逢瀬
異常な暑さの中で書いておりますので、脳が沸騰して味噌汁になりました。
君はいた。今日も、そこにいた。
「おかえり」
「ただいま」
少し慣れたのかな。君の挨拶に対して、僕は詰まることもなく、言葉を返していた。
空は、雲ひとつない快晴。月の光は、満遍なく世界を照らす。
「月は綺麗?」
すっかり聞き慣れた問い掛けだった。
だから、僕は迷いなく答える。
「綺麗だよ。いつも通り」
その意味について、深く考える気はなかった。何が綺麗なのか。ただ月が綺麗なのだと思い込んで、僕は君に告げる。
怖かったんだ。別の意味を持つ表現と意識してしまうのが、ただ怖かったんだ。
「今日は、下弦の月だね」
だから僕は、別の話を持ち出した。
「上限の月?」
「うん。半月だよ」
半分が太陽に照らされて、もう半分は地球の影に隠れた月の不思議な形。半分に割れた星。一番、大きな星が欠けた世界で、僕は空を眺めていた。
「羨ましいな」
「え?」
「綺麗な月が見えるの」
僕には、眉尻を下げて笑う君が、いったい何を考えているのか分からなかった。
「ここにいると、綺麗な月が見えないから……」
表情では微笑んでいるのに、君は僕が羨ましいと言う。
「窓は、そこにしかないの?」
君は、首を縦に振った。
君のいる暗い部屋を見れば、察することはできたのかもしれない。でも、あまり喋らない君の考えていることなんて、僕には何も分からなかった。
それに、外に出れば、月なんていくらでも見れる。何ならば、僕の部屋に来れば、月なんて毎日のように眺められるのに……。
そう思った。そして、また僕の心臓は跳ねた。同時に、我ながら名案だと思った。
だから、僕は手に力を込めた。
「こっちにおいでよ」
「え?」
不思議そうに、君は首を傾げた。
「僕の家なら、綺麗な月が見れるよ」
手の届かない君との距離。ここに君が来れば、君も月が見られる。人と一緒に見る月は、きっと一人で見るより綺麗だ。
僕を見つめる君の言葉を待って、僕はベランダの手摺を強く掴んだ。
「ごめんね」
でも、君は首を横に振ったんだ。
「綺麗な月は、見たくないんだ」
さらに跳ねた心臓。引いた血の気。凍る背筋。でも、僕は君の言葉の意味が分からなかった。
だから、誘いを断られてしまったショックは、あまり感じなかった。
「そっか」
「また、いつか行くね」
「うん。いつでもいいよ」
微笑んで手を振った君は、音もなく暗闇に消えた。
ーまた行くね。
僕の家に来るのが嫌とは言ってなかった。君は、いつか僕の家に行きたいと言った。
そう思えば、僕の気分が沈む理由はなかった。
私の実家から綺麗な月が拝めます。田舎の澄んだ空に浮かぶ満月を眺めて、悠々と一服を楽しむ暇は、格別なものです。
ですが、都会の淀んだ空気の中、溢れる人工光を意に介する素振り無く輝く月を眺める時間も、また格別なもので……。
対比してしまうのです。穢れた都会に渦巻く社会の闇と、万物を隈なく平等に照らす月の美しさ。強い羨望、焦燥感、悲哀に類似した感情をタネに吸う煙草は、最高にオツなのです。
話が度々、逸れます。
本作、まだ続きます。もう少し続きます。
お付き合い下さい。