3 紫陽花と化け狐と①
「きれい……。早起きしてよかった」
紫陽花に、董子は一眼レフカメラを向けた。
花を撮すときは、ぼけとピントでふんわり撮るのが好きだ。今日はこんもりした紫陽花の一房の、青い花の上に乗った手前の水滴にピントを合わせる。さっき止んだばかりの雨のしずくが、宝石のようにキラキラと輝いている。
(えっと……。絞りはF5.6、ISO感度は200で……いいかな?)
ここは鎌倉の長谷寺。「花の寺」としても知られる長谷寺は、この季節、明月院と並ぶ、紫陽花の名所でもある。
長谷寺は江ノ島電車、略して江ノ電の長谷駅から歩いて五分ほどの場所だ。山門をくぐると二つの池を巡る回遊式庭園があり、この時期は花菖蒲が出迎えてくれる。上下に分かれた境内を上っていくと、観音堂横の斜面を埋め尽くさんばかりの紫陽花が、青、紫、ピンク、白の花が緑の葉と競い合うように賑わっている。その斜面は、「あじさいの径」と呼ばれている。
当然、この時期は人気のスポットで、平日の雨上がり、それも朝一番であってもこんなに人がいないことは珍しい。
董子は、撮ったばかりの写真をカメラの画面で確認する。
「うん……悪くはない」
カメラは、董子の父の趣味だ。自分を引き取ってはくれなかった父だが、自分の実家だからだろうか時々は帰ってきて、罪滅ぼしのように高価な土産物を渡してくれた。大学に進学するときに渡された、最後の土産物。それがこのカメラだ。
父の土産物は、もらうときにいつも若干の「これじゃない」感があるものだが、このカメラだけは素直に喜べた。大学時代は夢中になって、撮ったものだ。カメラを通して見る世界には、靄がなかったからかもしれない。
(思えば、鳥羽さんって、ちょっとお父さんに似ていたな……)
人の気持ちを考えないくせに、外からの評価だけは高いところがそっくりだ。
営業成績トップ、高学歴、外見も優れている羽鳥は、董子をグイグイと口説いた。恋愛経験のない董子は、羽鳥の強引さを熱情と勘違いして好きになり、ふわふわと浮かれた頭で付き合うことにしたのだった。
でも今思えば、情熱的な強引さはわがまま、押しの強さはモラハラ、高学歴や外見の良さは董子をバカにする道具だったような気がする。おまけに、他の女と婚約したくせに、董子のことはキープしておきたいと言う馬鹿者だ。
(なのに、どうして鳥羽さんの靄が見えないんだろう?)
董子の目は、嘘や嫉妬、それに隠した怒りなども見抜くことができる。なのに、鳥羽からいっさい靄を見ることができなかった。少し前は単純に鳥羽には靄がないと思っていたけれど……。
「って! せっかく鎌倉に帰ってきたのに、あんな人の事を思い出すなんて! もったいない!!」
董子はパンパンと自分の頬を両手で叩いた。
「よおし! 頑張っていい写真撮っちゃおう!」
カメラを持ち替えたとき、ふと、近くでいい香りがした。花の香りのような、雨の香りのような……。香水とは違う、もっと「雅び」という感じの香り。その香りにつられて、カメラから目を上げると、ビックリするくらいすぐ近くに白い和服姿の青年が、紫陽花に陶然とした視線を投げかけていた。驚くことに、雨上がりで地面はぬかるんでいるとうのに、まっ白な着物には泥はねの一つ無い
紫陽花と、白の着物と、後光のさす美貌の青年。
董子は美しさで心が震え、思わずカメラを向けていた。
カシャッ
思わず指が動いてしまい、青年の写真を撮ってしまった。
青年が、こちらをビックリとした目で見る。
ビックリしたのは、董子も同じだ。
「あ、す、すみません!! い、い、今、データを消します!!」
慌てて操作しようとしたせいか、つるりとカメラが手から滑った。
「あ!」
カメラを落とすまいと手を伸ばせば、今朝の雨でできたぬかるみで董子はバランスを崩した。
「危ない!」
凜とした、でもどこか柔らかな色気のただよう声。
今、董子はその声の持ち主に抱きしめられている。
青年は、董子の体を丁寧に離した。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい」
思わぬ接近に、董子はガチガチに体が固まった。
青年はというと、落ちる寸前で救ったカメラの画面を見て目を見開いた。そして食い入るようにして、凝視する。董子がいたたまれないと思うくらい、ずいぶんと長く……。
(えっと……。何を見てるんだろう?)
董子は体をズラして、青年の後ろから画面をのぞき込んだ。
画面に映っていたのは、さっき撮った紫陽花をバックにした青年の姿だ。正直、ピント設定も露光も合わせずに撮ったため、全体がぼやけている。到底いい写真とは言えない。
けれど……。
(ん? 何あれ? 猫耳……??? 尻尾???)
画面の中の青年には、ピンと立った獣耳と、タカ○ヅカを思わせる扇のようなふわふわの九本の尻尾があった。それと、唇だけがやたらと朱い。そういえば、獣耳と尻尾の先も朱をつけた筆先のようだ。
思わず、青年と画面の間に視線を何度も行き交わせる。が、青年の頭にもお尻にも何もない。
(……ブレちゃったのかなあ? でも頭とお尻だけ? 顔はピントがぼけているくらいなのに?)
董子は「んんんんん?」と、首をひねた。
そこへ、青年のいぶかしむような声がかかる。
「……どうして?」
「え?」
「どうして、あなたは私の写真が撮れるのですか?」
(どうして撮れるのか? どうして撮ったのか、の言い間違いかな?)
董子は、ぺこりと頭を下げた。
「えっと、ごめんなさい。あなたと目が合ってついシャッターを押しちゃったんです。盗み撮りしようとしたわけじゃないんです。でも、不快にさせてしまって、本当にごめんなさい」
「そんなことを聞いているのではありません。どうしてあなたは、私の『写真を撮ることができる』のですか!?」
『写真を撮ることができる』のか?
確かに青年は、そう聞いている。
でも董子は、青年の言葉を理解しようとしたが、意味が分からない。カメラを向けて、シャッターを押した。撮れていて当然ではないか。
「……? すみません、意味が分かりま……ひっ!」
董子が、小さな悲鳴を上げたのは、青年の顔が近付いたからだ。唇を触れんばかりに。
両腕をつかまれ、逃げ場のない董子は、思わず目をぎゅっと閉じる。
「目を開けて下さい」
「い、嫌です」
青年から、顔ごと逸らす。
つっと、青年の指が董子の顎にかかった。
「怖がらないで下さい。ただあなたの目を見せてもらいたいだけなんです」
「……目を?」
「はい。失礼な真似はいたしません。お約束します」
「で、でも……」
「お願いです」
青年の甘い声に、思わず董子はゆっくりと目を開けた。
合わされる、瞳と瞳。
董子の瞳に映ったのは、董子を映す青年の瞳。宝石のような煌めきに、今度は董子の方が吸い込まれそうになった。
その瞬間、頭を揺さぶられたかのような目眩を感じた。目の前が一気にぼやけたかと思うと、今度は何もかもがよく見えすぎる。そしてまたぼやけて、青年の目を中心に董子の焦点が戻ってくる。まるでカメラのピントを合わせをしているようだ。
「……成る程」
青年はゆっくりと体を離した。
「な、何が……『成る程』……なんですか!?」
「いえ。あなたには、関係……」
青年は、途中で言うのをやめた。そして、目を糸のように細くしてニタリと笑う。




