51話 最高の酔っ払い
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ヴァイス=クロウフォードは、裂かれた肩口を指でなぞった。
白い手袋に、赤い血が滲む。
それを見て、ヴァイスは薄く笑った。
「……なるほど」
先ほどまでの礼儀正しい笑みではない。
静かな怒りを押し殺したような、冷たい笑みだった。
「雑魚ではない、ということですか」
次の瞬間。
ヴァイスの足元に広がっていた水たまりが、海のように膨れ上がった。
白い雨が地面へ落ちるたび、水が呼応する。
小さな波が重なり、濁流となって渦を巻き始めた。
ヴァイスは静かに掌を掲げる。
「水魔法――聖獣生成」
空気が急激に冷えた。
「水牙鯱……召喚」
地面が割れた。
溜まっていた水が一気に噴き上がる。
水は空中で巨大な輪郭を作り、やがて一体の聖獣へ変わっていった。
黒い背。
白い腹。
牙のように鋭い水の歯列。
それは巨大な鯱だった。
水でできているはずなのに、圧倒的な重さがある。
巨体がうねっただけで、周囲の水が津波のように押し寄せた。
「うわっ……!」
ミレイユが足を踏ん張る。
だが足元は濡れ、滑りやすくなっていた。
レオンもジャンも、迫る水圧に顔を歪める。
呼吸ごと押し潰されそうな重さだった。
ヴァイスは余裕のある声で言う。
「水は形を変えます」
水牙鯱が低く唸るように体を揺らした。
「斬っても、砕いても、また戻る」
ヴァイスの薄い青灰色の瞳が、暁の者たちを見下ろす。
「あなた方の攻撃は、致命傷になり得ません」
水牙鯱が跳ねた。
巨体が空中へ舞い上がる。
そして、そのまま落下してきた。
ただ落ちてくるだけ。
だがそれだけで、全員を押し潰せるほどの質量があった。
「地魂結陣!」
ユリウスが地面を叩く。
瓦礫が一斉にせり上がり、半円形の巨大な盾となった。
直後。
水牙鯱が盾へ衝突する。
轟音。
瓦礫の盾は一撃で砕け散った。
水の衝撃が周囲へ弾け、暁の者たちを吹き飛ばす。
だが、その一瞬だけで充分だった。
直撃は免れた。
「今のうちに散れ!」
ユリウスがかすれた声で叫ぶ。
「まとまるな!」
言い終えた直後、膝が落ちかける。
ユリウスは無理やり踏み直した。
限界は近い。
それでも、倒れるわけにはいかなかった。
「水流制御――抱水壁!」
ミレイユがすぐに魔法を発動した。
彼女の周囲に、水の渦が生まれる。
押し寄せる水の勢いを正面から止めるのではない。
抱き込み、曲げて、受け流す。
ヴァイスの水牙鯱が巻き起こす波を、ミレイユは必死に別方向へ流していった。
「くっ……重い……!」
両腕が震える。
白雨封殺のせいで、ミレイユの魔力も弱まっている。
それでも彼女は歯を食いしばった。
「ここで押し流されたら、終わりなのよ!」
水牙鯱が二度目の突進を放つ。
今度は横からだった。
巨大な尾が、刃のようにしなって襲いかかる。
「俺が行く!」
ジャンが前へ出た。
手にした剣へ炎をまとわせる。
「燃えろ……!」
燃え盛る剣が、水の尾を斬り裂いた。
尾は二つに分かれる。
だが次の瞬間、裂けた水が霧となり、すぐに元の形へ戻った。
「ちっ……!」
ジャンは舌打ちし、後ろへ跳ぶ。
「切っても戻るのかよ」
「だから言ったでしょう」
ヴァイスが静かに笑う。
「あなた方では、私の聖獣を殺せません」
「殺せないなら……」
ふらふらと、マルクが前へ出た。
片手には酒瓶。
もう片方の手で、濡れた前髪をかき上げる。
「酔わせるまでだな」
「マルク、下がれ!」
ジャンが叫ぶ。
だがマルクは肩をすくめた。
「動きを鈍らせりゃいいんだろ」
酒瓶を掲げ、にやりと笑う。
「酔わせてやるよ。黒翼将も、水の化け物も、まとめてな」
甘ったるい香りが、再び戦場に広がった。
濁酔領域が濃くなっていく。
白い雨に混じり、酒の霧がヴァイスの周囲へまとわりついた。
ヴァイスの眉がわずかに動く。
「……まだやりますか」
ほんの一拍。
判断が遅れた。
その隙を、レオンは見逃さなかった。
「ミレイユ!」
レオンが叫ぶ。
「水を集めろ! 俺の雷を通す!」
「……分かった!」
ミレイユは両手を大きく動かした。
戦場に散っていた水が、一本の水路のように繋がっていく。
狙いは、水牙鯱の胸。
水でできた聖獣なら、雷は通る。
だが普通に放てば、水の体へ流されて終わる。
必要なのは、魔力の芯を焼く一撃だった。
レオンが拳を握りしめる。
残された魔力を、右腕へ集める。
「落ちろ……!」
雷が走った。
その雷は、ただの稲妻ではなかった。
水路を蹴るように進みながら、獣の形を取っていく。
狼。
雷で作られた狼だった。
毛並みは火花。
目は白い閃光。
放電音が、唸り声のように響いた。
「雷狼――喰え!」
雷狼が一直線に駆ける。
水路を噛み砕くように疾走し、そのまま水牙鯱の胸へ食らいついた。
雷の顎が閉じる。
激しい閃光が爆ぜた。
水牙鯱の巨体が、内側から弾け飛ぶ。
白い水飛沫が空中へ舞った。
ただ崩れたのではない。
水牙鯱を形作っていた魔力の骨格が、レオンの雷によって焼かれたのだ。
形を保てなくなった水が、霧となって散っていく。
「……なるほど」
ヴァイスの瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「雷を獣にするとは」
余裕の声色は、まだ崩れていない。
だが、足が半歩だけ下がった。
その一拍を、ユリウスは見逃さなかった。
「今だ!」
地面が鳴る。
瓦礫の手が槍のように伸びた。
「付魂操物――縛肢!」
ヴァイスの足首へ、ガラクタで作られた鎖が絡みつく。
「……拘束ですか」
ヴァイスが視線を落とす。
「二度目ですね」
彼が指を立てる。
足元の水が集まり、刃のように薄く伸びた。
鎖を切断する。
だが、切られた鎖は地面へ落ちる前にまた繋がった。
次の鎖が伸びる。
さらにその次も。
ユリウスが魂を縫い直し、ガラクタを無理やり繋ぎ続けていた。
「ぐっ……」
ユリウスの唇が紫色に近づいている。
呼吸も浅い。
(まずい……これ以上は……)
背後で、ノエルの雪精霊が光る。
ほんの少しだけ、ユリウスの体に魔力が戻る。
命を繋ぐには、あまりにも細い。
それでも、今はそのわずかな回復が必要だった。
「ジャン!」
ミレイユが叫ぶ。
「今、空いてる!」
「分かってる!」
ジャンが踏み込む。
剣が燃えた。
ただの火花ではない。
芯のある炎が、刃の周りへまとわりつく。
「炎剣――焔裂!」
斬撃が入った。
肩口。
ヴァイスの漆黒の外套が裂け、血が一筋走る。
「……っ」
初めて、ヴァイスの声が濁った。
レオンが牙を剥く。
「今のは効いただろ」
雷狼はまだ完全には消えていない。
水路の上で体をうねらせ、再び跳びかかる準備をしている。
ヴァイスは短く息を吸った。
舌打ちを飲み込んだような息だった。
「……面倒ですね」
両腕を広げる。
周囲の水が、一斉にヴァイスへ吸い寄せられた。
地面の湿り。
飛び散った水飛沫。
漂っていた霧。
水牙鯱の残骸。
そのすべてが、ヴァイスの背後へ集まっていく。
空気が一気に乾いた。
水を奪われていく感覚に、ミレイユの顔色が変わる。
「まずい……!」
ユリウスもすぐに叫んだ。
「次にでかいのが来るぞ!」
全員が身構える。
ヴァイスの背後に、巨大な水の塊が浮かび上がった。
それは鯱ではない。
もっと巨大で、もっと凶暴な獣だった。
水が牙を作る。
水が角を作る。
水が骨格を作る。
そして、頭が二つに分かれた。
「水魔法――双頭水獣」
二つの口が同時に開いた。
轟音と共に、激しい水流が吐き出される。
防壁が一瞬で削られた。
ガラクタ兵が押し潰される。
ヴァイスの足を縛っていた鎖も、強引に千切られていった。
「くそ……!」
ユリウスが膝をつく。
魂を繋ぎ直そうとするが、魔力が追いつかない。
(このままじゃ、押し切られる……!)
その時だった。
マルクが、ふらりと前へ出た。
「あー……」
酒瓶を片手に、双頭水獣を見上げる。
「やっと本気かよ」
マルクは笑っていた。
「飲ませ甲斐あるじゃんか」
「マルク!」
ジャンが怒鳴る。
「前に出るな!」
「うるせえな」
マルクは親指で酒瓶の栓を弾いた。
甘ったるい香りが、濃く広がる。
「飲んだら強えんだよ、俺は」
酒が霧へ変わる。
その霧が、マルクの周囲へ分厚く集まっていった。
「酩酊術式――濁酔領域」
マルクの声は、普段よりも少しだけ静かだった。
「濃くするぞ」
濁った霧が双頭水獣の周囲へ絡みつく。
だが、ヴァイスは止まらない。
「潰しなさい」
双頭水獣が、凄まじい勢いでマルクへ襲いかかった。
「マルク!」
ミレイユが悲鳴を上げる。
マルクは逃げなかった。
酒瓶を掲げ、にやりと笑う。
「どうせ明日死ぬなら今日飲む、だったな」
双頭水獣の二つの口が、マルクへ迫る。
「悪いな」
彼は誰に向けるでもなく呟いた。
「俺、今日死ぬわ」
次の瞬間。
双頭水獣がマルクを噛み砕いた。
血が舞う。
酒瓶が割れる。
その音が、戦場の中でやけにはっきり響いた。
マルクは即死だった。
「マルク……!」
ジャンが声を失う。
ミレイユは涙を流しながら、震える唇を噛みしめた。
だが、マルクの魔法は消えていなかった。
最後に濃くした濁酔領域が、双頭水獣の体へ絡みついている。
二つの頭の動きが、ほんの一拍だけ鈍った。
たった一拍。
けれど、レオンにはそれで充分だった。
「……マルク」
レオンが低く呟く。
「その一拍で充分だ」
ミレイユが涙を拭う間もなく、両手を広げた。
戦場に残った水をかき集める。
先ほどと同じ水路。
だが今度は二本。
双頭水獣の二つの胸へ、それぞれ導線を伸ばしていく。
「レオン!」
ミレイユが叫ぶ。
「二発通せる!」
「上等だ!」
レオンが両手を開いた。
左右の掌に雷が集まる。
雷が狼の形を取る。
いや。
二匹ではない。
左右の雷が絡み合い、一本の巨大な獣になっていく。
背中には稲妻の棘。
首元には白い閃光の鬣。
雷狼が低く唸った。
「雷狼――双牙!」
雷の獣が二つの導線へ分かれて走る。
左右から同時に跳び、双頭水獣の二つの胸へ食らいついた。
轟音。
白い水獣の巨体が、内側から爆ぜる。
水が霧となって吹き飛ぶ。
白い雨の中へ、さらに大量の水が降り注いだ。
だが雷狼は消えない。
双頭水獣の魔力の骨格を焼き切った勢いのまま、ヴァイスへ向かって飛びかかる。
「させません!」
ヴァイスが防御魔法を構えようとする。
その瞬間。
「今だ……!」
ユリウスが最後の魔力を振り絞った。
十体ほどのガラクタ兵が地面から立ち上がる。
ヴァイスの周囲へ飛びかかり、腕や足にしがみついた。
ヴァイスは一瞬、そちらへ意識を取られる。
その一瞬で、雷狼が胸へ食らいついた。
「ぐっ……!」
ヴァイスの体を、雷が貫いた。
漆黒の外套が焼ける。
白い手袋が裂ける。
薄い青灰色の瞳が、大きく見開かれた。
ヴァイスはふらついた。
その場に倒れかける。
そこへジャンが踏み込んだ。
炎の剣を握り直す。
「これで終わりだ」
ジャンは迷わなかった。
ヴァイスの喉元へ、剣を突き刺した。
刃が喉を貫く。
ヴァイスの体が大きく震えた。
口元から血が溢れる。
彼は何かを言おうとした。
だが言葉にはならない。
そのまま膝をつき、前のめりに倒れた。
黒翼将ヴァイス=クロウフォードは、動かなくなった。
白い雨が、少しずつ色を失っていく。
魔力を奪う雨が、ただの雨へ戻っていった。
誰もすぐには声を出せなかった。
本当に倒したのか。
自分たちは黒翼将を討ち取ったのか。
信じられない沈黙が、わずかに続く。
やがてレオンが、倒れたマルクの方へ歩いていった。
血に濡れた酒瓶の破片が、地面に散らばっている。
レオンはその場に膝をつき、マルクを見下ろした。
「マルク」
声が震えていた。
それでも、無理やり笑う。
「お前は……最高の酔っ払いだよ」
返事はない。
もう二度と、あのふざけた口癖を聞くことはできない。
それでもマルクは、最後の一拍を作った。
その一拍が、黒翼将の命を奪った。
暁は全員の力を合わせて、黒翼将の一人を倒したのだ。
「勝った……」
誰かが呟く。
「ヴァイスを倒したぞ……!」
歓声が上がりかけた。
だがその瞬間、ユリウスの体が大きく揺れた。
「ユリウス!」
ミレイユが駆け寄る。
ユリウスは立っていられなかった。
街を動かし、壁を作り、兵士を操り、最後の拘束まで行った。
すべての力を使い果たしていた。
背後で浮かんでいた雪の精霊も、弱々しく揺れている。
「……レオン」
ユリウスはかすれた声で名前を呼んだ。
「俺たちは……勝ったのか……?」
「ああ」
レオンが答えた。
「勝った。お前のおかげだ」
ユリウスはわずかに笑った。
そのまま意識を失い、ミレイユの腕の中へ倒れ込んだ。
同時に、レンデルの街中で動いていたガラクタ兵たちが、次々と膝をついていく。
魂核の光が弱まっていた。
勝利の余韻に浸る時間はなかった。
ヴァイスは倒した。
だが、戦いはまだ終わっていない。
白い雨の向こう。
エル=シェイドが、静かにこちらを見ていた。
これからもよろしくお願いします!
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