49話 炎を斬る風
今回もお読み頂きありがとうございます!
ぱきり。
ライナの体から、乾いた音が鳴った。
骨が折れた音ではない。
肉体という器の形が、内側から割れた音だった。
「……っ!」
ライナの輪郭が揺らぐ。
肌が赤い光へ変わり、体を流れる血が炎へ置き換わっていく。
髪も。
腕も。
足も。
人間だった肉体が、少しずつ紅蓮の焔へ変化していった。
白い雨がライナへ降り注ぐ。
だが雨粒は体へ触れた瞬間、音すら立てずに消滅した。
その周囲だけ、濡れていた石畳が乾いていく。
空気が歪むほどの熱が立ち上った。
「何だ、あれ……」
暁の者たちが息を呑む。
そこに立っているのは、もはや人間ではなかった。
人の形をした紅蓮の炎。
ライナそのものが、一つの巨大な火となっていた。
「これが紅蓮化身……」
ライナが呟く。
声にも炎が混じっている。
次の瞬間。
ライナの姿が消えた。
地面を蹴ったのではない。
焔が弾けるように、バル=ガノスとの距離を一瞬で詰めたのだ。
狙うのは、巨大な足首。
紅蓮の拳が岩肌へ触れる。
その瞬間、バル=ガノスの足が黒く乾いた。
燃えているのは表面ではない。
岩の奥にある水分。
ゴーレムの体内を巡る魔力。
そのすべてが、内側から焼かれていく。
大地覇神の足へ、大きな亀裂が走った。
「まだまだ!」
ライナが拳を振るう。
一撃。
二撃。
三撃。
拳が当たるたび、岩が赤く染まり、内側から崩れていった。
バル=ガノスが巨大な腕を振り下ろす。
だがライナの体は炎だ。
岩の拳が、紅蓮の輪郭をすり抜けた。
攻撃によって炎が揺らいでも、すぐに元の形へ戻っていく。
白い雨の影響も受けない。
今のライナだけが、この戦場で本来の魔力を使うことができていた。
「そんな……」
バサルトが初めて表情を変えた。
白雨封殺によって、バル=ガノスは本来の力を出せていない。
一方のライナは、雨を蒸発させながら動いている。
あまりにも相性が悪かった。
「崩れろぉぉぉ!」
ライナの拳が、すでに亀裂の入った足首へ叩き込まれた。
岩が爆発する。
片足を失ったバル=ガノスの巨体が、大きく傾いた。
地響きと共に、五十メートルを超えるゴーレムが街へ倒れ込む。
「リュカ!」
ライナが叫んだ。
「風で全部吹き飛ばして!」
「任せて!」
リュカが両手を突き出す。
倒れたバル=ガノスの周囲へ、強い風が集まった。
「ばらばらになれ!」
風が一気に弾ける。
砕けた岩。
土。
ゴーレムの体を構成していた瓦礫。
それらが激しい風によって、四方へ吹き飛ばされた。
細かく砕かれた残骸が、白い雨の中へ散っていく。
これでは、大地の力を流し込んでも簡単には再生できない。
「僕のゴーレムが……」
バサルトは呆然と立ち尽くしていた。
その目の前へ、ライナが現れる。
「今度は、あんたの番だよ」
バサルトもすぐに地属性魔法を発動した。
地面から岩の腕を作り出し、ライナへ振るう。
しかし近距離戦では、ライナの方が圧倒的に上だった。
ライナは岩の腕をかわす。
感覚の目が、次の攻撃が来る方向を先に捉えていた。
足元から突き出した石柱も、炎の体を少しずらすだけで避ける。
「遅いよ!」
ライナの拳が、バサルトの腹へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
バサルトの小さな体が吹き飛ぶ。
地面を何度も跳ね、瓦礫へ叩きつけられた。
ライナは追撃を止めない。
炎となった体が弾け、倒れたバサルトとの距離を詰める。
「灼魂連砕!」
燃える拳が、何度もバサルトへ叩き込まれた。
一発。
二発。
三発。
バサルトは岩の鎧を作り出す。
だが白い雨によって魔力が弱められ、その鎧はライナの熱に耐えられない。
拳が当たるたびに砕けていく。
「やめ……」
最後の拳が顔面へ直撃した。
バサルトは地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
意識を失っている。
ライナは拳を振り上げた。
このまま止めを刺せば、もう誰かがバサルトに殺されることはない。
「これで終わりだよ!」
拳を振り下ろす。
だが、その直前。
バサルトの姿が消えた。
「えっ?」
ライナの拳が地面を砕く。
少し離れた場所。
エル=シェイドが、気を失ったバサルトを片腕で抱えて立っていた。
「危ないところでした」
いつもの穏やかな微笑を浮かべている。
「まさか、ヴァイスさんの魔法を蒸発させてしまうとは」
エルはライナの炎の体を興味深そうに眺めた。
「なかなかすごいですね。さすが、ノクトさんの仲間です」
近くにいた魔王軍の兵士へ、バサルトを差し出す。
「この人を後ろへ運んでください」
「はっ!」
兵士たちは意識を失ったバサルトを担ぎ、戦場から下がっていった。
エルは改めてライナたちへ向き直る。
「僕の魔力も、この奇妙な雨のせいで弱くなっています」
白い雨を手のひらで受ける。
「でも、あなたたちを殺す程度なら問題ありません」
ライナは炎の拳を構えた。
「次はあんたの番」
「バサルトを倒せたからといって、僕にも勝てると思わない方がいいですよ」
エルは腰の剣へ手をかける。
「彼と僕とでは、強さの段階が違いますから」
静かに剣を抜いた。
白い雨が刀身へ触れた瞬間、細かく弾き飛ばされる。
「僕は自分が六魔星と同じくらい強いと思っています」
エルの周囲を、風が包み始めた。
「それを今から、あなたに教えてあげます」
風階剣。
風属性魔法によって自らの体と剣を加速させる、エル独自の剣術。
まずは最初の段階。
風がエルの足元へ集まる。
次の瞬間。
エルの姿が消えた。
「速っ――」
ライナが反応するより早く、剣が胴体を横切る。
だがライナの肉体は、すでに炎へ変わっていた。
刃は紅蓮の体をすり抜ける。
切断された炎も、すぐに元へ戻った。
「便利な魔法ですね」
エルはライナの背後に立っていた。
「ですが、次は炎そのものを斬ります」
剣を横へ構える。
「風階・参・烈風」
風が刀身へ集まった。
同時に、リュカが叫ぶ。
「ライナ! 感覚の目だ!」
ライナは息を吸った。
胸の奥にある熱の核が、細く収束する。
炎の輪郭が一瞬だけ小さくなり、その代わりに周囲の世界が大きく広がった。
音が遅れて届く。
光が薄くなる。
空気の流れだけが、異様なほど鮮明に感じられた。
(来る)
感覚の目。
視界で追うのではない。
風が次にどこへ流れるのか。
空気がどこで裂けるのか。
攻撃が始まる直前の前兆を拾う。
エルの足元で、砂埃がほんのわずかに巻き上がった。
踏み込みによるものではない。
風が剣へ集まった証拠。
「そこ!」
ライナは体を捻った。
正確には、炎の輪郭を横へずらした。
その直後、エルの斬撃が通り過ぎる。
今までとは違った。
刃が触れた場所の炎が、細い線を引くように切り取られた。
炎の欠片が宙を舞い、白い雨の中で消える。
「炎が……斬られた?」
ライナが自分の肩を見る。
エルは無邪気な顔で微笑んでいた。
だが、その目は冷たい。
「避けましたね」
剣を軽く振る。
「ちゃんと見えているようです」
エルの足元へ、さらに強い風が集まる。
「それでは、もう少し速くしましょうか」
金属音ではない。
風の音でもない。
空気そのものが切断される音が響いた。
「風階・肆・暴風」
世界が斜めに滑った。
エルの姿が消える。
消えたのではない。
動いた結果だけが、先に目の前へ現れたようだった。
ライナの肩を風が撫でる。
触れた場所から熱を奪われ、紅蓮の輪郭が薄くなる。
(速すぎる……!)
ライナも前へ出た。
炎となった体が跳ねる。
エルの首ではなく、その周囲にある間合いそのものへ拳を振るう。
だが当たらない。
確かに目の前にいたはずなのに、拳が届く前には別の場所へ移動している。
まるで風が距離を折り畳んでいるようだった。
「どうですか、僕の剣は」
エルの声が、ライナの背後から聞こえる。
「剣が速いのではありません」
次は右。
「僕自身が、風の通り道になるんです」
剣が振るわれる。
一閃。
二閃。
三閃。
すべて違う方向から迫る。
角度も。
速さも。
風圧も違う。
ライナは感覚の目を使い、炎の体をずらして攻撃をかわした。
だが斬撃を避けるたびに、炎の輪郭が少しずつ削られていく。
炎の肉体は簡単には斬れない。
しかし炎の密度そのものは削られる。
薄くなった部分を元に戻すには、時間と魔力が必要だった。
(このままじゃ、全部削られる)
「ライナ!」
リュカの声が聞こえる。
だが返事をする余裕はない。
エルが剣を上段へ構えた。
「風階・伍・天迅」
暴風が生まれた。
剣の周囲だけではない。
エルを中心とした広い範囲が、巨大な風の渦へ変わる。
渦を構成する風の一つ一つが、見えない刃だった。
無数の斬撃がライナの炎を刻んでいく。
「くっ……!」
炎の欠片が次々と剥がれ落ちる。
(逃げたら追いつかれる)
ライナは反対に前へ出た。
無数の刃が渦巻く、その中心。
エルの足元へ向かう。
「正面から来ますか」
エルが目を細めた。
「面白いですね」
剣を低く構える。
次は一点へ力を集中させるつもりだ。
炎ごと、ライナの体を断ち切る斬撃。
その瞬間。
ライナの中で、一つの感覚が強く鳴った。
(風が止まる)
ほんの一瞬。
次の攻撃の前に、風が止まる瞬間がある。
風を一か所へ集めるための、短い溜め。
(そこだ!)
ライナは全身の炎を拳へ集めた。
爆発させるのではない。
散らばっていた炎を、一発の砲弾のように圧縮する。
紅蓮の拳に、黒い芯が生まれた。
炎の色が、さらに深くなる。
「紅蓮爆装――」
肩から腕へ。
腕から拳へ。
炎の鎧が、強く引き締まった。
「灼魂連砕!」
一撃目。
拳を風の渦へ突き込む。
風の刃が拳を刻むより早く、炎が刃の生まれる場所を焼き払った。
渦が薄くなる。
二撃目。
エルの剣が動く。
その直前の溜めを、感覚の目が捉えた。
ライナは拳の軌道を変え、風の通り道へ差し込む。
拳に触れた風が、熱によって消えていった。
三撃目。
エルの瞳が、わずかに揺れる。
「……へえ」
四撃目。
ライナの拳が、ついにエルの胸元へ届く。
だが直撃する、その直前。
エルが微笑んだ。
「惜しいですね」
剣を持つ手へ、風が集まる。
「次は、炎を割ります」
静かに囁く。
「風階・参――斬界烈風」
エルが踏み込んだ瞬間。
空気が、一枚の布のように裂けた。
見えない刃が走る。
遅れて、激しい風が爆ぜた。
斬った軌跡だけが空間へ残り、唸るような音を立てている。
ただの風の刃ではない。
空間の境界そのものを切断する斬撃。
炎へ変わった肉体でさえ、すり抜けることはできなかった。
ライナの右腕が、急に軽くなる。
「え……?」
炎の腕が、肘の先から切り離されていた。
宙へ浮かび、白い雨の中を漂う。
痛みはない。
だが体内を巡っていた熱が、途中で断ち切られる感覚があった。
「ライナ!」
リュカの叫び声。
それでもライナはエルから目を逸らさなかった。
(切られたなら、繋ぎ直すだけ)
腕の断面から、炎が噴き出す。
離れた腕へ向かって細い炎が伸び、互いの熱を引き寄せた。
炎が縫い合わされる。
右腕の形が戻っていく。
だが、元に戻るまでのわずかな時間。
ライナの動きは完全に止まっていた。
エルが、その隙を見逃すはずがない。
「終わりです」
剣が持ち上がる。
次の一撃は、ライナの胴体を真っ二つにする。
感覚の目が、最も短い死への道を映し出した。
(間に合わない)
剣が振り下ろされる。
その直前。
「ライナぁぁぁ!」
リュカが両手を突き出した。
強い風が横からライナの体へ直撃する。
炎の体が吹き飛ばされ、エルの斬撃から外れた。
致命傷は避けた。
だが完全には逃げ切れない。
風の刃がライナの体を深く削った。
「うあっ!」
紅蓮化身が解ける。
人間の姿へ戻ったライナが、濡れた地面を転がった。
肩から脇腹にかけて、大きな傷が刻まれている。
すぐに立ち上がることはできなかった。
「ライナ!」
リュカが駆け寄る。
小さな体でライナの腕を肩へ回し、必死に持ち上げた。
近くで魔物と戦っていたミレイユも、すぐに二人のもとへ走ってくる。
「ここはまずい!」
ミレイユがライナの反対側を支えた。
「内壁まで運ぶわよ!」
「急がないと、ライナが死んじゃう!」
リュカが風魔法を足元へ集める。
ライナは苦しそうに目を開いた。
「アタシは……大丈夫だから……」
息をするだけでも、傷が痛む。
「二人は逃げて……」
「そんなことできないよ!」
リュカが叫んだ。
「大丈夫!僕の速さなら、内壁まで間に合うから!」
風が三人の体を包む。
リュカが内壁へ向かって飛び出そうとした。
その瞬間。
背後で、空気が裂けた。
「逃がしませんよ」
エルの声。
リュカが振り返るよりも早く、無数の斬撃が小さな体へ走った。
胸。
腕。
背中。
風の刃が、容赦なくリュカを切り刻む。
鮮血が、白い雨の中へ飛び散った。
ポイント評価をよろしくお願い致します!




