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月下の徒花  作者: 摂氏
6/8

約束

今年は、小さい蝉が多い気がします。

気のせいでしょうか。

僕は、君の名前を知らない。君も、僕の名前は知らないのだろう。

普段の生活、素の性格、人間関係、その数を挙げればキリがない。そのどれも知らなかった。君と僕の素性、お互いに何も知らなかった。

「おかえり」

「ただいま」

いつものように、そこに君はいる。そして、僕の知らない君がいる。それだけが、僕の知る君だった。

窓辺に腕を置いた君は、何も変わらない。僕の知る君だ。僕の知らない君は、そこにはいない。でも、今日の君の腕には、いつもと違う物が見えた。

「あれ。包帯……」

君の腕に見えたのは、白い包帯だった。

怪我をしたのかな。

手首に巻かれた包帯は、細い君の腕を強調していた。

慌てた様子もなく、君は包帯の巻かれた腕に触れて、眉尻を下げて笑った。

「うん。転んじゃった」

「大丈夫?」

僕は問い掛けた。

「大丈夫だよ。仰々しいけど、擦り剥いただけだから……」

腕を撫でて、小首を曲げた君を見て、僕は「そっか」と呟いた。

大した怪我じゃないと聞いて、僕の口からは安堵の溜息が漏れた。

でも、僕の視界に入った君の表情は、歪んでいた。歪んだ君の表情が、僕の視界に入ってしまった。

それは、見たこともない表情だった。

まだ、君と会って二週間も経たないけど、毎日のように会っていた僕の心に触れた表情。その表情は、僕の頭の中に抱えていた言葉を吹き飛ばしてしまった。

「月は綺麗?」

「あ。うん」

君の顔に、再び光が灯った。

でも、僕の戸惑いは消せない。僕は、心の中で渦を巻く妙な感情を抑えながら、空を眺めた。

そして、僕は思い出した。

「今日の月は、見えないんだ」

「え?」

君は、驚いたように問い返した。

僕は、月の見えない空を眺めて、息を吐いた。

「新月の前日の月も、ほとんど見えないんだ。地球の影に隠れちゃって……」

星の煌めく空に、大きな光は見えない。微かな光の線も見えない。そこにある、綺麗な月は見えない。

「そっか」

驚いたような表情。一転して、残念そうな表情を浮かべた君。いや、言葉で表情できない表情だった。

今の君が、何を考えているのか。どうしても、君の言葉に意味を求めてしまう僕がいた。

そして、僕自身の言葉に込めた意味を理解することを拒む僕がいた。

卑怯なのかな。君の心を覗きたいと思っているのに、僕自身の心は知りたくないと避ける僕は、きっと卑怯だ。フェアじゃない。

歩み寄らないと、前には進めない。僕は、君との関係を前に進めたいと思っている。

「……ああ」

僕は、独り言のように呟いた。君には聞こえないくらいの小さな声で、僕は呟いた。

だから、僕は君の心を知りたいと願ったんだ。だから、僕は知りたくないと逃げたんだ。だから、こんなにも心臓がうるさいんだ。

そう思った僕の口は、自然と開いた。

「でも、月は見えなくても素敵だと思うよ」

「え?」

さっきの君と同じ返答だった。僕の言葉に対して、君は問い返した。

「見えなくても、そこにあるから」

今は、月なんて見えなくていい。この言葉に、月が見えている必要はない。

「どんな時でも、思い出せるから」

そこに見えない月は、いつでもそこにある。そこにある月は、見えなくても僕の心にある。

「それにね」

君の呆気に取られた顔を見つめて、息を止めて、僕は手汗を握った。そして、自分自身に問い掛けた。頭の中に、言葉を並べた。組み立てた。

「綺麗な月は、今日も見えるから……」

まとまらない感情。複雑に混ざってしまった感情から抜き出した想いの欠片。寄せ集めて、並べ替えた言葉は、僕が知ることを拒んだ感情の一片だった。

他の意味なんてない。誰にも平等に光を注ぐ月を想って、君を想って、自分自身の心と向かい合って、そして知った感情なんだと思う。

僕もよく分かっていない。でも、この感情の向き先は、君に間違いないんだ。

「なんか、変なこと言っちゃったかも……」

僕なりの告白だったんだと思う。

君の顔を見て感じる感情。何も知らない君のことを知りたいと思う感情。もっと話していたいと思う感情。結局、僕は君が好きなんだ。

変わらない君の表情を見て、僕は君が何を考えているのか分からなかった。呆気に取られた表情に変わりない。でも、何か想っている。その”何か”が、僕は知りたかった。

「ありがとう」

突然、君は言った。

僕には、その言葉に含まれた意味さえ分からない。どう答えようか、僕が言葉を探している間に、君は「ね」と、僕に語り掛けた。

「君の名前、教えて」

君は小首を傾げて、僕の名を聞いた。

胸元を抑えた僕の手を通して、僕の心臓の音は伝わる。君に、僕の想いが伝わったのかどうかは分からない。僕の早い心臓の音は、君には伝わらない。君の心臓の音も、僕には伝わらない。

「伊月」

でも、それでいいのかな。今は、それでいいのだと思う。きっと、前には進んだよ。僕自身の心が抱えていた感情に、僕が気付いたんだ。

「いつきくん」

僕の名を告げた君は、静かに笑った。

「次の満月、そっちに行くね」

「え?」

今度は、僕が聞き返す番だった。

胸元を掴んでいた腕をベランダの手摺に乗せて、身を乗り出して聞き返してしまった。

「次の満月、いつきくんの家に行くね」

その言葉は、僕が待ち侘びた言葉だった。

一緒に月が見たい。君への想いに気が付く前に願っていた小さな夢だった。

「ほんと?」

急に訪れた現実が信じられなくて、僕は君の言葉ひとつひとつに聞き返してしまう。夢を叶える魔法の言葉を、決して手放したくなかった。忘れない約束として、残しておきたかった。

そうでもしないと、君が遠くへ行ってしまいそうで……。

「約束するよ」

でも、君は頷いた。僕の目を見たまま、落ち着いた口調で呟いて、君は顔を伏せた。

「私も……」

言葉尻は小声で、よく聞き取れなかった。

でも、再び顔を上げた君の顔に咲いた一輪の花。

「綺麗な月が見たいんだ」

その時、僕は永遠に忘れられない笑顔を見たんだ。

そうだ。きっと忘れられない。その花は、何百回と見て来た月より美しいと思えたから……。

「あ……」

僕は、言葉を失っていた。どんな言葉を言うべきか分からなかった。

分からないことばかりだった。

何もかも初めての経験で、情けないけど、僕には何も分からない。

でも、君は何か理解しているように、小指を差し出して来たんだ。

「指切り」

突然の約束の証明に戸惑った僕は、「え」と言葉を漏らしながら、右手の小指を差し向けた。

「でも、届かないよ」

「大丈夫だよ」

お互いの指と指が触れ合う距離に、僕たちはいない。でも、君は小指を曲げた。

「ほら、いつきくんも……」

君に急かされて、僕も小指を折り曲げて、君の小指を見た。

そして、君は呟いた。

「約束」

君の指に触れていないのに、君の指に触れているかのような感覚。まるで、君の心に触れているかのような気分だった。

「嘘は、駄目だよ」

僕は、右手を上下に小さく振って、君を見て言った。

対して君は、柔らかく微笑んだ。

「大丈夫だよ」

上を見て、空を眺めて、君は呟いた。

「君がいるならば、私は大丈夫だよ」

自分自身に言い聞かせるように、僕に聞かせるように、君は呟いた。

その言葉の意味が分からなかった僕は、その時に言葉の意味を聞いておけばよかったのかも知れない。前に進むと決めたのに、僕は結局、聞くことが出来なかったんだ。

未来に向かって、圧倒的な速度で進む事は、理論的には可能ですが、過去を遡る事は不可能です。

過ぎ去ってしまった過去は、決して変えられません。かと言って、未来を予測する術は在りません。感情を持つ人間には、厳しい世界ですね。

ですが、過ぎ去ってしまった過去を清算する事は出来ます。変えたい過去の選択を書き換える事は出来ませんが、変えたい過去の選択を塗り替えた未来を掴み取る事は出来ます。

頑張りたいものですね。


話が逸れました。逸らすの大好き。

本作、もう少し続きます。

お付き合い下さい。

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