中編
入りきれませんでした。
会社に休職願いを出した。
表向きは定期検診で見つかった病気の療養。
病名はプライバシーから会社に伏せられていたが、上役には知られてしまったかもしれない。
だが会社から何も言って来る事はなく、私の休職願いは承認された。
同僚から心配する電話やメールが届いていたがその中に笠井の名は無かった。
笠井の調査依頼を出して1ヶ月が過ぎた頃、終了したと連絡を受けた私達は興信所に出向き、直接受けとった。
自宅には息子が居る。
とてもではないが、自宅で受け取る事は堪えられなかった。
『予想はしていたが...』
調査レポートを読みながら主人が呟く。
一緒に見ていた私も、予想通り、いやそれ以上の実態に言葉を失った。
『小百合さんが...まさか...』
伊藤小百合は笠井部長と5年に渡る不倫関係だったと書かれていた。
その関係は彼女が結婚する直前まで...
『伊藤さんに電話を...』
『無駄ですよ』
慌てて伊藤さんに連絡を取ろうと携帯を取り出す私に興信所の所長が首を振った。
何が無駄だというのだろう?
『伊藤小百合さんは会社を退職され、現在は実家に戻られています。
誰からの連絡もお取りにならないです』
『実家に?1人で、ですか?』
『はい、どうやら別居をされた様です。
離婚を前提とされた』
興信所の所長が呟いた。
そんな事まで調べたの?
『私が追加で頼んだんだ。
笠井の背景を全部洗い出して欲しくてな』
『そうだったの...』
どうやら私が考えていた以上に仕組まれていたという事なのか...
『これを』
所長さんは私に1枚の紙を差し出す。
そこには住所と電話番号が書かれていた。
『これは?』
『伊藤小百合さんのご実家の住所と電話番号です』
『...連絡します』
紙を折り畳み、鞄に入れると主人と所長が頷いた。
つまり、そういう事なんだ。
彼女が語る真相を確かめるのは私だという事なのだ。
主人は同行する気が無いのは私に気遣ってなのか。
『久しぶりね』
『...はい』
数日後、私は伊藤小百合の実家に居た。
久しぶりに会った彼女は窶れ果て、怯えた目で私を見た。
部屋には私と彼女の二人っきり。
他に人は居ない。遠慮して貰ったのだ。
『あの....体調は?』
掠れた声で小百合が呟いた。
性病の事も知っているみたいね。
『薬でなんとかね、貴女は?』
『......』
小百合がうつ向く。
何とか言ったらどうなんだ?
『貴女も笠井にうつされてたんでしょ?
性病持ちと貴女も不倫なんてよくやるわ』
自嘲気味に呟くと小百合の身体が震えた。
やっぱり当たったのか。
『...これきりに』
『これきり?』
小さな声で呟く小百合。
用意してきたボイスレコーダーをテーブルの上に置いた。
『私だって別れたかった。
あの男は妻と別れるって、いつも口先ばかり...
だから私はあの人と...幸せを...』
『不倫から逃げる為に別の人と結婚を決めたの?』
『違う!
愛してたのよ、ちゃんと私は...あの人と幸せを...それなのに、アイツは....』
『動画で脅された...』
『ええ...バラ蒔いてやるって...
だから...私は...』
『私を差し出したのね』
『ごめんなさい!!』
『ふざけないで!!』
土下座をする小百合に叫んだ。
手が出そうな気持ちを必死で堪える。
叩いた所で何の解決もしない。
『バカだった...
アイツが貴女を抱くのに、それで店に頼んで酒を...アルコールの強いカクテルを...』
小百合の言葉を聞きながら、あの日起きた悪夢を思い出す。
人事不詳になるまで飲んでしまったのは私の落ち度。
しかし強い酒を次々と飲んだにしても...
『ホテルも私が手配しました。
服も脱がし、貴女の全身に...身体が熱くなる薬を...』
『もう止めて!!』
生々しい言葉に耐えられない。
なんでこんな酷い事を!!
『妬ましかった!
私が苦しんでいるのに幸せなあなたが!』
『冗談じゃないわ!!』
勝手な獣ごっこに、私がどうして巻き込まれなくてはいけないの...
『貴女が壊れて、私はまたアイツに呼ばれた...山口はもう使い物にならない、だから...また...頼むと』
吐き気がする。
それでまた脅されたのか。
『後は貴女と一緒...性病をうつされて、旦那にも...それでバレたの』
『そう...笠井の事は?』
『言ってない...行きずりの男と浮気したって』
『どうして?』
なんで言わないの?
小百合の言葉が理解出来ない。
『怖かった!
まだ謝れば旦那は赦してくれるんじゃないかって!
長年の不倫が、ましてや沢山の動画まで知られたら...結局は離婚を突き付けられたけど』
『バカね...』
何も言えない。
バカは私も一緒だ。
小百合は積み重ねた自らの過ちに逃げ場を失い。
私はあの、レイプ紛いを言えなかったばかりに深みへと嵌まり、幸せを失った。
『小百合、貴女を訴える』
『...はい』
『もちろん笠井も、全部打ち明けて貰うわよ』
『...分かった』
観念した小百合は涙を流しながら項垂れた。
翌日、録音した音声を弁護士の元に届けた。
小百合の証言で笠井に対する訴状も出来上がったのだ。
ずっと、主人は何も言わなかった。
赦されるとは思っていない。
ただ、本意で浮気したのでは無いという事だけは知って欲しかった。
『覚悟は良いな』
『...はい』
全ての書類が整い、私はいよいよ笠井と対峙する日が来た。
会社が用意した会議室で隣に立つ主人に頷いた。
『どういう事だ!』
会議室の扉を開けるとボロボロのスーツに身を包んだ笠井が叫ぶ。
奴は朝から会社の詰問を受けていたのだ。
無精髭が顔を覆い、昔の面影は無い。
薄汚れた1人の男がそこに居た。
『部長を訴えたんです』
『ふざけるな!あれは大人の関係だと、君も納得していただろ!!
レイプなんかしてない!!
半年も脅せるものか!!』
『納得はしてませんでした、ただ、そう思い込む事で私は逃げていたんです』
『なんだと!?』
笠井が凄む目で私を睨む。
そんな物に怯むものか。
『もちろん罪は償います。
主人にも、貴方の奥様にも』
『...ぐ』
呻き声を出す笠井。
主人は静かな目で、会議室に並ぶ会社の重役に小さく会釈をした。
『訴状は全部分かりました』
常務が静かに呟いた。
『明らかに私達の落ち度だ。
こんな性犯罪者に大切な奥様を...申し訳ない』
『そうですね、会社の立場を利用した上司による犯罪行為。
決して許されません』
決然とした態度で主人が言った。
『1つの家庭が壊れたんです。
十分に償って貰います、その男にも』
『分かってます』
家庭が壊れた。
その言葉に今さらながら戻れないと思い知る。
『笠井君、君には失望したよ』
そう言ったのは、奥のテーブルで1人肘をついていた社長だった。
『...なぜ私はこんな奴を...我が社の...バカめが』
社長が笠井を他社からスカウトして来たのは知っていた。
『これは間違いです!
私はこの女に利用されたんです。
そうだ!私は伊藤にも、山口にも』
見苦しくも叫ぶ笠井。
血走った目には汚ならしい涙が滲んでいる。
『いい加減にしたまえ、君の話は不愉快だ。
何が、納得した?
山口君の旦那さんが、お子さんが納得したとでも言うのかね!』
『それは...』
『利用された?君の利己に満ちた言葉は聞きたくない!
会社としての処分は追ってする!
先ずは君のした行為について、刑事告訴も含めて会社は責任を取らねばはらないのだ!』
『社長...』
『後は弁護士と話せ!
隣の部屋で貴様の戯れ言をな!』
社長の言葉に笠井は席を立つ。
その後、私達は会社としての謝罪を受けたのだった。
翌週、私達夫婦は1人の女性と話し合いの場に出向いた。
それは笠井の奥様。
『...大体の事は分かりました』
奥様が小さく頷いた。
疲れている様子に申し訳ない気持ちが込み上げる。
『妻が、申し訳ございませんでした』
『...すみません』
頭を下げる。
主人が謝る事じゃないのに...
『ご主人は頭を上げて下さい』
『はい』
『貴方が頭を下げる理由は何もありません』
『いや、しかし...妻の異変に気づかず...』
頭を下げたままの私、主人と奥様の会話が続いた。
『そんな事を言ったら私もです。
家族の事、親の介護で...あの人がこんな事をしていたなんて本当に分からなかったのですから』
『いや、それは...』
『...全く馬鹿みたい。誰の親を見てるって話ですね』
いたたまれない。
奥様はあの男の両親の介護で疲れ果てていたんだ。
『すみませ...』
『謝らないで!』
謝ろうとする私の言葉を奥様は止めた。
強い言葉に息が詰まる。
『謝って済む話じゃない。
そんな事くらいで...許す事は...出来ないの。
例え貴女が...脅されていたとしても...ご主人に何の相談しないで...』
...その通りだ。
あの時、最初に言っていれば良かったのだ。
恥を忍んで、ちゃんと全て打ち明けていれば...
『申し訳ございません、感情的にならないと思っていたのに...
離婚はします。
もちろん慰謝料は頂きます。
そのお金で介護施設に入って貰いますから』
『はい』
離婚。
当然の結論だろう。
それは私にも当てはまる事だろう。
話し合いは続いた。
私に対して慰謝料は請求しないと奥様は仰有られた。
支払うと言ったが、それは固辞されたのだ。
しかし、伊藤小百合に対しては請求するとの事だった。
『失礼します』
『ちょっと待って』
部屋を出る私達に奥様が声を掛けた。
『貴方達夫婦はどうするの?』
『それは...』
『再構築は茨の道よ、疑いながら過ごす生活は...地獄になるわ』
『そうですね』
『また裏切られるんじゃないか、なんて考える結婚生活は辛すぎるもの』
『...そんな事は』
主人は言い澱む。
私に口を挟む資格なんか無い。
口だけの謝罪なんか意味を為さないのは分かっている。
『でもお子さんの事もあるでしょう、
軽はずみな事は言えませんが...良く話し合って、お決め下さい。
有耶無耶にだけは...悪い失敗例がここに居ますから』
最後の言葉が突き刺さる。
奥様は同じ体験を以前されたのかもしれない。
私達夫婦は何度も話し合いをした。
そして出した結論は...
息子が成人するまでは離婚をしないというものだった。




