39話 最速と最深
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エル=シェイドは、涼しげな表情を変えなかった。
ノクトとエリシア。
二人が背中を預け合い、自分の暴風を耐え切った。
それでも焦る様子はない。
エルは剣先を二人へ向け、困ったように微笑んだ。
「あーあ。さっさと殺したいんですけどねぇ」
軽い声だった。
だが、その剣から放たれる殺気は少しも弱まっていない。
エルは静かに息を吸った。
周囲を吹き荒れていた風が、一瞬だけ止まる。
「風階・伍・天迅」
その言葉が落ちた瞬間だった。
音が遅れた。
空気が裂ける衝撃だけが、遅れて戦場に響く。
エルの姿は消えたのではない。
そこに存在していたはずの体が、目の前の世界から削り取られたように消失した。
「消えた……?」
ライナが目を見開く。
次の瞬間。
ノクトの背後。
エリシアの視界の外。
二人のわずかな隙間に、エルの影が現れた。
理解するよりも先に、風が突き刺さる。
刃ではない。
斬撃ですらない。
超高速で踏み込んだ肉体そのものが、巨大な凶器となって二人へ襲いかかった。
地面が爆ぜる。
瓦礫が宙へ浮かぶ。
落雷のような衝撃波が、戦場を駆け抜けた。
「――っ!」
ノクトが反射的に闇を広げる。
エリシアも聖剣から光を叩きつけた。
光と闇が重なり、迫り来る衝撃を受け止める。
だが、それでも間に合わない。
二人の体が大きく揺れた。
次の瞬間には、エルはもうそこにいなかった。
戦場の反対側に現れる。
そして、また消えた。
一歩ごとに位置が変わる。
一呼吸の間に、戦場のあらゆる場所から攻撃が迫る。
ノクトにも。
エリシアにも。
次にどこから斬撃が来るのか、まったく分からなかった。
風階・伍・天迅。
それは速いという言葉だけでは説明できない剣術だった。
ノクトが反応した時には、攻撃はすでに終わっている。
エリシアの聖剣が振るわれる頃には、エルは別の場所に立っている。
「このままでは防ぎ切れないわ!」
エリシアが叫ぶ。
「分かってる!」
風が再び集まる。
エルが次の一歩へ踏み込もうとした、その瞬間。
ノクトが動いた。
エルを追おうとはしなかった。
目で捉えようともしない。
逃げることさえやめた。
ただ、漆黒の杖を地面へ突き立てた。
そして空いている手を背後へ回し、エリシアの手を強く握る。
「エリシア。俺に力を貸してくれ」
低く、確かな声だった。
エリシアは何も聞き返さなかった。
握られた手へ力を込め、光のマナをノクトへ流し込む。
「好きなだけ使いなさい」
「ああ」
その瞬間。
ノクトの闇が反応した。
足元から影が広がっていく。
ただの黒ではない。
光を拒み、周囲の色さえ奪っていく闇。
地面を覆った影が、空気を重く沈ませる。
戦場を支配していた風が、初めて鈍った。
「これは……」
エルの声が、風の中から聞こえる。
ノクトは目を閉じた。
胸の奥に刻まれた呪印が、焼けるように疼く。
だが以前とは違う。
エリシアの光が、暴れようとする闇を抑えている。
闇を消すのではない。
ノクトの意思に従うように、形を整えていく。
「闇印解放――」
その言葉と同時に、ノクトの背後で何かが目を覚ました。
闇が燃える。
黒焔。
炎でありながら光を放たず、周囲の色彩を喰らい尽くす異形の火。
「黒焔魔人、顕現」
大地が沈み込んだ。
ノクトの背後から、巨大な人型の影が立ち上がる。
身の丈は、ノクトの倍を優に超えている。
輪郭は曖昧。
顔と呼べるものも存在しない。
ただ胸の奥で、赤黒い焔の核だけが脈打っていた。
ノクトの闇そのものが、形を得た存在。
黒焔魔人。
エルが初めて表情を変えた。
「……へえ」
ほんのわずかに、口元の笑みが薄くなる。
「それは、反則級ですね」
だがエルは止まらなかった。
再び風をまとい、地面を蹴る。
天迅。
世界が歪み、エルの姿がノクトの背後へ現れた。
だが、そこにはすでに黒焔魔人がいた。
黒焔魔人が、ゆっくりと腕を振る。
速くはない。
剣技もない。
ただ巨大な腕が、目の前の空間すべてを闇で塗り潰した。
エルの風が沈む。
斬撃が呑み込まれる。
天迅の勢いさえ、黒焔の中で消えていく。
「……っ!」
エルが初めて大きく距離を取った。
その足元へ、黒焔が地面を這って迫る。
風階剣で踏み込むための場所が、次々と闇に侵食されていった。
ノクトはゆっくりと目を開ける。
握っていた手を離し、杖を構え直した。
その背後で、エリシアも聖剣を掲げる。
「逃げ場はないわ」
聖剣から、眩い光が溢れ出した。
「熾祈連環・聖印合致――天輝護将、降臨」
光が巨大な人の形へ集まっていく。
白銀の鎧。
光り輝く剣。
天輝護将が、黒焔魔人と並んで戦場へ降り立った。
光と闇。
二体の巨人が、エルを見下ろす。
最速と最深。
黒翼将エル=シェイドが、初めて追い詰められる側に立った瞬間だった。
「さすがに厄介ですね」
エルが剣先をわずかに下げた。
その瞬間、周囲の空気が凍りついたように静まる。
風が一か所へ集まり始める。
渦を巻きながら圧縮され、やがて音さえ消えていく。
「風霊顕現・疾風鷲」
白い風が、一気に天へ噴き上がった。
刃のような風の筋が絡み合い、巨大な翼を作っていく。
鋭い爪。
長いくちばし。
白い風で形作られた巨大な鷲が、戦場の上空へ現れた。
疾風鷲が翼を広げる。
たった一度の羽ばたきで空間が軋み、凄まじい風圧が周囲を支配した。
疾風鷲は静かに首を動かし、獲物を定めるように黒焔魔人と天輝護将を見下ろす。
「行きますよ」
エルが剣を振り下ろした。
疾風鷲が急降下する。
ノクトも杖を前へ突き出した。
黒焔魔人が両腕を広げる。
エリシアの聖剣が光を放ち、天輝護将が巨大な剣を振り上げた。
三体の巨大な魔法が、正面から激突する。
黒焔。
聖光。
暴風。
異なる力が喰らい合い、周囲の空間が激しく歪んだ。
地面に大きな亀裂が走る。
瓦礫が次々と空へ巻き上げられた。
そして次の瞬間。
巨大な爆発が起こった。
ノクトとエリシアは、互いを支えながら衝撃に耐える。
黒焔魔人と天輝護将は大きく揺れ、その輪郭が崩れていった。
疾風鷲も翼を砕かれ、白い風となって散っていく。
爆風が収まる。
エルは少し離れた瓦礫の上に立っていた。
黒い服の一部が裂け、頬と腕には傷がついている。
血も流れていた。
だが致命傷ではない。
「今ので倒れないのか……」
ノクトが息を整えながら呟いた。
「本当にしぶといわね」
エリシアも聖剣を構え直す。
エルは自分の頬についた血を指で拭った。
赤く染まった指を見ても、笑顔は消えなかった。
「僕に傷をつけるとは、さすがですね」
そして再び剣を構える。
ノクトも杖を握り直した。
エリシアがその隣に立つ。
もう一度、戦いが始まろうとした時だった。
周囲に散らばっていた瓦礫が震え始めた。
砕けた石。
壊れた柱。
武器の破片。
山のような瓦礫が一斉に浮かび上がり、空へ向かって重なっていく。
やがて十メートルを超える巨大な人型となった。
「まだ動けたのか」
ノクトが振り返る。
少し離れた場所で、ユリウスが片膝をつきながら片手を掲げていた。
顔色は悪い。
まだ魔力も充分に戻っていないはずだった。
それでも巨人を動かし、ノクトたちの戦いへ加わろうとしている。
「俺たちの仲間を、これ以上殺させるか……!」
ユリウスは震える足で立ち上がった。
その隣では、ライナが炎を集めている。
紅蓮の炎が、一頭の獅子へ姿を変えた。
炎の獅子が咆哮を上げ、エルを睨む。
さらにノエルが両手を広げる。
無数の雪の精が戦場へ舞い、ノクトたちの傷と魔力を癒やしていく。
エルは周囲を見渡した。
ノクト。
エリシア。
ライナ。
ノエル。
そしてユリウス。
黒焔と光を操る二人だけでも、簡単には倒せなかった。
そこへ強力な炎の魔法使い。
絶対的な防御と回復を持つ氷の魔法使い。
物体へ魂を宿す地属性魔法使いまで加わった。
エルは小さく息を吐いた。
「さすがに、この人数を一度に相手にするのは面倒ですね。」
エルは微笑んだ。
「今日は引くとします。僕もここで死ぬつもりはありませんから」
周囲に風が集まり始める。
「またお会いしましょう、ノクトさん」
エルの体が、白い風に包まれていく。
「次に会った時は、必ず殺しますからね」
「待て!」
ノクトが黒焔を放つ。
だが、その攻撃が届くよりも早く。
エルの体は、一瞬吹いた風に溶け込むように消えた。
あとに残されたのは、血の臭いと、静かに舞い落ちる砂埃だけだった。
ノクトはエルが立っていた場所を睨み続ける。
倒すことはできなかった。
それでも、以前とは違う。
最年少の黒翼将に、撤退を選ばせた。
ノクトたちがザルベックで積み重ねてきた鍛錬は、確かに力となっていた。
だが、周囲には多くの死体が残されている。
ルネ。
暁の隊員たち。
救えなかった命。
戦いに勝ったとは、誰も思えなかった。
ノクトは静かに杖を下ろした。
戦いは終わった。
だがベルナールの革命は、まだ始まってすらいなかった。
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