので、会議室のテーブルに置かれた紙コップを片付け始めた。
『あら山口さん行かないの?』
『ええ、家族が待ってますから』
『今日くらい良いじゃない』
『そうだよ、山口さんも部長に並んでの功労者だよ』
同僚達の誘い。
彼等の殆どが独身。
結婚していても、子供が居ない。
子持ちの大変さは分からないだろう。
『そんな、良いですよ。
みんな楽しんで来て下さい』
空気を壊さない様に笑顔で断る。
本当は少しだけ行きたい気持ちはあるけど。
『少しだけ、顔だけ出して。
知り合いのやってる店なの、私も直ぐ帰るから』
『うん...』
親友の伊藤小百合さんが私の腕を引っ張る。
彼女が行くなら、私も行こうかな。
だって小百合さんは新婚だし。
『少しだけなら』
私は携帯から主人に連絡を入れた。
『貴方?私です』
『どうしたんだい?』
『今晩、もう少しだけ良いかしら?』
『そうか、大丈夫だよ。楽しんでおいで』
『安孝は?』
『もう寝たよ』
『そう、じゃ後でね』
電話の主人は優しい声で言ってくれた。
頑張ってプロジェクトを成功させた事を知っているからだろう。
『旦那さん、どうだった?』
『良いよって』
『よし決まり!』
こうして私は次の会場へと向かった。
....同僚達と久しぶりの外食に浮かれてしまった私は次々とお酒を飲んでしまったのだ。
...そう、意識が無くなる程...
『え?』
『気がついたか?』
『あ、え?部長?
どうして私は?ここは?』
気づけば私は裸でベッドの上に居た。
周りに散乱する私と部長の服...下着...ティッシュの束...
『凄かったよ、山口君がこんなに...思っていた以上だったよ』
『...嘘』
何を言っているの?
そんな事を私が?
しかし、身体の火照りは間違いなく、私が部長と一線を越えてしまったと感じていた。
『ほら』
『消して下さい!』
部長が見せた携帯の動画にはキスを交わし、激しく乱れる私の姿が映っていた。
『そうはいかない』
『部長...』
携帯を奪おうとする私の身体からシーツがずり落ちる。
慌てて隠そうとする私を見ながら部長が笑った。
なんて好色な、さっきまでの部長とは別人だ...
『そんなに落ち込まないでくれ、こんな事はみんなやってるんだ』
『...みんな?』
『ああ、岸田君も、斎藤君も、伊藤君なんか新婚なのに』
『小百合さんも...』
まさか彼女が?
結婚式に出席した私には信じられなかった。
『...帰ります』
まだ時間は11時、急げば今日の内に帰る事が出来る。
こんな悪夢に耐えられない。
『そうか、俺は泊まるよ、シャワーには入って帰れよ』
そう言って部長が笑う。
身体を洗い服を着る私を嘲る視線に吐き気を覚えた。
『...ただいま』
自宅に辿り着く。
帰宅途中で送ったメールに返信は無かった。
真っ暗な室内、予想通り主人と息子の寝息が聞こえた。
『なんて事をしてしまったの...』
1人リビングで項垂れる。
『まさか私が...』
どうすれば良いのか分からない。
もし、この事が主人バレたら離婚になるかもしれない。
家族三人、幸せな家庭が終わってしまう...
恐怖で何も考えられないまま時間だけが過ぎていった。
...そう、部長に脅されるまま...
『もうこれ切りにして下さい...』
数ヶ月が過ぎた。
出張で泊まったホテル。
部長の部屋に呼び出され、抱かれた後言った。
もう限界だった。
『そうか...データーが有れば僕は充分だよ。
バックアップもしたし』
『そんな...』
いたぶられている。
そんな事は分かっていた。
しかし私はもう考える事が出来なくなっていた。
『君もシャワーを浴びて来るんだ、明日も仕事だぞ』
『...はい』
言われるままシャワーに向かう。
上がると部長は私の携帯を見て笑っていた。
ロックを忘れていたのだ。
『返して!』
血の気が引く。
慌てて携帯を奪い取ると、画面には息子の写真と短いメッセージが添えられていた。
[ママお疲れ様!!]
『...安孝』
主人の携帯から送ったメール。
もう限界を越えた。
『貴方...孝文...』
携帯を握り締め泣きじゃくる。
死にたい、心からそう思った。
『家族か...』
『見ないで!』
『今さら何を言ってる。
もう何回君を抱いたと思ってるんだ?』
『止めて...下さい...』
『背徳が堪らないだろ?
これが大人の関係だよ』
私の心が死んだ瞬間だった。
それから1ヶ月の記憶が無い。
主人は私の様子に心配していたが、何も考えられない私は心配しないでと返すばかりだった気がする。
部長はそれから私を抱く事は無くなった。
きっと飽きたのだろう。
しかし、本当の地獄はこれからだった。
『グラミジア?』
『はい、大分と進行しています』
『そんな...』
会社の定期検診。
病院から呼び出された病名。
それが性病である事は直ぐに分かった。
明確な自覚症状は無かったと思う。
しかし、言われてみれば最近身体の一部が...
『ご家族にも感染の可能性があります。
早く検診を受けられます事を』
『終わった』
医師の言葉は私の人生が終了した事を告げていた。
『...あなた』
『どうしたんだ真理?』
深夜帰宅した私は主人に土下座をした。
息子には聞かれたくなかったのだ。
『ごめんなさい!私はあなたを...みんなを裏切ってました!!』
『とにかく落ち着いて...』
『別れて下さい!
慰謝料でも何でも支払います!!』
『だから落ち着いて、いきなりで訳が分からない』
『はい...実は私...』
主人に身体を引っ張られ、ソファーに座らさせられた私は全て告白した。
数ヶ月に及んだ不倫、切っ掛けから最近に至るまでの経緯、そして性病に罹患してしまった事も全て...
『そうか...まさか君が浮気を...』
聞き終えた主人が呟く。
罵倒するで無く、ただ辛そうな表情だった。
『とにかく病院を予約するよ、僕からじゃ無いと思うけど』
その通りだ。
性病が主人からの筈が無い。
なぜなら不倫の期間、私は主人と一回もセックスをしていなかった。
痕跡を、部長...あの男とのセックスの痕跡がバレるのが怖くて、疲れてる、そんな気になれないと言って拒んでいたのだ。
『どうする?』
数日後、主人の陰性が分かり、改めて聞かれた。
私の覚悟は決まっていた。
『離婚を...』
『その男の元に行くのか?』
『そんな事しません!』
『落ち着け、安孝が起きるだろ』
『...ごめんなさい』
思わず大声になってしまう。
あの男の所に行く事なんか考えられない。
ましてや、あの男も既婚者だ。
『なら何処に?君の実家には帰られないだろ、叩き出されるぞ』
確かにそうだ。
両親は不倫や浮気が大嫌いだ。
...私もだったのに。
『...アパートを借ります』
これしか無い。
私の給料では生活も苦しくなるが、もう主人に迷惑を掛けられない。
『...安孝はどうするんだ、まだ五歳だぞ』
『...それは...あなたが決めて下さい」
息子と別れるのも辛い。
しかし、主人から息子まで取り上げるのは出来なかった。
『僕の状態で子育ては無理だ、実家も頼れない』
『そうね...』
主人の仕事は激務な時期がある。
その期間は会社に泊まり込む事が多い。
そして主人の実家は遠方で、安孝の面倒を見る事は無理だった。
『安孝には君が必要だ。
僕だけじゃなく、自分の子供まで裏切るのか?』
『そんな事無い!』
主人の言葉が心を抉る。
我慢出来ない私はまた大きな声を出してしまった。
『それは後回しにするとして、先にしなくてはいけない事を済まそう』
『...する事?』
『男を、笠井を罰する事だ』
『罰する?』
『ああ、君は嵌められた』
『嵌められた?』
『間違いない、あまりにも出来すぎている』
浮気の経緯は全て話した。
最初の切っ掛けはお酒を飲み過ぎてしまった事も全て。
それが嵌められていたとは?
『笠井を興信所で調べる』
『はい』
私は主人の言葉に頷いた。




